2016/06/29

小説ストーカー(終幕)



フォームの始まり
 「ちょっとォ・・・なによ、これは?
 結局、あの忍とかいうストーカー娘と出来ちゃったってことなの?」
 
 美しい女は、眉間に皺を寄せた険しい視線をPCからラッキーボーイに移して睨んだ。
 
 「いや・・・そこのところは、あくまで後の創作さ。
 そもそもラッキーボーイは、最後まで忍というストーカーの存在には気付かんかったんだからさ・・・それに、忍がいたのは名古屋で、東京に来てからじゃないよ」
 
 「本当かなー。
 なんだか疑わしいな・・・」
 
 「どこが・・・」
 
 「『どこが』っても・・・そうね。
 だって、ここで忍が登場してくるのが、そもそもおかしくない?
 
 『ラッキーボーイは、最後まで忍というストーカーの存在には気付かなかった』んでしょ?」
 
 「うむ・・・  
 じゃあ忍の存在自体が、架空だとしたら・・・?」
 
 「それだと、タコ坊のストーカー動機がなくなっちゃうよ。
 それかタコ坊のターゲットは、やっぱラッキーボーイその人で、忍というのはタコ坊かラッキーボーイが産み出した幻だとか・・・?」 
 
 「さあね・・・」
 
 「そうそう・・・シリーズ名が『ストーカー』から、途中で『小説ストーカー』に変わったじゃない。
 『小説』だから、あの後のは創作ってことじゃん?」
 
 「うむ・・・」
 
 「確か忍という女が登場して来たのも、それからだったし。
 それにタコ坊が主役になっている話なんて、本人にインタビューでもしなきゃ、想像でしか書けないわよねー」
 
 美しい女は、非常に聡明だった。
 
 が、聡明な彼女も勘違いをしていた。
 
 『ストーカー』と『小説ストーカー』の間には、東京編とも言うべき『続ストーカー』シリーズがあったではないか。
 
 あれだって普通なら創作と思うハズであるが、この聡明な女ほど緻密に計算したわけではなく、あくまで「結果的にそうなった」だけであったが。。。
 
 「こういうのは、どこまで事実で、どっから創作かがわからんというところが妙味だし・・・折角の興味を削ぐような詮索はこのくらいにして、美味いもんでも食べに行かんかい?」
 
 「まあ、上手く逃げたわね・・・」
 
 幻のような存在の美しい女は、それ以上の追及はしなかった(誰?) 

2016/06/26

かずら『古事記傳』

神代四之巻【夜見の国の段】本居宣長訳

口語訳:これを見て伊邪那岐命は恐怖に駆られ、逃げ帰ろうとすると、妻の伊邪那美命は「私に恥をかかせたな」と言って、すぐに豫母都志許賣(黄泉の醜女:しこめ)たちに後を追わせた。そこで伊邪那岐命は頭の鬘を取って投げ捨てたところ、ぶどうになった。黄泉の醜女たちがこれを取って食べる間に逃げたが、またも追ってきた。そこで右のみずらに刺してあった湯津津間櫛の櫛の歯を引き欠いて投げ散らしたところ、すべて筍になった。黄泉の醜女たちが、これを抜いて食べる間に逃げた。
そのあと、伊邪那美命はその八種の雷神と千五百の黄泉の軍兵たちに後を追わせた。そこで伊邪那岐命は帯びていた十拳剣を抜いて、背後を切り払いながら逃げてきた。なおも追って、黄泉比良坂のふもとまでやって来たときに、その坂本にあった桃の実を取って、待ち受けて投げつけたところ、追っ手はことごとく逃げ帰って行った。そこで伊邪那岐命は、その桃に向かって「汝は私を助けたように、葦原の中つ国に生きる人々が苦難に陥ったときには助けよ」と命じ、「おおかむづみの命」という名を与えた。

見畏(みかしこみ)は、見て畏れることである。記中、ところどころに、この言葉がある。見驚(みおどろ)く、見喜(みよろこ)ぶ、見感(みめ)ずなどの言葉もあって、みな古語である。「かしこむ」はおそれるのである。書紀の推古の巻の歌に「かしこみて」とある。新撰字鏡には「悸」を「惶」とし「かしこむ」とも「おそる」ともしている。【また同書では忙怕を「おびゆ(おびえる)」とも「おず(おじける)」ともする。ここも「みおじて」と読むことができる。】

逃還(にげかえります)。「逃」という語は、朝倉の宮(雄略天皇)の段に「にげのぼりし」とある。

令見辱(はじみせつ)。恥を与えたのを「恥見す」というのは古語である。書紀【五の八丁】(倭迹迹日百襲姫命の神婚説話のくだり)に「令羞吾(アレにハジみセつ)」とあり、同【十二の六丁】(履中五年)にも「慚レ汝(イマシにハジみせん)」などとある。これを鎭火祭の祝詞では「吾名セ(女+夫)乃命能、吾乎見給布奈止申乎、吾乎見阿波多志給比津止申給弖(アがナセのミコトの、アをミたまうなとモウスを、アをミあわたしつとモウシたまいて)」とある。

豫母都志許賣は、書紀に「泉津醜女(よもつしこめ)」と書いてあり「醜女、これをシコメと読む、あるいは泉津日狭女(よもつひさめ)とも言う」とある。弘仁私記では「一説に黄泉の鬼である」と言う。【ただし「」というのは、儒仏の書で言う鬼(幽霊)ではない。ただこの世の通常の人でなく、恐ろしいものを「鬼」と呼んだ。】書紀の欽明の巻に「魃鬼(しこめ)」とあるのもこの意味である。和名抄では、この「醜女」を「鬼魅」の項に載せている。名の意味は姿形が恐ろしく、醜いことである。後の段に「いなしこめ云々」と言うのと同じである。そのところでもう少し言う。

は「つかわして」と読む。【これを「まだし」と読むのは間違いだ。それは尊ぶべき所へ人をやって物を奉る意味のところに書く「遣」の字を「まだす」と読むことから転じた誤りである。「まだす」というのは伝十六、木花佐久夜比賣の段で詳しく言う。】

黒御鬘(くろミかずら)。「かずら」という言葉に三種類ある。葛と鬘とカモジ(髪の下の友を皮に置き換えた文字)である。【古い本には「蘰」とも「縵」とも「カツラ?(鬘の下の又を方に置き換えた字)」とも書いてある。「蘰」は字書にない。「縵」の字は字書にはあるが、カツラの意味はない。カツラ(鬘の下の又を方に置き換えた字)は鬘の字体を変えた文字である。】

カモジ(髪の下の友を皮に置き換えた文字)は和名抄によると和名「かつら」、「釈名にいわく、髪が少ない者が補助としてかぶるものである」とあり、俗に「かもじ」と言う。このように様々あるが、元はすべて草の葛から転じた言葉だ。葛の元の名は「つら」であって、記中に「登許呂豆良都豆良(ところヅラつづら)」、書紀や万葉に「麼左棄逗囉」、和名抄に「千歳藟百部(あまツヅラほとヅラ)」と言い、【これらの「つら」を「かづら」の略と思うのは本末転倒である。】忍冬(すいかずら)も、新撰字鏡には「すいづら」とある。【拾遺集雑下(558)に「さだめなくなるなる瓜のつら見ても」と詠んだのは、蔓(つら)に頬(つら)をかけたのである。現在「つる」と言うのは、「つら」から転じたのだ。弓の弦(つる)も、万葉では「つら」とも言っている。馬具の轡(くつわづら)、頭(おもづら)も草の蔓(つら)から出たのだろう。轡は手綱のことである。】

何であれ、蔓草を頭の飾りに掛けるのを髪葛(かづら)と呼び、これがつまり鬘である。このように鬘に用いるので、草の葛を「かづら」と呼ぶようになったのであろう。カモジ(髪の下の友を皮に置き換えた文字)も髪を飾るものであるから、鬘と同じ名を付けたのである。この鬘は上代には女男ともに使ったもので、蔓草を用いたのは石屋戸の段で(天宇受賣命が)眞拆(まさき)を鬘としてかけたことから、「日影の鬘」などと言い、また必ずしも蔓(つら)ではないが、花鬘、菖蒲(あやめ)の鬘、柳の鬘、木綿(ゆう)鬘などの言葉がある。【これらも「かづら」と呼ぶのは蔓草から出た。】

他に、糸などを使って作ったようだ。珠を飾ることは、天照大御神の飾り【「うけい」の段】に見える「玉鬘」とはこれである。【髪にも葛にも「玉かづら」と言うのは、この玉鬘の名から言うのだろうか。もっとも、ただ賞賛して言うだけかも知れない。】穴穗の宮(成務天皇)の段に「押木の玉縵(たまかづら)」と言う語があって、貴重な宝としている。万葉には「波禰蘰(はねかづら)」というのがある。【「蘰」の字は、これを草でも糸でも作るので、作った字だろうか。そういう風にして我が国で作った字は多い。「縵」の元の意味とは関係なく、そういう意味で用いたのだろう。

○和名抄では「花鬘」を「伽藍の具」に入れているが、これは元々天竺の人の頭飾りである。】ここには「黒」とあり、色を言うのだが、何を使ってどんな作り方をしたのかは分からない。【「つづら」のことを「黒葛」と書くが、それは無関係だ。

2016/06/25

西洋料理の受容(農林水産庁Web)

江戸幕藩体制の確立によって、経済的には石高制という形で、大名や村の大きさまでが米の見積り生産高によって表示されるようになり、米を中心とした経済システムが完成をみた。また江戸幕府という高度な中央集権国家によって、先にも見たような全国的流通システムが完備するとともに、大規模な新田開発が進められ農業生産力も相対的に上昇していった。ただ多くの餓死者や、体力不足の状態に蔓延する疾病による死者を出す飢饉に、一般の農民はしばしば食生活を脅かされた。

 

こうした飢饉は傾向として、米作りが難しかった東北地方に多かったが、これは必ずしも自然災害によるものだけではなかった。石高制というシステムの下で、諸藩のうちには三都の米商人に借金する大名もいた。彼らには、飢饉が予想されると年貢米による返済が迫られ、領内の米が飢餓状態にも関わらず米商人へと送られるため、必要以上の死者を出すという状況も少なくなかった。ただ中世とは異なって肉に対する禁忌が最も高まり、米を中心とした食生活が確立されてはいたが、村によっては水田の開発が難しい場合も多く、米よりも麦や粟・稗などの雑穀が想像以上に食されていた。一方で、生産力の向上と商品流通の進展は、村々におけるいわばグローバル化を進展させていった。

 

近世も中期を過ぎると、混ぜ飯における米の比率が増えるなど、徐々に食生活も豊かになった。村々で最も豊かな食事が供されるのは、正月のほか様々な年中行事などの時で、これらには米の飯と酒や餅という米を元にした食品が重用された。特に中世に始まる村の宮座などでは、神事に調理された神饌が供され、神への献饌が終わると、これを村人たちが口にする神人共食が始まる。神饌とは豊作など神への祈りの代償に供されるものであるが、それを神事後にそこで食することで、神々と共食した証しとなり、神の恩恵が被るようになる儀式で、それぞれの地域の郷土料理が供えられることが多かった。

 

さらに伊勢参詣などが全国の村々で行われるようになり、多くの農民たちが講を作って金を貯め、農閑期には順番で伊勢参りに出かけた。この旅は、村の繁栄を願って伊勢神宮で大神楽を奉納することに主な目的があるが、同時に道中の宿の料理や伊勢の御師宿でのご馳走が楽しみでもあった。なお近世の村々には、それぞれに村の料理人と呼ぶべき料理上手がおり、彼らが様々な村の宴会や家々の結婚式などの料理を司っていた。そうした村の料理人にとって、伊勢参りなどで各地の料理に接することは、彼らの料理技術の向上にも大いに役立った。

 

近世後期になると、都市の料理文化も流入するようになった。先に『料理通』の事例を紹介したが、村々にも出版された料理本を所持する者もあったほか、村々を回る貸本屋から料理本を借りて、その一部を書き写すことも行われた。さらには商用や村の訴訟などの用事で、江戸や京・大坂に出向く場合も少なくはなく、そこで都市の料理文化に触れて、その一端を村に伝えることもあった。特に19世紀以降には、そうした特色が著しくなっていった。

 

すでに近世においても、初期にはポルトガル系の南蛮料理が伝承されており、後期にも江戸などの大都市には、長崎経由で中国系の卓袱料理屋が伝わり、いくつかの店がこれを扱っていた。また安政元(1854)年、日米和親条約を皮切りに、欧米各国との国交が開始されると、外国人の居留が始まり、新たに西洋の食文化が流入するところとなる。

 

そして幕末の開国から明治維新期にかけて、箱館・横浜・長崎などに西洋料理屋が出現をみた。ただ西洋料理が日本料理と最も異なる点は、いうまでもなく畜肉の利用にあった。もちろん先にも述べたように、近世社会では現実に肉は食されていた。しかし肉を食べると口が曲がる、眼が潰れるなどと言った俗信が広まっていたように、一般には肉食忌避が支配的であった。これは、まさしく古代国家が発したいわゆる肉食禁止令に起源があるが、原則的に王政復古を基調とした明治政府としては、この法令を改めなければ食事を伴う外交の場で極めて不利な状況に追い込まれることになる。このため、ほぼ1200年後の明治41871)年に、改めて天皇による肉食再開宣言が打ち出された。

 

これを承けて、宮中では女官たちに西洋料理のマナーを講習させるなどの改革が行われた。この明治4年、5年は文明開化が一気に進んだ時期で、一種の西洋ブームが起こり、その一環として、牛鍋人気が高まった。『安愚楽鍋』が評判を呼び「牛鍋喰わぬは開化せぬ奴」という言葉が流行した。ただ、この牛鍋は味噌や醤油・味醂などによる味付けで、基本的には日本風の鍋料理に、牛を用いたに過ぎず、紅葉鍋の系譜に属するが、西洋料理への部分的な心情の傾斜を物語るものといえよう。この時期の本格的な西洋料理屋としては、精養軒などのレストランが知られるが、これも外国人の眼からすればヨーロッパの混淆料理でしかなかった。

 

また日本の食材を用いたり、畳で食べさせるような西洋料理屋が評判を呼ぶようになった。明治10年頃までには大都市のあちこちに、こうした西洋料理屋が出現し、同10年代には地方都市にも広がっていった。やがて明治末期から、西洋野菜も徐々に一般化して八百屋の店先で売られるようになり、食生活の西洋化が次第に進展していった。これに大きな役割を果たしたのが、ジャーナリズムと学校教育であった。

 

明治20年代になると『西洋料理法』を表題とする料理本が版を重ね、同30年代には広汎な読者を獲得したほか、西洋料理の調理法を解説した新聞記事なども、しばしば掲載されるようになった。また女学校での調理授業や新たに開設された調理学校などでも、日本料理のほかに西洋料理の作り方も伝授されたが、これと並んで和洋折衷料理という部門があった。例えば、ハムの粕漬けやカレー粉入り味噌汁などといった類で、日本料理の西洋化を必死に志向した努力の産物と見なすことができる。もちろん、こうした女学校での洋風料理教育はハイレベルな人々の事例ではあったが、徐々に西洋料理や肉食は一般にも広がっていった。とくに肉食の普及に関しては軍隊の役割が大きく、そこでの食事には缶詰や肉類が多く用いられている。

 

むしろ民衆は、軍隊で広く肉食の味を覚えたといえよう。ちなみに牛肉の消費量は、明治10年以降から末年までの間に実に8倍近い伸びを示している。なお、豚肉については初め消費量は少なかったが、明治末年から大正期にかけて牛肉を追い越すという現象がみられる。

2016/06/20

黄泉比良坂と角髪


 黄泉比良坂(よもつひらさか)は、日本神話において死者の住むあの世(黄泉)とこの世(現世)を分かつ境目にある場所。『古事記』上巻に2度登場する。「ひら」は「」を意味するとされる。出雲国の「伊賦夜坂(いふやさか)」が、その地であるとする伝承もある。

男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミが亡くなり、悲しんだイザナギはイザナミに会いに黄泉の国に向かう。イザナミに再会したイザナミが一緒に帰って欲しいと願うと、イザナミは黄泉の国の神々に相談してみるが、決して自分の姿を見ないで欲しいと言って去る。なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、イザナミの醜く腐った姿を見てしまう。

怒ったイザナミは、鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、鬼女たちはイザナギが投げる葡萄や筍を食べるのに忙しく役に立たない。イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退ける。

最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引(ちびき)の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされたイザナミは怒って、毎日人を1000人殺してやると言い、イザナギは、それなら毎日1500人の子供が生まれるようにしようと返して、黄泉比良坂を後にする。

このほか、オオクニヌシの根の国訪問の話にも登場する。根堅洲国(根の国)のスサノオから様々な試練をかけられたオオアナムチ(のちのオオクニヌシ)が、愛するスセリヒメと黄泉比良坂まで逃げ切るというもの。島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。

同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。2010年の日本映画『瞬 またたき』では、亡くなった恋人に会いたいと願う主人公が訪ねる場所のロケ地として使われた。

江戸時代に書かれた『雲陽誌』によると、松江市岩坂の小麻加恵利坂にもイザナギが雷神に桃の実を投げた伝説がある。

ククリヒメ伝説
黄泉比良坂について『日本書紀』の本文では言及がないが、注にあたる「一書」に「泉平坂(よもつひらさか)」で言い争っていたイザナミとイザナギの仲をククリヒメがとりもった、という話が記されている。このことから、ククリヒメは縁結びや和合の神とされている。

角髪
角髪(みずら)とは、日本の上古における貴族男性の髪型である。中国の影響で成人が冠を被るようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。美豆良(みずら)総角(あげまき)とも。古墳時代の男性埴輪などに見られる。分類として「上げ角髪」と「下げ角髪(ようは、おさげ)」があり、一般人に認知度が高いのは前者であり、後者は貴人(身分の高い者)の髪型である(結い方の項目に記されているのも、上げ角髪の結い方である)

髪全体を中央で二つに分け、耳の横でそれぞれ括って垂らす。そのまま輪にするか、輪の中心に余った髪を巻きつけて8の字型に作る物とがある。総角はその変形で、耳の上辺りで角型の髻を二つ作ったもので、これは少女にも結われた。

髪の輪が二つの形のものの方が古いらしく、埴輪などに見られるものはこの形が多いが、奈良時代に入ると輪が一つの形のものが主流となったことが、聖徳太子像などに見える。

輪が一つのものにも2種あって、毛先を納めるものとそのまま垂らすものに分かれる。上代では、男性でも角髪に櫛を挿していたことが『古事記』のイザナギの黄泉下り、スサノオの大蛇退治の物語に見られるほか、アマテラスとスサノオの誓約の場面では、女神のアマテラスが角髪を結う呪術的な異性装を思わせるくだりが登場する。

みずら」という言葉は「耳に連なる」の意で、髪の形状を表した言葉とする説が有名である。ただし、全ての研究者が賛同しているわけではなく、みずらは「美面」の意であり、ミは美称であるとする考え(筑波大教授・増田精一説)もある。その考察に従えば、みずらとは「いい面」の意ではないかとする。おさげ遊牧民であるモンゴル人は、おさげをクク、あるいはケクといったが、これは「いい面」の意味である。

チョンマゲが大陸の南方文化に多いのに対し、みずらのようなおさげ文化は、大陸の北方文化に見られる。昭和583月に、茨城県武者塚1号墳(7世紀後半)から左側の角髪(長さ約10cm)が、ほぼ完全な状態で出土した。出土後1年ほどたってカビが生えたため、滅菌処理の後、冷凍保存された。
出典Wikipedia