2015/04/30

神世七代『古事記傳』



神代一之巻【神世七代の段】 本居宣長訳(一部、編集)
獨神(ひとりがみ)云々。書紀は獨神と女男の偶神を分け、ここまでを一段としたが【書紀には「凡三神牟乾道獨化、所以成2此純男1(すべてみはしらのかみいます。アメのみちヒトリなす。このゆえに、このオトコのカギリをなせり。) 
口語訳:この三柱の神は乾(天)道が単独で生んだので、すべてただ男神だけであった」とあるが、古い書物であればこの記のように「此三柱神者獨神成坐也」とあるはずなのに、例によって撰者が、強いて漢籍めかそうと潤色を加えて作文したものである。至ってうるさい語である。】

この記は、神世七代というのを一段としており、ここはすぐ次に続けている。

口語訳:次に生まれた神は宇比地邇の神、次にその妹、須比智邇の神。次に角杙の神、次にその妹、活杙の神。次に意富斗能地の神、次にその妹、大斗乃辨の神、次に淤母陀琉の神、次にその妹、阿夜訶志古泥の神。次に伊耶那岐の神、次にその妹、伊耶那美の神。こうして次々に神が生まれた。以上、国之常立の神から伊耶那美の神までをあわせて神世七代と言う。
最初の二柱の神は独神だったので、一柱で一代と数える。それに次ぐ十柱の神は、それぞれ女男の神が二柱ずつ生まれたので、二柱を一代に数える。宇比地邇神、次妹須比智邇神。書紀では埿土煮尊、沙土煮尊と書き「埿土、此云2于毘尼1、沙土、此云2須毘尼1」という訓注がある。【書紀では「毘」の字が清音濁音両方に用いられている。この訓注によって「ウヒジ(現代仮名遣いではういじ)」を「うびじ」と読んではならない。一般に「連便」によって、下の音を濁ることはよくあるが、その言葉にすでに濁音があれば、頭の音は濁らない。ここは「ひじ」の下が「じ」という濁音なので「ひ」は清音である。】

これによると「」はである。【ウイ(泥の下に土)の字は泥であると注されている。】後世の歌に、泥を「うき」と言った例がある。これだ。【「う」と言うのは「うき」の「き」を省いて言うのか、あるいは「う」を元々「うき」と言うのか分からない。】「」は土と水が分かれたのを言う。だから「埿土」とは、かの「浮き脂のようなもの」が海水と土と混ざってまだ分かれない状態【水と土とが混ざったのを泥という。】「沙土」とは海水と土が分かれた状態を言う。【「沙(すな)」の字を使ったのは、この字が「水のほとりの地」と注されているので、その意味を取ったのだと思われる。詩経の大雅に「鳧鷖在レ沙(カモやカモメが沙にいる)」というのがそうだ。「」の字にもその意味があり、もと同言である。ただし、これらは水を離れて乾いた土のことで、ここの神名の「沙土」は、まだ海水の中にありながら分かれたのを言うようだ。和名抄では「聲類に砂は水中の細礫(石粒)とあり、和名『須奈古』(すなご)」と書かれていて、水中にありながらも分かれたのを「すな」と言う。砂と沙は同じ。また須奈古の「須」は、須比智邇の須と共通している。】「邇」は豊雲野の「野」に通(かよ)って沼の意である。【「沙土」は海水と土が分かれた状態だが、まだ水の中にあるので大雑把に言うとこれも沼だ。】また書紀に、この二柱の神の「煮」の字は「根」とも言うとある。【「根」なら、「訶志古泥(かしこね)」の「泥」と同じだ。】

ところが師の説では『宇は「浮(うき)」、須は「沈(しず)」【「しず」は「す」に縮まる。】「比地」は「泥(ひじ)」だ。』とある。この解釈も悪くない。【これは、あの一つに混合した泥のようなものが徐々に分かれて、一部は浮かび、一部は沈み始めたのを言う。浮かんだ泥は浮かび散って海になり、沈む泥は凝り固まって国土になる。】この場合「邇」を「土」の意味として【「に」は土(はに)の古名である。粘りのある土を「埴(はに)」、赤い土を「赭(そおに)」、青い土を「青丹(あおに)」というたぐいの例がたくさんある。】「比地邇」は「泥土(ひじに)」とも考えられる。そもそも書紀の字は、師の説と「ひじ」の意味が合致しない。書紀は「土(ひじ)」と書き、「土形(ひじかた)」、「築墻(つきひじ)」などの「ひじ」で土の総称である。師の説では土と水が混じっていて「泥」の字の意味であり、和名抄に『泥は和名「ひじりこ」、一名「古比千(コヒヂ)」』とあり、【後の歌で、「恋路」に掛けて使った例が多い。】俗に「どろ」と言う。
この二説、どちらか一方には決めかねる。


2015/04/28

神世七代(その1)御復習い


●国之常立神
『古事記』では「国之常立神」、『日本書紀』では「国常立尊」と表記されている。

別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)

神名の「クニノトコタチ」は、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、日本国が永久に立ち続けるの意とする説など諸説ある。

天地開闢の際に出現した神である。

造化三神によってなされた宇宙だが、まだ混沌としていて天も地もハッキリしない。

そこに現れたのが国之常立神で、この神によって混沌としたドロドロとした泥土を集め、大地がなされた。

記紀には「泥の中から生えた葦のような姿」と記載される。

常立の「」は、元は「」で「大地」を表す。

大地の石のことを「常磐」、常には「永遠」という意味合いがあり、よって「」という字が当てられた。

タチは「煙が立つ」というように「姿の見えないものが表れる」という意味があり、その後「しっかりと立つ」という意味になった。

よって「常立」は「大地が成る」、「大地が表れる」という意味を持つ。

神世七代で初登場。

前段の特別な五柱の「別天神」の天之常立神とは、本来はワンセットだったと推測される。

『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。

他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。

『古事記』においては、神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり姿を現さなかったと記される。

『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

『日本書紀』では最初に『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた

伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。

その流れを汲む教派神道諸派でも、国之常立神を重要な神としている。

古事記では「ウマシアシカビヒコヂ」→「アメノトコタチ」→「ク二ノトコタチ」→「トヨクモ」の順で生まれる。

これらの神が生まれた順番に偉いというわけではないが、古代日本人にとって「葦の生命力」、「天」、「地」、「雲」が特別な意味を持っていたと推測できる

●豊雲野神
豊雲野神は古事記に登場し「雲を表している」以上の情報はないが、日本書紀に登場する「豊国主尊」と同一神と言われる。

トヨ」+「クモ」で「豊かな雲」、雲は雨を齎し農業にとって大事な存在である。

もちろん太陽を隠すこともあることから、怖い存在でもあるかもしれない。  

日本人は、怖いものこそしっかりと祀るのである。

※豊国主尊(別名)
『古事記』では神代七代の二番目、国之常立神の次に化生したとしている。  

国之常立神と同じく独神であり、すぐに身を隠したとある。

『日本書紀』本文では、天地開闢の後、国常立尊、国狭槌尊の次の三番目に豊斟渟尊が化生したとしており、これらの三柱の神は男神であると記している。  

第一の一書では、国常立尊・国狭槌尊の次の三番目に化生した神を豊国主尊(とよくにぬしのみこと)とし、別名として豊組野尊(とよくむののみこと)、豊香節野尊(とよかぶののみこと)、浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと)、豊国野尊(とよくにののみこと)、豊齧野尊(とよかぶののみこと)、葉木国野尊(はこくにののみこと)、見野尊(みののみこと)であると記している。  

」がつく名前が多く、豊雲野神・豊斟渟尊と同一神格と考えられている。   

第二から第六の一書には、同一神とみられる神名は登場しない。

『古事記』、『日本書紀』とも、これ以降、豊雲野神が神話に登場することはない。

豊国主神は「大国主神」と名前の構成が同じである。

大国主神と言えば「出雲」、すなわち「」に関係し、ここから「」=「豊かな国」という式が成り立つ。

人が住み、そこで飯炊きをすれば煙が上り、それが「」と「豊かな国」を結びつけるものだった、或いは鉄の精製で大量の木を燃やす際に、立ち上る煙を雲と見たのかもしれない。
Wikipedia引用