2008/10/31

【女子マラソン】高橋尚子の偉大さ

TVを観ないワタクシは、ネットで「高橋尚子引退」のニュースを見て、You Tubeで記者会見を見た。久しぶりに見た高橋選手は随分やつれて、当たり前のことだが老けた印象に痛々しい思いがしたものだ。まさに「ボロボロになっての引退」という印象を受けた。

 

高橋選手の過去の偉大な戦績を事細かに書いていては、それだけで何回ものシリーズが出来てしまいそうなので、ここでは概略のみを記載しておこう(Wikipediaから引用)

 

7位:19971月 大阪国際女子マラソン 2時間3132秒 = 初マラソン

優勝19983月 名古屋国際女子マラソン 2時間2548秒 = 当時の日本最高記録

 優勝199812月 バンコク・アジア大会 2時間2147秒 = 当時の日本最高記録

優勝20003月 名古屋国際女子マラソン 2時間2219秒 = 大会記録

優勝20009月 シドニーオリンピック 2時間2314秒 = 金メダル・五輪記録

優勝20019月 ベルリンマラソン 2時間1946秒 = 当時の世界最高記録

優勝20029月 ベルリンマラソン 2時間2149秒= マラソン6連覇

2位:200311月 東京国際女子マラソン 2時間2721

優勝200511月 東京国際女子マラソン 2時間2439秒= 2大会ぶりマラソン優勝

3位:200611月 東京国際女子マラソン 2時間3122

⑪ 27位:20083月 名古屋国際女子マラソン = 2時間4418

 

改めてこうしてみると、いかに偉大な戦績かがわかる。

 

2度目のマラソンで日本記録での優勝を皮切りに、3レース目でさらに日本記録を更新。さらに4レース目は大会記録、そして5レース目はオリンピック記録での金メダルと、まさに絶頂である。ここまでで既に位人臣を極めた感があるが、次の6レース目で世界最高記録を叩き出してしまうところが圧巻だ。さらに7レース目で、マラソン6連覇という偉業を成し遂げた。初優勝から実に5年以上、王座に君臨し続けた事になるが、この辺りまでがピークだったのだろう。

 

このように、数字で記録を表してみただけでも高橋選手の凄さがわかろうというものだが、これら総てのレースを殆どリアルタイムで観て来たワタクシなどからすれば、こうした文字や数字以上に高橋選手の偉大さを肌で感じてきた一人である。

 

そんなワタクシだけに

 

「日本の長距離選手では、高橋尚子選手こそ過去の誰よりも、最も実力と才能を備えていた」

 

と思う気持ちは、今でも揺るぎない。最近では、野口みずき選手と比較して「野口の方が上だ」という意見もよく耳にするが、その殆どが野口の全盛期と高橋選手がピークを超えた時との比較でしかなく、両者の全盛期において比較したものを見たことがないのだから、オハナシにならないのである。

 

さらに高橋選手の魅力的なところは、ただ強いだけでなくあの陽気なパーソナリティに見られる、優れた人間性(勿論、実際のところはわからないが、あくまで見える限りでは)も兼ね備えている点だ。

 

陸上選手としては珍しく華があり、その上に弁舌もあの爽やかさだから、ワタクシとしては珍しく殆ど欠点の見当たらない、大変に好感度の高い選手だった。スポーツオタクのワタクシにして、柔道のYAWARA選手とともに長年にわたって「神」のような、別格的な存在であった。

 

なんといっても、彼女の出現によって「マラソンって、こんなにも楽しいものだったのか?」というくらいに、それまでのマラソンの見方が根本的に変わったくらいであるから、彼女には感謝しなければならない。それまでのマラソンといえば、苦痛に歪んだ表情でゴール後には決まって倒れこんでいた増田明美(走る都はるみw)、或いは松野明美に代表されるように「マラソン=苦行」というイメージしかなかった。これが、高橋選手の出現によって「マラソンって、こんなにも楽しいものだったのか?」に180度変わったのだから、視聴者を巻き込んだ大きなパラダイムの転換を齎した。

 

本来なら、難行苦行であるはずの42.195kmを楽しく走るという姿勢は、高橋選手以降は今日まで数々の選手に受け継がれているのを見ても、後続のランナーたちに多大な影響を与えた事は間違いない。

 

高橋選手の戦略も、日本選手としては革新的だった。

 

<これまでの日本の女子マラソンは、有森裕子に代表されるように粘って走り、脱落してきたランナーを抜いていくスタイルが主流だった。バルセロナやアトランタなど、暑い中でのマラソンにはスピードより暑さに耐えられるスタイルが有効だった。ところが、高橋は粘りだけでなく勝負どころを読んで、鋭い切れ味あるスパートをかけるセンスと度胸があった>(これは現在、野口みずきに引き継がれている=某サイトから引用)

 

勿論、これは単に戦略というばかりでなく(巷間言われる通り、たとえ小出氏の戦略であろうとも)、それだけの実力に裏打ちされたものである事は、言うまでもない。全盛期の、あの髪を靡かせながら風を切って走る姿は、誰よりも輝いていて実に颯爽たるものであり、今でも強く脳裏に焼きついて離れない。素人目にも、ロスの少ない効率的な走りなどからも科学的な研究の成果が見られたし、レースの駆け引きなどにも随所に閃きが感じられるのも、また魅力であった。

 

ところで全盛期の高橋選手と言えば、かならず付いて廻るのが小出氏の存在だが、あのような下品で胡散臭い髭オヤジに興味がないワタクシは、小出が「名伯楽」という見方には一貫して同意したことがない。その証拠に高橋選手以降、小出門下から目覚しい成績を残した選手は、ほぼ皆無に等しいのである。

 

小出の指導が、たまたま高橋選手に上手く適合した点はあるかもしれないが、やはりあの輝かしい戦績は高橋選手自身の稀に見る才能と、たゆまぬ日々の努力の結晶であることに間違いがないのである。

 

「小出氏の元を離れてから、落ち目になった」という評価は、極めて近視眼的かつ皮相的な結果論に過ぎず、単に年齢的な限界や会見で語っていたような心労等が重なったのに過ぎない、と思っている。小出は「自分が指導していたら、まだ45年は出来た。まだまだ引退は早い」といったような戯言をほざいていたが、あんなオッサンの出る幕ではないのだ。

 

小出は、指導者の立場としてそう言うのだろうが、小出の元を離れて自力で羽ばたこうとしたのは高橋選手の決断であるし、指導者が選手の頑張りの結果を、自分の功績のようにトクトクと語って見せるのなどは、もっての外である。

 

本人も語っていたが、陸上だけではない今後の人生にとって、この経験は大きなプラスを齎したことだろう。そもそも「オリンピックや世界大会で、金メダルを取るためのサイボーグのような陸上人生」に疑問を感じての、決断だったのかもしれないのだ(高橋選手の功績を語る時に『あれは小出の指導だった』云々の話は、かなりの部分が後知恵的にでっち上げられたものだと、ワタクシはカネガネ疑っている)

 

立場の違うこの議論に解の出ようはずはないが、客観的に見てこれ以上の過剰な期待は酷であり、あのようなボロボロになった姿を見て「まだやれる」というのは、いかにも無情な要求であるとしか言えない。

 

なにしろこれだけ頑張ってきた選手も、珍しいのではないか?

これまで、長きに渡って大衆を楽しませてくれたのだから、これからは好きな事を存分に楽しんでもらいたいものだ。まかり間違っても、客寄せパンだとして三流政治屋の人気取りに踊らされるような事だけは、ない事を祈っている。

2008/10/27

2008グランプリシリーズ観戦記

フィギュアスケートのグランプリシリーズが始まった。緒戦のスケートアメリカでは、予想通り韓国のキムが圧勝。日本勢は中野が2位、安藤は3位に終わった。

 

例によって、試合前までは「4回転ジャンプ」が誇大宣伝されていた安藤は、思った通り4回転を跳びはしなかった。TVの実況では「跳びませんでした」と言っていたが「跳ばなかったのではなく跳べない」のであろうという主張は、これまでワタクシが繰り返してきた通りである。

 

解説者なども「練習では跳べていたのだから、跳ぶ力は充分にある」などと言うが、練習と本番とはまったく別物であり、この両者が同じものであれば、(フィギュアスケート競技に限らず)一流選手の誰もがチャンピオンになれるに違いない(もっとも、この発言をしたのは先輩の荒川だから、リップサービスと取るのが妥当だろうが)

 

「グランプリシリーズは順位がものをいうので、無理をしなかったのだろう」という事だが、一発勝負のオリンピックや世界選手権では、なおさら無理が出来ないのは自明の理であるから、そうなるといつチャレンジするチャンスがあるのだろうか、と疑問に思えてしまう。折角の「誰にも出来ない4回転ジャンプ」であれば消化試合で見せても価値がなく、優勝争いの中で見事決めてみせるのでなければ、切り札と言うに値しない。

 

この日はフリーで目立ったミスもなく、安藤としてはまずまず良い出来に見えたが、それでも中野に逆転を許したことから見ても、基本的な実力が劣っているのだから、派手な一発逆転のアピールに賭けるしかないのである。要するにこれが安藤の実力であり、マスコミが無駄に騒ぎ立てるのは気の毒な面もあるが、スポーツ選手が言い訳や苦労話ばかりが多すぎるのはいかがなものか、とも思えてしまうのである。

 

その安藤を抑えて2位と健闘した中野は、安藤よりも着実に成長しているのではないか。中野は、安藤のようなゴツゴツした無骨さがないし、これも前から繰り返しているように堅実な安定性は感じるのだが、どうもこの選手は華というか存在感が希薄なのである。

 

折角持っている技術力や堅実さを、もっと魅力的にアピールして欲しいと以前から指摘して来たが、やはり何かに欠ける気がする。中野で気になるのは、インタビューでいつも自らの演技に満足しているようなコメントが聞かれることだ。素人に本音をさらけ出す必要はないから、あれは本心ではないのかもしれないが、あのように現状に満足していては上を望むのは難しいと思う。

 

優勝したキムと中野、安藤とは20点以上の大きな差が付いた。SPのキムの得点は、とても転倒した選手とは思えないくらいに非常識に高過ぎるものだったが、それは別としても他の選手とのレベルの違いは、演技開始数秒を見ただけで歴然たるものがあった。

 

個人的には、表情の作り方に品位がないのが好きになれないが、それでも技術、スピード、表現力とどれをとっても素晴らしい事は認めざるを得ず、殆ど欠点らしき欠点は見当たらない。このキムに対抗できるとすれば、やはり浅田真央の名前しか浮かんでこないが、天才・浅田にとってもとてつもない強力なライバルである。

 

余談だが、長洲未来を「天才少女」と持て囃すのは「天才」の大安売りであろう。今後、彼女がどのように化けるかはわからないが、少なくとも同年齢の時の浅田やキムとは、比較の対象になっていないのは明らかだ。

 

さらに余談だが、スケートにはなんの関係のないド素人オッサンの、無駄なハイテンションがうざくて我慢できないのは、ワタクシだけか?

 

最後に、マスコミ同様「おまけ」的な扱いになってしまったが、男子では無名(?)の小塚選手が「グランプリ初制覇」という嬉しいニュースも駆け巡った。

2008/10/21

欠陥だらけのクライマックスシリーズ

セリーグの「クライマックスシリーズ」第1ステージで、2勝1敗で阪神を下した中日が、第2ステージ進出を決めた。「クライマックスシリーズ」という制度のバカさ加減については、これまでにも散々書いてきたが、今年もこの欠陥制度の弊害がもろに出てしまった。

 

今年は開幕から快進撃で、一時はGに13ゲームもの大差を付けながら逆転優勝を許したとはいえ、最後の最後まで優勝争いをした阪神に対し、広島とチマチマと3位争いに終始した挙句、やっとこさ5割に終わったのが中日である。阪神との差は、実に10ゲームも開いた。単純計算では、阪神に11連勝(直接対決で勝ち越しているので、少なくとも10連勝)しなければ中日の勝ちは認められないハズだが、この両チームで「先に2勝した方が勝ち」というのだから、これでは144試合のペナントレースの意味がまったくなくなる。意味がなくなるどころか、144試合もの努力の結晶に泥を塗り、僅か数試合の偶然の結果で総てをひっくり返そうという「悪の制度」としかいいようがない。

 

大の阪神嫌いのワタクシとすれば、憎い藤川がウッズに特大の一発を浴びて敗戦という、これ以上ないような嬉しいパターンを目にしながらも、やはりどうにも釈然としない感は否めない。このような愚かしい制度によって、Gの相手は12ゲームも差の開いた中日に決まった12ゲームも差を付けても、Gに与えられるアドバンテージはたったの「」なのだから、いかに「余興」とはいえ狂気の沙汰としか言いようがない。

 

昨年も同じパターンで、2位の中日に三連敗したのが物語るように、その時の調子や運が大きく作用するのが短期決戦だから、去年の二の舞も充分ありうるから厄介なのだ。それがために、半年間の長いペナントレースという極力運などの要素を排除した真の総合的な実力を競う制度になっているのではないのか?

 

それでなくとも、最後の最後まで熾烈な優勝争いをして消耗度の大きいGに対し、ノンビリ3位争いをしてタナボタのチャンスをものにした気楽さが、中日にはあるだろう。 また、しばらく実戦から離れていたGに対し、第1ステージで調整を済ませた上、勝利で意気上がる中日という、大きなハンデもある。実に、不公平この上ない。

 

そもそも たった6チームしかない日本のプロ野球で、上位3チームがクライマックスシリーズ進出というところからして、明らかに破綻しているのだ。チーム数も全体規模もまったく違うメジャーのマネっこは、いい加減勘弁してくれと言いたい。

 

無論、プロ野球は元々エンターテイメントであるから「ファンを歓ばせる事が第一義」である事に間違いはない。あまつさえ人気凋落が叫ばれて久しい中にあって、苦肉の策として金儲けの余興としてやることに敢えて反対はしないが あくまでペナントレースの延長線上に存在しなければ、まったく意味がない。そうでなければ サッカーの天皇杯のように、ペナントレースとは別に存在するトーナメント形式のお祭りにすべきである。

 

あくまでペナントレースの延長線上でやりたいのであれば、ゲーム差を考慮した適切なハンデを設けるのでなければ、世界の笑いものである(いや、誰もこんなバカに注目してないか)

2008/10/10

帰省

  久しぶりに実家に帰ってきた。

 

1年ぶりだが、田舎の事だから代わり映えのしない長閑な風景が目に飛び込んできたが、実家に帰ってみて驚いた (  ゜ ▽ ゜ ;)エッ!!

 

築ン十年で総てが老朽化していたのはやむなしとはいえ、いつの間にやらリフォームを行っていたらしい。去年は、冷蔵庫と洗濯機が新しいものに変わっていたのに驚いたが、今回は昔ながらの立て付けの悪いガラス窓が近代的なサッシに変わっているし、エアコンもワタクシの家のものよりは遥かに立派かつ、近代的なものに変わっているではないか。

 

外でのご馳走に誘ったものの、すっかり出不精になった親の注文した上寿司をご馳走になってしまった。酒とビールも買い込んでいったものの、これも貰い物の高級ビールが用意してあるという、いつにない歓迎ぶりである。

 

普段は手料理を食べる機会がないからと、夜にはスーパーで買い込んだ特大のアジの開きに野菜炒めや、焼肉用上ロース肉などで母に料理を頼むと、急ごしらえで味噌汁まで作ってくれた。

 

着替えをホテルにおいて来たからと断ったが、強い勧めもあって風呂に入ると、これまた我が家以上の近代的なシステムバスに変貌し、壁まで塗り替えられているではないか。思えば、駅まで迎えに来てくれたオヤジの車も新車だった。鉄筋コンクリートのビルの方も、老朽化から来るひび割れで雨漏りを来たしているらしく、近々大規模なリフォームを行うとの事だった。

 

ところで「実家に帰って、なぜホテルに?」と疑問に思う人がいるかもしれないが、大きな家で部屋は沢山あるものの、殆ど物置か化け物屋敷同然の有り様で、黴臭くて寝る場所がないため自宅近くのホテルに泊まるのである。久しぶりにまともな手料理と、味わい深い味噌汁を堪能してホテルに到着したところである。

 

 今日、東京に戻るつもりだったが、事情あってまだ地元に居座っている。これまで実家に帰るのは、春か秋に京都へ観光に行ったついでだったため、昼過ぎに寄って夕方には帰るという駆け足のスケジュールだったから、観光シーズンから外れた今回くらいは、のんびりするのもいいんじゃないか、と気が変わったのだった。実は来る前に、帰りに熱海の温泉にでも1泊しようと旅館を物色していたものの、3連休とあってめぼしいホテルはみな予約がいっぱいだった、という裏事情もあるが。

 

朝食はホテルのバイキングで済ませたが、前日にスーパーで買い込んできたロースの焼肉とシーフード炒め、そして刺身を肴に用意された極上ビール(ロング)を3本空ける。

 

「ちょうど米を切らしていてね・・・明日には買いに行くけど」

 

と前日の残りの寿司と、インスタントのご飯で済ませようとしていた母だったが

 

「炊いたご飯が食べたかったな・・・」

 

と独り言を言ったところ、早速オヤジがスーパーで「あきたこまち」を買ってきてくれる念の入りようだ。もちろん「赤だし汁」は必須で、この日は玉ねぎとワカメのダシがよく効いた極上品である。

 

ホテルより気持ちのよかった実家の新しい風呂にも、この日はじっくり入った。こうしていると、田舎特有のゆったりとした長閑な時間の流れに身を任せているのも、案外と魅力的に感じるから不思議なものだ。

 

明日は、突然舞い込んできた気の重い任務が待っているが、昨日今日の2日間思わぬ歓待を受け心身ともにリフレッシュさせてもらった。普段、疎遠だからこそわかる、ありがたみなのか。

2008/10/08

20歳過ぎればただの変人

久しぶりに実家に帰り、母と話をしていると

 

「折角だし、みーを呼んでみる?」

 

と母から持ちかけられた。

 

みーとは、姉の事だ。

 

「もう長い事、会ってないでしょ?」

 

といわれた。考えてみれば、もうどのくらい会ってなかったか、直ぐに解が浮かんでこないくらいである。

 

以前に住んでいた住居は、同じ県内だったのでちょくちょく実家に顔を出していたが、2004年に東京に移住してからは実家にもあまり帰っていなかった。

 

東京での生活が落ち着いて、ようやく帰省したのは上京およそ2年後の2006年春であり、次が2007年の秋。いずれも「帰省」というよりは、春の花見と秋の紅葉見物で京都に行ったついでに寄っただけだから、行きと帰りの3時間程度だけの滞在という慌しさだった。

 

それから、一年。たまたま時間的な余裕が出来た事もあり、また歳を取った両親の事も気になるため、3度目の帰省をしたのだ。実のところ、前に済んでいた住居にそのまま置いてきているものが沢山あるが、ClassicCD数百枚もそうだった。上京後は、マンション住まいで部屋が狭い事もあり、CDまでは手が廻らなかった。

 

上京後、4年の間に購入したCDもかなり溜まってきたが、以前に買ったものを無性に聴きたくなる時があり、かといって同じものを何枚も買うのも業腹なので、一度泊りがけで帰省し、CDのデータをPCに移して持ち帰ろうと目論んでいた。

 

そうした目論見を抱えての帰省予定であり、12日なら100枚以上はデータの移行も出来るだろう、と目算していた。ただし実家にも元の住居にも、ワタクシの寝る場所がなかった(正確には元いた場所はあるが、長年人が住んでいないため黴臭く、とても居られたものではなかった)ため、実家に近いホテルに泊まる算段だった。

 

そうして、元の住居から持ってきたCDを実家でPCのデータの移行をしながら、母と話していた時に出たのが冒頭の会話だった。

 

「あれであの子も、アンタのことが気になるらしくて

 

『にゃべは、どーなった?』

 

と、時々聞かれるんだよ。一回、電話でも話したらどう?」

 

と持ちかけられた。結婚をして男児2人を産んだ話は聞いていたし、上の子がまだ赤ん坊の頃に少しばかり遊んだ記憶があるが、下の子は殆ど記憶にない。あの上の赤ん坊がもう小学生だというから、10年くらいは会ってないのだろう。

 

「どうする?

電話してみようか?」

 

と、母に問いかけられた。

 

「うん・・・まあ、どっちでもえーけど・・・」

 

正直、姉といっても元々たいした付き合いがあった訳ではないし、特に懐かしいという感情もなかった。子供が苦手だから、子連れでやってくると面倒くさいな、と思ったくらいである。

 

そう言おうとしたところで、母がすでに電話機を取り上げていたが、幸か不幸か留守のようだった。

 

その日は土曜日で

 

「あれは休みの日は、いつも居ないんだよ・・・よー出かけてるみたいだよ」

 

と母が言った。

 

先にも書いたように、姉に対して特に懐かしいという感情はなかったが、ちょうどこの時、上の姉が大病で入院をしていて「義理でも見舞いに行ってくれ」と両親から頼まれていた。

 

それはさておき、夜になって気紛れを起こし姉に電話をしてみようという気になったのは、姉が毎週のように病院に行っているという事だから、最も事情をよく知っていると思ったからである。

 

こうして母親から聞いた姉の携帯電話に、初めて掛ける事になった。

 

「誰かわかるかー?」

 

「おー。珍しい・・・」

 

よく憶えていたなと思ったが、後で聞いたところによるとこちらの携帯番号を登録してあるらしかったから、声を聞く前からわかっていたのだろう。ひと通り聞くことを聞いた後は、久しぶりということもあって世間話となったのは、自然な成り行きだった。

 

「で、アンタは結婚はせんの?」

 

「うーん・・・特に考えてないけど・・・そーいやそっちの子も、もう随分大きくなった?」

 

「小学生だわ。上の子は、もう直ぐ中学だし。早いでしょう」

 

思わぬ話題が出て、仰天したのはこの時だった。

 

「そうそう、子供の親にアンタの同級生が多いんだってば。

 

『にゃべちゃんの、お姉さんですよねー?』

 

とか言われてさー」

 

「えー。『B小』(自分や姉の母校)なのか・・・?」

 

てっきり、隣の学区の新しい学校だと思い込んでいただけに、これはまったく意外だった。と言うよりは当たり前だが、言われるまでそのような事はまったく、考えた事もなかった。

 

「『B小』だよ。

『にゃべちゃんは、今どうしてるんですかー?』

とか聞かれるんだって。知らんわー、そんなこと」

 

「知るわけねーよな・・・」

 

「『なんかよく知らないけど、東京でコンピューター関係の仕事をしてるみたいだよ。 この前までは政府機関とか、Nの研究所とかなんとかに行ってたと(母から)聞いたけど・・・』」

 

というと

 

「えー!

政府機関にN研究所だって・・・やっぱ相変わらず、賢いんだ・・・」

 

と感心していたとか。

 

小・中学生時代は『神童』で通っていただけに、依然として古ぼけた「神童」のイメージが根強く残っているらしいのは厄介だ。

 

「それどころか、相変わらず変人ぶりで・・・とは言わんかったけど。しかし、こっちは名前聞いても全然知らんし、参るよ。元々、知らん上に、みんな苗字も変わっとるしで余計わからんわ。参った参った・・・」

 

などとぼやいていた。

 

「実際、こっちも何しとるのかよーわからんし・・・」

 

「最近は(東京で)NやD社の基盤をやってるが・・・」

 

「無駄無駄。んな事いっても誰も理解できんよー、こんな田舎者が。私だって「キバン」とか言われても、サッパリわからんわ・・・」

 

実際、田舎の事だから皆地元か名古屋の大学を出たところで、直ぐに地元の企業に就職するのが普通で、名古屋の企業に勤めるくらいであれば「エリート視」されるような土地柄である(大部分はT社の下請け孫請けか、地元の製造メーカー)

 

確かに田舎にあっては、東京などは「外国」のようなものなのだ。

阿部野橋

 <区名や町名が「阿倍野」であるのに、駅名は「阿部野」と異なっている。阿倍野区内には阿部野神社があり、こちらの表記の方が古いらしい。

1923年(大正12年)の開業当初は大阪天王寺駅と称していたが、早くも翌1924年に大阪阿部野橋駅へと改称されている>

<案内表示や車両の方向幕などは、しばしば「あべの橋駅」と略記・仮名混じりで表記される(16000系特急車の前サボでは、さらに略して「あべの」のみと表示されていた)

これは20043月までは「あべの橋」と称されていたためで、この年の(近鉄では2006年まではダイヤ「改正」と表現していなかったが、20073月度の変更において、初めて「改正」と表現した)から、駅構内の看板がすべて「大阪阿部野橋」に架け替えられている。

また、それまでは車内アナウンスでも「次は、あべの橋」となっていたが、これを境に「次は、大阪阿部野橋」と変わっている。現在、順次電車の行先案内表示も「大阪阿部野橋」に書き換えている>

<なお近鉄では、同時期からそれまで慣例化していた旧国名を省略した駅名表記を順次、旧国名を併記した正式な駅名表記に改める(例:「西大寺」→「大和西大寺」)ようになっており、その一環と見られる。因みに、大阪市営バスは現在でも「あべの橋」(正式には「阿倍野橋」)を停留所名としている。駅前の谷町筋がJR線をオーバークロスする橋の欄干には「あべのばし」と掘り込まれている>
出典Wikipedia

 JRの「天王寺」と近鉄の「阿部野橋」の関係は、同様のJRの「大阪」駅と阪急・阪神・地下鉄の「梅田」の関係に似ていて、ワタクシも最初のうちは戸惑ったが、慣れないとかなりややこしい。もっとも前者の場合は、JR隣接駅の「北新地」を含めた一体が「キタ」と称されるターミナルになっているだけに余計にややこしいが、この辺りにまで踏み込むとわけがわからなくなってしまうため「阿部野橋」に話を戻す。

では、この名の由来はなんなのか?

<町名は、阿倍野街道(熊野街道の一部)に沿う町筋であることと、旧天王寺村時代の大字の阿倍野の中央部を南北に通じる街区である事に由来するが、阿倍野そのものの地名起源には、諸説がある。有力なのは、孝元天皇の皇子大彦命を祖する阿倍氏という豪族が、この周辺地域に居住したとする説である。阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)などの著名な人物の存在も知られ、阿倍野の名が浮かび出た。

異説に村岡良弼・吉田東伍両博士の餘戸(あまべ)郷の「ま」が省略されて「あべ」になったという説、また万葉集・夫木集にある阿倍島説、他に痾免寺説や安倍晴明・阿倍王子などに由来する説、など数多くある>

<阿倍野の由来はたくさんあり、万葉集の山辺赤人からという説や、古地名の「アマベ」という説などもあるが、昔、この辺に住んでいた「阿倍氏」の名が由来となった説が強い>

とのことであるが、なにやら益々混迷を深める結果になったような。