2021/06/29

五胡十六国時代(5)

https://dic.nicovideo.jp/?from=header

 

五胡十六国とは、中国の時代区分である。三国時代を終わらせた西晋が匈奴と羯の連合軍によって滅亡された後、匈奴族、羯族、鮮卑族、氐族、羌族の五胡(5の非漢族)による16の王朝によって中国が支配された時代である。

 

西晋滅亡後、戦乱で荒れ果てた華北の地には匈奴、羯、鮮卑、氐、羌族らモンゴル、チベット、トルコ系の五胡と呼ばれる民族が勢力を伸ばした。後漢時代から既に中原に居を構えていた、というか強制移住させられていた五胡の民は漢人と混じり合い、一部は遊牧生活を捨てて農耕生活を営むようになっていたが、そのうちに匈奴による漢(前趙)、氐による成漢、漢人による前涼など小さな国々が生まれ、それぞれが覇を競うようになっていった。

 

四世紀初め、五胡の中でも特に勢力のあった漢(前趙)の石勒(せきろく)は319年、後趙を建国し、さらに洛陽の戦いで劉曜の前趙を破って、330年皇帝の位についた。後趙は都を長安において、家族関係や祭祀、行事や生活習慣などを漢の文化を取り入れた。石勒は城内に学問のできる漢族を集めた君子営を設けて、漢の文化を学ばせた。また西から伝わった仏教を篤く信仰し、僧侶の仏図澄を重用した。

 

その後、後趙は石弘、石虎と跡を継いだが、351年、乱暴な政治と度重なる戦争により次第に力を失って行き、代わりに勢力をのばしたのは氐族の符健が建てた前秦であった。符健の跡は子の符生が継いだが、これが粗暴であったため符健の甥の符堅が符生を殺して三代皇帝となった。符堅は370年に前燕、376年には前涼と、拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。前秦の軍隊は氐、羌、鮮卑、匈奴、漢人による混成軍団であり、これらの民族をまとめるために、符堅は仏教を信仰し、漢人の祭りをするなどして融和政策をとったが、この効果はいまいちであった。

 

華北を統一した前秦は383年、中国統一を果たす為に南へ侵攻。東晋の都、建康に90万の大軍を派遣した。東晋の宰相、謝安は謝石、謝玄に8万の兵を与えて淝水でこれを迎え撃った。しかし、前秦の軍は様々な民族の混成軍であったためまとまりが悪く、先陣が敗北すると残りの軍勢も潰走してしまい、東晋は大勝利をおさめる。これが淝水の戦いである。

 

この後、前秦の各部族は独立し、再び華北は分裂状態に陥った。その後、398年北魏が誕生し、平城(大同)を都に定めて華北を統一し、一方の東晋は宋が誕生して、ここに五胡十六国時代は終わり、以後は南北朝時代になる。

 

有能なリーダーに有力者・有力部族が集って一大勢力をなすのが特徴で、リーダーの資質によって国が成り立っていたので初代皇帝が死んで無能が後を継ぐ、あるいは符堅のように権威を失ってしまうと崩壊してしまうのがパターンであった。有力者を所属部族から引き離し、その部族を官僚達に支配させるというスタイルを確立させた北魏が、五胡十六国の勝利者になる。

2021/06/27

密教 ~ 大乗仏教(5)

出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

 

10. 如来蔵思想

如来蔵とは、生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているということである。如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教えである(一切衆生、悉有仏性

 

この如来蔵あるいは仏性を所有することが、あらゆる生きものがいつかは仏になり、救済されうる根拠であるとする。『勝鬘経』大乗の『大般涅槃経』『楞伽経』『大乗起信論』などに説かれる。

 

11. 密教

大乗仏教は、中観、唯識学派の成立により学問化する一方で、大衆の間では密教化していった。密教とは秘密教という意味である。

 

その特質は呪術性にある。呪力の発現により、現世利益の成就をはかる。あるいは、自己と絶対的な真理を体現する大日如来との神秘的な合一の体験、即身成仏を目指す。呪力を発現させるために唱えられる呪句は、真言、あるいは陀羅尼(だらに)といわれる。儀式は諸尊を配置した曼荼羅(まんだら)の前で行われる。

 

密教的な要素は、大乗仏教の早い時代から認められる。呪句としての陀羅尼は、3世紀には成立していたとされる『法華経』陀羅尼品をはじめ、大乗経典にしばしば現れる。

 

ついで 4世紀ころから、それまで部分的に説かれていた陀羅尼を主として説く初期の密教経典が成立した。そして、密教特有の教義が、7世紀ころの『大日経』と少し遅れて成立した『金剛頂経』において確立された。

 

『大日経』の説く曼荼羅は「胎蔵界曼荼羅」といわれる。『金剛頂経』の説く曼荼羅は「金剛界曼荼羅」といわれる。

 

胎蔵界曼荼羅」は、衆生の心に眠る仏になる可能性(仏性)が目覚める時、母親が胎内のわが子を慈しむように、大日如来は太陽のような限りなく大きい慈悲の光を投げかけ、衆生を悟りへ導く。その様子を図形化したものである。また、「金剛界曼荼羅」は、水が凍って氷になるように、清浄な智慧が凝集して光り輝くダイヤモンド(金剛石)のようになり、全身に行き渡ることを象徴している。

 

密教には、インドの民衆の信仰の影響が著しい。ヒンドゥーの多くの神々が取り入れられ、護法神あるいは明王として崇拝の対象とされる。また、後期の密教には、性力を崇拝する快楽主義的なタントリズムの影響がみられ、男女交合を絶対視する左道密教が生まれた。

 

12. インド仏教の消滅

密教化した仏教は、ヒンドゥー教と明確には区別がつかないものとなり、ヒンドゥー教に融合していった。

 

これに拍車をかけたのが、中世インドにおける都市の衰退である。僧院は、都市の住民である商人階級の寄進に依存していた。都市の衰退によって、仏教は経済的基盤を失った。僧達は、維持が困難になった僧院を捨て、別の僧院に移った。

 

その一方で、ヒンドゥー教のバクティ運動は、仏教の衰退と並行して盛んになっていった。僧に去られた仏教徒たちは、多くがヒンドゥー教に吸収されていった。

 

さらに、インド仏教の消滅を決定的にしたのは、11世紀ころから始まるイスラム教のインド伝播である。イスラムの侵入にともない、多くの僧がネパール、チベットに逃れた。象徴的な事件は、1203年に起こった。この年、インド仏教最後の砦となったヴィクラマシラー僧院が、イスラム軍によって破壊された。僧は国外に逃れ、信者はヒンドゥー教やイスラム教に吸収された。そして13世紀、インドにおいて仏教は、ほぼ消滅した。

 

13. 現代インドの仏教

1990年の統計によれば、インドの人口 8億人のうち仏教徒は 0.71%である。その数は 0.48%のジャイナ教を上回っている。これは主として、階級差別に対する抵抗運動を指導したアンベードカル(1893-1956)が推し進めた、ヒンドゥー教から仏教への改宗運動によるものである。

 

アンベードカルは、被差別階級に生まれたが、奨学金を受けてアメリカやイギリス、ドイツの大学で教育を受けた。いったんは役人となるが、不当な待遇を受けて辞職し、後に差別社会と戦う政治運動の指導者として活躍した。1947年インド独立後、新憲法制定議会に議席を得て政府の法務大臣となり、憲法の起草に貢献し被差別階級に対する差別を非合法化したが、1951年、政府内の非協力的な勢力への失望から大臣を辞職。1956年、ヒンドゥー教の枠内にとどまる限り、カースト制の厳格な階級差別から逃れられないとして、差別されている低いカーストの人々に呼びかけ、仏教への改宗を説いた。

 

これが支持されて仏教に改宗する人が増え、1930年代には全人口比0.1%であった仏教信者が、現在ではインド第 5の宗教勢力になっている。

2021/06/25

ユダヤ人(ヘブライ神話16)

ユダヤ人(ヘブライ語: יהודים、英語: Jews、ラジノ語: Djudios、イディッシュ語: ייִדן)は、ユダヤ教の信者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される宗教的民族集団である。

 

ムスリムやクリスチャンと同じで、ユダヤ人という人種・血統的民族が有る訳では無い。

 

ヨーロッパでは、19世紀中頃まで主として前者の捉え方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは、後者の捉え方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている。

 

2010年現在の調査では、全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。ヘブライ人セム人と表記されることもある。

 

ユダヤ人はディアスポラ以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する少数派のエスニック集団として定着した。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有する一つの民族として分類することはできない。言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超え、一つの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている。

 

定義

ユダヤ人は、ユダヤ教を信仰する人々である」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近代以降ではユダヤ教徒の家系でキリスト教に改宗した人々(例えばフェリックス・メンデルスゾーン、グスタフ・マーラー、ハインリヒ・ハイネ、ベンジャミン・ディズレーリ)や無神論者の人々(例えばジークムント・フロイト、カール・マルクスなど)も「ユダヤ人」とみなされることが多い。なお、イスラエル国内において、ユダヤ教を信仰していない者は「Israeli(イスラエル人)」である。

 

帰還法は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人と定義している。また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母親がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母親が非ユダヤ人で、父親がユダヤ人という場合)もユダヤ人として扱うことが多い。

 

11世紀の翻訳書

過去の人種学では、ユダヤ人という人種が存在しているという考え方もあった。ゴビノーはアラブ人とユダヤ人を併せてセム人種と呼び、これを白人の中でも他人種との混血度の高い二級集団と断じた。ナチズムはユダヤ人を人種として扱っているが、帝国市民法第一施行令による分類では、形式的にユダヤ教組織に属した人間も「人種としてのユダヤ人」になるとされた。

 

こうした見方からは、ユダヤ人特有の外見の特徴が存在するとされ、これに基づいた差別的検査も行われていた。しかし、ユダヤ人を身体的形質によって他と区別しうる集団として捉えることはできず、すでに白人のみならず多数の黒人がともにユダヤ人として認められている。

 

現代社会では、ユダヤ人はおおむね居住地の他の住民と同化しており、これを血統主義的観点からのみ区分することはできない。そのため、ユダヤ人のハーフとかクオーターとかいう形容は、まず用いられない。ドイツの文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキは、自伝『わがユダヤ、ドイツ、ポーランド』(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方で、このあたりの機微を突いている。

 

大澤武男は「歴史的な見地から「ユダヤ人」をユダヤ教を信じる人々と規定するなら「ユダヤ教徒」と呼ぶべきであり、単に「ユダヤ人」と呼称するのは適当ではない」とし、ユダヤ人を人種や民族と規定する見方は、19世紀以降のナショナリズム、社会進化論、反ユダヤ主義の産物であり、また国籍を示す用語でもないという。

 

ユダヤ人」は、キリスト教文化圏では一種の宗教的差別概念、また少数派、無国籍放浪者としての社会的差別概念を含む言葉として用いられてきた。現在、イスラエル人やユダヤ教徒、またはユダヤ教がもたらした伝統や文化を堅持している人々を指して、ユダヤ人と呼ぶとする。

 

内田樹は、英語であれば "Jew" "Jewish" の一語で表せるが、日本語ではたんに「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人と他の民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという。

 

「○○ユダヤ人」

この節の加筆が望まれています。

 

・同化ユダヤ人 - 全世界に散らばり、現地に“同化”した状態のユダヤ人。ユダヤ教以外の宗教を信仰する、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)以外で結婚式を挙げる、非ユダヤ人と結婚する、等。

 

・両属性ユダヤ人 - ユダヤ教に興味が無い、または無神論者でユダヤ教の生活習慣に従わないため、ユダヤ人からは「非ユダヤ人」と見なされるが、ユダヤのアイデンティティーを強く持っているユダヤ人。ユダヤ人と非ユダヤ人の境界線上にあるユダヤ人。

 

・東欧系ユダヤ人(アシュケナジム) - ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫。言語はイディッシュ語(ユダヤドイツ語)。

 

・西方ユダヤ人 - フランスやドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。

 

・東方ユダヤ人 - 非ドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。

 

・スペイン系ユダヤ人(セファルディム) - ユダヤ系のディアスポラのうち、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリア、トルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した人々、およびその子孫。言語はラディーノ語(ユダヤスペイン語)。


ナチズムによる定義

 ・ユダヤ人 - 両親・祖父母のうち、一人でもユダヤ教を信仰したことがある人。非アーリア人。

 

・完全ユダヤ人 - 祖父母のうち、3人以上が「人種上の全ユダヤ人」である人。信仰に依らない。

 

・非ユダヤ教徒ユダヤ人 - ユダヤ人と婚姻していた人。

 出典 Wikipedia

2021/06/20

五胡十六国時代(4)

https://dic.pixiv.net/


3.前秦崩壊後の国家群

苻堅の没落、及び死去をうけて建国した国々。華北統一以前の国家(前燕や代など)の後継国も多い。

また、これらの国家は、下記の項目4の国家と時代が重複する。

 

後秦≪384417

羌族の姚萇(姚襄の弟)が建国。姚萇は、前秦の武将として活躍していた。

姚萇は淝水の戦い後に前秦から独立、苻堅を殺害し、前秦の残存勢力と戦った。

子の姚興の代に前秦は完全に滅亡し、西秦、後涼、後仇池を降伏させて勢力を拡大させる。

しかし、河北の北魏には敗北、また東晋の劉裕からも圧力をかけられる。

さらに夏の自立、西秦の再興、従属国だった南燕が東晋に滅ぼされ、国力は低下する。

姚興の死去後、武将姚紹の活躍があったものの、東晋によって後秦は滅んだ。

 

西秦≪385431

鮮卑乞伏部の乞伏国仁が建国。

苻堅の死をうけて前秦の従属国として建国したが、国仁の弟乾帰の代に苻堅の後継苻登が姚興に殺害されたのを機に完全に自立、乾帰は苻登の後継苻崇を殺害し、前秦を完全に滅ぼした。

しかし後秦に敗北した乾帰は、後秦に亡命。後秦軍として活躍する。のちに後秦が衰退すると、西秦を再興。

乾帰の死後、西秦は南涼を滅ぼし北魏と協力し夏に対抗するものの、北魏に敗北して逃れてきた夏の赫連定によって滅ぼされてしまう。

 

後燕≪384409

前燕の慕容儁の弟、慕容垂が建国。前燕の将軍だった頃、慕容垂は有能すぎたため叔父の慕容評に排除されそうになり、前秦に亡命した。前秦軍として、前燕を滅ぼした。

淝水の戦いで敗北した苻堅を保護し、撤退を手助けする。

苻堅の後継苻丕と対立し後燕を建てて自立、苻堅の死をうけて皇帝を自称した。

翟魏、西燕を破ったが北魏に敗北。慕容垂は病死した。

その後、南燕が自立、北魏に敗北を続け、国力が低下したところを漢人将軍馮跋(北燕の実質的建国者)によって乗っ取られ、後燕は滅亡する。

 

西燕≪384394

前燕の慕容儁の二男、慕容泓が建国。慕容垂の叛乱を機に、鮮卑族をまとめて自立。

だが、歴代君主たちは次々に暗殺され続け、国力は疲弊。

後燕に従属して苻丕を破ったが、後燕と後継争いが起き後燕に敗北した。

 

後涼≪389403

氐族の呂光が建国。前秦軍として、西域遠征で活躍していた。

前秦の崩壊を知った呂光は涼州で自立。前涼の後継張大豫を破り、前涼の元領土を獲得。

西秦を一時的に服属させたが反撃を受け、それに伴い南涼と北涼が自立してしまう。

呂光の死後、南涼と北涼と争っているところを後秦に叩かれ、後秦に服属した。

 

後仇池≪385443

氐族の楊定が建国。楊定は淝水の戦い後も前秦に臣従していたが、苻堅の死をうけて自立した。

楊定の死後も西秦や後秦と戦い、東晋及び東晋を滅ぼした劉裕の南朝宋に服属した。

 

北魏≪386534

代の拓跋什翼犍の孫、拓跋珪が建国。

苻堅死去後、匈奴独孤部の協力を得て自立。

後燕と同盟し匈奴鉄弗部(夏の前身)を破り、華北で勢力を拡大する。

 

4.新勢力の進出~北魏による華北統一

項目3の国家から派生した国々。

 

夏≪407431

匈奴鉄弗部の赫連勃勃が、後秦から自立して建国。

北燕と同盟して北魏に対抗、後秦を滅ぼした東晋を撃退し、吐谷渾と北涼を服属させて勢力を拡大した。

しかし、赫連勃勃の死去後は衰退し北魏にことごとく破れ西走、西秦を滅ぼすが吐谷渾が叛乱し、君主たちは北魏に殺された。

 

南燕≪400410

慕容垂の死去後、弟の慕容徳が後燕から自立して建国。

北魏の侵攻により、慕容垂の後継慕容宝は北方に逃走し、後燕は南北に分裂。

南方にいた慕容徳は、燕王を自称して南燕を建国した。

後継の慕容超は後秦に従属して東晋を攻撃したが、劉裕に敗北し滅亡した。

 

北燕≪409436

漢人の馮跋が後燕末帝慕容熙を殺害し、慕容宝の養子慕容雲を擁立して建国。これにより、後燕は滅んだ。

南朝宋に従属して、北魏に対抗したが敵わず滅亡した。

 

南涼≪397414

鮮卑禿髪部の禿髪烏孤が、後涼から自立して建国。

北涼と争っているところを、後秦から自立再興した西秦に攻められ滅亡する。

 

北涼≪397439

盧水胡の沮渠蒙遜が漢人の段業を擁立し、後涼から自立して建国。

後涼を滅亡させた後秦に従属して、南涼や西涼に対抗した。

北涼は西涼を滅ぼし、西秦は南涼を滅ぼしたため、北涼と西秦は対立した。

北涼は夏と同盟し、西秦は北魏と同盟した。

しかし西秦と夏が滅亡したため、北涼は強大化した北魏に圧迫され、婚姻関係を結んで友好に務めたが

華北統一を目指す北魏の前に降伏した。

 

西涼≪400421

漢族の李暠が、北涼から自立して建国。

南涼と連携して北涼に対抗したが、北涼によって滅ぼされる。

 

北魏による華北統一

勢力を拡大した北魏は、同盟していた後燕から警戒されるようになり、後燕と対立していた西燕と同盟して、完全に敵対した。

参合陂の戦いで後燕軍を破り、後秦とも敵対し柴壁の戦いで後秦軍を破ったことで、後燕と後秦の国力は低下した。

後燕は、慕容垂の死去、南燕分裂などで衰退、さらに北燕に取って代わられてしまう。

一方、華南では東晋の劉裕が強大化し、南燕と後秦を滅ぼした。

北魏は西秦と同盟して、後秦滅亡後に勢力を拡大していた夏に対抗した。

西秦は夏に敗れてしまうが、同年のうちに夏を滅ぼすことに成功する。

そして北魏は残存国家の北燕、北涼、後仇池を滅ぼして華北を統一した。

これ以降、北魏と東晋に取って代わった劉裕の南朝宋による、南北朝時代に突入する。

2021/06/18

唯識派 ~ 大乗仏教(4)

出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

 

9. 唯識派

 大乗仏教を代表するもう一つの学派は、唯識派である。『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)は、ただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。45世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟が、その代表的な思想家である。

 

 唯識という学派名は「一切は心から現れるもの(識)のみである」という主張による。このような考えは、すでに最古の経典にその萌芽を見いだすことができる。『ダンマパダ』は「ものごとみな 心を先とし 心を主とし 心より成る」(藤田宏達訳)という句で始まる。

 

 唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を追究した点にある。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいわれる。

 

 アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は、心相続の背後に働くアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。

 

 アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響を与える過去の業の潜在的な形成力を「蓄える場所(貯蔵庫)」(ālaya)である。

 

 これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性を保つ上で重要な役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問が、これによって解決された。

 

 無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく存在であるという。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜいえるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体は認められない。果たして自業自得ということが成り立つのか。あるいは、過去の行為の責任を現在、問うことができるのか。これは難問であった。

 

 解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。言い換えれば因果の連鎖のうちに、自己同一性の根拠が求められた。

 

 しかし、業の果報はただちに現れるとは限らず、時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力は、どのようにして伝えられるのか。先の解答は、この点について十分に答えていない。

 

 深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象は、アラヤ識の中で潜在余力となって保たれ、後の心の形成に関わる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面に現れる心の流れを形成する。

 

 これによって、アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのかという問題に対する最終的な解答が与えられた。

 

 ところで、アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、人はこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心の働きである。これは通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心の働きである。そこで、この自我意識(manas末那識、まなしき)は特別視され、独立のものとみなされた。

 

 こうして「十八界」において立てられていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識、第八のアラヤ識が立てられた。心は、これらの層からなる統体とみなされた。そして、このような層構造を持つ心の働きから生まれ出る表象(vijñapti)として、一切の現象は説明された。

 

 一切は、表象としてのみある(vijñaptimātratā)。しかし、人は表象を心とは別の実在とみなす。こうして、見るものと見られるものに分解される。このようにみざるをえない認識構造を持つ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。

 

 虚妄分別によって見られる世界は、仮に実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。

 

 そして誤った表象を生み出す虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。

 

 こうして依他起なる心、アラヤ識の上に迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別として働かなくなる時、見るものとみられるものの対立は現れなくなり、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」を現す(円成実性)。

 

 「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、合わせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。日本において、唯識思想は倶舎論とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。

 

10. 如来蔵思想

 如来蔵とは、生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているということである。如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教えである(一切衆生、悉有仏性

 この如来蔵あるいは仏性を所有することが、あらゆる生きものがいつかは仏になり、救済されうる根拠であるとする。『勝鬘経』大乗の『大般涅槃経』『楞伽経』『大乗起信論』などに説かれる。

2021/06/09

五胡十六国時代(3)

https://dic.pixiv.net/


中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。

 

西晋の滅亡間際から東晋の滅亡後しばらくの間、中国の北方には漢民族とは異なる北方の異民族、具体的には

 

・匈奴(中央ユーラシアに存在した遊牧民族)

・鮮卑(中国北部に存在した遊牧騎馬民族、北魏なども立てた)

・羯(中国北東部に存在した少数民族)

・氐(中国の青海湖周辺に存在したチベット系と推測される遊牧民族)

・羌(中国北西部に存在する少数民族。馬超などは、この地を引くとされる)

 

により数多くの国が成立した。

 

五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであるため、実際の国の数とは一致しない。

 

また、「」という言葉は中国語において差別的な意味合いがあるため、別の名称(東晋十六国など)で呼ばれることもある。

 

大まかな流れ

 後漢末期から、北方遊牧民族の華北への移住が進んでいた。

 しかし西晋の八王の乱(諸侯王による内乱、10の事件をまとめて、このように呼ぶ)において、諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、一部の異民族や臣下が王や皇帝を名乗りだした(国名:成漢 前趙 前涼)

 

 そして永嘉の乱(前趙が西晋に攻め込み首都を落とし、滅亡させる事件)において蓄えた力を放出、西晋を滅亡に追い込む(この時、王族が逃げ出し華南に国を建てたのが東晋である)

 

 しかし、これらの諸国も内乱や他国との戦争などにより勢力を落としたのち滅亡を繰り返し、鮮卑による北魏が華北を統一するまで、複数の国が成立することになった。

 

諸国

これらの国は建国に主となった民族であり、単一とは限らないことに注意。

太字は五胡十六国。

 

・匈奴…前趙・夏・北涼

・鮮卑…前燕・後燕・南燕・西燕・南涼・西秦・北魏()

・羯…後趙

・氐…前秦・後涼・成漢・仇池

・羌…後秦

・漢民族…前涼・西涼・冉魏・北燕

 

周辺国

・東晋・・・華南に逃れた西晋時代の残存勢力。当然だが漢民族の国家。後に劉裕にクーデターされ南朝宋となる。

・吐谷渾・・・涼州の南方に位置する。鮮卑慕容部から分かれた一族。

・高句麗・・・満州から朝鮮半島北方辺りを支配下に置いた国。後燕と争うが後燕が北燕に代わってからは良好。

・柔然・・・モンゴル平原に位置する。北魏の目の上のたんこぶ。

 

十六国年代別の略説

※太字は五胡十六国の一国

 

1.西晋の滅亡~前趙後趙期

前趙()≪漢304318 前趙318329

西晋配下だった匈奴攣鞮部の劉淵が漢を建国。劉淵の子、劉聡の代で永嘉の乱を引き起こし、西晋を滅亡させた。

その後堕落した劉聡の悪政ののち、外戚の反乱を劉曜と石勒が平定。

劉淵の族子だった劉曜は皇帝に即位し、国号の漢を趙と改める。一方、石勒も趙を建て独立。

漢は劉曜の前趙と、石勒の後趙の二つに分裂する。

 

後趙≪319351

匈奴の派流・羯族の石勒が建国。前趙との激戦の末、従子の石虎の活躍で劉曜とその子劉煕を殺害し前趙に勝利し、華北一帯を支配下に置いた。

第3代皇帝となった石虎は、前燕や東晋と争ったが暴君であり漢民族を圧制、さらに石虎死後に後継者争いが起こり、後趙は特に漢民族から信望を失った。

漢族の冉閔が叛乱を起こし、後趙は滅亡し冉魏が建つ。

更にこの混乱の中、後趙配下だった氐族が自立し前秦を建てる。

 

冉魏≪350352

漢民族であり、石虎の養子であった冉閔が建国。後趙の皇太子を殺害し、石氏皇族を初め、異民族を虐殺し漢人至上主義国冉魏を建てる。

だが、華北は当然異民族だらけなので、冉魏は圧倒的に不利となる。

さらに東晋の北伐で刺史(地方の長官)たちが東晋に帰順、さらに羌族(後秦の前身)の姚襄に大敗する。

東晋に援軍を要請するために伝国璽を東晋に渡したが、結局前燕によって滅ぼされる。

 

前燕≪337370

西晋配下だった鮮卑慕容部の慕容皝が、西晋の滅亡の中で建国した。

子の慕容儁は混乱状態の後趙と争い、後趙が冉魏に滅ぼされると冉魏を滅ぼした。

後趙崩壊後、華北の東を前燕、西を前秦が領有し二国が対立した。

 

前涼≪301376

西晋に仕えていた漢民族の張軌が、八王の乱や永嘉の乱の流民を取り込んで建てた国。

西晋に臣従していたため永嘉の乱では前趙に対抗していたが、のちに前趙にも臣従。前趙が滅んだあとは、後趙と成漢にも臣従した。

 

成漢≪304347

氐族の派流・巴賨族の李雄が流民集団を率いて、西晋から成都を奪って建てた国。

4代皇帝の李寿は暴君で国を衰退させ、のちに東晋の桓温によって成漢は滅ぼされる。

五胡十六国の中で唯一華北や涼州ではなく、巴蜀に建てられた国。

成漢滅亡以降、巴蜀は東晋の領土となる。

 

前仇池≪296371

弱体化した西晋を尻目に、氐族の楊茂搜が建国。内乱と権力争いで度々、後趙や東晋に臣従した。

 

(北魏の前身)315376

鮮卑拓跋部の拓跋猗盧が建国。拓跋猗盧は永嘉の乱の中、西晋の武将劉琨と協力して漢(前趙)の劉聡、劉曜、石勒たちに対抗した。

西晋最後の皇帝・愍帝司馬鄴は、猗盧を代王に立てる。

猗盧の甥にあたる第4代代王の拓跋鬱律は、前趙の劉曜や後趙の石勒から和睦を申請されたが、愍帝を殺した事を挙げて受け入れなかった。

鬱律の子拓跋什翼犍が代王の頃、代に反抗した匈奴鉄弗部(夏の前身)劉衛辰の要請で前秦が侵攻。代は滅び、領土は匈奴鉄弗部と匈奴独孤部に分割統治された。

 

2.前秦の華北統一~前秦の崩壊期

前秦≪351394 統一期376384

前趙・後趙配下だった氐族の苻健が建国。苻健の父苻洪は、後趙における冉閔たち漢民族の反乱に際して独立した。

北伐してきた東晋の桓温を破り、後趙滅亡後の華北を前燕と二分する勢力となる。

 

華北統一

3代皇帝の苻堅は名君であり、漢民族の王猛を使い内政を安定させた。その後に前燕、前仇池、前涼、代を倒し、華北を統一する。

符堅は漢民族も異民族も自軍に取り込む寛容な人物だったが、王猛は信任し過ぎる事を諌めていた。

王猛の心配通り、のちに異民族達は反旗を翻す事となる。

 

淝水の戦い

華北を統一した苻堅は、華南の東晋を攻めて中華統一を目指した。

亡き王猛は東晋侵攻に反対していたが結局、苻堅は東晋侵攻を断行する。

数的には圧倒的に前秦は有利だったものの、異民族の寄せ集めだった前秦は東晋に大敗する。

 

前秦の最期

東晋の敗北により、かつての前燕の皇族が苻堅に反抗。

鮮卑慕容部は西燕後燕を、羌族は後秦を建て次々に独立した。

苻堅は敗北を続け、西燕から逃れたところを元部下の姚萇に捕縛される。

385年、姚萇に禅譲を迫られたが苻堅は拒否したため、姚萇は苻堅を殺害する。

苻堅の死により、統一国としての前秦は終焉。以降、残存勢力として他の国家群に対抗する。

苻堅の後継苻丕は、西燕に敗死。苻丕の後継苻登は、後秦に敗死。苻登の後継苻崇は、西秦に敗死。

苻崇の死去により、前秦は完全に滅んだ。

2021/06/07

中観派 ー 空観 ~ 大乗仏教(3)

出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

8.中観派ーー空観

 信仰を主とする大乗仏教にも、その教理に対する知的な考究が行われた。まず登場するのが中観派である。

 

 中観派の祖は、2世紀後半から 3世紀前半にかけて活躍したナーガールジュナ(龍樹)で、その主著は『中論』である。ナーガールジュナは、般若経典の般若波羅蜜の解釈を主眼として、空の思想を理論化した。あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており不変の独自性はもたない(無自性空)とする見方に立つ。

 

 一切が空であるとする見方(空観)は、すべてが虚無であるとするニヒリズムのように聞こえるが、そうではない。<空>と<無>は似ているが、まったく異なる。この派が「中観派」と呼ばれるのは、世界を<実在>とする極端説と<虚無>であるとする極端説のどちらからも離れた中道をとるからである。

 

 では、有(実在)でもなく無(虚無)でもない<>とはどのようなあり方か?

 

日常生活において、普通われわれは見えているものを実在すると考える。何らかのものxが存在しており、それに対して「xがある」という言葉が使われるのだと考える。存在するものは本や机、鉛筆であったりする。しかし、それらのあり方について再検討し始めると、初めの確信は怪しくなる。

 

 物をどんどん拡大して、極小の構成要素の集まりという姿で見るとき、「本」としてあったものは本ではなくなる。逆にそのものからどんどん遠ざかり、極大の視点から見るとき、やはり「本」は消える。

 

 「本当にある」と思われているものが実は、われわれの眼に見えるものの大きさの次元でのみ成り立っており、「xがある」ということは、<xを見るもの>(われわれ)との関係の上に成立していることが顕わになる。

 

 さらに「xがある」という時、「x」は言葉である。普通、xというものがあり、それに対して「x」という言葉が与えられるのだと考えられる。言い換えれば、xには「x」と呼ばれるべき<x独自の不変の本質>があるから、「x」という言葉が適用されると考えられる。しかし、xの存在は<見るもの>に依存しているので、<x独自の不変の本質>なるものは、実は存在しない(xは無我・無自性である)。「x」という言葉が適用されるのは、xを他のものから識別しようとする心の働き(分別)があるからである。

 

 xは、他のものとの相関関係において成り立っている。(xは他のものとの相互依存関係によって、縁起するものである。)

 

 xなるものが「ある」と知られるのは「x」なる言葉にもとづく。(一切は戯論、すなわち言葉の虚構による。)

 

 xは「x」が適用されたもの、すなわち考え出されたものであって、真の意味では存在しない。有ではない。しかし、そこに何もないわけではない。何もなければ、ことばを当てることはできない。だから無でもない。有でもなく無でもない。現象するすべてのものは、そのようなあり方をしている。存在しているが、それ独自の存在を欠いている。いわば空っぽな存在。このようなあり方が<>である。

 

 ナーガールジュナは、これを飛蚊症という眼病のたとえで説明する。飛蚊症にかかると、毛筋のようなものが見える。それは見えているだけで、存在してはいない。有ではない。しかし、飛蚊症が治ると、それはなくなる。無であるものがなくなることはないから、無であるとはいえない。毛筋のようなものは、有でも無でもない。<空>である。現象するすべてのものが、これと同じあり方をするという。

 

 さて、この世界における現象のすべては<縁起>によって現れてくるが、それらは<空を本質とする>(空性)と説かれる。それらは、必ず何かにもとづいての仮の現れでしかない。さらに、このようなあり方をしているものは、また<中道>にほかならない。というのは、あらゆるもの、あらゆることがらが、必ず他のもの、他のことがらと<相互に依存する関係>の上に初めて成立し、自己同一を保つ実体的なものやことがらは何もないからである。

 

 このように言葉の虚構の上に成立している現象世界において、分別を働かせることによって、行為と煩悩が生まれる。それらは世界を<空なるもの>と見ることによって滅することができる。<分別>を否定し、言葉による思考・判断に惑わされることなく、一切を<空>と見るものの見方、これこそが般若波羅蜜、すなわち<智慧の完成>である。

 

 このような立場から、ナーガールジュナは世界を構成する要素(ダルマ)を実在とする説一切有部や「牛(x)」には「牛(x)」として認識される根拠として「牛の普遍(x-性)」が実在するとするヴァイシェーシカなどの実在論をとる諸学派を鋭く批判した。

2021/06/05

ヨセフ(ヘブライ神話15)

ヨセフ(Josephは、『旧約聖書』の「創世記」に登場する、イスラエル人を大飢饉から救った人物。ユダヤ人の祖ヤコブの子で、母はラケル。同母弟にベニヤミン、異母兄にルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルが、異母姉にディナがいる。妻アセナトとの間に、エフライムとマナセの2男を儲ける。

 

生涯

「創世記」37-50ではヨセフを中心とした、いわゆる『ヨセフ物語』が語られる。その概要は、次の通りである。

 

夢の話と異母兄弟の妬み

ヨセフは、父ヤコブと母ラケルとの間に長男(ラケルは後妻のため、実際にはヤコブの11)として生まれた。ヤコブはヨセフが年寄り子であるため、誰よりも彼を愛し、きらびやかな服をヨセフに送ったりした。

 

そのため10人の異母兄たちは、ヨセフを憎むようになった。ある日、ヨセフは夢を見、それを語ったので兄弟たちの妬みを買い、穴に落とされ、やがて彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。その直後、ヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにヨセフは獣に襲われて死んだと偽った。

 

エジプトでの受難と栄光

隊商の手によってエジプトに渡ったヨセフは、エジプト王宮の侍従長ポティファルの下僕となるが、そこで成功を収め、ついにはその家の全財産を管理するまでとなる。

 

ところが、ポティファルの妻の性的誘惑を拒んで、その妻にかえって濡れ衣を着せられて監獄に入れられてしまう。しかし、ヨセフはそこの監獄の長に気に入られ、その監獄の管理人となった。

 

やがて、その監獄にファラオに罪を犯した献酌官長と調理官長が拘留され、ある時、二人は同じ夜にそれぞれ夢を見た。ヨセフは、その二人の夢をそれぞれ解き明かし、その解き明かしのとおりになったため、その能力が後にファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになった。

 

その彼の解き明かしがファラオに認められて出世し、エジプトの宰相となる。その後、ヨセフはファラオからツァフェナト・パネアという名と、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えられた。

 

兄弟たちの誠意と再会

宰相の地位に就いたヨセフは、七年間の大飢饉に備えるために食料を保存するなど、国政に腕を揮った。七年間の大飢饉はエジプトだけでなく、父ヤコブや兄弟たちのいるカナンの地にも及んだ。そこで、10人の異母兄弟たちは末の弟でヨセフとは同母弟となるベニヤミンをカナンに残し、エジプトに穀物を買いに行く。そこでヨセフと出会うが、兄弟たちは宰相ツァフェナト・パネアが、ヨセフであることには気付かなかった。だが、ヨセフは兄弟たちのことが分かっていた。そこで、ヨセフは兄弟たちを間者と決めつけ、末の弟ベニヤミンを連れてくるように要求、彼らの誠意を試そうとした。

 

兄弟たちはシメオンを人質としてエジプトに残し、穀物を持って帰ったが、エジプトで起きたことを父ヤコブに話すと、ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことに強く反対する。しかし、穀物が尽きてしまったため、仕方なくヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを決心、兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトに戻った。

 

ヨセフはベニヤミンを見ると感激し、兄弟たちにご馳走をした。その後、兄弟たちがカナンの地に帰る前に、ヨセフはベニヤミンの持つ穀物の袋に自らの使う銀の杯を入れた。そして兄弟たちが出発してすぐに、ヨセフは彼らを追い、彼らが銀の杯を奪ったと指摘、兄弟たちは自信を持って盗んでいないと主張するが、調べるとベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった。罰としてヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とすると言ったが、兄弟たちは自らが奴隷になってでも、ベニヤミンを帰らせるよう頼んだ。

 

ヨセフはその誠意にとても感激し、自らのことを明かした。兄弟たちは驚くも、その後ヨセフと抱き合い、和解を果たした。また、兄弟たちはそのことを父ヤコブにも告げた。ヤコブは最初は信じなかったものの、最終的にはヨセフに会って、劇的な再会を果たした。

 

ヨセフは父と兄弟たちをゴジェンに移住させ、ヤコブの死後、110歳まで生き続けた。古来、エジプト人は人間の最長寿命は110歳であると考えており、ヨセフが110歳で死んだという聖書の記述は、ヨセフが神の愛を深く受けていたということを示している。

 

夢とその解き明かし

束(ヨセフの見た夢)

ヨセフとその兄弟たちが、畑で束を束ねていた。すると突然、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束はヨセフの束に向かってお辞儀をした。

解き明かし…これはヨセフが後に宰相となって、兄弟たちが皆ヨセフにひざまずくことになるということを預言している。

 

太陽と月と十一の星(ヨセフの見た夢)

ヨセフと太陽と月と十一の星があった。すると、太陽と月と十一の星がヨセフに向かってひれ伏した。

解き明かし…太陽というのは父、月というのは母、十一の星というのは兄弟たちのこと。束の夢と同じでヨセフの後のことを預言している。

 

ぶどうの木(献酌官長の見た夢)

献酌官長の前に一本のぶどうの木があり、その木には三本のつるがあった。そのつるが芽を出すと、すぐに花が咲き、ぶどうの実がなった。献酌官長がそのぶどうを摘み、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオに渡した。

解き明かし…三本のつるというのは三日のこと。三日後、ファラオは献酌官長を元の地位に戻し、以前のようにファラオに杯を渡すことを許されるということを預言している。

 

三つの枝網のかご(調理官長の見た夢)

調理官長の頭の上に、枝網のかごが三つあった。すると鳥がやってきて、一番上のかごの中に入ってある、ファラオのための食事を食べてしまった。

解き明かし…三つのかごというのは三日のこと。三日後、ファラオは調理官長を木につるして殺し、鳥が死体に群がるということを預言している。

 

七頭の雌牛(ファラオの見た夢)

ファラオがナイル川の岸に立っていると、ナイル川から肉づきがよくて、つやのある雌牛が七頭上がってきて、葦の中で草を食べていた。すると、そのあとに弱々しくやせ細って、非常に醜い雌牛が七頭上がってきて、最初に上がった肥えた雌牛七頭を食べてしまった。しかも、醜い牛は肥えた牛を食べたにもかかわらず、何も変わっていなかった。

解き明かし…七頭というのは七年、肥えた雌牛というのは豊作、醜い雌牛というのは飢饉のこと。ファラオがこの夢を見てすぐに、七年間の大豊作が訪れ、その後七年間の大飢饉が起こるということを預言している。

 

七つの穂(ファラオの見た夢)

一本の茎に、とても豊かに実っている穂が七つあった。すると東風に焼け、しなびた穂が七つ出てきて豊かな穂をのみこんでしまった。

解き明かし…七つというのは七年、豊かな穂というのは豊作、しなびた穂というのは飢饉のこと。七頭の雌牛の夢と同じで、七年間の大豊作と大飢饉を預言している。

出典 Wikipedia