2022/09/29

マニ教(3)

教団と祭祀

教団と戒律

上述のように、人間は一方においては物質でありながら、アダムとエバの子孫としては大量の光の本質を有するという矛盾した存在である。マニは、そうした中にあって、人間は「真理の道」に従って智慧を得て現世の救済に当たらなければならない、そして自分自身における救済されるべき本質を理解して、自らを救済しなければならないと説いた。このような考えに立って、マニは生存中に自ら教団を組織した。

 

マニ教の教団組織は、仏教のそれに倣ったと考えられる。マニは12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を2群の信者に分け、それぞれ守るべき戒律も異なるものとした。

 

仏教における出家信者ないし僧侶に相当するのが義者(エレクトゥス electus, 「選ばれた者」)であり、聖職者として「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待された。肉食は心と言葉の清浄さを保つために禁止され、飲酒も禁じられた。また、殺生に関しては動物を殺すことばかりではなく、植物の根を抜くことも禁じられた。そして、メロン、キュウリなどの透き通った野菜やブドウなどの果物は光の要素を多く含んでおり、聖職者はこれらをできるだけ多く食べ、光の要素を開放しなければならないとされた。最終的に、これらはマニ教で行われる唯一の秘蹟と定められた。

 

俗人よりなる聴問者(聴聞者、アウディトゥス auditus )は、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守ることを期待された。十戒はユダヤ教の「十戒」(モーセの十戒)に似ており、俗人の場合はそれほど強く戒律を守ることは求められていなかった。聴問者は結婚して子をもうけることが許され、生産活動に従事して聖職者たちを支えることが期待された。聴問者たちも、いずれは「選ばれた者」になることが期待されていたものと考えられる。

 

以上のように、マニ教の教団は清浄で道徳的な生活を送り、また、そのことによって壮大な宇宙の戦いに参画しているという意識に支えられていた。

 

儀式・祭祀

マニ教においては、白い衣服を身につけ五感を抑制することが求められており、通常は一日一食の菜食主義で週に1度は断食をおこなった。洗礼の儀式もおこなわれたが、そこでは水は用いられなかった。また、1日に4回から7回の祈祷を捧げ、信者相互では告白の儀式がなされた。

 

後述するマニの殉教はベーマの祭祀となったが、これはマニ教最大の祝祭で、ベーマ(ベマ)とはギリシア語で「座」を意味している。ベーマの祭礼においては、誰も座ることのできない椅子が用意される。この祭礼は年末(春分のころ)に執り行われ、祭りの最中にマニが「座」(椅子)の上に降臨すると信じられていた。

 

ベーマの祝祭に先立つ1ヶ月間には断食が要求され、これがイスラームにおけるラマダーン月の先駆となったと考えられている。

 

新宗教の成立

預言者マニ

預言者マニ(216年-277年頃)の両親はユダヤ教新興教団に属しており、バビロニアのユーフラテス川沿いのマルディーヌー村に生まれた。マニも幼少の頃からユダヤ教の影響を受けた。父はパルティア貴族のパテーグ、母はパルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムであった。マニが4歳のとき、パテーグは酒、肉、女を絶てという声を聴き、家族ともどもグノーシス主義の一派になるユダヤ教洗礼派(エルカサイ派)の教団に入ったため、マニはゾロアスター教徒的伝統をもつ父母のもと、ユダヤ教的・グノーシス主義的教養の横溢する環境で成長した。マニが12歳のとき、自らの使命を明らかにする神の「啓示」に初めて接したといわれる。その後、ゾロアスター教やキリスト教・グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を形成していった。西暦240年頃、マニが24歳の時に再び聖天使パラクレートス(アル・タウム)からの啓示を受け、開教したとされる。

 

マニは自分の家族を改宗させ、ペルシャ・バビロニア・インド・中央アジア地方で伝道の旅を続けたものの、当初は信者を獲得するに至らなかったともいわれている。しかし、仏教やヒンドゥー教に関する知識は、インド伝道の際に得られたものと考えられる。マニは、そこで仏教徒であったバルチスタンのトゥラーン王を改宗させたともいわれる。

 

この後、マニはバビロニアに戻り、サーサーン朝のシャープール1世と弟ペーローズを改宗させ、ペーローズによってシャープールの宮廷に招かれ、そこで重用された。マニはまた、シャープールのもう一人の弟メセネ(メソポタミア南部)地方のミフルシャーをも改宗させた。これらにより、マニはサーサーン朝ペルシア王国の全域とその周囲に伝道して信者を増やし、教会を組織し、弟子の教育に努め、また、244年には当時サーサーン朝と対峙していたローマ帝国領内にも宣教師を送った。この布教は大成功を収め、以後、マニ教はエジプトのアレクサンドリアはじめ、北アフリカ各地にも伝播した。

 

マニは、世界宗教の教祖としては珍しく、自ら経典を書き残したが、その多くは散逸してしまった。シャープール1世に捧げた宗教書『シャープーラカン』では、王とマニ自身との間の宗教上の相互理解について記述されている。マニはまた芸術の才能にも恵まれ、彩色画集の教典をも自ら著しており、常にその画集を携えて布教したといわれる。そのためマニは青年時代、絵師としての訓練を受けたという伝承も生まれている。

 

弾圧とマニの死

272年にシャープール1世が死去し、その子であるホルミズド1世およびバハラーム1世の時代になると、マニとその教えはゾロアスター教の僧侶(マグ)たちからの憎悪に晒されることになった。バハラーム1世の下で、サーサーン朝がゾロアスター教以外のユダヤ教やキリスト教を迫害すると、マニ教もまた迫害に晒されるようになった。276年、大マグのカルティール(キルディール)に陥れられたマニは、王命により召喚を受けたため迫害を辞めるよう求めたが、かえって投獄され死刑に処せられた。

 

マニの最期については、磔刑に処せられたという説と、生きたまま皮を剥がれ、その後、首を斬られたという説がある。後世のマニ教徒たちが残した文書などによると、皮を剥がされたマニが生きているという噂が残り、アラビア語の逸話集の中にはワラが詰め込まれたマニの皮が、しばしばサーサーン朝統治下の市街の城門に吊るされていた、というものがある。その一方で、近年現われたパルティア語の文献資料からは、牢にあっても自由に信者と面会するなどの状況が知られるので、比較的穏やかな状況下で獄死したのではないかとも推測されている。なお、マニの死に関わったカルティールは、王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力が伺い知れる。

出典 Wikipedia

2022/09/27

ケルト神話(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

1.ケルト神話の様相

ケルト民族

 現在の西欧人の原型は「ゲルマン人」と言えますが、このゲルマン人に先立って現在の西欧に展開し、ゲルマン人に大きな影響を与えつつ少数ながらアイルランドやフランスのブルターニュ地方などに今日まで命脈を保っているのが「ケルト民族」です。最近では、このケルト人がゲルマン人=西欧人に与えた影響の深さが認識される一方、ケルトの民話・神話・文学が発掘されその文学性の豊かさなどが一般にも良く知られるようになり、研究もすすめられるようになりました。また、とりわけ現在のイギリスで問題になっているアイルランド闘争は、アイルランド=ケルト民族を圧迫・迫害し続けてきたゲルマン人=イギリス人に対する反抗という意味があって、問題の根の深さが言われています。

 

 このケルト人の発生ですが、どの民族も始めをたどれば石器時代までいってしまいます。そして古代にあって、現在のヨーロッパの北から中央にかけて展開していたケルト人の場合も、紀元前2000年にはすでにそれなりの部族を形成していたようです。しかし歴史に現れてくるのは、先行して大きな文化を築いていたギリシア・ローマ世界との関係においてですので紀元前6~5世紀くらい、とりわけ紀元前4~3世紀頃からとなります。

 

 実際「ケルト人」という呼び名も古代ギリシア人の呼び名なのであり、ギリシア人はかれらを「ケルトイ」と呼んでいたのでした。ちなみにローマ時代には彼らはローマ人によって「ガラタイないしガリ」と呼ばれています。ローマ文献にしょっちゅうでてくる「ガリア地方」というのは、要するにこのガリ人(ケルト人)の展開していた地方というわけで、南欧を除いたほぼ現在の西欧に相当します。

 

 人種ですが、このケルト人も印欧語族の一派となります。ただケルト人は部族ごとに多方面に散って展開していたため、歴史的に多くの民族との混血が地方ごとに行われた結果、人種的特徴は共通的にいえないようで、言語や宗教などの文化・精神面において、一つの民族と括られるくらいとされています。

 

 古代ケルト人については、ギリシア・ローマ文献が伝えるところがほとんどすべてといえますが、とりわけカエサルの「ガリア戦記(前58~51年にかけての遠征記)」が有名となっています。それらの文献によると、ケルト人は紀元前七世紀頃西欧全体に拡散しはじめ、紀元前五世紀にはその中の一派がブリタニア、現在のイギリスに渡って「ブルトン人」となっています。そして、この五世紀の末頃には民族の大移動が生じています。この中で重要なのがイベリア半島に入った部族で、彼らは先住民族と混交して「ケルト・イベリア人」を形成しています。南ドイツにいた部族のボイイ族は東に移動して「ボヘミア」を形成し、北イタリアに入った部族は「ボノニア」という都市を建設し、これが現在の「ボローニア」というわけです。小アジアに渡った部族は「ガラタイ人」となっていますが、使徒パウロによる「ガラテア書簡」とは、彼らの子孫宛てというわけでした。また、いまだ大帝国を形成する以前のローマに侵入しているのも興味深く、さらに古代ギリシア最大の聖地「デルポイ」まで侵入しておりました。

 

 このように、ケルト人は紀元前200年代には当時の世界に大きな影響を与えていたのでした。しかしカエサルの遠征によってローマに屈服してしまった彼らは、その後衰退の一途を辿り、さらにゲルマン民族のアングロ・サクソンの支配下に屈服し、屈辱の歴史となっていくのでした。

 

ケルト神話の伝承のありかた

 さて、このケルト人の心性・精神を表現している筈の「神話」がここでのテーマとなるわけですが、口承で伝えられていたと考えられるその神話は、大陸のケルト人の場合にあってはローマが彼らを支配してしまった段階で消え去ってしまったようです。カエサルの報告では「ドルイド」とよばれる神官たちがその父なる神を教え、その「神」は「ディス」と呼ばれてガリア人はその子孫であるとしていて、そこではローマのメルクリウスやミネルヴァに相当する神々がいたとされています。

 

 現代の研究者が苦労してその神々を復元して、ギリシア・ローマの神々に相当するものとして数々の神々をあげています。研究者によれば300~400人になるとも言われ、さらに主だったものは70人ほどともされていますが、特に重要なものとして12人が紹介されたりします。ただしこれは、ローマ時代にローマの神々と比較同一視された結果であり、先立するギリシャ神話のオリュンポス12神に適応させた結果とも言えます。

 

 たとえば、ギリシア・ローマのヘルメス・メルキューレ(前者がギリシャ名で、後者がローマ名)に相当する「テウタテス」、アポロン(ギリシャ・ローマとも)に相当する「ベレノス」、アレス・マルスに相当する「エスス」、ゼウス・ジュピターに相当する「タラニス」、ハデス・プルトに相当する「ケルヌノス」、アテネ・ミネルヴァに相当する「ブリギド」などを挙げています。

 

 しかし、ケルトの神々には「人間との関わりの物語」などはなく、神々がそのまま人間であるようなものなので、そんなにすっきりと相当するとは言えないところもあります。要するに言えることは、たくさんの神がいて祭られ犠牲が捧げられて崇拝されていたという、どこの民族にあっても当たり前にあったことくらいです。

 

 他方、この大陸のケルト人に対して、アイルランドなどに渡った「島のケルト部族」の方は相当にしっかりと民族の独自性を残したようで、キリスト教化された後にもその民族の神話・民話を残していきました。ただし神話自体がギリシア神話のようにまとまった体系を持っているわけではなく、世界の始まりについての話しも残されていません。もっとも、こうしたことは世界の神話の多くでも普通のことですから怪しむにはたりません。

 

 またさらに、これは様々の伝承を独自に時代的にもばらばらに筆写した写本文献として残されているわけで、その写本群の間に統一もありません。また仮にこれらすべてが古代の昔は一人の神官によって物語られていたのだとしても、彼は場合に応じて適当な話しを聞かせただけで、はじめから「まとまりのある話」など意識されていたともおもえません。ですからこれらを全体的に統一して物語ることはできないわけです。

 参考までに写本を列挙してみると、次のようになります。

 

アイルランドの写本

「侵略の書」紀元10世紀、「赤牛の書」紀元11世紀、「レンスターの書」紀元12世紀、「バリモートの書」紀元14世紀、「レカン黄書」14世紀。

 

スコットランドの写本

「ディーアの書」紀元11~12世紀、「リズモアの書」紀元16世紀。

 

ウェールズの写本

「カーマーゼン黒書」紀元12世紀、「マビオギオン」「ハーゲスト赤書」紀元14世紀。

 

 これらは1700年代になってまとめられ「オシアンの詩」として世に公刊されて有名となり、多くの文人に刺激を与え様々の作品を生み出させ、また「アイルランド文芸復興運動」を引き起こしていったのでした。

 

これらの物語の特徴は「英雄物語」に帰着するともいえ、優れた英雄の勲し、崇高さ、愛とロマン、悲劇の哀感といったところになります。一体にケルト神話・民話の特徴として、この哀感がいつも感じられるのは侵略者であったローマやゲルマン民族に押されて行く「悲しみや苦しみ、そして復活の希望」といった感情の中で彩られていったのでしょうか。

 

 現在「ケルト神話」という表題で本も出版されていますが、それらは大体「オシアンの詩」に基づき、さらに歴史的に研究されている「ドルイド」のあり方などを付加したものと言えるでしょう。こうした事情を知った上で、ケルト神話に関わる本をひもとくと良いでしょう。ここではその導入ということで、粗筋だけを紹介しておきます。

2022/09/22

1紀元前後のパレスチナ地方

http://timeway.vivian.jp/kougi-18.html


4世紀以降ローマ帝国ではキリスト教が認められて、やがて国教になるのでしたが、このキリスト教の成立を見ておきましょう。

 

イエスによって、この宗教が生まれたことは知っているでしょう。イエスは実在の人物ですよ。あまりにも伝説化されてしまって、架空じゃないかと思っている人もいるみたいだけれど。

 

イエスは前4年くらいに生まれて、後30年くらいに死んでいます。ローマ初代皇帝オクタヴィアヌス(アウグストゥス)と、だいたい同じ時代です。場所はパレスチナ地方。ユダヤ人が住んでいる地方です。だから、イエスもユダヤ人です。パレスチナ地方は、ちょうどイエスが幼いときにローマの属州になっているんです。今はイスラエルという国ですね。

 

ということは、イエスはローマ帝国の領土で活動し、死んでいった。だから、ローマ帝国でキリスト教の信者がどんどん増えていくのは、当たり前といえば当たり前なわけです。

 

ローマ人の宗教は、どんなだったか。ローマ人は多神教です。基本的にギリシアの神々と同じ。領土が拡大するにつれていろいろな地方の神々がローマに伝わり、彼らは適当に色々な神様を信じている。他民族の宗教に対しても、特に弾圧することもないです。

 

ユダヤ人の宗教は、ユダヤ教だったね。一神教で当時の世界では特殊な信仰でしたが、それを弾圧するようなことはローマはしません。しかし、税は重い。ユダヤ人に重税はかけます。だからユダヤ人たちの生活は、当然苦しくなる。そんななかで、救世主=メシアの出現を待ち望む気持ちが強くなってくるんだ。

 

当時のユダヤ教は、律法主義だといわれています。簡単に言えば宗教には形式や戒律があるわけですが、そういう戒律を厳しく守っていこうという考え方です。モーセの十戒以来、ユダヤ人たちには色々な戒律があったわけです。宗教上の戒律といっても、今のわれわれにはわかりにくいね。

 

今でもユダヤ教の信者は世界中にいるわけですが、ユダヤ人が作った国がイスラエル。その都市イェルサレムに派遣された日本の新聞の特派員が書いたコラムです。現在でも、ユダヤ教徒が戒律を一所懸命守っている様子がよくわかる。

 

「ある晩、戸をこつこつとたたく音がした。誰かと開けてみると、初老の婦人。同じアパートの住人だといい「あなたは、ユダヤ人じゃないでしょう」と聞く。ガスが漏れているみたいなので、栓を閉めてほしいと言うのだ。

 

そういえば、この日はシャバット。ユダヤ教の安息の日だった。火をともす作業をしてはいけないとされ、中世のユダヤ人たちは非ユダヤ教徒に頼んで火をつけてもらっていた、という話を思い出した。現代では、電気や機械を作動させることがいけないとされ、戒律を守る人々は金曜日の夜から土曜の夜にかけ、それに類する行為を避ける。

車の運転は、もちろんだめ。…後略…」

 

安息日には、仕事をしてはいけないという戒律があるんだね。このおばあさん、自分の部屋のガスがシューシュー漏れているんだ。自分でちょいっと栓を閉めればいいのに、戒律破りになるからできないと言うんだね。だから、戒律に関係ない日本人の新聞記者に、栓を閉めてくれと頼みに来た。これ、現代のことですよ。2000年前の戒律重視は、どれほどだったでしょうね。なぜ、戒律を守らなければならないかというと、神との約束だからね。破ったら救われないのです。天国にいけない。

 

細かい戒律がたくさんあったんだろうけれど、これをキッチリ守ることは難しいことだったに違いありません。例えば、この安息日に火をともしてはいけないとなると、飯はどうやってつくったのかということになる。安息日でも、食事はしたいでしょ。新聞記事にもあったけれど、戒律には抜け道もあって、自分で作業をしなければいいんです。だから、金持ちはお金で人を雇って火を使って料理させて、自分は食べるだけでいい。これなら戒律を守りながら、満腹できます。逆に貧乏人はどうか。貧しければどんな仕事でもして、生きていかなければならないよね。安息日に金持ちに雇われて、彼らのために働くのは、そんな人々だったに違いないです。

 

2000年前のユダヤ人社会に戻りますが、戒律重視の律法主義が主流だった。律法主義が厳しく言われれば言われるほど、結果として貧乏人はどんどん救われなくなる。

極端に言えば、救われるのは金で戒律を守ることのできる人だけになる。そして、ローマの支配下で重税をかけられて、貧しい人々がどんどん増えていたのが当時のパレスチナ地方です。自分は救われないという想いがどのようなものか、私には想像できないけれど非常に絶望的な気分だったんじゃないかな。

 

こういう状況の中で、イエスが登場して民衆の支持を得る。イエスが何を言ったか、もう想像つくでしょ。彼は最も貧しい人々、戒律を破らなければ生きていけない人々、その為に差別され虐げられた人々の立場に立って説教をするんですね。戒律なんて気にしなくてよい。あなた方は救われる、と言い続ける、それがイエスです。

 

例えば売春婦。売春などは戒律破りの最たるものですが、恵まれない女性が最後にたどり着く生きる手段でした。そんなことをして生きていくことそのものがつらいことなのに、おまけに宗教的にも救われないとされているんですよ。そういう女性に、イエスは「あなたは救われる」と言う。

 

それから、ライ病の患者。ハンセン氏病ですね。日本でも、つい最近まで科学的な根拠のない偏見が長く続いてきた病気です。ユダヤ教では、病気そのものが神からの罰として考えられていた。だから、ひどく差別されていました。イエスは、そんな人のところにもどんどん入っていく。そして「大丈夫、救いはあなたのものだ」と言う。

 

これが、どれだけ衝撃的だったか、人々の胸を揺さぶったか、想像力を働かせて下さい。

2022/09/20

マニ教(2)

三際

『敦煌文献』をフランスにもたらしたことで知られる東洋学者のポール・ペリオは、中国でマニ教断簡(現フランス国立図書館所蔵)を発見しているが、それによれば宇宙は「三際」と称される3時期に区分される。

 

初際(第1期)においては、まだ天地が存在しておらず、そこには明暗の違いがあるのみである。明の性質は智慧で、暗の性質は愚昧である。そこでは、まだ矛盾や対立は生じていない。

 

中際(第2期)では、暗(闇)が明(光)を侵しはじめる。そして、明が訪れては暗に入り込んで両者は混合していく。人は、ここにおける大いなる苦しみのために、目に映ずる形体の世界から逃れようと希望する。そして人は、この世(「火宅」)を逃れるためには、真(光)と偽(闇)とを判別し、自ら救われるための機縁を捕まえなくてはいけない。

 

後際(第3期)においては、ようやく教育と回心とを終える。これにより真(光)と偽(闇)は、それぞれの由来の地である「根の国」に帰る。光は大いなる光に回帰する一方で闇は闇の塊へと回帰していく。

 

以上の内容は、シリア語による8世紀の叙述『テオドレ・バル・コーニー』の内容とも合致する。

 

禁欲主義

上述のようにマニは悪から逃れることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定した。ゾロアスター教の教義は、善神アフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユの2神を対立させるが、この善悪2神はそれぞれ精神と物質との両面を含んでいる。しかし、マニ教では、光と闇の結合が宇宙を生んだと考えるので、宇宙の創成は究極的には悪の力の作用であると捉え、やがて全宇宙は崩壊すると考える。そのとき初めて光による救済が起こり、闇からの解放がなされると説くのである。

 

マニ教のイエス観

マニ教では、ザラスシュトラ、イエス・キリスト、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はいずれも神の使いと見なされるが、イエスに関しては、肉体を持たない「真のキリスト」と、それとは対立する十字架にかけられた人の子イエス(ナザレのイエス)とを峻別する。

 

「神の子」を否定するこのようなイエス観は、イスラームを創唱したムハンマドにもそのまま継承され、キリスト教に対するイスラームの理解に大きな影響をあたえた。

 

マニ教にあっては、マニが自らに先立つ預言者として規定した人の子イエスもあれば、アダムに智慧を授けた救世主としてのイエス、宇宙の終末に現れて正邪を裁いて輝くイエス、さらに十字架に架けられて苦しむイエスが、物質に囚われた「光の元素」の比喩として述べられている箇所も確認されており、マニ教におけるイエスは様々な像を結んでいる。

 

諸教の混交

上述のように、マニ教は寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった。マニ教の教団は、伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした。

 

これについては、マニの生まれ育ったバビロニアにおけるヘレニズム的な環境も大きく影響している。ヘレニズム的な環境とは多様な民族・言語・慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らないという寛容な環境であり、そうした中での折衷主義は格別珍しいことではなかった。そして、古代オリエントの住民については、各自のアイデンティティを保つために特定の宗教・慣習・文化に執着するという近代のナショナリズム的意識も稀薄であったと考えられる。

 

教典

マニは世界宗教の教祖としては珍しく自ら経典を書き残したが、その多くは散逸している。マニ自身は当時の中東で広く用いられていたアラム語の一方言で叙述をおこなったが、サーサーン朝第2代の王シャープール1世に捧げた『シャープーラカン』については、中世ペルシア語(パフラヴィー語)によるものが遺存している。

 

『シャープーラカン』以外では、『大福音書』『生命の宝(いのちの書)』『プラグマテエイア』『秘儀の書』『巨人の書』『書簡』などの聖典が確認されるが、いずれも断片である。これらのうち、『生命の宝』が『シャープーラカン』に次いで古いと推定されている。マニの著作としては、ほかに『讃美歌と祈祷集』、マニ自身の手による『宇宙図およびその註釈』(後述)があり、また、マニの没後に、その弟子たちによってまとめられたマニと弟子たちとの対話集『ケファライア(講話集)』があった。

 

宇宙図

マニ教の宇宙進化論

マニ教では、十層の天と八層の大地からなるという宇宙観を有しており、布教にあたっては経典のほか、これを図示した『宇宙図(アールダハング)およびその註釈』も使用していた。

 

『宇宙図』は従来散逸したと考えられていたが、2010年になって元代前後に描かれたとみられる『宇宙図』が日本で発見された。これは、文献言語学の吉田豊(京都大学)らの調査によるもので、マニ教の宇宙図がほぼ完全な形で確認されたのは世界初のことであり、極めて貴重な発見として国際的にも高い評価を受けた。

 

教典の言葉

マニが主として経典にアラム語を用いたのには、当時の中東世界の共通語として広く意思疎通に用いられていたからだと考えられている。マニは自身の教義が広く万人を対象としていることを意識しており、それゆえ誰にでも理解できる言葉で経典を書き記したものと思われる。また、彼は速やかに経典を各地の言語に翻訳させたが、その際、彼は自身の教義の厳密な訳出よりは、むしろ各地に伝わる在来の信仰や用語を利用して自由に翻訳することを勧めた。場合によっては馴染みやすい信仰への翻案すら認め、このことは異民族や遠隔地の布教にあたって功を奏した。

出典 Wikipedia

2022/09/13

西ローマ帝国滅亡

出典https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad4

 
395年にテオドシウスが亡くなると長男が東を、次男が西を統治しローマは東西に分裂した。西ローマ帝国はゲルマン民族の侵略に悩まされ、首都をローマからミラノ、そしてラヴェンナに遷した(402)。皇帝がいなくなったローマは、アラリック率いる西ゴート族に蹂躙され(410)455年にはヴァンダル王国のガイセリックに掠奪された。

 

西ローマ帝国は内乱によって衰え、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにとどめを刺された。476年、彼は最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させ、皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝に返上した(西ローマ帝国滅亡)。東ローマ皇帝は、オドアケルにイタリアの統治を任せたが、その後対立し、東ゴート族のテオドリック大王に命じて討伐した(493)。テオドリックはイタリア王を名乗ることが許され、東ゴート王国が誕生した。

 

東ローマ帝国はその後も栄え、15世紀にオスマン帝国に滅ぼされるまで1000年余り存続した。

 

ゲルマン民族の大移動 

375年、フン族に追われた西ゴート族が移動すると、西ゴート族に追われた部族が移動し、玉突きのようなゲルマン民族の大移動が起こった。これらの部族はローマ領内に侵入し、各地に王国を建設した。

ゲルマン民族移動後のエルベ川以東やバルカン半島には、スラブ民族が勢力を拡大していった。

 

西ゴート王国

410年、アラリック率いる西ゴート族は、三日間にわたってローマを略奪した。彼の死後ガリアに移り、トゥールズに王国を建設したが、507年にフランク族に敗れてスペインに追われ、西ゴート王国を建てた。711年、北アフリカから侵入してきたイスラム勢力に滅ぼされる。

 

4世紀になるとローマの力は衰え、ゲルマン民族の大移動が始まった。バルト海のリトアニア付近に住んでいたゲルマン民族の一派西ゴート族は、375年にローマ領内に進入した。当初、ローマの傭兵に雇われていた西ゴート族は次第に力をつけ、410年にはアラリックに率いられてローマ市を制圧した。アラリックの死後、彼らはガリアに移住し、419年にトロサ(トゥールズ)を首都とする西ゴート王国を建設した。

 

西ゴート王国は、ドイツやフランスに勢力を拡大してきたフランク族と対立した。507年のヴィエの戦い(Battle of Vouille)で西ゴートはフランクに敗れ、フランスからイベリア半島に追い払われた。西ゴート王国は、スペインのトレドに逃れた。

 

7世紀になると、北アフリカを制圧したイスラム勢力の活動が活発になり、地中海貿易に頼る西ゴート王国は衰退していった。また、王位をめぐる内紛も深刻で、チンダスビント家のロドリーゴが強引に国王に就任すると、対立するバンパ家は反発、アフリカのイスラム教国に支援を求めた。

 

ブルグント王国

443年、ブルグント族はリヨンにブルグント王国を建てた。その後、フランク王国に滅ぼされた(534)。ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」は、英雄ジークフリートとブルグント族の皇女クリームヒルトの話。

 

フランク王国

西ゴート族をスペインに追い出し、508年にパリを首都とするフランク王国を建設した。

 

アングロサクソン王国

ローマがブリタニアを放棄すると、デンマークやドイツのアングロ・サクソン人がイギリスに渡り、七王国を建てた。

 

東ゴート王国

東ゴート族は、テオドリックに率いられてイタリアに入った。東ローマの要請でオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国した(489)。その後 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝に滅ぼされた(552)

 

ヴァンダル王国

スペインにいたヴァンダル族は、西ゴート族に追われてアフリカに渡った。439年にガイセリックはヴァンダル王国を建て、地中海の海賊となってローマを略奪した。ヴァンダル(vandalvandalism)とは「略奪者」の意味。534年、ユスティニアヌス帝に滅ぼされる。

2022/09/11

マニ教(1)

マニ教(マニきょう、摩尼教、英: Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャのマニ(216 - 276年または277年)を開祖とする、二元論的な宗教である。

 

ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲んでおり、経典宗教の特徴を持つ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけて、ユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者のいない消滅した宗教と見なされてきたが、今日でも中華人民共和国の福建省泉州市において、マニ教寺院の現存が確かめられている。

 

教義

マニ教の教義は、ヘレニズム世界において流行した神秘主義的哲学として知られるグノーシス主義、パレスティナを発祥の地とするユダヤ教およびキリスト教、イランに生まれたゾロアスター教、またローマ帝国で隆盛した太陽崇拝のミトラ教、伝統的なイラン土着の信仰、さらに東方の仏教・道教からも影響を受け、これらを摂取・融合している。

 

マニ教では、ザラスシュトラが唱導したといわれる古代ペルシアの宗教(ゾロアスター教)を教義の母体として、ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)、釈迦、イエスはいずれも預言者の後継と解釈し、マニ自身も自らを天使から啓示を受けた預言者と位置づけ、「預言者の印璽」たることを主張している(後述)。また、パウロの福音主義から強い影響を受けて戒律主義を退ける一方で、グノーシス主義の影響から智慧(グノーシス)と認識を重視した。さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。同時に、享楽的なイランのオアシス文化とは一線を画し、禁欲主義的要素が濃厚な点ではゾロアスター教的というよりはむしろ仏教的である。

 

グノーシス主義の特徴として、一神教的伝統における天地創造とギリシア的な二元論(霊魂と物質の対立)とを統合しようとしたことが挙げられる。ユダヤ教的な唯一絶対の創造神を設定した場合、それだけでは善なる唯一神が存在していながら、その一方で人々を不幸に陥れ、あるいは破壊する悪が絶えないのはどうしてかという解決不能な問題が持ち上がる。

 

グノーシス主義は、この問題に様々な解答を試みたが、その中には物質的な宇宙の創造は全能の神によるものではなく、サタン(悪)もしくは「神の不完全な代理人」が神の意図を誤解しておこなったものであるというものがあった。すなわち、善なるものは霊的なものに限られ、物質は悪に属するという考え方である。この発想は、マニ教の教義に大きな影響を与えた。

 

二元論

ゾロアスター教の影響を受けたマニ教は、徹底した二元論的教義を有しており、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ2つの原理の対立に基づいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ明確に分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心としている。

 

この点について、善悪・生死の対立を根本とするゾロアスター教の二元論よりも、むしろギリシア哲学的な二元論の影響が濃いという見方も示されている。マニ教においては物質や肉体に対する嫌悪感が非常に強く、禁欲的かつ現世否定的な要素が極めて濃厚だからである。

 

神話

ミスラは、イラン神話に登場する太陽神。ゾロアスター教でも、ミスラは契約の神として崇拝された。

 

マニ教の神話では、原初の世界では「光明の父」もしくは「偉大なる父(ズルワーン)」と呼ばれる存在が「光の王国」に所在し、「闇の王子(アフリマン)」と称される存在が「闇の王国」に所在し、共存していた。「光の王国」は光、風、火、水、エーテルをその実体とし、また、「光明の父」は理性、心、知識、思考、理解とでも翻訳される5つの精神作用を持っており、それを手足とし、また住まいとしていた。しかし、「闇の王子」はそれを手に入れたいと考え、闇が光を侵したため、闇に囚われた光を回復する戦いが開始された。「光明の父」は「光明の母」を呼び出した。

 

「光明の母」によって最初の人「原人オフルミズド」が生み出された。原人は、光の5つの元素を武器として「闇の王国」へと向かい闇の勢力と戦うが、これに敗北して闇によって吸収されてしまう(「第一の創造」)。オフルミズドは闇の底より助けを求めた。

 

「光明の父」は「光の友」ついで「偉大な建設者(バームヤズド)」「生ける霊(ミスラ、ミフルヤズド)」を呼び出す。偉大な建設者は「新しい天国」を作り、「生ける霊」は闇に囚われていた横たわるオフルミズドを引き上げて「新しい天国」へ連れて行った(「第二の創造」)。

 

オフルミズドとともに、闇に囚われた光の元素は闇に飲み込まれたままであったが、これは闇の勢力にとっては毒となるものであった。一方「生ける霊」とその5人の息子たちは、闇に囚われた光の元素を救い出すため、闇の勢力との間に大きな戦争を繰り広げた。そして、このとき倒された闇の悪魔たちの死体から現実の世界が作られた。悪魔から剝ぎ取られた皮によって十天が作られ、骨は山となり、排泄物や身体は大地となった。

 

「光明の父」は「第三の使者」を呼び出し、さらに「光の乙女」「輝くイエス」「偉大な心」「公正な正義」を呼び出す。闇の執政官アルコーンには男女の別があるが、男のアルコーンに対しては「光の乙女」、女のアルコーンに対しては肢体輝く美しい青年の姿で顕現し、彼らが呑みこんだ光の元素を放出させようとする。男のアルコーンは情欲を催して射精し、精液の一部は海洋に落ちて巨大な海の怪獣となったが、海獣は光の戦士によって倒され、残りは大地に落ちて植物となった。女のアルコーンは地獄で流産し、大地に二本足のもの、四本足のもの、飛ぶもの、泳ぐもの、這うものという5種の動物を産み出した。

 

闇の側では、虜にした光の元素を取り戻されないよう、手元に残された光を閉じ込めるため「物質」が「肉体」の形をとって、全ての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔を作り、女も同様に大女魔を作った。大悪魔と大女魔は憧憬の対象である「第三の使者」を模して人祖アダムとエバ(イヴ)を創造した。

とされる。

 

そのため、アダムは闇の創造物でありながら、大量の光の要素を持っており、その末裔たる人間は闇によって汚れているものの智慧によって内部の光を認識することができる、と説く。対してエバは、光の要素を持ちながらも智慧を与えられなかったので、アルコーンと交接してカインとアベルを産む。嫉妬に駆られたアダムはエバと交わり、セトが生まれて人の営みが始まる。

 

このように、マニ教の神話にはキリスト教の原罪の思想やグノーシス主義の影響が見られる。そして、人間の肉体は闇に汚されていると考えた一方で、光は地上に飛び散ったために、植物は光を有していると見なした。そのため、後述のように斎戒や菜食主義の実践を重視する。また、結婚ないし性交は子孫を宿すことであり、悪である肉体の創造に繋がるので忌避されるべき行為と考えられた。

 

このように、マニ教はグノーシス主義に基づいた禁欲主義を主張しており、肉体を悪と見なす一方で、霊魂を善の住処と見なしていることに一つの特徴がある。

2022/09/08

洪水型兄妹始祖神話

洪水型兄妹始祖神話とは、洪水から生き残った兄妹が結婚し、地域の始祖となったという沖縄県、中国西南部、台湾、インドシナ半島、インドネシア、ポリネシア諸島などに伝わる神話である。

 

概要

いずれの地域でも共通したモチーフとして、洪水によって住民のほとんどが全滅した後、二人だけ生き残った兄と妹が、神意をはかって交会し、新たな住民の祖となるという内容が語られる。また、神が人間の悪行を戒めるために、油雨を島に降らせて島を全滅させ、残った兄妹で島を再建したという話もある。

 

これらの神話は、その内容の展開においていくつかの違った類型が見られ、特に兄妹の交会の結果産まれたものの形状、神意を図る方法などの点で差異が見られる。沖縄地方に伝承されている兄妹始祖神話は沖縄県全域に広まっているが、この沖縄の伝承は中国文化と環太平洋文化、日本本土文化が習合したものだという指摘がなされている。また、例外的に与那国島では洪水で生き残ったのは兄妹ではなく母子の関係として語られている。石垣島などでは特に、生き残った兄妹が神に命じられて井戸や池の周りを巡る伝説が語られているが、この物めぐりの行動は近親相姦のタブーを解消するための「浄めの儀式」であるという指摘がなされている。

 

与論島に伝わる伝承では、仲の良い兄妹が小舟で海の上を進んでいると、海の真ん中で不意に舟が引っ掛かり、そこが段々浅瀬になって、遂には島になった。兄妹は島を作った神に感謝し、家を建てて暮らしていたが、二羽の白鳥が交尾しているのを見てその真似をしているうちに、多くの子供が産まれて島が繁栄した。

 

このような、直接洪水があったかどうかが明示されていない説話においても、島という洪水的国土の描写から、かつて大洪水があった背景を想定して、洪水型兄妹始祖神話に数えられる場合がある。また、奄美大島龍郷町仲勝などでは、津波や洪水ではなく戦乱によって兄と妹の二人のみが生存し、あえて結婚したという伝承も存在する。

 

大雨、または津波からの生き残りの、人の世界の原夫婦は兄妹でなければならないという兄妹始祖の伝承は、沖縄のおなり神信仰の基調をなすものだったと考えられる。

 

話の類型

洪水によって全滅した地域の中で生き残った兄妹が住民の祖となるという大まかな展開は共有しながらも、その細部において地域によって様々な差異が見られる。

 

神意

洪水によって生き残った兄妹が始祖となるにあたり、近親相姦のタブーを意識し、神占いの可否によって、兄妹の身で夫婦になってもよいかどうかを問うというものがある。山頂から二つの石臼を転がして重なり合うかどうか、または山上で煙を立てて二つの煙の末が交わるかどうかといった方法などで占うもので、西南中国、インドシナ半島の諸族などで見られるが、臼や煙を用いて占うという説話は沖縄では見られない。

沖縄本島、宮古島、八重山諸島においては、神の意志や命令により近親相姦を命じられるといった展開がなされる。

 

出産

肉塊、瓢箪、水棲生物が産まれてくるパターンが見られる。中国雲南省の彝族では、兄妹の交会の結果、手も足もない肉塊が産まれ、それを二人で切り刻んで山の上から撒いたら、その肉塊の破片の一つ一つが人間となった。

 

宮古諸島多良間島のウナゼーウガンに伝わる伝承では、大昔に大津波によって人が絶え、生き残ったウナゼー兄妹が仕方なく夫婦になった。最初に産まれた子はシャコガイだったが、やがて人間の子を産み、それから子孫が栄えた。

 

台湾のアミ族に伝わる神話では、洪水の後に生き残った兄妹が交会した結果、魚類と蟹の先祖のような生き物が産まれ、それを海に捨てた後で月に伺いを立てたところ、二人の間に蓆を挟み、穴を穿って交わることを示され、それに従ったところ普通の子供が産まれた。

出典 Wikipedia

2022/09/04

魏晋南北朝時代の文化 ~ 魏晋南北朝(4)

http://timeway.vivian.jp/index.html

  華北では、五胡系統の王朝が続くので華やかな貴族文化は生まれませんが、実用的な書物が書かれました。

 

 「斉民要術(せいみんようじゅつ)」は農業技術書。

 「水経注(すいけいちゅう)」は、地理書ということで教科書には出ています。中国国内に流れる河川沿いの風俗、歴史などを書いたもので、妖怪や怪物も実在のモノとして出てくるのです。実用的な書物とは少し違う感じ。

 

 五胡十六国の支配者である北方、西方の民族は仏教を保護します。招かれて西域から仏僧が渡来します。

 

 仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ)(?~348)、鳩摩羅什(くまらじゅ、クマーラジーヴァ)(344~413)が有名。

 

 仏図澄は、中央アジアの亀慈(クチャ)という都市国家出身です。精力的に中国で仏教を布教しました。

 

鳩摩羅什は、父親がインド人、母親が亀慈の王女という人。インド留学もした一流の仏教僧でした。五胡十六国時代に中国に渡り活躍するのですが、この人は仏典の翻訳で有名です。

 

 お経はインドのサンスクリット語で書かれている。これでは中国人にはわかりませんから、中国語に翻訳しなければならない。鳩摩羅什は、それをした。大変だったと思うよ。日本が仏教を輸入したときに、日本語訳をしていない。現在でも葬式や法事でお坊さんが読むお経は、漢訳仏典です。つまり、日本には鳩摩羅什は現れなかったのですね。中国が仏教を受け入れる時のような努力を、日本はしていなかったということかもしれません。

 

 仏教遺跡は、北魏時代の石窟寺院を覚える。雲崗(うんこう)、竜門(りゅうもん)の二個所です。雲崗は初期の都平城近郊、竜門は後期の都洛陽の近郊に造られた寺院ですが、ともに岸壁に造られた巨大石仏で有名です。竜門は洛陽に近いので観光コースでもあります。私もいきました。ここには北魏時代から20世紀までずっと石仏が掘られつづけていて、掘られた年代を見ていくだけでも面白い。

 

 唐の時代、日本から遣唐使が行くでしょ。仏教を学ぶための学生も多かった。で、日本から来た学生たちは多分、この竜門の大仏を見たと思うんです。洛陽のすぐ近くですからね。彼らは、そのスケールの大きさに度肝を抜かれたに違いない。そして「いつか日本でも、こんな大仏を造ろう」と思った。そして、できたのが聖武天皇のときの奈良の大仏だ、と私は想像するのです。竜門の大仏と奈良の大仏、どことなく体型、衣装の雰囲気が似ているでしょ。同じルシャナ仏でもある。

 

 インドで生まれた仏教がガンダーラでギリシア文明と融合して仏像を生み、中国に伝わり北魏で造られた大仏が、唐の時代に日本に影響を与え奈良の大仏になった。そういう意味で、まさしく日本は文化伝搬の終着駅なのです。

 

 今年(1999年)、正倉院展にいって来ました。緑色の太くて長い縄が展示されていました。752年に大仏の開眼供養会がおこなわれるのですが、インド人の僧菩提卵那(ぼだいせんな)という人が、大仏の目に墨を入れます。インドの坊さんを呼んでいるんですよ。菩提卵那は人間の腕ぐらいのでっかい筆を使って目を入れるのですが、この筆に縄がつけられているのです。縄はどんどん枝分かれしていて、下の方から開眼式を見ている多くの貴族たちが、その紐の端を握っていたそうです。功徳が伝わるようにね。展示されていたのは、その一番太い縄。当時の人の願いが伝わってくるような、こういう小物に結構感動しました。

 

 宗教では道教が確立、発展したのも北魏の時代です。寇謙之(こうけんし)(365~448)が道教を体系化して北魏の保護を受けて発展しました。

2022/09/02

中観派 ー 空観 ~ ナーガールジュナ(龍樹)(6)

https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

中観派 ー 空観

 信仰を主とする大乗仏教にも、その教理に対する知的な考究が行われた。まず登場するのが中観派である。

 

 中観派の祖は、2世紀後半から 3世紀前半にかけて活躍したナーガールジュナ(龍樹)で、その主著は『中論』である。ナーガールジュナは、般若経典の般若波羅蜜の解釈を主眼として、空の思想を理論化した。あらゆる存在(一切法)は縁起によって成立しており、不変の独自性はもたない(無自性空)とする見方に立つ。

 

 一切が空であるとする見方(空観)は、すべてが虚無であるとするニヒリズムのようにきこえるが、そうではない。<>と<>は似ているがまったく異なる。この派が「中観派」と呼ばれるのは、世界を<実在>とする極端説と<虚無>であるとする極端説のどちらからも離れた中道をとるからである。

 

 では、有(実在)でもなく無(虚無)でもない<>とはどのようなあり方か?

日常生活において、普通われわれは見えているものを実在すると考える。何らかのものxが存在しており、それに対して「xがある」という言葉が使われるのだと考える。存在するものは本や机、鉛筆であったりする。しかし、それらのあり方について再検討し始めると、はじめの確信は怪しくなる。

 

 ものをどんどん拡大して、極小の構成要素の集まりという姿で見るとき「本」としてあったものは本ではなくなる。逆にそのものからどんどん遠ざかり、極大の視点から見る時、やはり「本」は消える。

 

 「本当にある」と思われているものが、実は我々の眼に見えるものの大きさの次元でのみ成り立っており、「xがある」ということは<xを見るもの>(われわれ)との関係の上に成立していることが顕わになる。

 

 さらに「xがある」というとき、「x」は言葉である。普通、xというものがあり、それに対して「x」という言葉が与えられるのだと考えられる。言い換えれば、xには「x」と呼ばれるべき<x独自の不変の本質>があるから、「x」という言葉が適用されると考えられる。しかし、xの存在は<見るもの>に依存しているので<x独自の不変の本質>なるものは、実は存在しない(xは無我・無自性である)。「x」という言葉が適用されるのは、xを他のものから識別しようとする心の働き(分別)があるからである。

 

 xは他のものとの相関関係において成り立っている。(xは他のものとの相互依存関係によって縁起するものである。)

 

 xなるものが「ある」と知られるのは「x」なる言葉にもとづく。(一切は戯論、すなわち言葉の虚構による。)

 

 xは「x」が適用されたもの、すなわち考え出されたものであって、真の意味では存在しない。有ではない。しかし、そこに何もないわけではない。何もなければ、言葉を当てることはできない。だから無でもない。有でもなく無でもない。現象するすべてのものは、そのようなあり方をしている。存在しているが、それ独自の存在を欠いている。いわば空っぽな存在。このようなあり方が<>である。

 

 ナーガールジュナは、これを飛蚊症という眼病のたとえで説明する。飛蚊症にかかると、毛筋のようなものが見える。それは見えているだけで、存在してはいない。有ではない。しかし飛蚊症が治ると、それはなくなる。無であるものがなくなることはないから、無であるとはいえない。毛筋のようなものは、有でも無でもない。<空>である。現象するすべてのものが、これと同じあり方をするという。

 

 さて、この世界における現象のすべては<縁起>によって現れてくるが、それらは<空を本質とする>(空性)と説かれる。それらは、必ず何かに基づいての仮の現れでしかない。さらに、このようなあり方をしているものは、また<中道>にほかならない。というのは、あらゆるもの、あらゆることがらが必ず他のもの、他のことがらと<相互に依存する関係>の上に初めて成立し、自己同一を保つ実体的なものやことがらは何もないからである。

 

 このように言葉の虚構の上に成立している現象世界において、分別を働かせることによって、行為と煩悩が生まれる。それらは世界を<空なるもの>と見ることによって、滅することができる。<分別>を否定し、言葉による思考・判断に惑わされることなく、一切を<空>と見るものの見方、これこそが般若波羅蜜、すなわち<智慧の完成>である。

 

 このような立場から、ナーガールジュナは世界を構成する要素(ダルマ)を実在とする説一切有部や「牛(x)」には「牛(x)」として認識される根拠として「牛の普遍(x-性)」が実在するとするヴァイシェーシカなどの実在論を採る諸学派を鋭く批判した。