2013/12/31

2013大晦日

「大晦日=大掃除」とは一体、誰が決めたのだろう?

実際には誰が決めたわけでもないのだろうが、やはり「元旦くらいは綺麗に迎えたい」  のだという考えは、我々日本人の遺伝子に刷り込まれた発想なのかもしれない。特に、普段の掃除が精々月イチの掃除機掛けでお茶を濁しているような自分のような者は  「大晦日くらいは、ちゃんと掃除をせねば!」などという強迫観念にかられてしまうのである。

 

カレンダーに恵まれた今年は「年末年始9連休」というのをいいことに、前日までは遊び呆けてきたが、遂にその日(大晦日)がやって来た。かくなる上は、覚悟を決めるしかない。こう見えても、やる時はしっかりやるのだ!

 

と、買い出しを終えた午後2時から、徐に大掃除を開始した。まずはラグを新しいのに変えると、古いカーペットに蓄積されているであろう埃の堆積もろとも「2013年」に別れを告げる。次いでゴミの大量生産をしつつ、キッチン、エアコンのフィルター類は全て水洗いし、返す刀で無謀にも汚れの著しい窓拭きにも着手した。

 

かつて実家にいたころ、母が口癖のように「天気だけは、どんなにお金持ちでも偉い人でもどーにもならん。お日様は貧乏人も金持ちも平等だよ!」とか「埃が溜まるくらいにお金が溜まったらねー」などと嘆息していたが、確かにどんな金持にも偉(そうな)人にも、容赦なく積もってくるのは埃なのである(「誇り」は、まったく別問題である)

 

窓ガラスの汚れは言うに及ばずだが恐るべきは網戸と桟で、チャイナ辺りのからの有毒物質が飛来したのかと疑うほど、掃除シートが真っ黒になったのに恐怖すら感じた。 特に窓枠に積もるように溜まっている、黒い砂のような物質はなんなのだろう?

なにはともあれ数年ぶりに窓拭きも完了し、なんとか綺麗にはなった(と信じる)

人間、集中すればそれなりの成果が出るもので、2時間集中して取り組んだ掃除の成果は「自分を褒めてやりたい」という、どこかで聞いたような陳腐なセリフが出そうになったほどである。

 

ともあれ今年を振り返ってみると、仕事面では今年も大満足というには程遠かったものの、まずまず大過なく過ごせたし、また風邪以外には大きな病気もなく過ごせたのは幸いだったというべきだろう。早いもので、気付けば上京してちょうど10回目の年末年始を迎えることになったが、2014年は念願の引っ越しなどさらに激変の年になることは間違いなく、充実した人生を追求していきたいものである。

2013/12/24

淡路島

 記紀の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島であるとされる。『古事記』では「淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)」と書かれ『日本書紀』では「淡路洲」と書かれる。「阿波への道」が語源と言われることが多いが『古事記』、『日本書紀』で最初にできた国が淡路島とあり矛盾する。

 

」という漢字は「淡海(近江)」、「淡河」、「淡谷」など、自然を表す字と組み合わされることが多い。「路」や「道」は現代で言うところの「地」であったと考えられ、最初に国として完成することができた尊い土地という意味で「淡路(淡道)」と名付けられたものと思われる。古代から平安時代まで「御食国(みけつくに)」として、皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされる。

 

『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。江戸時代には、徳島藩の知行地となった。天明2年(1782年)には、島内最大の百姓一揆(強訴)である「縄騒動」が起こっている。広田宮村の才蔵らが先導、騒動は暴力事件に至らず役人の罷免で収束したが、首謀者は強訴の責任を取らされて処刑された。明治維新期の廃藩置県によって徳島藩は名東県に改組されたが、庚午事変(稲田騒動)が遠因となって1876年(明治9年)821日に名東県が分割されると、淡路島は兵庫県に編入された。以来、近畿地方の一角として発展している。

 

淡路島の由来は「阿波」路島、つまり阿波への路という説と、日本で最初に出来た国という意味という説があります。後者には『古事記』、『日本書紀』で最初にできた国が淡路島とあり「淡」の字は現代で言うところの「貴」や「尊」に近い意味であり「路」や「道」は現代で言うところの「地」であったと考えられ「最初に国として完成することができた尊い土地」という意味で「淡路(淡道)」と名づけられたものと思われる。

 

「昔、むかしイザナギ、イザナミノ命が天からの階段である「天の浮き橋」に立ち「天の沼矛」で海の水をかきまわした。すると、この矛の先から滴り落ちた滴が、たちまち島になった」

 

これが「オノコロ島」で我が国発祥の地と言われ、これが淡路島の由来となっている。  日本国語大辞典によると,「阿波」は「粟のよくできる国の意」であるようです。淡路島については、同じく大辞典に第一に有力の語源として「阿波の国へ渡る途上の島であるから」、第二に有力の語源として「アハヂ(吾恥)の意。神が小国を産んだことを恥とした伝説から」とあるが、後者はどう考えても牽強附会であり、後付けの屁理窟と思われる。また日本歴史地名大系にも「淡路は『淡道』、『粟路』と記されたこともあるが、本来畿内から四国の阿波国への通路を意味している」とある。

2013/12/19

怪物の実力(怪物伝説part9)

県予選では、2度の完全試合を含む9度のノーヒットノーランを達成しているが、とにかく味方打線の援護がないので、勝つためにはひたすら完封し続けるしかない。2年の夏は、予選準決勝で小山に延長11回スクイズの1失点で敗退している。小山と対戦する前の試合は3試合連続ノーヒットノーランで、その内1試合が完全試合だった。小山戦も102死まで無安打、打たれた中前テキサス安打は、実に37イニング目に許した「初安打」だった。


一人の走者も出さないことが勝つために最善な方法であり、もし走者を出した場合は本塁に帰さないこと、つまり完封することが最善の方法である。00が延々と続くと怪物の敵はもはや相手打線ではなく、相手の好投手だったり打てない味方打線ということになる。

 

ちなみに、最後の夏(昭和48)の予選で記録した作新学院のチーム打率は「204」  およそ県予選の優勝校らしからぬ「低打率」である。10で勝つというその環境こそが、江川のピッチングに磨きをかけたともいえる。

 

結局、甲子園で4勝しかあげていない江川が怪物といわれたのは、その圧倒的な投球内容である。在学中の公式戦登板44試合、完投した30試合中の3割に当たる9試合を無安打、それ以外の試合も唯一3安打を許した1試合を除き、1安打か2安打しか許していない。甲子園で連戦連勝した桑田(PL学園)や松坂(横浜)は強いチーム力に支えられていたが、投手個人の力では断然江川が上といわざるを得ない。予選、甲子園大会を通じて殆ど打たれていない、こんな投手は二度と出てこないだろう。

 

甲子園での通算成績は、6試合(42)、投球回数591/3、奪三振92(1試合平均15.3)、自責点3、防御率0.46。そんな「怪物・江川」をして甲子園の頂点に立つことはなかった。それが野球、それが甲子園なのだ。

 

江川と旧知の仲である、国際武道大学監督の岩井はいう。

2006年に全日本の監督になって、キューバのハバナで開催された第三回世界野球選手権で、デービット・プライス(現デビルデイズ)が101マイル(約162キロ)投げたんですけど、ベンチで見る限り江川の方が速かったですね。ベンチからの見た角度のスピードでは、高校1年と2年の江川は速かったです。高校3年は遅かったですね。 江川に聞いてみればわかりますが、一番速かったのは高校1年から2年にかけてだと思います」

 

この江川と当時バッテリーを組んでいた、政治家の亀岡(旧姓・小倉)偉民の証言。

「いくら桑田や松坂が速いといっても、彼らは『ズドーン』という速さ。当時の江川は『ピッ』という感じだった。球質が全く違う。球の回転が速く球質が軽いから、直球は伸びるしカーブはよく落ちる。殆どの打者が、かすりもしない状態だった。江川はアイドル的な人気ではなく、玄人ウケするスーパースターでしたね」

 

その亀岡が、今でも思い出すのは『銚子商戦の最後の1球』だ。優勝候補同士の2回戦の対戦。作新・江川と銚子商・土屋の投手戦は「0ー0」のまま延長戦へともつれ込む。試合終盤から悪天候になり、捕手から投手へまともに返球出来ないほどの土砂降りとなっていた。

 

12回裏・1死満塁の大ピンチを迎えた江川。この絶体絶命の場面で江川はタイムを取り、ファースト・鈴木、セカンド・菊池をはじめ、内野の全選手をマウンドに集めた。

 

江川は

「次の球、俺の好きな球を投げていいか?」

と、彼らに聞いたという(前回の達川に話したという、江川自身の話とは異なるが)

 

江川は、次の球はストライクかボールかというよりも

「高校三年間で、一番速い球を投げてやろう」

と、心に決めていたそうである。この場面で、江川は半ば負けを覚悟していた。そして、最後は悔いのない球を投げてやろうと思っていたのであった。

 

江川にそう聞かれ、特に江川と反目していたファーストの鈴木が

「お前の好きな球を投げろよ。俺達がここまで来れたのも、お前のお陰だから。何も文句はねえよ」

と答えたという。捕手の小倉によると、小倉はこの場面で初めて作新の選手達の心が一つになったと感じていたらしい。

 

「みんなも頷いて、チームが初めてまとまった瞬間でした。ただ負けるなんて考えもしなかったし、江川だから抑えるだろうって皆が思ってた。ところが・・・渾身の直球は無情にも高めに浮き、押し出し四球のサヨナラ負け。結果的にチームがひとつになったのは、最後の一瞬たった1球しかなかったけど、悔しさはありませんでした。不思議な感覚ですが、野球をやったという充実感がありました。

 

それまで『江川のワンマンチーム』、『勝って当然』と言われ続けていた。負けないためにどうしたらいいか、ナインにも江川にも気を遣ってやってましたから。試合後は誰も泣かなかったし、初めてみんなが仲良くなりました」

 

当時のコトを江川は言葉少なに話す。

「決して仲が良いチームじゃなかった。野球以外の学校生活では、殆ど付き合いがなかった。最後に、みんなを集めた時

『おまえひとりのために野球をやってんじゃねぇ!』

『どうぞご勝手に!』

とか言われると思ってた。でもみんなの言葉で、不安は全く消え去りました。最後のあの1球・・・高校時代で一番いいボールが投げられたと、今でも思っています」

2013/12/15

笛吹川と釜無川

『昔、三富の里に日原権三郎という若者が母と二人で暮らしていました。二人は都から戦に出た父親を探しにきて、三富に住むようになったのでした。権三郎は笛がたいそう上手でした。苦労が重なって眼が見えなくなった母親は、権三郎が吹いてくれる笛が何よりもの慰めでした。

 

ある年、大洪水があり権三郎は母とともにねとり川の濁流に飲まれましたが、やっとのことで大岩によじ登り助かりました。しかし母は権三郎の名を呼びながら、流されてしまったのです。それからというもの、権三郎は昼も夜も笛を吹きながら、川岸を上ったり下ったりして母の行方を探しました。雨の日も風の日も、母を探す権三郎の笛の音が聞こえていました。

 

ある日のことでした、石和に近い川下に権三郎の遺体が流れ着いたのです。母を探しているうちに、川に落ちたのでしょう。それからも夜になると、川の方から笛の音が聞こえてきました。村人たちは権三郎が死んでからもまだ、母親を探しているのだと言いあって哀れに思いました。そしていつからか、この川を【笛吹川(ふえふきがわ)】と呼ぶようになったと伝えられています』

 

このような伝説を持つ笛吹川は、秩父山系の甲武信ヶ岳が源流となっています。流域には、笛吹川フルーツ公園(山梨市)や石和温泉(石和町)などがあります。田富町で「釜無川」と合流します。

 

「フエ・フキ」、HUE-HUKI(hue=calabash,gourd;huki=spit,stick in as feathers in the hair)、「ひょうたん(のような盆地)を・貫いて流れる(川)」

 

釜無川の名前の由来は他にも色々説があるそうですが、巨摩(こま)地方で第一の川という意味の「巨摩の兄(せ)川」がなまったと言う説もあります。また上流の「釜無山」にちなむというものや「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。

 

その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである。

2013/12/04

全国焼き鳥対決part4(今治、久留米)

今治

今治の焼き鳥は「串付き肉を網の上で焼く」という一般的によく見られる方法ではなく「肉や野菜を鉄板の上で焼く」という一見風変わりなもの。これは商売人が多く、せっかちで待つのが嫌いな気質と言われる今治の人を満足させることから、約50年前に考案されたと言われている。



 「早い」「安い」「旨い」の三拍子が揃った今治焼き鳥は、多くの支持を得、現在は市内に約70店舗ある。また、人口あたりの焼き鳥店舗数が日本一(平成105月タウンページ)であったことから、平成113月には「焼き鳥日本一宣言」をした。


平成118月には「今治ヤキトリ料飲組合」も結成され、毎年810日を「焼き鳥の日」と定め『やきとりの街今治』をPRしている。

 

鉄板の上で焼くのが今治焼鳥

熱々の鉄板の上から大きな鉄のコテで肉を押さえ、ジュージューと豪快に焼く個性的なスタイルの今治焼き鳥。特に個性的なメニューと言えるのが「皮焼き」である。




皮のみを焼く店もあれば、少し肉を残した皮を提供する店もあり「皮焼き」は食感も味も、それぞれの店のこだわりを楽しむことができる。またタレも、トロリとした甘辛醤油タレ、さらりとしたタレ、おろしタレ、からしタレといったように、店ごとのこだわりを楽しむことができる。自分に合ったタレの味を見つけるのも「今治焼き鳥」を楽しむ方法の一つと言える。

 

「皮」に始まり「せんざんき」で終わる、というのが今治焼き鳥通の食べ方らしい。「せんざんき」というのは、この地域に昔から伝わる郷土料理で、下味を付けた唐揚げのことを指す。名前の由来は

・鳥肉を千に小さく切ることから「千斬切

・きじ肉を最初に使ったことから「せんざん雉

・中国料理の「軟炸鶏(えんざーち)

と諸説あり、味付けや揚げ方もその店々で違いがある。

 

久留米

久留米の焼きとりは、屋台で出されたのが始まりとされている。現在、焼きとり専門店として最古参の屋台は、1963年(昭和38)に開業した屋台である。店主は、久留米焼きとりについてこう話します。

 

「焼きとりは、うちが開業する前から久留米の屋台で出されていました。それでも開業した頃、焼きとりを出していた屋台は10軒ほどでしたし、今ほど品数はありませんでした。例えば、ダルム(豚・牛・馬の腸)や豚バラ、鶏の砂ずりなどで、鶏肉は手に入らなかったものです」

 

久留米市史によれば

『我が国の経済は昭和30年代後半から40年代にかけて高度成長を維持し続け、本市はやや後れながらも躍進期を迎えた』とあります。

 

その頃、久留米市では、いわゆる「ゴム3社」のブリヂストンタイヤ(株式会社ブリヂストン)や日本ゴム(株式会社アサヒコーポレーション)、月星化成(株式会社ムーンスター)が技術革新によって業績を伸ばし、街は賑わっていた。

 

その頃を振り返り、店主はこう話します。

 

「工場などで働く人々が、屋台の開店前から並んでいたものです。久留米には昔から肉屋、内臓屋といった専門業者がいましたので、豚や牛、馬の材料を手に入れやすかったように思います。それもあって焼きとりファンが自ら屋台や店舗を構え、店の数が増えていったのです」

 

現在、久留米市には焼きとりを出す店は、約200軒あるといわれている。 



久留米焼きとりの特徴は、その品数の多さだ。



                    


鶏や豚、牛、馬、魚介類、野菜、巻物などを竹串にさし、炭火でじっくりと焼きあげる。また内臓ものの品数が多いのも、久留米焼きとりの特徴である。

 

「現代用語の基礎知識2007」では、久留米焼きとりの特徴をこう紹介している。 

『店ではまず酢ダレのかかったキャベツが出る。基本は塩焼きで、肉の間に玉ねぎが挟まれている。豚、牛、鶏が混在したスタイルで、創作巻物も豊富。珍しいメニューに「ダルム」(ドイツ語で馬の小腸)(左画像)やセンポコ(主に牛の大動脈)など』

 

「全や連総本店 東京」は、大手町サンケイビルの地下にある。店内は各地域出店のブースに分かれており、どこでも好きなところが利用できる。

 

ビジネス街という場所柄、平日は仕事帰りのサラリーマンで賑わいそうだが、土日は穴場であろうとの見立て通り、ある土曜日などどのブースも人が少なく「貸切」状態だった。

 

最初に行った時には「全や盛15本」(1980円)というのを食して満足したが、2回目にはすでにこのコースはなくなっていた。

「量が多すぎるため、廃止しました」という説明だったが、2人で15本はちょうど良かったし、価格も手ごろだっただけに惜しまれる。

 

お薦めの「ご当地食べ比べセット」(7本、1280円)は、その名の通り各地の名物が1本ずつ入ったセットだ。




今回まで5回に渡り紹介してきたが、再度おさらいしておく。

 

・鶏の内臓すべてを1本の串に刺し、たまねぎをはさむ北海道の「美唄やきとり

・豚肉にたまねぎを挟み、洋ガラシをつけて食べる北海道の「室蘭やきとり

・伊達赤鶏などを使ったストロングスタイルの福島県「福島やきとり

・豚のカシラ肉などをピリ辛の味噌だれで食べる埼玉県の「東村山やきとり

・厚い鉄板で鳥皮を焼く、串に刺さないスタイルの愛媛県「今治やきとり

・ガーリックパウダーや唐辛子を振りかけて食べる山口県の「長門やきとり

・そして、豚、鶏から馬肉までなんでも刺してしまう福岡県の「久留米やきとり

 

「本日のご当地地酒3種飲み比べ」という日替わりメニューの地酒と生ビールをおともに、片っ端から各地の名物をオーダーしていった。




個人的には、やはり串焼きはサッパリとした鶏が好きだ。ブタはやはりくどいし、東松山(埼玉)では立地的にも近くて有難味に欠けるし、久留米のダルムなどもやはり自分にはくどい。今治の鉄板焼きは酒のおともには悪くはないが、やはり焼き鳥は串焼きが良いし、福島のはオーソドックスすぎて面白みに欠ける。

 

ということで、気に入ったのは美唄、室蘭、長門だが、色々食べた結果で最も旨いと思ったのは美唄である。もっとも散々飲んだ後だったせいかもしれないが、締めに食べたイカ墨パスタのような美唄の「石炭焼きそば」は、ひたすら濃厚な味わいではあったが ( ´艸`)ムププ