2006/02/28

信念の金メダル(トリノ・オリンピックpart4)

 こうしたスポーツ観戦を通じていつも思う事だが、人間の感情とは実に不思議なものだ。

(最後のスルツカヤがミスをすれば、荒川が金だ)

ワタクシを含め多くの人が、内心で密かに期待した事だろう。言うまでもなく金と銀ではエライ違いなのであり、また日本人の心情としてこれは無理からぬところである。加えて、ここまでの日本のメダリストはゼロであり、この後の競技日程を考えれば、これが今大会で唯一のメダルとなる事も明らかだから、やはりここまで来たら荒川には「」を獲って欲しいという思いが、より強くなる。

そのためにスルツカヤのミスを期待してしまうのは、日本人としてはキレイゴト抜きの偽りなき感情なのだろう。そして、あの百戦錬磨の女王も五輪のプレッシャーに押し潰されたか、いつもとは別人のようにミスを連発した。颯爽として最後まで自分の演技を演じきった荒川とは、まったく対照的に・・・

それでも強張った笑顔を絶やさず、健気に演技を続ける競技者の姿は痛々しくもあり、その映像はやはり見る者の胸を打たずにはおかない。その瞬間に限っては、確かに国境や人種の壁を乗り超えた人類の同胞として、そのひたむきな頑張りを称える観戦者の姿が、各家庭のTVの前にはあった事だろう。これこそがスポーツの齎す感動のカタルシスであり、素晴らしさである。

結局、トリノ・オリンピックで獲得した、日本選手のメダルは一つだけで終わったが、それだけにひときわ燦然とした輝きを放つ価値ある「金メダル」であったと言えるだろう。

かつて棋士の升田幸三が、ライバル・大山康晴との対局に敗れた際に

「強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのだ・・・」

と、おもしろいセリフを吐いたと言われる。これは、あくまで「本当に強いのは自分だ」という矜持であろうが、今回のフィギュアスケートでは「強い」と言われたスルツカヤはミスで自滅し、コーエンもミスをした。そうしてプレッシャーの中で、次々に「強い(ハズの)者」が脱落していく中で、プレッシャーを楽しみながら最大限に自分の力を発揮し、結果的に勝ったのが荒川である。

そして「メダル候補」の呼び声が高い中で、期待通りの結果を出せなかったスピードスケートやモーグル、或いはスノーボードの選手の得点が伸びなかったのは「運に恵まれなかった」と安易に結論付けるマスコミもあったが、やはり運も含めて彼らはそれだけの力だったというしかない。

運をも呼び込み、見事金メダルを獲得した荒川だけが、このオリンピックにおいては真に「強い者」と言うに相応しい、称えられるべき唯一の存在だった。

 今回の荒川の金メダルは、色々な意味で画期的であったと言える。これまでフィギュアスケートに代表される採点競技では、日本人など有色人種は圧倒的に不利な状況が確かにあった。フィギュアスケートが欧米の発祥という事もあるだろうが、TVなどの映像を見ても解る通りジャッジは殆ど欧米人である。

さらに人種的な体型の違いがあり、総じて長身で足が長くスラリとしたスタイルの白色人種に比べ、日本人など有色人種は欧米人の基準では見た目からして明らかに不利である。事実、かつて実力的には明らかにナンバーワンだった伊藤みどりなどは、何度も採点に泣かされ続けて来た。

ところが、最近では日本人選手の体格やスタイルも随分と変わり、荒川や村主などは足が長くスマートなスタイルでは、欧米の選手に比してもまったく見劣りがしなかったが、殊に荒川の場合は長身と均整の取れたスタイル、そして何よりも最も大事なスケーティングの美しさは、欧米選手の誰よりも群を抜いていた

欧米のマスコミでも「東洋の女神」、「クール・ビューティ」と持て囃されたようだが、日本人選手が欧米で「美しさ」を持て囃された事は、何と言っても画期的な出来事といえる

さらに最近の三大会では、バイウル(ウクライナ)、リピンスキー(アメリカ)、ヒューズ(アメリカ)と、いずれも金メダリストは16歳だった。若く高い技術力で勝負をした選手らが続けて優勝して来た中で、今回24歳の荒川が「大人の演技」で勝った事も賞賛に値する。ジャンプで得点を稼ぐ演技が主流になっている、今日のフィギュア界の流れに流される事なく(元々、ジャンプが苦手という事はあるが)、注目を集めた流れるような「美しいスケーティング」という、忘れられかけていたスケート本来の原点に還り、基本の大事さを改めて認識させた功績は大きい。

導入された新採点方に苦しみ、また15歳の浅田に負け続けるなど辛酸を嘗め続けながらも、あくまで安易な迎合には与せず、自らの信じる道を貫き通した結果の「である。しかも表現力などの芸術点は勿論の事、技術点でもトップの高得点を獲得した事は、どれだけ褒めても褒め過ぎという事がない。

新採点方では決して得点に結びつくとはいえないのを承知しながら、あくまで拘り続けた「世界一美しいイナバウアー」で、会場から惜しみない賞賛の拍手が沸き起こったのは最も感動的なシーンであった。

2006/02/26

ハイドン チェロ協奏曲第1番(第3楽章)

 



クライマックス(トリノ・オリンピックpart3)

 最終組の6人には、その村主、荒川が入った。長年、オリンピックのフィギュアスケートを見続けているワタクシとして、この最終組に日本選手が二人もエントリーされた事は感慨深いだけに

(ここまで来たら、何とか一人は表彰台に・・・)

と期待してしまうのも、無理からぬところだ。

6人のうち2番目に、SPでトップに立っていたアメリカのコーエンが登場したが、ここで転倒を含めて大きなミスがあったため、日本選手へのメダルの期待感は益々膨らむ。そんな中で登場して来たのが荒川だった。

昨年の五輪代表選考指定大会では、出場した三大会でいずれも15歳の浅田に敗れ去った荒川である。そして最後の全日本選手権では、SPでトップに立ちながらフリーで村主、浅田の両選手に逆転を許し3位に終わった事からもわかるように、基礎技術は高いものを持っていながら浅田の技術力や村主の表現力というような、これといったアピールのインパクトに欠ける印象が強かった。

ところがこの日に限っては、これまで見て来たどれよりも素晴らしく観客を魅了する、しなやかで美しい抜群の演技を見せ、本人もア然とするような高得点を叩き出したからビックリ仰天した。そしてこの時点で、不振を極めた大会の日本選手として、初の表彰台を確定付ける大任を果たしたのは、立派の一語に尽きる。

 その荒川に続いて、本来であれば「真打ち」という感じで登場するはずだった村主だが、この日はいつもに比べ登場して来た時からなんとなく、蔭が薄い感じがしたのは気のせいだったか。目の覚めるような長身と抜群のスタイルで、ダイナミックな演技を披露していった荒川に比べ、元々線の細さが目立つ村主だけに「氷上の女優」と称される、あの独特の演技力に総てがかかっていた。

観客を熱狂させ、大逆転で優勝を捥ぎ取っていった全日本選手権の演技が再現できるなら、荒川とともに表彰台も充分に望めるチャンスだったが、この日は細かいミスが重なり、残念な事に常々口癖のように繰り返している「観客と一体になった演技」には至らなかった。

アメリカ選手を挟み、残す演技者は女王・スルツカヤのみとなった時点で依然として荒川がトップ。「」になるか「」になるかの鍵は、女王・スルツカヤが握る事になった。

これまでの実績や現時点での地力から公平に見るなら、スルツカヤが普段通りの演技をして「金」を持っていく可能性が高いという見方が一般的だったろうが、実際には既に荒川が高難度の技をミスなく連発し、驚異的な高得点を叩き出していたこの段階で、プログラムの構成的に見てもスルツカヤの逆転は殆ど不可能であった(あくまでも後知恵だが)

本人もそれがわかっていたのか、意外にも出番前にTVに映された女王は、これまでに見た事もないような緊張に強張った表情をしていた・・・

(これは・・・ひょっとすると、ひょっとするかも・・・)

と、俄かに胸が高鳴る。そうした波瀾含みの中で、女王の演技が始まった。

演技開始からやはり極度の緊張に強張った表情に加え、最初のコンビネーションのジャンプが跳べないという大きなミスを犯すなど、いつものキレには程遠い。それでも、どうにか立ち直りつつあるように見えた終盤、見せ場となるジャンプで転倒し派手な尻餅をついてしまった。

アナウンサーが

(まさかの転倒)

と表現した通り、これまで見た事もないしまた予想すら出来ないような、信じられないシーンだった。

(やはり、これがオリンピックか・・・)

この瞬間に、荒川の「金」が確定したと言っても過言ではなかった。

2006/02/25

ハイドン チェロ協奏曲第1番(第2楽章)

 


https://tsvocalschool.com/classic/ 

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn/1732-1809年)の『チェロ協奏曲第1番』は、1765-1767年頃に作曲されたと考えられている作品です。

 

ハイドンの円熟期に書かれた『チェロ協奏曲第2番』とは違った味わいがあり、バロックの響きを残した明るく爽やかな音楽が印象的です。

2006/02/24

フィギュア荒川、最高の輝き(トリノ・オリンピックpart2)

 女子フィギュアスケートの荒川静香選手が、金メダルを獲得した。

トリノ・オリンピックでは、これまで「メダル候補」と期待された選手が総崩れ状態となっており、大会14日目まで消化してまだメダルが一つも獲得できないという、大変に厳しい状況が続いていた1976年のインスブルック大会以来「30年ぶりのメダルなし」という惨敗が、いよいよ現実味を帯びて来た危機的な状況の中でのこの快挙だけに、真に賞賛に値するものだ。

オリンピックの歴史を紐解けば、かつてベルリン大会が独裁者のヒトラーに国威発揚の場として利用されたのは有名だが、時代とともに世の中の価値観も多様化し、五輪に対してナショナリズムの匂いを嗅ぐのは、最早アナクロニズム以外の何物でもない。

今や技術、或いは経済など幾つもの分野で世界をリードする先進国として、圧しも圧されもせぬ存在となった日本が、今更五輪でメダルを一つも獲れなかったからといったとて、それほどの一大事ではないにのだ・・・と言うのは、あくまでも理屈ではわかっていても、各国がメダルを獲得していく中で、有力(と期待された)選手が次々に負けていく様を目の当たりにするのは、やはり理屈を超えた寂しさがある事は否定できないものなのだ。

そのような、まさに日本にとっては最悪の状況で迎えたのが、大会も終盤に差し掛かってようやく出番の廻って来た女子のフィギュアスケートであり、いわば日本にとっての最後の頼みの綱である。

実を言えば、個人的には当初から

(誰か一人でも、メダルを獲れるようなら御の字)

という程度に、それほど期待が高いとは言えなかったが、先に見て来たようなこれまでの「メダルゼロ」の惨状があっただけに

(何とか一人だけでも、表彰台に引っかかってくれないものか・・・)

と日本人としては、やはり祈りたい気持ちにもなろうというものだ。

もっとも、恐らくは多くの人がそうであったように、安藤選手に関しては正直ハナから期待していなかったから

(村主か荒川が頑張って、何とか表彰台に)

という思いの中、いよいよ競技がスタートした。

SPの結果は、荒川3位、村主4位、安藤は8位。トップはアメリカの新星・コーエンで、ロシアの誇る世界女王・スルツカヤが2位。もう一人のメダル候補にして、日本選手のライバル視された開催国イタリアのコストナーは11位と大きく出遅れ、事実上この段階でメダル争いからは脱落していた。

言うまでもなく、SPを終えた時点で34位につけた荒川、村主の二人は充分にメダル圏内であったが、また同時に微妙な位置とも見る事が出来た・・・

 日本にとって最も期待すべきシナリオは、上の二選手がミスをした上で日本の二選手が完璧な演技をして金・銀を独占する事だが、無論これは甚だムシの良いシナリオである。逆に最悪のシナリオは、下位の選手が一人でも高得点を叩き出し、日本の選手がミスを連発した場合だ。

これまでスピードスケートの加藤(4位)、岡崎(4位)、或いはフリースタイル・モーグルの上村(5位)など、別の競技で期待された選手が悉くあと一歩というところでメダルを逃して来ている現実を見せ付けられて来ただけに、これでまたしても4位と5位に並ぶような事があれば、それこそは目も当てられない惨状である。

そうした中で、注目のフリー演技がいよいよ始まった。最初に登場した安藤には、前にも触れたように個人的には期待するところはない。全日本選手権でさえ、有力6選手の中で最下位の6位だった事を考えるなら、SPの8位は彼女にしては上出来な方だ、という見方こそが妥当なのである。案の定、フリーではジャンプがまったく決まらず、またしても転倒を繰り返した。

愚かなマスコミは、当初から有力選手をそっちのけでこの安藤ばかりを採り上げ「4回転ジャンプ」などと囃し立てていたが、3回転はおろか2回転すら満足に跳べていない惨状で、世界の誰も出来ない4回転などが跳べるわけはないのである。ましてや練習ですら、殆ど成功していないというのにも関わらずである。練習で完璧にこなしていても、本番で同じように成功させるのが難しいのが五輪の舞台であり、練習で満足に跳べないものがプレッシャーの掛かる本番で成功出来る、と考えるアタマこそはどうかしていると言うしかない。

もっともどっちにせよ、日本選手の中では唯一メダルの可能性がないに等しい現実と、先物買いでの若さを考えれば言葉は悪いが、ヤケクソでチャレンジした精神そのものだけは評価出来るかもしれない。正直、今の安藤の演技では仮に奇跡的に4回転ジャンプが決まったとしても、基本的なスケーティングや表現力など、どの要素を見ても村主、荒川と比べあまりにも稚拙であり、いずれにせよメダルに手が届くとは思えかったが・・・ 

マスコミの論調では、最近の安藤について「調子が悪い」で済ませているようだが、調子の悪さもさることながら真実はズバリ、思春期に迎えた生理的な変化に対応が出来ていないのだろう、というのがワタクシの見方である。


何しろスタイルの悪さというか、お尻から下半身にかけてがやたらと鈍重そうで、自らその体型を持て余したまま途方に暮れている感じに見えて仕方がない。それがあの最近の悲壮な感じの暗い表情を生み、彼女の魅力だった溌剌とした若さが失われてしまっている、という悪循環に繋がっているのであろう。

演技を見ていてもどのジャンプにしろ、転倒しそうに見えてしまうのだ(実際、あまりに転倒ばかりしていたせいもあるのだろうが)

その点では荒川、村主の両者はジャンプの高さや派手さ、華やかさこそは(成功した場合の)安藤に遥かに見劣りするとはいえ、ミスを予感した場合に空中で組み立て直すだけの技術力と精神的な余裕を備えているだけに、着地でバランスを崩す事はあっても転倒する気遣いは殆どない安定感がある。ましてや、ジャンプとジャンプの間の繋ぎの部分での魅せ方となると、大人と子供というくらいに格段の差を感じずにはいられない。

ハイドン チェロ協奏曲第1番(第1楽章)

 


ハイドンの真作と確認され、現存しているチェロ協奏曲は、この曲と第2番(ニ長調 Hob.VIIb-2 作品101)のみである(第3番は紛失)。しばらく前までは、その存在だけが知られ楽譜は現存していないと思われていたが、1961年にプラハで楽譜が発見されると翌1962年にミロシュ・サードロのチェロにより復活初演され、一気に知られるようになった。約200年もの間、貴族の文庫や図書館で眠っていたわけである。

 

作曲されたのは176567年頃で、ハイドンが楽長を務めていたエステルハージ家の宮廷楽団のチェロ奏者ヨーゼフ・フランツ・ヴァイグルのために作曲された。

 

1番はリトルネロ形式や単調な伴奏音形など、第2番より多くの点でバロック音楽の痕跡を残しているが、両端楽章が快速なソナタ形式で書かれているなど、バロックと古典派の融合を図った初期のハイドンの創作意欲が現れた作品である。チェロが開放的で明るく鳴り響くところから、チェロのレパートリーとして定着している作品で、第三楽章を中心に技巧的な華やかさも聞きものである。