2007/09/26

ちゃんぽんの由来(後編)

 <この時期の華僑や留学生にとっては貧しい時代であり、日々の食事が最大の関心事であった。

(ご飯を食べたか?)』と挨拶されて『していない』と答えると『では、うちで食べていきなさい』と言っていたのかもしれない。この挨拶言葉の『吃飯』が、長崎人の耳にふれるようになり『支那うどん』と同義語になり、ついには『ちゃんぽん』になったのでないか。つまり華僑や留学生の会話の中に、活きた言葉として生まれたものと考えられる。

また、江戸時代すでに『チャンポン』という言葉があったという説。中国の鉦(かね)のチャンと、日本の鼓(つづみ)のポンを合わせて『ちゃんぽん』と言った。異質の音が混合した造語であり『支那うどん』と同義語になり『ちゃんぽん』と呼ばれるようになった、と言う説もある。

因みに199710月に四海樓の三代目当主とその長男が、初代平順の生まれた故郷を訪ねた際に『ちゃんぽん』の語源と考えられる『吃飯(福建語でシャポン、又はセッポンと発音する)』を聞く事ができ、確認している>

<中国語では「ごはんですよ」、「さあ、めしあがれ」に当たる言葉は「喫飯」です。これを福建語では、なんと発音するのでしょうか。残念ながら私は標準語しか知りませんので、同僚の福建省出身である高山乾忠先生に主要都市別に(喫飯)の発音をしていただき、それをカタカナで表記してみました。

福建省東部地域都市・・・福州「シェポン」、福清「シャポン」
福建省南部地域都市・・・廈門「ヂャメー」、泉州「ヂャポン」

どうですか。「チャンポン」という音に、よく似ているでしょう。チャンポンが誕生した頃、長崎ではすでに福建省東部地域出身の福清人が多く在住するようになっていましたから、客をもてなす時に中国語で「シャボン」に近い発音で「ごはんですよ」とか「さあ、めしあがれ」と言っていた事に違いありません。

 <また、中国人同士の日常の挨拶も「ニーハオ」ではなく「喫飯了」(ご飯にしよう)と声をかけ合いますので、新地、籠町、銅座あたりでは「シャボン」に近い発音をよく耳にした人が多かったと思われます。

では、この「シャボン」が、どうして「チャンポン」に聞こえるのでしょうか。 福建語は、そもそも中国の方言の中でも極めて発音が難しいものの一つです。 ここで私が書いた「シャボン」は、喫飯の発音を無理にカナに書き表したにすぎず、抑揚を含めた本当の発音は到底表現できないからで、日本人(長崎の人)に「チャンポン」に聞こえたとしても、なんら不思議ではありません。まして、長崎の夏の風物詩である「精霊流し」のドラやカネの音を「チンコン・チャンコン」と表現するくらいですから「シャボン」が訛って「チャンポン」と言われるようになったというのは、満更こじつけだとは思いません。

明治末の「支那饂飩」の登場から十数年後の大正時代には、すでに「チャンポン」という名が定着していました。確認しておきたい事は「チャンポン」とは「挨拶の言葉」もしくは「ごはんですよ」とか「さあ、めしあがれ」という意味であり、けっして『ごちゃまぜ』の意味ではない、ということです。

「チャンポン」と言って、まんじゅうや、せんべい、すし、なにを出しても構わなかったのです。それがたまたま、ありあわせの材料で汁ソバを出したために、具が多い中国風スープうどんのような物と誤解してしまったわけです>

<先ず、福建語の挨拶「吃飯」若しくは「吃飯了」(直訳するなら「飯は食ったか?」)から来ているとの説、同じく福建語の「混ぜる」を意味する語から来ているとする説(北京語にはchānの読みで「混ぜる」という字 = = が有る)、或いはポルトガル語若しくはオランダ語の「混ぜる」を意味する「チャンポン」という動詞から、という説が存在する>
※長崎ウエスレアン大学・愈教授の論文の一部抜粋

穴切(後編)


 穴切神社には、次のような言い伝えがあるという。

<昔、大半が湖だった甲府の地を大己貴命(おおなむちのみこと)が切り開いて水を通し、耕作ができる土地にした。その後、大己貴命は穴切大神と呼ばれるようになった。穴切神社には、大己貴命が祀られている。

「湖水を落として盆地を開拓した話は全国各地にあり、甲府盆地のこの説話もその代表的な説話の一つ」とある。周りを囲まれていた土地の一部を切り開いたために、穴切となったというわけだ>

<甲府の穴切も、その地名は地形の特徴に由来すると考えられる。山に囲まれた盆地で一方が切れている事から、穴切という地名がついたのではないか。  他にも、穴切という地名があるか調べてみた。

『新日本地名索引 五十音篇』をめくってみる。『新日本地名索引』は「国土地理院発行の25千分の1地形図に現れる地名の位置を経緯度で示した索引」  である。

この資料によると、穴切という地名は全国に4つある。桐生市の穴切の他には福島県会津若松市、静岡県東伊豆町、群馬県月夜野町にある。これらはあくまで、国土地理院の地形図に記載されているものを拾っただけで、おそらく他にもあるだろう。それぞれの穴切の地形を地形図で調べてみた(東伊豆の穴切は、穴切湾としての記載だったので未確認)

会津若松市の穴切については、地形図を見ただけでは地名の由来まではわからない。山に囲まれた、盆地状の土地の一部である事は確かである。一方の月夜野町の方は、地名の由来がその地形から発生しているのが、よくわかる。三方を山に囲まれた地形で南側の一方だけが、ちょうど口が開いたように切れている。  山塊の一部がちょっとだけつまみ取られ、穴が開いた様な形状になっている。「あなぎれ」という、地名のイメージそのまま地形である>

<以上、穴切という地名について色々みてきたが、結論を言うと穴切とは地形を表す言葉である。地名の起源は、その地形を由来とするものが最も多い。昔の人々は、かなり詳細な地形の特徴まで捉えて、特定の場所を言い表した。地形の特徴をいえば、その地域の人々全てがその場所を特定しうるような名前をつけた。それが後年、地名として定着するのである。

穴切」という地名も、その地形の特徴に由来したものである。桐生の穴切は地形図を見れば明らかなように、細長い穴状の地形から発生している>

 <梅田四丁目の一角に「穴切」と呼ばれる地域があります。ここは、昔「穴切れ」と呼ばれていた事もあります。「穴切れ」とは変わった地名ですが、それは次の事に由来するのです。

昔の事でした。とある合戦に敗れ、下野(栃木県)の山野を追っ手の目を気にしながら命懸けで逃げ回り、さ迷い続けた一人の落人(おちうど・合戦に敗れた武士)が、やっとの思いで貝沢(現在の梅田町4丁目皆沢)に辿り着きました。

春の盛りもすでに過ぎ去った、初夏のころでした。貝沢に辿り着きはしたものの、落人にはそこがどこのなんという土地であるのかは、知る由もありませんでした。ただただ、もう追っ手に脅える心配がなくなったことを知り、安堵するのみでした。

その安堵感は反面、落人の体の内に長い間に渡った疲労と心労とを、ドッと噴き出させました。それでも、その場に身を投げ出した気だるさの中で、落人はこれからの我が身の振り方を案じ続けました。

とにかく

「ここは、どこなのか。なんとか上野の国(群馬県)へ、逃れる術はないか」ということが、気がかりでした。

そんな思案を巡らせながら、何気なく見つめた目の前のガサヤブを落人は凝視してしまいました。なんと、けもの道(けものたちの通り道)らしい小道が、雑木の間を奥へ奥へと向かっていたからです。しかも木々の緑の重なりが、あたかも洞穴の入口のように口を広げ、まるで落人を招き入れるかの様相を呈しているのです。

「この道の先が、あるいは上野の国?」落人は、ふと、そう思いました。でも行く手に、どんな危険が待ち受けているのかは、落人自身にも想像さえつきません。が、敗戦で一度は死を覚悟したほどの落人です。

「この道の先が、どこであろうとかまわない。上野の国であることを信じて、とにかく辿ってみよう」

 落人はすぐさま、ケモノ道をたどる決意をしました。疲れた体内に、活力・気力が戻るのを感じた落人は、躊躇う事なくケモノ道の通じる樹間に足を踏み入れました。消しながら、歩を進めることしばし・・・・・突然、眼前が明るく開けて長閑な農村の風景が、落人の目に飛び込んで来たのです。

幸運にも、そこはまさしく逃亡の日々、落人が願望し続けて来た上野の国だったのです。ガサヤブの中のケモノ道が、夢にまで見た上野の国へと落人を導いてくれたのです。まさに神仏の加護以外の、なにものでもありませんでした。

樹間の穴、緑のトンネルが突然に切れて、敗戦の地「下野」から安息の地「上野」へ・・・・・この落人の話によって、この土地はやがて『穴切れ』の名で呼ばれるようになりました。そして、幾星霜の後に『穴切』という、現在の地名に改められたのです>

<かつては、長閑な農村地帯だった穴切地区。菱村から、この穴切の地へと雑草を生い茂らせて続いていた細い生活の道は先年、広い舗装道路に拡幅改良されました。

桐生川を跨いでいた郷愁の木橋「穴切橋」も、デラックスな永久橋に架け替えられました。この穴切地区の変容の蔭に、地名の由来を伝える素晴らしい「落人伝説」は、残念ながら遥か歴史の彼方へと押しやられてしまいました。

今は里人のお茶飲み話にさえ登場するチャンスが、本当に少なくなってしまったようです。が、幸いな事に『ふるさと創生運動』の一環として先年、地区内の小道に「穴切通り」の愛称が贈られました。この愛称が、あるいは「落人伝説と地名の由来」を、子々孫々へ伝える掛け橋になってくれるのでは・・・そんな仄かな期待が、寄せられ始めて来ているのです。>

2007/09/22

財団法人・日本大バカモノ協会

  骨折と偽って(?)巡業を休みながら、無断帰国のモンゴルでサッカーに興じていた疑惑の横綱・朝青龍が、横審・相撲協会公認でモンゴルで「療養」しているという。

 

「療養」といえば聞こえはいいが、報道によると身内の息の掛かった保養地の温泉で寛いだり、乗馬を楽しんでいると言うではないか。これが「療養」とは「へそで茶を沸かす」とは、この事だ。誰が考えても、悠々自適に遊んでいるとしか思えない。温泉治療や湯治という考えもあるだろうが、それならば温泉大国・日本で充分に事は足りるはずだから、わざわざマスコミの目を逃れてモンゴルでというのは、絶対的に意味不明なのである。

 

そもそも何故、このようなバカゲタ事態になってしまったのか?

巡業参加は力士に課された義務であり、本場所同様に大事な位置づけを持っているのに、仮病を使ってまで足蹴にしてサボったのが朝青龍である。その朝青龍に、相撲協会は「帰国、温泉、乗馬」などの遊興を公認したのだから、恐れ入った。しかも、皆が体を張って汗水垂らして頑張っている、巡業や本場所の行われている最中に、そうして悠々と遊んでいるというのに、7割もの給料が保証されているのである。

 

これが全力士の規範となるべき、横綱に対する「ペナルティ」だというのだから、狂気の沙汰としか言いようがない。なぜ、数え切れないくらいの前科のある狼藉者・朝青龍だけが、常に特別扱いを許されるのか?

 

他の力士であれば、国内であろうとたとえ所属部屋の近所に実家があろうと、自由な帰省などは絶対に許可されないはずなのであり、また場所中に温泉や乗馬などが、許されるわけのあろうはずがないのだ。これでは、結局「強ければ、なにをやっても許されるのだ」という事になってしまう。

 

確かに「横綱・白鵬」とはいえど、現状で朝青龍とはまだまだ歴然たる力の差はあるくらいにバカ強い事は認めるが、実際に朝青龍のこれまでの言動もそうした甘えに支配されてのものであろうし、これからも益々拍車が掛かる事になっていくのだろう。

 

朝青龍の行動は、サラリーマンで言えば大事な出張を仮病を使ってサボりながら、その足で旅行に行っていたようなものである。そのような怪しからんヤツに、例外的に社長通達で温泉旅行や乗馬を許可したというのであれば、このような支離滅裂な通達を発する社長が存在する会社の信頼性は、瓦解するのである。

 

こう書いているうちに相撲協会全体が、管理責任を問われている親方のアサシオ豚と、結局は同じ穴のムジナに過ぎない事がよくわかった。
※同じモンゴル人横綱・白鵬の礼儀正しさ、土俵上での立ち居振る舞いの美しさは素晴らしい。

2007/09/16

冒険者

 8月末で前の現場での仕事を終え、9月からこっそり転職活動をしていたが、今週から新しい現場に入る事なった。

ちょうどタイミング的に四半期の節目を迎える事もあって、今回は非常にスムーズに活動が進み5つくらいのお誘い(正社員へのお誘いも含め)が掛かった。中には、どうしても今すぐに交代要員が必要との事情により、設定単価を遥かに上回るような、これまで最高値がついたオファーもあったが、以前から繰り返しているように、ワタクシの中でのプライオリティの第一は、あくまで「内容重視」なのである。その尺度に照らして、この社内作業の案件については、辞退を申し入れた。

さらに某大手損保からもオファーがあり、こちらも条件的にはやはり設定単価を、5~10万近く上回っていた。内容的には、それなりに方向性に近いものであり、以前に付き合いのある会社から「是非とも」と頼まれはしたが、なにせタイミングが悪かった。そんな中で遂に、世界規模の大プロジェクトへの参入が決定した。

世界規模の大プロジェクト」とは、NGNNext Generation Networkであり、一般にはまだ馴染みは薄いだろうが業界では知らぬものとてなく、エンジニアなら誰もが憧れを持つような過去最大のプロジェクトなのである。

実はNGNに関しては、準備期間だった前回の転職活動の際にも、元請けの某大手企業の面接までクリアしながら最後のNxx研究所でNGを出されたし、また少し前にも書類審査前の打診でNcomからあえなく門前払いを喰らっていたところだった。それだけに、最後の最後でN系列の別会社から「是非とも」とお誘いを受けて、リベンジに燃えるワタクシが受けないはずはない。しかも今回は、研究所のさらに上の階層に当たるようなポジションなのである。

NGNは、あれだけの大きなプロジェクトだから、幾つもの企業が参画して担当が分けられている。そんな中でも今回の参入はNGNの土台となる最もコアの部分であり、基盤設計からの一連の工程を自己完結的に行っていくという最も難易度の高い、したがってその分だけ技術者としてはやり甲斐に満ちた魅力的な仕事になるのは間違いない。

過去のどの現場よりも難易度が最も高い事は間違いなく、またこれまでの経験値からしても未知の部分の方が遥かに多い世界だけに、どんな事になるのか今回に関しては自分でもまったく想像がつかない。恐らくは業界超トップレベルの技術集団の中で、キャリア10年のワタクシがどれだけ頑張っていけるか。  相手は超シビアなNxxだけに、過去の経験に照らして或いは一週間と持たずにNGとなるかもしれないが、こんなチャンスはまたとないのだから、チャレンジしてみる価値はあると思っている(=´ω`=y─┛~~