2006/05/29

サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ

 


《序奏とロンド・カプリチオーソ》(仏語:Introduction et Rondo capriccioso en la mineur)イ短調 作品28は、カミーユ・サン=サーンスが作曲したヴァイオリンと管弦楽のための協奏的作品。ピアノ伴奏版でも演奏される。

 

名ヴァイオリニストのパブロ・デ・サラサーテのために書かれ、スペイン出身のサラサーテにちなみスペイン風の要素が取り入れられている。初演当時から広く支持され、現在でもサン=サーンスの最も人気のある作品の一つである。

 

概要

当初、ヴァイオリン協奏曲第1番のフィナーレとして構想され、1863年に作曲された。初演もヴァイオリン協奏曲第1番と同時に、186444日にサラサーテの独奏、サン=サーンスの指揮で行われた。デュラン社からの出版は1875年に行われ、サラサーテに献呈されている。

 

ピアノ伴奏版はジョルジュ・ビゼーによって編曲され、1870年に出版されている。また、クロード・ドビュッシーが2台ピアノのための編曲を行っており、1889年に出版されている。

 

http://www.yung.jp/index.php

この作品、調べてみるとサン=サーンスがサラサーテのために1863年、28歳の時に作曲した、と書かれているのですね。ところが、さらに調べてみると完成したのが5年後の1868年、さらに初演はそこからさらに4年後の1872年にサラサーテによって行われているのです。

ずいぶん悠長な話ですが、19世紀というのはそれくらいのスピード感だったのでしょうか。

 

しかし、聞くところによると、この作品はとても技巧的で難しそうに見えるのですが(実際、かなり難しいことは間違いないのですが)、「無理」を強いられることはなく、それなりのテクニックを持ったヴァイオリニストには気持ちよく演奏できる作品らしいです。そして、その「努力」が聞き手にしっかり伝わるという点では、演奏家にとっては「報われる」作品でもあるらしいです。

 

おそらく着手から完成までに5年の歳月がかかったのは、そう言う演奏上から来る要請をサラサーテが細かくサン=サーンスに伝え、それをサン=サーンスがスコアにしていくという「キャッチボール」に時間がかかったのではないでしょうか。(あくまでも、私の想像ですが・・・)

 

さて、この作品はタイトルのまんまで、前半の「序奏」と後半の「ロンド」に分かれています。

 

「序奏」は依頼者のサラサーテに敬意を表してか、ジプシー風のメランコリックな音楽が切々と歌われます。そして、この「歌」が弦楽器の「全奏」で断ち切られると後半の華やかな「ロンド」に突入します。おそらく、この一粒で二度おいしい構成がこの作品の人気を支えていると思います。

 

ロンド部分は「カプリチオーソ」と題されているように、まさに気まぐれに、様々な感情が入り乱れ絡み合います。

 

ですから、ソリストによってこのあたりはかなりテンポが伸び縮みするようで、オケにとっては結構大変なようです。しかし、聞き手にとってはソリストがこの部分をどう料理するのか聞き所ではあります。

2006/05/28

サン=サーンス ヴァイオリン協奏曲第1番

 


サン=サーンスは、ユダヤ人を遠祖に持つともいわれる官吏の家庭に生まれる。モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の交響曲を書いている。

 

1848年、13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学び、やがて作曲家兼オルガニストとして活躍した。特にオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せ、1857年に当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任する。1871年にはフランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立した。

 

音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころから多様な分野に興味を持ち、その才能を発揮した。一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などで、特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。

 

ヴァイオリン協奏曲第1番イ長調は、カミーユ・サン=サーンスが1859年あるいは1864年に作曲した2番目のヴァイオリン協奏曲だが、 先に書かれたハ長調協奏曲の出版が遅れたため、 番号の上では最初のヴァイオリン協奏曲となった。1867年に初演、1868年に出版され、依頼者であり初演を担当したパブロ・デ・サラサーテに献呈された。現在、演奏される機会は少ないが、サン=サーンス自身は高く評価していた。

 

単一楽章制を採り、演奏時間も短いため「コンツェルトシュトゥック」("Konzertstück")と呼ばれることがある。単一楽章の中に、三楽章制の要素を併せ持った構成を採っている。このように、従来の楽章区分を曖昧にする手法をサン=サーンスは好んだが、この作品はチェロ協奏曲第1番などに先がけた最も初期の試みであった。

2006/05/27

五井、五位(御油)


 五井という地名の由来には、諸説ある。以下、箇条書にする。

A)行基菩薩が当地を通った時に、5つの井戸を掘った。その古事に由来するとする説。この説は五井では昔から言い伝えられており、最も広く信じられている。

B)井は井戸ではなく、その字の形から東西南北に通ずる交通の重要拠点を意味する。すなわち、お互いに交流する地という意味で「互井」と呼んだ。その名に由来するとする説。

C)五井の山向こうには「御油」(ごゆ)という地名がある。五井(Goi)と御油(Goyu)は元来同じ名(Goy)であり、その意味は既に失われたとする説。御油の東方に「下五井」という地名がある事が、この説の補強材料である。〔地名学的考察〕

地名学の教える所では地名は極めて良く保存され、人種や民族が入れ替わっても元の地名が伝えられるという。五井の地名も、あるいは先住民の言語で解釈できるのかもしれない。使われた文字は、語源を探る上で決定的ではない。なぜなら、和同6年の『延喜式』で「おおよそ諸国部内の郷里等の名、みな二字を用い必ず嘉名を取れ」と指示されているからである。

ちなみに「地名用語語源辞典」をひもとくと

ごい〔五位、五井〕
(1)ゴウ・ヰで「川」を意味する語を重ねた地名か
(2)オイ(意悲)の転(吉田東伍の説)
(3)オイ(負)の意か
(4)オ(接頭語)・ヒ(樋、川の意)という地名か
(5)ゴユ、コユの転。・ごゆ
(6)ゴウ(川の意)・ユ(水の意)の約で、河川を意味する同義語を連ねた地名か、とある。

また、同書の御油の項には

ごゆ〔御油〕
(1)御油田の略で、寺社の灯明油に当てられた田の意か
(2)ゴヰ(五井)の転か。・ごい
(3)動詞コユ(崩)から「崩落地形」を示す地名か
(4)動詞コユ(越)から「峠道を越える所」の意か、とある。

「ごい」の項には「ごゆを見よ」、「ごゆ」の項には「ごいを見よ」とあり、どちらが先とも決め難い。上書の編者達を含む「古代地名語源辞典」では、こゆ(児湯)の章に「コユ、ゴユという地名が各地にあるが、いずれも峠路にのぞんだ地、およびその付近の山名である。コユは『越ゆ』の意か」と記載されている。当地では川は考えにくいので、峠ないし崩落地形の方がまだしも適合しそうである。

五井と御油は発音上、相当に違いそうな気がするが、実際に御油から五井へと変化した例がある。それは愛知県豊橋市の下条西町の五井で、中世にそこに「御油」村があったが、近世に「五井」村となったという。

全国には「ごい」の地名そのものは、決して多くない。全日本地名辞典1996年版(三省堂)には

・富山県西礪波郡福岡町五位
・千葉県市原市五井
・千葉県長生郡白子町五井
・愛知県豊田市畝部西町字五位
・北海道中川郡幕別町字五位
が挙げられている。

これ以外には、奈良県橿原市にも五井町がある。角川の地名辞典も、これ以上を教えてはくれない。最も本質的な問題として五井は果たして村名か、それとも山名かどちらが先かがある。五井山の麓にあるから五井村なのか、五井村の裏にあるから五井山なのか、という疑問である。本当のところは、よくわからない。

この問題を含めより本格的な分析を行うには、全国小字地名の徹底的調査が必要であろう。

2006/05/23

突然の昼食難民

 かつてまだ、名古屋にいた頃のお話である。

以前にもご紹介したように、平日の昼食は丸の内の某ビル地下にあった、厚生レストラン「A」で済ませていた。この食堂は安くて広い上に、レストラン直営の店だけに、こうしたセルフの大衆食堂にしては味の方もまずまず良かったため、数年通いつめていた。

ところが暮れの或る日、いつものようにセルフのお盆を棚に乗せて順番を待っている時に、何気なく視線を動かした拍子に

(これまで二十数年間に渡ってご贔屓いただきましたが、諸事情により年内限りで閉店する事となりました・・・云々)

と書いた張り紙が目に入った時は、まさに青天の霹靂であった。

(こりゃ参った・・・来年からは、一体どうすりゃいいんだ・・・オイオイ・・ (;´д`)

何しろ途中で仕事の現場が変わった時を除いては、自分でもトータルで何年通っていたか憶えてないくらい長い間通い続けていただけに、常にあるのが当たり前として、こうした事態の出来などは考えてもいなかったから、その時になって大いにうろたえたものである。

しかしいくらうろたえたところで、今更相手の決定が引っ繰り返る事はないから

(早いとこ、代わりを見付けておかないと・・・)

とは思いつつも、師走でなにかと忙しかったり生来の無精癖も手伝って、結局なにもしないままに年が明けた。

かつて56年位前、三の丸にある某省に出向していた際に、合同庁舎の地下に同じような大衆食堂や厚生食堂が幾つかあり「A店」(9p)に通う前は、この合庁にあった「B店」(8p)、×号館の「C店」(4p)、「D店」(6p)や県庁の「E店」(6p)で食べていた事を思い出し

(あそこなら少し遠くなるが、まあ似たようなもんだ・・・)

と、久しぶりにかつて通い慣れたその合庁の「B店」へ行くと、思わぬ事にビル地下全体に工事の白布が被せられたまま廃墟と化しており、おまけに県庁の「E店」もいつの間にやらなくなっているではないか。こうなれば、やむを得まい・・

 一時、散々通い詰めたせいで少々飽きの来ていた「松屋」(6p)や「吉野家」(5p)も

(まあ、週に2回くらいなら・・・)

と、コンビニ弁当(5p)嫌いのワタクシの目は牛丼店へと向いていたところへ、あの降って沸いたようなBSE騒動である(ちとネタが古いが、ちょうどその頃の話)

当初はまったく気にしてなかったものの、年末くらいからニュースなどで大きく報じられて来るに及び

(やはり、どこか定食屋でも見つけた方が無難だな・・・牛丼にしても、いいとこ週2回が限度だしな・・・そういえば名古屋駅構内グルメ街に、セルフの定食屋のようなのがあったな・・・)

と思い出し、早速足を運ぶとナント、該当の「グルメ・ワン」そのものが、いつの間にやら大掛かりな工事中で廃墟と化しているではないか・・・

(一体、どうなってんだ、これは・・・?)

そうしてドタバタしている間に、今度は「松屋」など牛丼店に《鶏唐揚げ丼》  が登場し

(鶏なら安全だし、食べてみるか・・・)

と思っていた矢先に、今度は考えている間もないうちに「鶏インフルエンザ」の発生に至る ( ̄_ ̄;) うーん

といった具合で「A店」の閉店から始まった踏んだり蹴ったりの挙句、市役所×庁舎に「F店」(7p)、という食堂がもう一つあったのを、ようやくの事で思い出した。

この店も、かつての×省出向時によく通っていただけに、些か懐かしい気分で行ってみると、長年レストランが経営していた「A店」の味に慣れていたせいか  

(ナヌっ?
これが、あの同じ店か・・・?)

と思われるほどに、何を食べても不味くなっているではないか。

かくて、昼食の時間を迎えるたびに

(ああ・・・「A店」さえ、なくならなければ・・・)

と死んだ子の年を数えるが如く、ないものねだりをしながらモゾモゾと箸を操る毎日であった。

※アルファベットで表した店名の後ろに( )で表記した(xp)は、旨さレベル10段階表記。