2023/09/24

三国時代 (朝鮮半島)

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朝鮮の歴史における三国時代(さんごくじだい)は、朝鮮半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代をいう。日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。韓国では紀元前1世紀から紀元後7世紀をいう。後者の時代区分は高麗時代の史書に依拠する。

 

歴史

三国以前に、また三国と並行して小国や部族国家があった。扶余、沃沮、伽耶、于山国、耽羅国などである。

 

それぞれの建国神話によれば、韓国では伝統的にこの時代は紀元前57年に、斯盧(後の新羅)が朝鮮半島の南東部で前漢から自治権を認められた年に始まったとする。

 

高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に漢から独立した。紀元前18年に高句麗の二王子が王位の継承争いから逃れ、東明王の子温祚が半島の南西部(今日のソウル特別市周辺)に百済を建国したとする。伽耶は42年に首露王によって建国されたが、6世紀の新羅によって滅亡されたという。これは中国史料と異なるため、日本の史学界ではこの数字を取らず、高句麗を除く二国の建国年代を多く4世紀におく。百済の都は、はじめ熊津(今日の公州或は清州)であったが、のちに泗沘(今日の扶余)へ遷都した。

 

220年の後漢の滅亡が、三国の発展を許した。1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。後に儒教は仏教に入れ替わった。三国のうちで最大であった高句麗は、鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つの並存された都をもっていた。建国の始めには高句麗は漢との国境沿いにあり、ゆっくりと満州の広大な土地を征服していき、最後には313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。中国文化の影響は、372年に仏教が国教とされるまで残った。

 

4世紀には百済が栄え、半島の南半分を支配した。斯盧国は503年新羅と国号を改めた。4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。新羅の都は、徐羅伐(今日の慶州)であった。

 

5世紀初めに建てられた高句麗の広開土王の碑には、「新羅や百済はかつて高句麗の属国であり朝貢していたが、辛卯の年(391年)よりこの方、日本が海を渡り来て、百済、〇〇、新羅を破って日本の臣民にしてしまった」と記されている。また

 

399年、百済は先年の誓いを破って、倭と和通したため、広開土王は百済を討つために、平壌に向う。その際、新羅の使者が「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗の救援をお願いしたいと願いでたので、広開土王は救援することにした」

 

400年、5万の大軍で新羅を救援し、新羅の王都を占領していた倭軍を追い払うことに成功した。わらに倭軍を追撃し、任那・加羅に迫ったが、逆を突かれて新羅の王都を占領された」

 

「倭が帯方地方に侵入したため、これを迎撃して大敗させた」という内容も書かれてある。

 

宋書には、倭王済が宋の文帝から、451年に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍」を加号されたという記録がある。また、478年には、倭王武を、「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に加号したという記録がある。

 

仏教は528年、新羅の国教となった。新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された新羅の時代がはじまった。滅ぼされた百済の王族は日本にのがれ、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏からは陸奥国で金を発見した百済王敬福などが出た。

 

この時代を記述した歴史書に、高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』がある。隋書には、新羅・百済はみな倭をもって大国で珍物が多いとし、ならびにこれを敬仰し、つねに通使・往来する、と書かれてある。

 

中華人民共和国国営出版社の人民出版社が発行している中国の大学歴史教材『世界通史』は、「三国時代」から高句麗を除外し、「三国時代」を「新羅、百済、伽耶」と規定、

 

「武帝は、衛氏朝鮮を滅ぼした後、その領土に郡県制を施行した。辰国が衰弱して分裂後、新羅、百済、伽耶の三国が形成された」

 

と記述、高句麗を

 

「漢の玄菟郡管轄下の中国少数民族であり、紀元前37年の政権樹立後、漢、魏晋南北朝、隋、唐にいたるまで全て中原王朝に隷属した中国少数民族の地方政権」

 

と記述、唐・新羅戦争を

 

「中国の地方政権である高句麗が分裂傾向をみせると、中央政府である唐が単独で懲罰し、直轄領とした」

 

と記述している。

 

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

 半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓を百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島の三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。

 

 4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。

 

 新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江(はくすきのえ)で破った。そして668年には残った高句麗を滅し、新羅が朝鮮半島を統一した。

 

 倭国は朝鮮半島の領地や権益を失い、国防体制などを根本的に変革する必要に迫られた。そして、律令国家の建設を急ぎ、倭国は日本と国号を変えた。702年には遣唐使も再開され唐との国交を回復した。

2023/09/22

ヨーガ(6)

アシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガ

現在のパワー・ヨーガの源流ともなっているヨーガ。呼吸と共にアーサナを行う。

 

現在、一般的にヨーガのシーンで「アシュタンガ・ヨガ」と呼ばれているものは正式には「アシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガ」(アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガ)という(本来は、アシュターンガ・ヨーガという語は『ヨーガ・スートラ』第229節に記述されている八部門ないし八階梯からなる修行体系を指す)。

 

ティルマライ・クリシュナマチャーリヤに教えを受けたパッタビ・ジョイスが、このヨーガの創始者である。現在は継承者でパッタビ・ジョイスの孫であるシャラスが指導している。

 

このヨーガの大本山とされる、南インドの都市マイソールのアシュターンガ・ヨーガ研究所 (AYRI) には、世界中からこのヨーガの教えを求めて多くのヨーギーとヨーギニーが集まり、マイソールに住み込み、練習に励んでいる。

 

パワー・ヨーガ

「パワー・ヨーガ」(パワーヨガ)は、アシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガをベースにしたヨーガで、アーサナを通して肉体に負荷をかけることにより脂肪を燃焼させ、美しい肉体を作ることを目的として主にアメリカで開発された。

 

ハタ・ヨーガが、1つのポーズをとったまま一定時間静止した上で次のポーズに移行するのに比べ、アシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガをベースにしたパワー・ヨーガは、各種ポーズをストレッチのように一連の流れの中で行うのが特徴である。また、アシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガに比べ、1つのポーズの静止時間は長く、この点ではハタ・ヨーガの要素も取り入れられている。

 

もっとも、その目的はハタ・ヨーガとは異なり、アイソメトリックな運動によるフィットネスが主な目的。過度な負荷は乳酸を増加させるだけでなく、腰痛、関節痛などを引き起こすことが指摘されていることから、実習には注意が必要。

 

肉体的に健康な若者に人気がある。ハリウッドスターを中心に一大ブームとなり、先進諸国に広がったことから「ハリウッド・ヨーガ」ともいう。

 

ホット・ヨーガ

ホット・ヨーガ、ホットヨガは、室温3539度前後、湿度60%前後に保たれた室内で、アーサナを中心としたエクササイズを行うヨーガである。実施する室内環境は、ヨーガ発祥の地インドの気候を模したとも言われる。パワー・ヨーガ、ビクラム・ヨーガ(40度以上で行う)、フォレスト・ヨーガなどの形態がある。アメリカ合衆国西海岸で1970年代に始まり、日本では2009年ごろから広まった。

 

2015年時点で、日本で30万人が行っているとも言われる(出典のデータが何の統計によるかは不明)。様々な利点が主張されているが、エクササイズやダイエットの効果は通常のヨーガと変わらないと指摘されており、高温多湿の環境で行うことが肉体に悪い影響を及ぼすこともある。

 

マタニティ・ヨーガ

妊産婦向けのヨーガ。ヨーガの体操や呼吸法を通して一体感を味わえることが、命の尊さを再認識し、出産後の子育てが意欲的に取り組めるようになるといわれる。呼吸と共に行うヨーガの体操は妊婦の心の状態を安定させる効果や、分娩時の痛みのコントロールにもつながるという。

 

ヨーガ・セラピー

多くのストレス関連疾患に対して著効があることから、近年、医療機関での導入が進んでいる[独自研究?]。日本国内では、一般的に「ヨーガ療法」と呼ばれる。

 

論争・ネガティブな側面

オウム真理教には、ヨーガがきっかけになって入信した信者が多かった。教祖の麻原彰晃は、阿含宗での修行ののちに『ヨーガ・スートラ』に出合い、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』、『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』(いずれも佐保田鶴治訳)と教典をもとに独学し、空中浮揚するまでに至ったという。

 

新宗教を研究する沼田健哉は、このように正規のグルにつかずに修行をしていたことで、いわゆる「魔境」に陥った可能性を指摘し、のちに様々な問題を生ぜしめた要因のひとつであると述べている。

 

オウム真理教では、ヨーガによるクンダリニー覚醒の実践が中心的な位置を占めており、沼田は、「ヨーガによる自己変容としての解脱体験こそ、80年代前半の麻原の宗教的アイデンティティの柱の一つとみなしうる」と述べている。本来ヨーガや瞑想によって、常人にない能力を得ることは否定されてはいないが、オウム真理教の信者には超能力を獲得することを主な目的とする者も少なくなかった。

 

ヨーガや瞑想などの修行法、断食などの苦行も、本来は真の自己を見出すためのセルフ・コントロールの一種である。沼田は、破壊的カルトと呼ばれるような新宗教の教団で行われている行為と、東洋の伝統的なヨーガや瞑想などの修行法は似ている部分が少なくないが、行われるコンテクストが異なっていると反対の結果を生じうると述べている。またオウム真理教にみられる強固な教祖 = グル崇拝は、麻原や幹部による洗脳やマインドコントロールをより容易にしたことを指摘している。

 

スキャンダル

アヌサラ・ヨーガ

近年では、巨大なヨーガスクールで、カリスマ指導者が生徒や関係者に不適切な性関係を強いたり、性儀式を行うといったスキャンダルが相次いでいる。現代ハタ・ヨーガの一種であるアヌサラ・ヨーガの創始者ジョン・フレンドは、ウイッカのカブンで魔術的な性関係を持ち(セックス・ヨーガを含むタントラ・ヨーガを指導していたと言われるが、正統なものではないと言われる)、既婚者を含む関係者や生徒と不適切な性関係を持っていると告発された。このスキャンダルで教師は次々辞職し、ジョン・フレンドは指導者の地位を退いている。また、被雇用者の年金等の雇用条件に関する違法行為の疑惑がある。

 

ビクラム・ヨーガ

現代ハタ・ヨーガ、ホット・ヨーガの一種であるビクラム・ヨーガの創始者であり、巨大ヨーガスクールを経営し世界的にフランチャイズ展開しているビクラム・チョードリーは、生徒からセクハラ、パワハラ、性犯罪で民事告訴されている。

2023/09/20

神々の黄昏世界の終末(2)

 出典http://ozawa-katsuhiko.work/


『巫女の予言』は次のように語る。

 

角笛を高々とあげ、ヘイムダルはりょうりょうと吹き鳴らし

オーディンはミーミルの頭と語る

高くそびえるユグドラシルのとねりこは恐怖に震え、老樹は呻き

巨人は自由の身となる

アース神はいかに

ヨーツンヘイムはどよめき

アース神らは急ぎ集まる

岸壁の案内人こびとらは扉の前で吐息をつく

 

フリュムは盾をかざして東より駆けつけ

大蛇は激怒にのたうち高波を起こし

鷲は叫びを発して青白きくちばしで屍を引き裂き

巨大船ナグルファルは岸を離れる

 

東より船がいたる

ムスペルの輩は海を超えて来たるなり

舵をとれるはロキ

怪物ども狼ともどもはせ参じ

ビューレイストの兄弟も一味なり

 

 オーディンの目指す相手は怪物フェンリル狼だった。トールはオーディンと並んで馬を進めていたが、オーディンに腕を貸すことはできなかった。なぜならトールはミズガルズの大蛇と戦うのに手一杯であったからだ。

 

 光のフレイは炎のスルトと戦った。フレイが倒されるまで激しい死闘が繰り広げられた。しかしフレイにとって、妻とした絶世の光り輝く美女ゲルズのために召使いのスキールニルにやってしまったあの名剣がないのが命取りであった。

 

 この間に、冥界ヘルの入り口に縛られていた地獄の番犬ガルムが自由の身となってテュールに挑み、互いに相討ちとなっていた。

 

 トールはミズガルズの大蛇を倒した。しかし九歩下がったところでトールは倒れた。大蛇の猛毒を浴びせられていたからだ。

 

 オーディンは怪物狼フェンリルに飲み込まれてしまった。それが彼の最後であった。

 

 だがそれを見た、無口だがトールに次ぐ強者と謳われたオーディンの子ヴィーザルがただちに駆けつけ、片足で狼の下あごを踏みつけた。彼の靴は特別製で、靴を作る時に切り捨てる端の皮を丹念に集めておいて、それを合わせて作ったものなのだった。そして、もう一方の手で上あごを押し上げて口を引き裂いてしまったのだった。

 

ロキはヘイムダルと戦い相討ちとなった。

 

 こうして炎のスルトは、大地に火を投げて世界を焼き尽くしてしまうのだ。

 

『巫女の予言』は語っている。

 

スルトは南より枝の破滅(火)もて攻め寄せ

戦士の神々の剣より太陽がきらめく

岩山は砕け

女巨人は倒れ

戦士は冥府への道をたどり

天は裂ける

 

オーディンが狼を相手に戦を挑み

ベリの輝く殺し手(フレイ)がスルトに立ち向かう時

二度目の悲しみがフリーン(オーディンの妻フリッグ)に迫る

フリッグの夫がそこで倒れるなれば

 

オーディンの子ヴィーザルは屍の獣、狼を相手に戦いを挑み

フヴェズルング(ロキ)の子の口より胸に深く剣を指し貫いて

父の復讐を遂げん

 

フロージュンの令名高き子(トール)は大蛇より九歩退けど

恥辱にあらず

人はすべて家より立ち退かざるべからず

ミズガルズの神、怒りにまかせて打ちまくれば

 

太陽は暗くなり

大地は海に没し

きらめく星は天より墜ちる

煙と火とは猛威をふるい

火炎は天をなめ尽くす

 

 かくして全世界が焼け、神も戦士も人々も死んだ。しかしやがて、海中から緑の大地が浮かび上がり、そこには種もまかずに穀物が育つ。父オーディンの敵である怪物狼を倒したヴィーザルは生き残った。またバルドルがヘズに誤って殺された時、その敵をうつために生まれて、定め通りにヘズを討ったあのヴァーリも生き残った。かれらはスルトの炎を逃れたのだ。彼らは以前アースガルドのあった場所イザヴェルに住む。そこにトールの子モージとマグニがやってきた。彼らはトールの遺品である「槌のミョルニル」を携えていた。

 

 そこに定めに従い、冥界からバルドルとヘズとが戻ってきた。かれらは共に腰を下ろして先に起こったことども、ミズガルズの大蛇やフェンリル狼などのことを話し合った。この時彼らは、かつてのアース神たちの持ち物であった黄金の将棋を草むらに見いだすのだった。

 

『巫女の予言』は言う。

 

スルトの炎、消ゆる時

ヴィーザルとヴァーリは神々の館に住まん

モージとマグニはヴィングニル(トール)の戦いの後

ミョルニルを手に入れん

 

ところで、ホッドミーミルの森と言われるところに、スルトの炎が燃えさかっている時、リーヴとレイヴスラシルという人間の男女が身を隠し、朝露で命をつないでいた。この二人から、やがて世界にたくさんの子孫が生まれることになる。

 

また太陽も再び天にあることになるが、それは太陽が自分に劣らぬ美しい娘を生んでいたからなのだ。娘は母と同じ軌道を巡ることになる。

しかし、この先のことは誰も知らない。

 

 神々の黄昏については以上のように『巫女の予言』と、それに基づいた『スノッリのエッダ』は語っています。非常に「絵的」な語りで描写がイキイキしており文学性において優れていると言えますが、問題はやはりここに見られる「終末論」となるでしょう。こうした「世界の終末」について、ギリシャ神話はほとんど語ってきません。ただしストア学派などの哲学思想にはありますが、それはあくまで存在論的な世界把握の場面でのことで「天変地異や悪の勝利」といった自然的・倫理的な現実性は持ちません。

 

 この「神々の黄昏」と似ている終末論は、キリスト教の特に『ヨハネ黙示録』にある思想となるでしょう。そこでは、やはり「天変地異」と「悪の勝利」がはじめにあって、その後に「神の国の到来」となります。これは全く宗教的・倫理的なものです。しかし今みたゲルマン神話は、そうした「宗教性」や「倫理性」はほとんど伺えません。あるのは「自然」を見る見方だけだと言えます。つまり、この自然世界は「終わる」という、ただそうした素直な自然観があるだけです。

 

 むろん、この終末の末に新たな世界が浮かび上がってはきますが、それについて確かに『巫女の予言』では「永遠の幸福な生活」という言葉は見られるものの、それが「目的とされる国」、つまりそれを目指して生きるべきといった「目的論的倫理性」は語られてはこず、いわんや「神への信仰」など全然でてきません。

 

 私たちは、ここに古代ゲルマン人の素直な「自然観」をみておけばいいのだとしかいえないでしょう。ただし、こうした終末論を持っていたことが、後にキリスト教の世界観を受け入れる素地になっていたということはあるのかもしれません。

2023/09/15

聖徳太子(9)

https://dic.pixiv.net/

 

外交

海外使節団『遣隋使』の第二回派遣に際して小野妹子を国使に任じ、隋の第2代皇帝であった煬帝に対して「日出処天子到書日没処天子無恙云云(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云云)」(日が昇る国の皇帝が、日が落ちる国の皇帝に書を送る。お変わりは無いか。云々)で始まる国書を送り、対等の関係を申し入れるという前代未聞の国交交渉を行った。

 

この国書に対して煬帝が激怒したとされる話は、歴史書『隋書』の第81巻に当たる列伝第46巻「東夷」のうちの倭国に関する一節に、前述の「日出処~」に続いて「帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞(帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蠻夷の書、無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ、と)」(帝はこれを見て不愉快を覚え、担当の外交官に「今後は野蛮人の無礼な書を二度と見せるな」と言った)と残されている。

 

ここで言う無礼とは書中の「天子」を指し、即ち当時の最先端国家たる隋から見て、本来であれば臣下の礼を執って然るべき倭国の王、それも未見の地に住む蛮族の首長が皇帝を意味する天子の尊号を国書という最重要文書の書中で軽々しく用い、その上で対等の立場で文言を述べるという非礼極まりない一件に対して激怒したのが真実であり、太陽の出没になぞらえた国の盛衰に激怒したとする通説は類推の域を出ない後世の俗説とされている。

 

なお、「日出処」「日没処」の文言は般若経の大教典『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)の注釈書『大智度論』に記されている「日出処是東方 日没処是西方」に倣ったものとされており、単に日本から見て西方の地にあるために隋を日没処、逆に隋から見て日本が東方の地にあるために日出処と表現したと考えられている。

 

ただし、この事件に関する日本最古の文献資料『日本書紀』では、第22巻「豊御食炊屋姫天皇」(とよみけかしきやひめのすめらみこと=推古帝)のうちの遣隋使に関する一節に「推古天皇15年(607)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣された(要約)」と簡潔に記され、その後も隋の国書を携えた裴世清と共に帰国した経緯が綴られているだけであり、「日出処~」の国書を煬帝に奉じたとする確実な記録証拠は日本側には残されていない。

 

どちらにせよ国書を無礼と取られながらも、その後も遣隋使が派遣されるなど友好な関係が続いたのは事実である。当時、倭国(日本)側がどこまで国際情勢を把握していたのかは不明だが、隋は高句麗(朝鮮半島)への遠征に備えており、高句麗より東にある倭国を敵に回すのは、あまり得策ではなかったからだと考えられている。

 

逸話

その聡明さと輝かしい功績から数々の逸話が遺されており、中でも10人から一斉に意見を求められても正確に聞き分けて回答する情報処理能力の「豊聡耳」(とよさとみみ、とよとみみ)、あたかも目撃したように未来を詳細に予言する予知能力の「兼知未然(兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」(けんちみぜん)の2つが代表例として挙げられ、特に前者の豊聡耳については厩戸皇子の別称として『古事記』『日本書紀』など多くの古文書に登場する。

この逸話が転じて、一斉に流れる複数の音を聞き分けたりできる人物を聖徳太子と表現したりすることがある。

 

しかし、これらの逸話の大半は太子信仰の発生による神格化が起因しており、前述の超人的能力は後世に造作された伝説としての側面も多々あるため、幕末以降は聖徳太子の虚構性が指摘され続けている。虚構論を唱える学説の中には「聖徳太子は架空の人物である」「蘇我王朝が実在した」などの突飛な内容も含まれているが、法隆寺釈迦三尊像の光背に記された銘文が太子の実在を示すとする信憑性などから、これらの学説は学会の少数派に留まっている。

 

日本が発行する紙幣の肖像画としては歴代最多の採用回数を誇り、戦前から昭和59年までの間に流通した紙幣で7回の採用を記録している。また、その大半が最高額面であったために、高額紙幣の代名詞として広く認知されていた。

 

他方では、浄土真宗開祖である親鸞の夢に何度も現れたとされる伝説が遺されており、その1つに「女犯の夢告」(にょぼんのむこく、『御伝鈔』上巻第三段)がある。大きな苦悩を抱えて独り比叡山を下り、聖徳太子を建立の縁起とする頂法寺本堂(六角堂)に篭もって命懸けの百日願行に挑んだ95日目、高僧に姿を変えた救世観音(=聖徳太子の化性)が親鸞の前に現れて「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽(行者宿報にて設い女犯すとも、我玉女の身と成りて犯せられん。一生の間能く荘厳し、臨終に引導して極楽に生ぜしめん)」(行者=親鸞がこれまでの因縁により女性と交わりを持つ破戒に直面した時、私が美しい女性となって交わりを被りましょう。一生の間を気高く立派であるよう助け、臨終には極楽浄土へ生ずるよう引導しましょう)と諭したとされている。このなんだかエロい夢が、後の日本最大の宗派を生むことになる。

 

太子信仰

仏教の普及における功績や、上述の逸話から、超自然的な人物とみなされるようになり、彼を信仰の対象とする「太子信仰」が形成された。『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』において救世観音(観世音菩薩の尊称)の化身とする説が確立し、『四天王寺御朱印縁起』では太子が注釈を書いた経典『勝鬘経』に登場する勝鬘夫人は過去世であるとされた。インドにおいて勝鬘夫人として産まれた彼は、その後中国の南嶽衡山を拠点に活動した禅僧で天台宗開祖智ギの師匠であった慧思禅師(南岳大師)として転生、さらに日本の聖徳太子に生まれ変わったと位置づけられた。

 

聖徳太子の時代の日本において、仏教の宗派の違いは明確ではなく、様々な法門(修行、信仰の方法)を併学する形であった。そして大陸から宗派が持ち込まれ、また日本で発達する際にも、そうした各宗派で太子信仰が継承されることになる。

 

真言宗、天台宗、禅、律宗、浄土教、日蓮宗と日本に存在する伝統宗派の大半において太子信仰が存在する。

宗祖・高僧以外の人物を基本的に祀らない浄土真宗も、これに該当する。

 

図像表現としては、二歳の時に立ち上がり東を向いて合掌して「南無仏」と祈りを捧げた姿とされる「南無仏太子」、袈裟を着て柄香炉を持ち、父である用明天皇の病気治癒を祈った16歳(14歳とも)の「孝養太子」、35歳と45歳のときに『勝鬘経』について講義する「講讃太子(講讃像)」などがある。

2023/09/13

ヨーガ(5)

ジュニャーナ・ヨーガ (ज्ञान योग)

ラマナ・マハリシ

高度な論理的熟考分析により、真我を悟るヨーガ。20世紀を代表する聖者の一人であるラマナ・マハルシは、このヨーガで大悟したとされているが、一般的に難易度の高いヨーガと云わざるを得ない。だが、巧く実践可能であるならば最も高度なヨーガとなりうるとの意見もある。ギャーナ・ヨーガとも表記される。 このヨーガの行者はジュニャーニ (ज्ञानि) と呼ばれる。

 

マントラ・ヨーガ (मंत्र योग)

聖音オーム

マントラを使うヨーガ。ガーヤトリー・マントラをはじめ、マハー・マントラ、ハレークリシュナ・マントラ等、主にサンスクリット語のインヴォケーション・マントラ(神を讃えるマントラ)などが広く用いられている。

 

師から弟子へと贈られるパーソナル・マントラ(最大でも4音節)は、個人別で大変差がある霊的成長を目的に、師によって特別にデザインされたアクシャラ音の強力な組合せである。そのマントラの振動は、練習者の肉体と霊体を浄化するだけでなく、その個人に必要な特定のチャクラを覚醒させる大きな手助けとなる。ヨーガの霊的求道者が、一生を通して毎日行う、大変重要なヨーガ練習の基本。

 

音(ヴァイブレーション=振動)のヨーガである、ナーダ・ヨーガ(नादयोग)の一種。

マントラに簡単なメロディをつけ、コール・アンド・レスポンス(初めに一人が一節を歌い、次に参加者が同様に歌う)方式で、複数人から大勢で歌うキールタン(कीर्तन)は、マントラの振動エネルギーをキルタニストが増幅させ、その場に大きなエネルギー・フィールドを構築する。キルタニストと自主的な参加者だけでなく、その場に居合わせた者まで浄化する優れた練習法。

 

キールタンと混同されやすいものにバジャン (भजन) がある。バジャンを歌うシンガーは確かに何某かの影響を受けるが、居合わせた者は、普通の音楽を楽しむ程の影響しか受けられないばかりでなく、バジャン・シンガー自身、聴衆の前で歌を披露することによって、自分のエゴを増幅させない注意が常に必要である。

 

古代のヨーガのテクニックによって悟りを得たブッダを開祖とする仏教のうち、日本の密教でいう真言や梵字は、このサンスクリット語の音を、多くは最終的に中国語に訳したものが、大陸を通って日本に輸入されているもので、輸入した日本人とそれを継承した日本人の外国語に対する聴力と発音能力の限界からか、本来のアクシャラ(サンスクリット語の各1音)の音とは異なる場合も多い(例:般若心経の「ギャーテー、ギャーテー」は「ジャーテー、ジャーテー=行って、行って」)。

 

現代では、ヒンドゥー教系新宗教とも言われる超越瞑想で、マントラを心の中で唱えて雑念を追い払う瞑想(超越瞑想)が行われる。

 

ジャパ・ヨーガ (जप योग)

基本的には、数珠を用いて定数のマントラを唱えるヨーガ。パーソナル・マントラの日々の練習は、この代表的なもの。目的に応じて、その他のマントラでも、もちろん行われる。

 

ジャパ用の数珠は、その練習に精妙なエネルギーを利用するので、ヨーガ的には天然素材であるが、キリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒のジャパ用のロザリオ、念数などは、一部ガラス製のものも見受けられる。ジャパ練習のためには数珠の素材は大変重要で、目的や伝統、教義等によって異なる。トゥルシー聖樹、ルドラクシャ(菩提樹の実)、白檀、紫檀、水晶等が一般的。ビーズの総数はヨーガ的な伝統では108個であるが、半分数の54個、4分の1数の27個の簡易タイプも普及している。

紙に、定数のマントラの文字を書いてゆくものを、リキタ・ジャパという。

 

チベットのヨーガ

チベット語ではヨーガのことを ワイリー方式:rnal 'byor (ネンジョル、ネージョル、ナルジョル)という。チベット密教にもさまざまなヨーガが伝承されている。

 

夢のヨーガ

夢のヨーガ、夢ヨーガ (チベット語: rmi-lam もしくは nyilam; サンスクリット語: स्वप्नदर्शन, svapnadarśana)は、チベット仏教の密教の階梯で行われるもの。チベット仏教では伝統的に、明晰夢を訓練で導き出す技術を養ってきた。最初は夢の中で、次は夢のない睡眠の中で、さらに24時間常にはっきり覚醒した状態を保つ訓練を行い、最終的に通常の覚醒そのものが夢であるという認識を目指す。

 

日本のヨーガ

阿字観

真言宗の伝統的な瞑想法で、僧侶の鍛錬の方法である。近年では、高野山に外部から瞑想はないのかという問い合わせがあり、一般向けにも指導が行われるようになった。

 

仏と行者の一体を観想するものが、阿字の観法である。正式な阿字観への言及は、弘法大師空海が口述したものを、その弟子実慧が記録したといわれる「阿字観用心口決」が最初といわれる。本尊である大日如来の象徴である阿字観掛け軸(大きな月輪(がちりん)の中に梵字の「阿」が蓮華の花の上に鎮座している図・曼荼羅)の前に座禅し、半眼または目を閉じて阿字観本尊を観じ、曼荼羅世界に入っていく。僧侶の指導の下で行われる。

 

近現代に創られた、新たな「ハタ・ヨーガ」にフィットネス等の要素を取り入れ改良を加えたものが、現代人に人気である。B.K.S.アイヤンガール(1918 - 2014年)によって、滑らない個人用のマット上で実施することや、補助具を利用して安全性や運動の効果を高める工夫がなされた。

 

ハタ・ヨーガ(ヨーガ体操)

現代になって、ティルマライ・クリシュナマチャーリヤが重視したといわれる「シールシャーサナ」(頭立ちのポーズ、ヘッドスタンド)。

 

現代の英語圏では、アーサナに重点を置いた体操的なヨーガがハタ・ヨーガと呼ばれて広まっているが、マーク・シングルトンの研究によると、それは中世のハタ・ヨーガが連綿と現代に伝えられたものではない。その直接的な起源は、西洋の身体鍛錬(英語版)や体操法の影響を受けて、20世紀初頭の数十年間にインドで形成された「創られた伝統」であった。

 

現在、世界的に普及している体操的なヨーガのポーズの多くは、19世紀後半から20世紀前半に西洋で発達した身体鍛錬運動に由来しており、それらはキリスト教を伝道するYMCAやイギリス陸軍によってインドに輸入されたものである。伊藤雅之は、この西洋身体鍛錬に由来するヨーガ体操はハタ・ヨーガと呼ばれるが、現在のハタ・ヨーガのアーサナと、『ヨーガ・スートラ』に代表される伝統的な古典ヨーガや中世以降発展した(本来の)ハタ・ヨーガとのつながりは極めて弱いと指摘している。

 

1920-30年代に、西洋の身体鍛錬から発生した多様な体操法などが融合して、インド伝統のハタ・ヨーガの技法として確立した。「現代ヨーガの父」と呼ばれるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(1888 - 1989年)も、西洋式体操の影響を受けた身体技法を自らのヨーガ・クラスに取り入れ、思想面にヴィヴェーカーナンダ(1863 - 1902年)などのヒンドゥー復興運動の思想と『ヨーガ・スートラ』を援用した。現代の多くのヨーガのアーサナは、この現代のハタ・ヨーガがベースになっている。

 

シールシャーサナ(頭立ちのポーズ)やサルヴァンガーサナ(肩立ちのポーズ)は、クリシュナマチャーリヤが重要視したものといわれ、現代のほとんどのヨーガ教師は、クリシャナマチャーリヤとは別系統の人々も含め、直接的・間接的に彼の影響を受けていると言われる。

2023/09/06

聖徳太子(8)

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概要

飛鳥時代に存在した皇族。天皇を中心とした中央集権国家体制の確立と、日本における仏教の隆興に尽力した政治家。

上記の人物を題材とした創作作品上の登場人物。

 

来歴

用明天皇の第二皇子。本名は「厩戸皇子」(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、または「厩戸王」(うまやどのおおきみ、うまやどおう)。

 

一般的に用いられる聖徳太子の名称は、生前の徳の高さを讃えた諡号(薨去に際しての神道における贈り名)であり、この諡号そのものも薨去から84年後に当たる慶雲3年(706)頃に作られた法起寺三重塔の露盤に記された「上宮太子聖徳皇」(じょうぐうたいし しょうとくこう)の銘文で、ようやく記録として登場するものである。

 

敏達天皇3年(57411日、大和国高市郡飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村)の橘寺の地にあった行宮で、用明帝と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、欽明天皇の第三皇女)の間に生まれる。皇族の血筋に加えて、世襲の大臣(おおおみ)として天皇の執政を補佐し、欽明帝の妃となった姉妹の父親である蘇我稲目の曾孫でもあり、当時は数少ない崇仏派であった蘇我氏の影響を受けて幼い頃から仏教を学び、卓抜した聡明さは数々の逸話として遺されている。

 

用明天皇2年(5877月、世襲の大連(おおむらじ)として天皇の軍務を補佐した物部守屋が用明帝崩御に伴う皇位継承権問題を巡り、かねてより仏教礼拝の賛否を名目に(正確には敏達帝崩御後の皇位継承権問題から)対立する蘇我馬子と完全に敵対した際、馬子が擁立した泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)と共に、守屋が擁立した穴穂部皇子(あなほべのみこ、敏達帝および用明帝の異母弟)を討伐する『丁未の乱』(ていびのらん)に参加して、これを破る。

 

推古天皇元年(593410日、推古帝の儲君(立太子の礼を執行する勅令)を以って皇太子に就くと共に摂政の任を与えられ、馬子と協力しつつ数々の政治改革を推進する。この時、守屋討伐の際に立てた請願を守って四天王寺を建立し、同時に施薬院(薬局)、療病院(総合病院)、悲田院(弱者救済施設)、敬田院(仏教道場)の4つから成る日本最古の総合福祉施設『四箇院』を併設する。

 

推古天皇30年(622222日、薨去。享年49。生前の希望に従い、遺骸は河内国石川郡磯長(現在の大阪府南河内郡太子町)に設けられた陵墓『聖徳太子磯長廟』(現在の叡福寺北古墳)に葬られる。

 

皇極天皇2年(6431230日、上宮家として太子の血統を継承した山背大兄王が蘇我入鹿を中心とする反勢力の強襲の末に逃亡先の斑鳩寺で一族もろとも自害し、これによって太子の血脈は断絶したとされる。

 

政策

当時の日本は、6世紀末に統一された隋王朝や朝鮮半島諸国(新羅、百済、高句麗、任那)との関係を保ちながら大陸の最新文化を積極的に吸収し、その一方で旧来のヤマト王権体制の改革と新たな中央集権体制の安定が求められた時期であり、特に当時の先進国である大陸諸王朝に対して、独立国家としての認識を得ることが急務であった。

 

内政

摂政の任に就いた後、執政に参加する官僚の位階を冠の色(紫:徳、青:仁、赤:礼、黄:信、白:義、黒:智)の6種類、さらに色の濃淡による各位大小の2系統で表し、従来の血統世襲制を廃した官吏位統一制度『冠位十二階』(最高位は濃紫の大徳、最下位は淡黒の小智)を、同時に儒学や仏教の思想を基盤として政務に携わる官僚の道徳を説いた日本最古の法規範『十七条憲法』を制定した。

 

特に仏教には熱心に取り組み、高句麗から渡来した仏僧の恵慈に師事して仏教を修め、法隆寺などの大規模な仏教寺院を次々と建立した。太子が仏教を厚く信仰した一例として、仏教諸経典の中でも特に難解な法華経(ほけきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまぎょう)の三経典について注釈を加えて著した研究書『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)があり、言葉としては十七条憲法第二条の序文「篤敬三寶。三寳者仏法僧也。(篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり)」(三つの宝を心から敬いなさい。三つの宝とは悟りを開いた仏、仏が説いた法、法に従う僧である)、国宝『天寿国繍帳』(てんじゅこくしゅうちょう)に記された晩年の言とされる「世間虚仮唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」(この世の全ては虚ろな仮初の姿であり、唯一の真実は仏の教えである)などがある。

 

しかし、従来の神道を蔑ろにした訳ではなく、儒教書『礼記』に倣った十七条憲法第一条の序文「以和為貴。無忤為宗。(和を以って貴しと為、忤うこと無きを宗と為)」(調和を尊び、争いを起こさない事が重要である)による和合の精神を宣言し、これを基礎に推古天皇15年(607)に発布した『敬神の詔』(けいしんのみことのり)の書中で「神道(=根本)を幹、仏教(=信仰)を枝、儒教(=礼節)を葉と成す」の思想を明確に表した事で日本における神仏習合の概念を確立した。

2023/09/03

ヨーガ(4)

ハタ・ヨーガ (हठयोग)

「ハタ」は「力」(ちから)を意味する。教義上、「ハ」は太陽、「タ」は月をそれぞれ意味すると説明されることもある。アーサナ(姿勢)、プラーナーヤーマ(呼吸法)、ムドラー(印・手印や象徴的な体位のこと)、クリヤー/シャットカルマ(浄化法)、バンダ(制御・締め付け)などの肉体的操作により、深い瞑想の条件となる強健で清浄な心身を作り出すヨーガ。その萌芽は8-9世紀ないし9-10世紀頃に遡り、13世紀のゴーラクシャナータによって確立したとされる。

 

『ハタ・ヨーガ』と『ゴーラクシャ・シャタカ』という教典を書き残したと言われているが、前者は現存していない。インドにおいて社会が荒廃していた時期に密教化した集団がハタ・ヨーガの起源と言われる場合もある。欧米など世界的に学習されているハタ・ヨーガの大半は、伝統的なハタ・ヨーガとは別系統である。アーサナが中心で、身体的なエクササイズの側面が重視されている。

 

ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた。

 

ラヤ・ヨーガはハタ・ヨーガの奥義とされ、これをクンダリニー・ヨーガともいう。クンダリニー・ヨーガの行法はハタ・ヨーガからタントラ・ヨーガの諸流派が派生していくなかで発達した。ムーラーダーラに眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中のナーディーやチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガ。密教の軍荼利明王は、性力(シャクティ)を表わすクンダリー(軍荼利)を神格化したものであると言われることもある。別名ラヤ・ヨーガ。クンダリニーの上昇を感じたからヨーガが成就したというのは早計で、その時点ではまだ「初期」の段階にすぎない。格闘家に愛好者が多い「火の呼吸」はクンダリニー・ヨーガの側面もあるがイコールではない。チベット仏教のトゥンモ(内なる火)などのゾクリム(究竟次第)のヨーガとも内容的に非常に近い。

 

クンダリニー・ヨーガを実践するにあたっては重大な注意点がある。クンダリニーが一旦上昇を始めると、本人の力だけではそれをコントロールできなくなることがある。具体的には、クンダリニーが上昇して頭部に留まってしまい、それを再び下腹部に下げることも、頭部から抜けさせることもできなくなり、発熱や頭痛、またそれが長期に渡ると、脊髄を痛めたり、精神疾患を起こすことさえある。

 

したがってこのヨーガは、自己流または単独実践は避け、しかるべき師に就いて実践すべきであるとされている。「しかるべき師」とは、たんに知識豊富で多少の呼吸法ができる師のことではなく、自身がクンダリニーの上昇経験を持ち、かつそれを制御できる師のことである。そうでなければ上昇を始めた他人(弟子)のクンダリニーの制御は不可能に近い。さらに、師に就く場合、その師がどの師からの指導を受け、またその先先代の師はどの師なのか、少なくとも23代先の師まで辿れる師に就くことが望ましい。しかしながら、そうした人物に出会うのは難しい。

 

また、自らクンダリニーを制御できることを標榜する人物は、その時点で、クンダリニーに対する執着を棄てきれず、神に対して敬虔なヨーガの精神に反する生き方をしていると世間にアピールするようなものであり、そうした人物を師と仰ぐのは危険とする意見がある。しかしながら、クンダリニー云々を標榜できる人物でなければ制御は難しいとする意見もある。

 

このヨーガは段階が進むほど師を必要とするという意見があり、特にクンダリニーの体内自覚を感じてから先は、必ず師の指導の元にヨーガを実践すべきとされる。一方で、ある程度の段階に達すると師をそれほど必要としなくなるという意見もある。

 

クンダリニー・ヨーガの効果は、現代のアーサナが中心のハタ・ヨーガの効果のように身体が柔らかくなったり、以前に比べて健康になったという、割合穏やかな効果に比べ、クンダリニーの上昇に伴うチャクラの開眼という劇的なものがあり、自分が超能力者や超人になったかのような“錯覚”を覚えてしまうことが往々にしてある。その故に、一度効果(クンダリニーの体内自覚)が出始めると、他のヨーガに比べて非常にのめり込みやすいという特徴がある。

 

クンダリニーの自覚が、修行の完成と錯覚するのは危険である。クンダリニーの自覚と修行者の人格的向上とは無縁といえる。クンダリニーの自覚に修行の目的が置かれてしまっては“主客逆転”、“本末転倒”である。手段が目的にならぬよう修行者は努めねばならず、本来の修行の「目的」を達するならば、そうしたクンダリニーをはじめ、チャクラなど肉体次元、生気次元へのこだわりを無くすことに努めることが先決とされる。

 

また、生気レベルの覚醒それ自体は霊格の向上をもたらさず、あくまでもカルマ・ヨーガの実践や世俗との係わりの中での「人格」の向上や、その他のヨーガを総合的に実践することにより、霊格は向上していくものと心得るべきである。

カルマ・ヨーガ (कर्म योग)

日常生活を修行の場ととらえ、善行に励みカルマの浄化を図るヨーガ。見返りを要求しない無私の奉仕精神をもって行う。カルマ・ヨーガの教典は『バガヴァッド・ギーター』。

 

バクティ・ヨーガ (भक्ति योग)

神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。古典文学『マハーバーラタ』(マハーバーラタム、महाभारतम्)にある有名なクルクシェートラの戦いで、クリシュナが勇者アルジュナに説いたとされる『バガヴァッド・ギーター』(भगवद्गीता=神の詩)は、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っているため、ヴィシュヌ(ナラヤン)の転生として実在したとされるクリシュナが開祖とも言える。また、近代の大覚者ラーマクリシュナとシヴァーナンダ、現代のサッティヤーナンダは、現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いている。

 

このヨーガを主軸に据えるグルの団体において、弟子・信者はグルの指導に帰依することになるが、サティヤ・サイ・ババやシュリ・チンモイは、弟子の病気などのカルマを引き受けることも行っていたとされる。宗教団体の中には、インド人の信頼できるグルの指導を受けずに、このヨーガを取り入れている団体が多いが、自らのエゴが消滅できていないことを理解できない団体運営者によって独自の解釈がされており、大変危険である。間違った「自称グル」(大抵そのグルのグルが誰であるか、公表できない)を師と仰ぐと、一生を棒に振ることにもなりかねないため、事前に十分調査をし、常に一般常識に照らし合わせることが重要とされる。

このヨーガの行者をバクタ (भक्त) という。

2023/09/01

神々の黄昏世界の終末(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 ゲルマン神話は「世界の終末と神々の死」という物語があることが最大の特徴であり、これはゲルマン人の世界観のもっとも独特のところかもしれません。もちろん、世界の終末という思想自体は世界のあちこちに見られますが、それはペルシャのゾロアスター教に典型的に見られる「真実の神、光の国の到来」のための、この地上世界の終末となります。あるいは古代ギリシャ哲学にある「永遠の宇宙の繰り返し、永劫回帰」の思想となるか、です。

 

このゲルマン神話での神々の死という世界の終末は「新たな真実の神の国の誕生」でもなければ「永劫回帰の哲学」でもありません。「アースの神の一部が残り、あるいは再生して、この地上を引き継ぐ」だけの話で、オーディンもトールも居ないのです。ここには、「なくなるわけではない」という消極的な「安堵」はあっても、真実の神の国の到来という「新たな希望」はなく、やはり、「偉大なオーディンやトールは終わった」という黄昏観しか見られません。こうした諦観がゲルマン人の本性に色濃くあるのか、興味深い問題となります。

 

ラグナレク(神々の黄昏)

 フィムブルヴェトと呼ばれる冬が始めて訪れる。その冬というのは雪があらゆる方向から降り、霜はひどく、風は激しく吹きすさぶ。太陽など何の役にも立たない。季節が巡る時となっても、さらにその冬は続く。さらに季節が巡る時となっても冬は依然として続き、夏はついに訪れることはない。こうして、またさらに冬は続き、さらに冬、さらに冬とつづく時、兄弟たちはどん欲となり互いに殺し合う。父と子、身内の中で見境なしに人を殺し、姦淫する。『巫女の予言』はこう予言している。

 

兄弟同士が戦い殺し合い

身内同士が不義を犯す

人の世は血も涙もなきものとなり

姦淫は大手を振ってまかり通る

鉾の時代、剣の時代が続き

盾は引き裂かれ

風の時代、狼の時代が続きて

やがてこの世は没落することとなる

 

 この時に狼は、ついに太陽に追いつき太陽を飲み込んでしまう。太陽は早く動いていた。おびえるみたいに、殺されるのが怖いのに、これ以上速くは走れないといいだげに急いでいた。そんな風に猛烈に急いで、天を運行していたのにはわけがあった。追っ手が、すぐ後ろから追ってきていたからなのだ。逃げるより他に手立てがなかったのだった。

 

 天にいる追っ手は、二匹の狼であった。太陽を追っていたのはスコルという名前の狼で、太陽はいつか捕まるのではないかと怖れていた。そして太陽の前を駆けているのはハティ・フローズヴィトニスソンといい、月を捕まえようとしていた。

 

 この狼たちの出自だが、ミズガルズの東のイアールンヴィズという森に女巨人が住んでいて、たくさんの子どもを産んだのだが、これがそろいもそろって狼の姿をしていたのだ。太陽を追いかける狼というのは、この一族のものだった。その一族の中でもっともどう猛なのがマーナガルム(月の犬)と言って、死ぬ人間すべての肉を喰らって腹を満たし、月を捕らえて天と空を真っ赤に血塗る。このとき太陽はその光を失い、風は激しく吹き騒ぐのだ。『巫女の予言』は言う。

 

東のイアールンヴィズに一人の老婆が住んでおり

フェンリル(妖怪狼)の一族を生み

その中より太陽を飲み込むもの現れる

怪物は死に定められた人間の命とり腹を満たして

神々の座を赤き血潮で染める

うち続く幾つかの夏は太陽の光暗く

荒天のみとなる

 

 こうして太陽は狼に喰われ、さらに他の狼が月につかみかかり、星々は天より落ちる。大地と山は激しく震え、樹々は大地より根こそぎ倒れる。山は崩れ、このとき怪物狼フェンリルを縛り上げていた足かせと縛めはちぎれ落ち、狼は自由の身となる。海は怒濤となって岸に押し寄せる。これは、あのミズガルズの周りの海を取り囲んでいた大蛇が激怒し、陸に向かって押し寄せてくるからなのだ。

 

 この時に「灼熱の国ムスペルヘイム」にあった巨大な船ナグルファルが水に浮かぶ。この船は死者の爪から造られている。だから人は爪を伸ばしたままで死んではならぬと言われているのだ。神々と人間にとって災いとなる、このナグルファルの船の材料をたくさん提供してしまうことになるからだ。

 

 あの高潮に、このナグルファルは浮かぶ。この船の舵をとるのは霜の巨人の一人フリュムという名前の巨人であった。

 

怪物狼フェンリルは、口を開けて進んでくる。その口の上あごは天に、下あごは大地についてしまっているが、天地の間がもっとひらいていたら、その口ももって開いていただろう。その眼と鼻からは火を噴き出している。

 

 ミズガルズの大蛇は、空と海とを覆ってしまうほどに猛毒を吐き出している。そして大蛇と怪物狼の兄弟は、並んで押し寄せてくるのであった。

 

 天は裂け、「灼熱の国ムスペルハイム」の巨人たちは馬を駆って押し寄せる。その中にムスペルの頭領スルトが、前後を炎に包まれながら真っ先に進んでくる。彼の剣は素晴らしい。太陽よりも明るく輝いている。

 

 かれらが天と大地を結ぶ橋、虹のビフレストをわたる時、橋は砕けて落ちていく。ムスペルの子らはヴィーギリーズという野に馬を進める。そこに怪物狼フェンリルと大蛇もやってくる。そこには霜の巨人フリュムが舵をとってきた巨大船ナグルファルに乗ってきた霜の巨人たちが到着していた。

 

 そこにはあのロキも、縛めが吹き飛んで自由となって、神々に復讐せんと冥界ヘルに従う者たちを引き連れてやってきていた。

 

 灼熱のムスペルの子らは独自の陣形をとり、その炎の陣形は眼も眩むようであった。この見渡すこともできないほどの広さをもったヴィーグリーズの野が、神々と巨人の輩との最後の決戦の場だったのだ。

 

 こうした事態を知ると、神々の中の世界の見張り手ヘイムダルは立ち上がり、力一杯角笛を吹き鳴らす。神々は全員眼をさまし、続々と参集してくる。オーディンは「知恵の泉ミーミル」へと馬を駆けさせ、神々の輩のために助言を求めた。

 

 この時、全世界を支えるユグドラシルの「とねりこの樹」はうちふるえる。天も地も恐れおののかないものはなかった。

 

 アースの神々と、この日に備えてヴァルハラに居た戦士アインヘルヤルたちは甲冑に身を固め、ヴィーグリーズの野を目指して進軍していく。黄金の兜と輝く甲冑に身を固めたオーディンが先頭を切って馬を進め、その手にはグングニルの槍がしっかり握られている。