2016/07/29

最高神・天照大御神


 天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされている。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。

天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神で、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされる。信仰の対象、土地の祭神とされる場所は伊勢神宮が特に有名

『古事記』においては、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。

『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。

『日本書紀』ではスサノヲが姉と呼んでいること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に御髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いこと、後述の別名に女性を表す言葉があることなどから、古来より女神とされている。また一般に大和絵や宗教、日本人が最初に神代の時代を知る小中学校の社会科などでも、女神として表されるのが主流である。

言語学的には別名「オホヒルメノムチ」の「オホ」は尊称、「ムチ」は「高貴な者」、「ヒルメ」は「日の女神」。またイザナギとイザナミの子のうち、三貴子の兄として(『古事記』では、イザナギとイザナミの最初の子として)「ヒルコ(日ル子)」という男子が生まれている(三年たっても足がたたなかったため、遺棄されてしまった)が、「ヒルコ(日ル子)」と「ヒルメ(日ル女)」の男女一対の言葉の対象性は、「ヒコ・ヒ メ」、「ヲトコ・ヲトメ」、「イラツコ・イラツメ」など、古い日本語に伝統的に見られるものでもあり、名前からも女神ととらえることが順当である。

後述するように、中世には仏と同一視されたり男神とする説も広まったが、『日本書紀上』日本古典文学大系は男神説を明確に否定している。天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある。ただし、日本語においては「メ」は「女」をさす音であり(ヒメ、ウズメ、ナキサワメなど)、女神の名で「メ」を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる。

また最高神アマテラスの造形には、女帝の持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)や、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある。安本美典など邪馬台国東遷説を主張する論者は、天照大神を邪馬台国の女王卑弥呼が神話化されたものと考える人が多い。

兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名のまたの名が伝わる。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、荒祭宮の荒御魂が女神であることの何よりの証左である。

『日本書紀』においては、第五段の本文では伊弉諾尊・伊弉冉尊が自然の神を産んだ後に大日霎貴を産んでいる。第五段の一書の1では、伊弉諾尊が左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持った時に大日霎貴が生まれている。

第五段の一書の6では『古事記』のように禊にて、伊弉諾尊が左の眼を洗った時、天照大神が生まれている。『古事記』においては、伊邪那岐命が伊邪那美命の居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに化生したとしている。この時、右目から生まれた月読命、鼻から生まれた建速須佐之男命と共に、三貴子と呼ばれる。この時、イザナギは天照大御神に高天原を治めるように指示した。
出典Wikipedia

2016/07/25

天照大御神『古事記傳』

口語訳:さらに左の目を洗ったところ、天照大御神という名の神が生まれた。次に右の目を洗ったところ、月読命という神が生まれた。次に鼻を洗ったところ、建速須佐之男命という神が生まれた。この条で八十禍津日神から速須佐之男命まで、合わせて十四柱の神は、禊ぎによって生まれた神である。

於是洗左御目時(ひだりのみめをあらいたまいしときに)。これは既に述べた十一柱の神が生まれた後のことである。だから書紀には「その後、左目を洗ったときに云々」と書いてある。【つまり、目や鼻を洗ったのは、前記の水底、中、水上での禊ぎは終わった後のことである。】たぶん目や鼻を洗っている最中に生まれたのでなく、洗い終わった時点で生まれたのであろう。それで「洗う」をすべて「あらいたまいし」と読んでおく。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)照は「てらす」と読む。万葉巻十八【三十三丁】(4125)に「安麻泥良須可未(あまてらすかみ)」とある。【ただし「てる」と読むのも間違いではない。神名帳には「あまてる」神社も多く見える。】
これは天を照らすというのでなく「てる」を延ばして「てらす」と言うのが古言の活用法であって【「立つ」を「立たす」と言うのと同様である。】天照というのは天にいて照り輝く意味であり、高光るというのと同じである。【三代実録元慶四年、藤原基経を太政大臣に任ずる宣命で「朕我食国乎、平久安久天照之治聞食須故波、此大臣之力奈利(あがオスクニをたいらけくヤスケクあまてらしオサメきこしめすユエは、このオオキミのちからなり)云々」とあるが、これはこの大神になぞらえて、天皇が天下を治めることも「天照」と言った珍しい例である。】

「大」の字を延佳の本でみな「太」に改めているのは、さかしらの間違いである。【伊勢ではすべて「太」の字を書くので、それを正しいと誤解したのである。しかしこの記の諸本、書紀にもすべて「大」の字を書いてあり、その他の古い書物もすべてそうなっている。】普通は「御」の字を省いて大神と書いているが【大神と書いて「おおんかみ」と読んでいる。「おおんかみ」は「大御」が音便で訛って言うのである。物語などで「御」の一字を「おおん」と読むのも元は「大御」のことで、今の俗語でも「おみ誰それ」と言うのも同じだ。これを重言(御神の御が重なっている)とするのは間違っている。】

万葉、続日本紀、祝詞などにも、たいていは大御神と書いている。【御を「み」と読み、神の「か」は清んで読む。】 書紀には「ここに共に日の神を生み、名は大日孁貴(おおひるめのむち)、一書に天照大神と言い、また一書には天照大日孁貴尊」とある。【ここで「天照大神」を「一書に曰く」として挙げたのは間違いである。「またの名は」とあるべきだ。というのは、この後はすべて天照大神という表記であるから、一書の説ではない。一書の説とするなら、前後を書き誤ったのだろう。師の説では「大日女貴の女(め)は『み』に通い『もち』が縮まったのである。月夜見の『見』と対を成す語だろう。貴の字は適当でない」と言った。これについて、今宣長が思うには、書紀の訓注に「おおひるめのむち」というのは、元は「おおひるむち」であり、後代の人がさかしらに「めの」の二字を加えたのではないだろうか。この他、どの本を見ても「ひるめの命」、「ひるめの神」などとあって「ひるめのむち」とは書いてない。だから「おおひるむち」と言うのは「むち」がつまり「め」に当たるのである。】

一書には「天照大神と名付ける」とあり、一書には「大日孁貴尊(おおひるめのみこと)という」ともある。万葉にも「天照日女命(あまてらすひるめのみこと)」と歌った例がある。

2016/07/20

ビール党の夢 (*Φ皿Φ*)ニシシシシ

ビアガーデンの季節がやってきた。

 

ビール好きのワタクシは、毎年3つはビアガーデン開拓を目標としている。昨年でいえば「Thrush//café(八芳園)ビアテラス」、「阿佐谷麦酒工房(クラフトビール)」、「ハワイアンビアガーデン(吉祥寺パルコ)」、「オクトーバーフェスト日比谷」といった具合だ。

 

今年は、どこがいいかな・・・などとネットで調べていて、なんと「マスターズドリーム飲み放題」のビアガーデンを発見した!

 

「マスターズドリーム(醸造家の夢)」は、コンビニ限定の「知る人ぞ知る」商品だ。「マスターズドリーム」以外にも「グランドキリン」など、スーパーや酒屋では売ってない「コンビニ限定ビール」というものが存在する。たまたまコンビニで目についた時に買ったりするが、どれもが普通のビールより旨いのである。そんな中でも、この「マスターズドリーム」は別格級の旨さだ。ところが、このビールは300円以上と高いから、日常的にガブガブ飲めるわけではない・・・ハズだった。それが、なんと「ビアガーデンで飲み放題」と聞いては、これは行かないわけがない。

 

場所は有楽町、駅の目の前にある東京交通会館にある「銀座スカイビアテラス」という店。有楽町なのに「銀座」を冠するとはサギみたいだと思ったが、なるほど13Fのテラスから銀座の夜景が見えなくはない(障害物が多かったが)

 

さて、お目当ては言うまでもなく「マスターズドリーム」に決まっているが、驚いたことにこれ以外にも「香るエール」、「ピルスナー」、「黒」というサントリーが誇る「プレミアム・モルツ」のレア物がトリオで揃っているという大盤振る舞いだ。

 

(これは、全部制覇しないと・・・)

 

と意気込みつつ、まずは「マスターズドリーム」で乾杯!

 


 

激ウマっ!!!

 

コンビニ限定のビンのやつも旨いが、目の前でビールサーバーから入れるのは、やはりクリーミーな泡が絶品である。1杯目をあっという間に飲み干し、急ピッチでお替りすると、その後は3種の「プレミアム・モルツ」を制覇し、再度「マスターズドリーム」に還る。

 


 



どれも旨いのばかりなのだが、やはり「マスターズドリーム」の旨さが圧倒的に群を抜いていた。

 

(次に行く時は、きっと「マスターズドリーム」一本になりそうだな・・・)

 

ということで、勿論ラストオーダーも「マスターズドリーム」で〆

2016/07/19

【御身滌の段】『古事記傳』(抜粋)


ところで伊豆という語の例としては、書紀の神武の巻に「嚴瓮は『いづべ』と読む」とあり、またこのとき神武が「道臣(みちのおみ)の命に詔勅して、『私は高皇産霊尊を自ら顯齋(うつしいわい)して祭ろうと思う。そこであなたを齋主(いわいぬし)とし、嚴媛(いづひめ)と名付ける。その所に置いた土器を嚴瓮と名付け、火を嚴香來雷(いづのかぐつち)と名付け、水を嚴罔象女(いづのみずはのめ)と名付け、粮(おしもの)を嚴稻魂女(いづのうかのめ)と名付け、薪を嚴山雷(いづのやまづち)と名付け、草を嚴野椎(いづのぬづち)と名付ける。』と言った。天皇はその嚴瓮の粮(みけ)を食べた。」

また垂仁の巻には「天照大神を磯城の嚴橿本(いづかしがもと)に鎭座させて祭った」とある。出雲国造の神賀詞(かむよごと)に「伊都幣(いづみてぐら)」、「伊豆能眞屋(いづのまや)」、「伊豆能席(いづのむしろ)」などとある。これはみな神を祭るときのことであって、齋(いわ)い清める意味で「いづ」と言うのである。

【書紀に「嚴」の字を用いたからといって、稜威(いつ)と混同しないように。稜威は極めて威力が強いことを言い、厳は清いことを言うので、元が違うのである。神を祭るときの種々のものを「強力」の意味で名付けるのはおかしい。それに「嚴」の字を書いたのは、厳重に忌み清める意味だろうか。ただ「いかし矛」も「嚴矛」と書いてあり、「いかし」と稜威の「いつ」は意味も近いので、まぎらわしい。その他、「いかし」に「重」の字を使った例もある。祝詞では「茂(いかし)御世」という言葉もある。これらはさらに考察の必要がある。いずれにせよ、上記の「嚴」はここに出た「伊豆」と同じ意味で、稜威の意味ではない。この記では稜威の意味には必ず「伊都(いつ)」と書き、厳の意味には「伊豆(いづ)」と書く。書紀でも「稜威は伊都(いつ)」とあり、厳は神武の巻に「怡途(いづ)」とあって、清濁が分かれている。これを後世に清濁を混同して読んできたのは誤りである。】

また「いつく」、「いわう」、「いむ」などの語も本来は汚穢を捨てて清くするのであるから、みなこの「いづ」から出たのである。【後には「いつく」は敬うことになり、「いわう」は壽ぐこと、「いむ」は忌み嫌うという意味で使われるようになったので、それぞれ別の言葉のように見えるけれども、古語では互いに通用していることが多い。】

また齋忌(ゆき)、齋庭(ゆにわ)の「ゆ」も「いづ」と同言で、もとが同じ言葉である。したがってこの神は、禊ぎによって穢れた「まが」を神直毘・大直毘によって直し清めて、直く清明になった御霊である。【「いづ」は「明きづ」であることは既に述べた。今の世でも、何についても良くないことが終わるのを「明ける」と言う(忌明けなど)のは、この意味に合っている。】

書紀にはこの神は登場しない。それは中筒男の神を一書に赤土命としてあるのを、この神に当てた異伝である。【「なかづつ」、「あかづち」、「あきづひ」の名はすべて通う。】このことは前【伝五の卅一葉、三十二葉】に述べた。神名帳では、出雲国出雲郡に神魂伊豆乃賣(かんむすびいずのめ)神社が出ている。】

○禍津日の神から伊豆能賣の神まで、順番に生まれたことをさらに詳しく言うと、まずこの世のあらゆる凶事、悪事はみな黄泉の穢れから起こる。【後に出る須佐之男命のことも考え合わせよ。】そのため、いにしえにはすべて悪いことは汚いとも「まが」とも言った。書紀で黒心、濁心、悪心など書いてあるのを、いずれも「きたなきこころ」と読み、続日本紀の宣命にも「きたなくあしき奴(やっこ)」、「きたなき奴」などがあり、祝詞には「悪事は古語で『まがこと』」、書紀の景行の巻に禍害(まが)、この記に禍(まが)、また「死ね」ということを「まがれ」と言うなど、「きたなし」、「まが」はすべて凶事、悪事を言う。【後世、「きたない」と言えば穢または汚の意味で、「まが」と言えば曲、枉の字の意味であると思うのは、いにしえの考えではない。穢れもきたないことの一つであるし、曲の字も「まが」のうちの一つの意味でしかない。】

ここで万事悪いことを良くするのは「なおす」と言い、良くなるのを「なおる」と言う。【この語は今日まで古い意味を失わない。いろいろなことに同じように使う。】だから前の文に、穢れを滌ぐことを「そのマガを直す」とあるのである。【穢れ(汚垢)は悪いことであり、それを洗い落とすのが良くすることである。ところが後世の説では「直す」とはただ物が曲がっているのを矯正することとばかり思うので、祓えは心が曲がっているのを正す、などと曲説するのだが、上記のようにいにしえの「まが」という語は、何事もすべて悪いことを言い、「直す」というのも何事でも悪い状態を良くするのを言ったのだ。今の世の言葉の使い方でも分かる。】

こうして、世の中の吉事、善事は、すべてこの禊ぎによって起こるのである。【日の神(天照大神)などの誕生の場面を思い合わせよ。】だからいにしえには、あらゆる良いことを「明るい」、「清い」、「直い」などと言った。この記の上巻では「汝の心の清明云々」、中巻では「浄い公民(おおみたから)」、書紀には清心、明心、赤心、万葉巻廿(4465)には「安加吉許己呂(あかきこころ)」、とか(巻18:4094)「大夫乃伎欲吉彼名乎(ますらおのキヨキそのなを)云々」、続日本紀の宣命に「明支浄支直支誠之心以而(あかきキヨキなおきマコトのこころもちて)」などの用例で分かる。【後世には、「あかき」は明、赤などの字の意味、「きよき」は清、浄などの字の意味、「なおき」は直の字の意味と思い込んでいるのは、いにしえの心から大きく離れている。】

そういうわけで、黄泉の穢れから世の中の様々な災禍を引き起こす神が初めに生まれ、その穢れを洗い落としてその災禍を良い方向に直す直毘の神が続き、すっかり直って良くなったときに伊豆能賣の神が生まれたのである。

○注に「合わせて三柱」とあるのは、禍津日神についてはすでに「黄泉の穢れから生まれた」と書いてあるので、その次からの三柱のことを言っている。

○次於水底(つぎにみなそこに)。この「次に」も、底津綿津見の神の生まれた順序を言う。【伊豆能賣の神が生まれた後に、さらに水底に潜って、という意味ではない。】

○於中(なかに)。ここは水底、水上に対して言うので、水中ということになり、延佳が「水」の字を補った(「於水中」とした)のも当然だが、どの本にも「水」の字はない。考えてみれば水底、水上はいずれも古言であるが、水中【「みなか」も同じ。】というのは、すべて水の内を広く捉えて言う語であって、水底と水面の間を言う語ではないから、単に中と言ったのではないだろうか。【水底、水上と言えば、「中」と言うだけで自然にその中間と知れるだろう。】ここで「於中」と「於水上」の間に「次に」という語がないから、底・中・上の順序はないようなものだが、記述を考えると底から中、上という順序になっているのである。