2024/05/31

大化の改新(4)

https://dic.pixiv.net/

大化の改新

飛鳥時代に行われた政治改革と体制。

 

乙巳の変

飛鳥時代、聖徳太子と蘇我馬子により国作りがされていたが、太子死後は太子の一族の上宮王家と、蘇我蝦夷(馬子の子)率いる蘇我氏との対立が表面化。皇位継承者で上宮王家は聖徳太子の皇子・山背大兄王を、蘇我氏が34代天皇・舒明天皇の皇子・古人大兄皇子を擁立し、さらに両者は対立。643年、蝦夷の子・蘇我入鹿は上宮王家の斑鳩宮を襲撃し、山背大兄王は自決。太子の血を引く上宮王家は滅亡した。

 

35代天皇・皇極天皇(舒明帝の后)の下、蝦夷と入鹿の親子は政治主導権を握って専横が目立つようになり、邸宅を山城のように軍備も強化し、皇室に迫る勢いに周囲からの反感は増していた。

 

この情勢に中臣鎌足(藤原鎌足)は、皇極帝の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)と協力し、645年に飛鳥板蓋宮の大極殿にて入鹿を暗殺。蝦夷も自ら邸宅に火を放ち自害。蘇我宗家は滅亡した。このクーデターは「乙巳の変」と呼ばれ、大化の改新と一緒にされることが多い。

 

改新の詔

事件直後に皇極帝の同母弟・軽皇子が即位(孝徳天皇)、その下で中大兄皇子は皇太子となり、鎌足とともに新体制を構築した。飛鳥から難波(大阪)へ遷都し、646年に「改新の詔」を発表した。主に四か条を基本とし、豪族が私有していた土地や領民を天皇のものとして公有する「公地公民制」、地方の令制を整備しなおした「国郡制度」、戸籍と計帳を作成して公地を公民に貸与する「班田収受法」、税制改革の「租・庸・調」である。

 

その他にも、陵墓作成の規制、男女差や交通整備などの習俗改革、役職の世襲禁止、八省百官の制定、冠位十二階から二十六階への改正などもされた。(この間、皇位は孝徳帝から皇極帝の重祚(斉明天皇)へと続き、天智天皇へと継承された)

 

新体制後

しかし、新体制は順調とはいかず、東北地方を治めていた蝦夷(えみし)の抵抗が続き、悪化した朝鮮情勢に介入して唐と新羅に攻められ滅亡した百済を救援するも、663年、白村江の戦いで大敗。

 

天智帝は唐からの脅威に備えるため、九州から中国地方にかけて朝鮮式山城を築いて防人を配置、内政面の重視に切り替えて新たな戸籍「庚午年籍」を設置し、近江令を発布。

 

672年に天智帝が崩御すると、帝の弟・大海人皇子と帝の皇子・大友皇子(弘文天皇)により皇位をめぐる争いが起こり、大海人皇子は大友皇子を倒して(壬申の乱)即位(天武天皇)。より強力な中央集権的な律令体制が構築された。

 

評価と異説

「大化の改新」が歴史的価値で大きく評価されたのは、尊皇思想が高まった幕末の頃とかなりの後世で、近年では645年から650年までとは限らず、孝徳朝・天智朝・天武朝・持統朝の頃の一連の改革も含める説が根強い。

 

一方で改新はなかったとする疑問視も多い。改新は『日本書紀』で最初に記されたが、改新に関連した記事の多くが時期でズレが見られ、改新関連の新法と旧法が並列する矛盾も多く、改新以後にも同様の改革がされていた可能性が大きい。

 

このため、「大化の改新」の実質的な改革は650年以後にされた、あるいは650年以後にも続いた改革を645年の改新に重ねてまとめた形に『日本書紀』で編纂されたとする説がある。また、藤原不比等などの後世の藤原氏が、先祖の功績を大きく評価するためにしたと思われる。

 

教科書等では近年の研究を反映して、645又は646年とされている。

2024/05/29

イスラム教(11)

https://dic.pixiv.net/

クルアーン(コーラン)

クルアーン(al-Qur'ān コーラン)は、イスラームの聖典である。アッラーからの啓示に基づく書物であり、アラビア文字で書かれたアラビア語の啓典である。アラビア語で「読まれるもの」「朗誦されるもの」を意味しており、アッラーから天使ジブリール(ガブリエル)によって啓示されたとき、ムハンマドは文字が読めなかったため、ジブリールから口頭で啓示を受け取り、ムハンマドはこれを弟子達に暗唱させた。(弟子達は暗唱したほか適宜、それらを羊皮紙や板などに書き留めていたという)。神が直接アラビア語で語った言葉が人類(初期の直接の対象はアラブ人)に下されたと信じられており、イスラームにおけるアラビア語の尊重の根拠となっている。

 

ムハンマドの時代、アラブ人は盛んに詩歌を朗誦し、その出来不出来を競い合っていた。コーランはアッラーがムハンマドに示した唯一の奇蹟とされており、これに勝る韻文・散文は存在しないとされる。コーランを超える詩歌を作り出せないことを以って、奇蹟の証拠とされている。コーランは、サジュウ体と呼ばれる韻文的な要素の濃い散文で書かれており、114の章からなる。おおよそ長い分量の順から並べられており、最長である第2章の雌牛章が286節、最短の第103章の夕刻章および第108章の豊潤章が3節である。第1章にあたる開扉章は7節からなる比較的暗唱し易いもので、アッラーへの讃辞によってはじまっており、信仰告白が含まれていることから特に重要視されて来た。そのため「賞讃章」「啓典の母」「コーランの母」などの雅称がある。「啓典の母」とはクルアーンをはじめ、預言者達に降されたとされる啓典の、天上に存在するとされる原典の名称でもある。

 

神から天使を経て預言者ムハンマド、信徒たちに伝授されたことの一貫性や、口頭で読み上げられる際の韻律を含めて『コーラン』という一個の書物であるため、イスラームの神学的にみて、他の言語に翻訳されたものは『コーラン』そのものとはみなされていない。ただ、初期からコーランの文句をアラビア語に詳しくない信者のために他言語に逐語的に訳して説明することは行われていたので、これらの翻訳も大きく言えば「コーランの注釈書」のひとつに分類される。(アラビア語話者でも、初期イスラーム時代以降ではコーランの章句について不明な点や啓示された経緯、解釈が難しい部分もあったため、古くからコーラン注釈書が作られた。ペルシア語やトルコ語、あるいは中国語など、前近代にはあらゆる地域で様々な言語のコーラン注釈書が作られている)


正式名称はクルアーンであり、コーランは欧米経由の名称なので、中東ではコーランと呼んでも通じないことが多い。

 

預言者ムハンマド

イスラームの開祖ムハンマドは6世紀後半、570年頃にアラビア半島西部ヒジャーズ地方の都市メッカで生まれた人物で、当時メッカの主導者層であったクライシュ族の名門ハーシム家の出身であった。6世紀、メッカをはじめとするアラビア半島西部の諸地域は遊牧生活を営むアラブ人の世界であり、多くは多神教と偶像崇拝を行っていた。特定の地域には神の像やそれを安置する祠があり、たいていはそれらを管理する部族がついていた。メッカのカアバ神殿は、360体といわれる神の像が納められており、クライシュ族がカアバ神殿の管理を行っていた。これらの神の像や聖地への巡礼が盛んであり、メッカはアラビア半島でも有数の巡礼地であった。(ムハンマドの啓示以前、アッラーはこれらの多数の神のひとつとして信仰されていた)

 

610年頃に、ムハンマドは唯一神アッラーから天使ジブリールを介して啓示を受け、多神教と偶像崇拝を排除して、イスラームに帰依すべきだと説いた。当時のアラブ社会では部族間抗争や嬰児殺害、貧者や孤児、寡婦の問題など、富者による経済的社会的弱者の抑圧や社会的矛盾が蔓延していた時期で、ムハンマドは神の啓示に基づいてこれらを非難し、イスラームによる社会改革の必要性を訴えた。親族や交友関係から徐々に信者や支持層を形成したが、多神教・偶像崇拝の撤廃は巡礼都市メッカの存立基盤を脅かすものであったため、メッカの指導層と対立し、厳しい迫害のため信者達とメッカを離脱せねばならなくなった。カアバ神殿は、アラブの伝承のとおりアッラーの命令によって建設されたもので、神への礼拝のために巡礼すべき場所だが、アッラーは唯一絶対の神であって、偶像が多数置かれた現在の状況は正すべきだ、と主張したためであった。

 

ちょうど近隣の都市メディナでは、都市内部や周辺地域との対立を抱えており、ムハンマドは調停能力を買われてメディナに招かれた。メッカからメディナに移住することでメディナに共同体を形成し、西暦622年に行われたこの移住(ヒジュラ)をイスラーム共同体の誕生として、後にこれを暦の最初とされた。これをヒジュラ暦という。

 

その後、メディナで勢力を盛り返したイスラーム側は、ついにメッカ側と戦争になりこれに勝利し、628年にムハンマドはメッカを無血開城させた。カアバ神殿の360体といわれる神像はことごとく破壊され、現在もカアバ神殿の内部は何も信仰の対象となるべきような器物は置かれていない。(唯一、天から落ちて来たという黒い石のみがムハンマドによって聖別され、建物の外の東の角にはめ込まれている)。632年に最後のメッカ巡礼をすませると、モスク(礼拝所)を兼ねていたメディナの自宅で亡くなった。

 

死後のイスラーム共同体の指導者は誰にするか、ムハンマドの側近や友人など有力な信者たちによって協議され、最初期の信者のひとりでムハンマドからの信頼も篤かったアブー・バクルが後継者として選ばれた。このイスラーム共同体を束ねるムハンマドの後継者を「ムハンマドの代理人(ハリーファ)」という意味で、ハリーファ(カリフ)と呼ばれる。


ムハンマドは、啓示以前からメッカ社会では誠実さを評価されていたと言われており、コーランでも「普通の人間」であることが強調されている。生老病死する存在であって、「神」でもなければ「神の子」でもないことが説明されていた。ただ神から直接啓示を受ける事ができる点で、その当時の全ての人間よりも優位な立場にあるとされ、それゆえ全てのイスラム教徒の模範とされた。また、「預言者の封印」とも呼ばれており、ムハンマド以後、預言者は召命されず最後の預言者とされた。ムハンマドは、晩年に有力な信者や同盟している部族などから嫁がされた10人ほどの正妻がいたが、このうち生前に子孫が得られたのは、ムハンマドの従兄弟のアリーと娘のファーティマの家族だけであった。アリーはアブー・バクルが亡くなったのち、4代目のカリフとなった。アリーとその血統のみが正統なカリフであるとみなす人々をシーア派と呼んでいる。


ムハンマドが存命中に対処した行いや生活様式が信仰上での規範とされ、ムハンマドに遡る逸話や情報などの伝承をハディースと呼ぶ。クルアーンも含めてハディースは、イスラーム法学における最も基本的な法源となっている。

 

ムハンマドについての歴史的な記憶は、ハディース集だけでなく伝記としても纏められている。その最古の例がイブン・イスハークがまとめ、イブン・ヒシャームが再編集した『預言者ムハンマド伝』(日本語訳は岩波書店から出ている。全4冊)であり、現代でも広く読まれている。

2024/05/21

大化の改新(3)

https://dic.nicovideo.jp/?from=header

大化の改新とは、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が645年の乙巳の変をきっかけに始めた、古代日本の政治改革である。

 

二人は遣唐使から伝わった唐の律令政治を取り入れ、以後武士の台頭が起こるまで日本の基本方針となった。たまに蘇我入鹿暗殺事件のことを大化の改新と思っている人もいるが、これは正確ではない。

 

概要

七世紀の日本(倭国)は、有力豪族による合議制で政治を行っていたために豪族同士の諍いが絶えなかった。628年に時の女帝、推古天皇が崩御すると激しい後継者争いが起きた。当時権勢を誇っていた蘇我蝦夷は田村皇子を、境部摩理勢(さかいべのまりせ)は、厩戸皇子(聖徳太子)の子である山背大兄王(母は蝦夷の妹である刀自古郎女(とじこのいらつめ))を推挙して対立した。結局、蘇我入鹿が摩理勢の館を攻滅ぼしたことにより、629年田村皇子が即位する。これが舒明天皇である。この舒明天皇には、四歳になる息子がいた。これが後の大化の改新の中心人物になる中大兄皇子であった。

 

対抗勢力を倒した蘇我氏の力はますます強大になり、都を見下ろす甘樫丘に屋敷を建て、その屋敷を上の御門と言わせたり、自分の子供達を皇子と呼ばせるなど、その勢力は天皇系をも凌ぐようになっていった。641年には舒明天皇が崩御し、后であった宝皇女が皇極天皇として即位した。しかし、この即位も蘇我氏の意によるものであった。

 

蘇我入鹿は、已然として人望を集めていた山背大兄王を643年に攻撃し、山背大兄王は斑鳩寺で自害して果てる。この頃から中大兄皇子は中臣鎌足と相談して、蘇我氏排除の必要性を感じ始める。二人は南淵請安の学問所で、唐や朝鮮半島の情勢について知り、政治改革が日本に不可欠であると学んでいた。そのためには蘇我氏は、どうしても邪魔な存在であったのである。

 

まず中大兄皇子は蘇我氏の分裂を図り、一族の実力者である蘇我石川麻呂と、武勇で名高い佐伯子麻呂や葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)を仲間に引き入れた。五人に増えたグループは、南淵請安宅でクーデター計画を練った。そして645612日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で事件は起こる。このとき、天皇の前で石川麻呂が三韓進調(高句麗、百済、新羅が天皇に貢ぎ物をする儀式)の上表文を読んでいた。これに参加していた蘇我入鹿を数名が襲撃したのである。

 

入鹿は屋敷に入る前に護衛と刀を預けており、無防備であったためあえなく討ち取られる。これを知った蘇我蝦夷も、自宅に火を付けて自害した。この事件を乙巳の変(いつしのへん)と呼ぶ。稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く大豪族、蘇我氏の最期であった。このとき、中大兄皇子二十歳、中臣鎌足三十二歳。

 

乙巳の変の後、皇極天皇に代わり弟の孝徳天皇が即位した。新たな政権では阿倍内麻呂が左大臣、蘇我石川麻呂が右大臣となり、中臣鎌足は内臣(うちのおみ)、中大兄皇子は皇太子について政治の実権を握った。中大兄皇子と中臣鎌足が目指すものは唐の国であった。そして日本で初めて、大化という元号が定められた。

 

新政権は、まず美濃国以東に使者を派遣して戸数と人口の調査と武器の接収・点検を行った。これは東国の支配と唐侵攻に備えて、武器の数量を把握するためだったと言われる。その後、新政府は都を飛鳥から難波に遷し、新しい政治方針である、大化の詔を発布した。これは唐の律令制を取り入れ、豪族の力を削ぎ天皇中心の中央集権国家を目指したものであった。その内容は、以下の四か条に集約される。

 

ü  公地公民制:土地と人民をすべて国家の支配下におく。

ü  中央集権体勢:地方の行政単位(国・郡)を定め、軍事や交通の制度を整える。

ü  班田制:戸籍と計帳を作成し、班田収授法を定める。

ü  新税法:統一的な税制を定める。

ü   

しかし実際には豪族の反対にあい、改革は中々進む事はなかった。中でも、乙巳の変で功績のあった蘇我石川麻呂は孝徳天皇を抱え込み、中大兄皇子と中臣鎌足と対立を深めたが、最終的には謀反の疑いをかけられ、一族とともに奈良の山田寺で自害して果てた。また653年、中大兄皇子は難波から飛鳥へ再び遷都を行い、孝徳天皇を置き去りにしてしまった。翌年、孝徳天皇は子である有間皇子に看取られ、この世を去る。孝徳天皇の跡は皇極天皇が再び即位し、斉明天皇となった。658年には、有間皇子が謀反を企てたとして処刑される。まだ19歳の若さであった。こうして結果的に中大兄皇子と中臣鎌足に対抗できる勢力は国内に存在しなくなった。

 

660年、日本と同盟を結んでいた百済から救援の要請を受ける。これに応じて661年中大兄皇子は筑紫国へ出征し、新羅と唐の連合軍との戦いに備える。しかし大陸に渡った百済、日本連合は白村江で大敗北を喫し、百済は滅亡、高句麗も後に滅んだ。中大兄皇子は唐の軍勢はいずれ日本にも迫ると考え、ますます富国強兵にのめり込んでいった。飛鳥に戻った皇子は甲子の宣を発し、国政改革を断行した。その内容は、

 

ü  26階の新官位を制定

ü  大氏、小氏、伴造(とものみやつこ)らの氏上を決定

ü  民部(かきべ)、家部(やかべ)の制定

 

氏上とは、氏の代表者のこと。国防面では九州沿岸・対馬・壱岐に水城、朝鮮式山城を築き、そこに防人や烽火を置いて唐の来襲に備えた。

 

中大兄皇子は667年に都を大津に遷すと、翌年にはとうとう天智天皇として即位する。しかし、その後まもなく中臣鎌足が病に倒れる。669年に鎌足はこの世を去る。享年56歳。天智天皇は、この功績を讃えて最高位である大職冠と藤原の姓を与えた。これが、後に日本を牛耳る藤原氏の興りである。そしてその二年後、天智天皇も崩御。享年46歳。天智天皇死後は後継者争いが発生し、壬申の乱を経て天武天皇が実権を握った。中臣鎌足と中大兄皇子が目指した律令国家の完成は、彼らの死後に完成を見る。

2024/05/19

イスラム教(10)

https://dic.pixiv.net/

概要

「イスラーム」(إسلام Islām)とは、アラビア語で「絶対帰依すること」という意味の動名詞であり、唯一にして絶対なる神アッラー(Allāh)と、その預言者・使徒であるムハンマドを信じ、アッラーから天使ジブリール(ガブリエル)によって、ムハンマドのもとに下された聖典クルアーン(al-Qur'ān コーラン)に明かされた教えに従って生きる事を含意している。預言者ムハンマドの生地で、イスラームの勃興地でもあるメッカを聖地としており、イスラム教徒ムスリム)たちは一年のうち決められた期間に、このメッカに巡礼することを(経済的・体力的に可能であれば、という条件付きでの義務として)推奨されている。

 

イスラームは、7世紀にアラビア半島においてムハンマドによって開かれた宗教である。ムハンマドの生地メッカにはじまりアラビア半島全域に広がり、ムハンマドの後継者たちに引き継がれた政権は、7世紀の終わりまでには中東から中央アジア、北アフリカ、イベリア半島にまで広がる大帝国となった。この地域を核として次第に中国方面やインド、東南アジア、アフリカ大陸東部や西部に拡大し現在に至っている。

 

また、イスラームは先行するユダヤ教キリスト教と同じ唯一なる神を信仰していると自認しており、啓典の歪曲から生じた信仰の形態の違いによって、ユダヤ教とキリスト教に見られる差異が生じているとしている。それでもアッラーから啓典の下された人々をアラビア語では「啓典の民(Ahl al-Kitāb)」と呼び、ユダヤ教徒やキリスト教徒は信仰的な同朋とみなしている。また、アッラーは唯一の存在であり、人類には知覚し切れない絶対的かつ永遠の存在であり、図像・彫像にして崇拝すべき存在ではないとしているため、(クルアーンに明記されたアッラーの命令によって)偶像崇拝は禁止されている(その例として、キリスト教教会で十字架や聖母マリア像が置かれているスペースは、モスクでは何も置かれず空洞スペースとなっている)。


「イスラーム」という単語は、クルアーンに「汝ら(人類)に対する恩寵として、汝らのための宗教としてイスラームを授けた」とアッラーが述べる箇所があり、他の多くの宗教と異なり、創建当初から「イスラーム」という宗教名が使われている。

また、その論じられる分野に応じて「イスラーム文明」「イスラーム社会」「イスラーム政治」「イスラーム経済」などの諸側面のイスラーム的要素を考察する際に使われるが、だいたいにおいてイスラームの宗教的な側面を論じる際に「イスラーム教」「イスラム教」という訳語が使われている。ここでは、ひとまず項目名を「イスラム教」としたい。

 

イスラム教は全体の9割を占めるとされるスンナ派と、残りの1割にあたるシーア派2派に大別される。

スンナ派、シーア派とも異なる伝統宗派としてイバード派が存在する。

各宗派の信徒が多い地域として、シーア派は主にイラン、スンナ派はサウジアラビアトルコエジプトアラブ首長国連邦、イバード派はオマーン等が挙げられる。

 

信仰対象、聖典、預言者

唯一神アッラー

アッラー(Allāh)とは、唯一にして絶対なる神のことである。語源については、アラビア語で「神」をさす普通名詞イラーフ(ilāh)に定冠詞アル al- がついたものに由来するとするもので、一般名詞が固有名詞したもの、とする。英語における god God the God では意味が異なるのと同じ、というもの。もうひとつが「アッラー」それ自体が、唯一・絶対神の固有名詞とするもの。いずれもアッラーが唯一絶対とする、一神教の神であることを前提としたものである。そのためアッラーがアラブ人やイスラームのみの神としたり、「アラーの神」のような日本語の表現は不正確な認識である。(聖書のアラビア語訳や、ユダヤ教徒やキリスト教徒の書いたアラビア語の文書では、自らの信仰する神は全て「アッラー」と表現されている)

 

イスラム教徒にとってアッラーは、

1)永遠に自存する絶対的、唯一無二の超越的存在

2)世界の創造者であり、人間や全ての事物の運命を決定する存在

3)啓示を通して人間に語りかける存在。預言者を励まし、信徒を導く人格をもつ神である

4)信徒にとって一人一人がその僕として向き合うべき「我が主」

であるとされている。


アッラーの意志は、天使を経て預言者を通じて人類に明かされるが、「絶対的、唯一無二の超越的存在」であるため人間の理解を超越しており、その意志を完全に理解するのは不可能とされる。

 

アッラーは、この世の創造者であると同時に終末の日までに存在した全ての人類に審判を下す存在とされており、イスラームを信仰したものと信仰しないものを峻別する。ただし、イスラームを信仰しないものを地獄に落とすかどうかということについては諸説があり、後期アシュアリー神学による一説では預言者の宣教が届かない土地に居住する人間については、クルアーン1715節などを典拠としてイスラームの信仰に無関心な者であろうと救済すると考える。

 

アッラーは全ての人間に恩寵と苦難と与える存在で、世界の一切を知る存在であるため、人間の全ての行いを常に知っているという。そのため、イスラームの信仰を否むものは容赦なく来世には地獄へ落とすが、一片でも悔悟する者には限りない慈悲と慈愛をもって地獄から救うという。

 

イスラム教徒の信仰告白に「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒である」という一文があり、他宗教からイスラームへ改宗する時には、これをアラビア語で信頼できる成人のイスラム教徒2名の前で証言する事で、イスラム教徒となることが出来る。これは前段はアッラーが唯一神であることを告白するもので、後段はムハンマドから預言者として、その唯一神アッラーから神の言葉である聖典コーランと、それに基づいたイスラームの信仰を人類にもたらす使者(使徒)であることを認めることをさしている。アッラーが唯一神であることはユダヤ教、キリスト教でも同様だが、ムハンマドが神からイスラームの信仰をもたらした使徒であることを宣言する後段部分が、他の一神教とイスラームと分つ区別となっている。

 

イスラム教徒は、この唯一神アッラーを信仰対象とし、なおかつその使徒である預言者ムハンマドと、ムハンマドがもたらした神の言葉=聖典クルアーンに従って生きることを前提としているのである。

2024/05/16

カレワラ(フィンランド神話)(5)

16章〜第17章:ワイナミョイネンの船造り

ワイナミョイネンは、船を造ろうとする。ペッレルボイネンが、彼のために木を探す。それを以て船を造ったが、水に漕ぎ出す呪文が分からない。彼は、それを求めてマナラの太古の館(死後の世界)へ向かい、言葉を求めるが得られなかった。彼の帰還を邪魔するもの達を魔法で眠らせたり、姿を変えたりして逃れ、帰国する(第16章)。

 

彼は次に巨人のビプネンから言葉を聞き出そうと考え、イルマリネンに鉄の防具を作らせ、ビプネンの口の中に侵入した。ワイナミョイネンは、船を造って彼の腸内を探り回り、やがて腹の中に鍛冶場を作り大いに働いた。ビプネンはこれに驚き、多くの呪文で彼を排除しようとする。しかしワイナミョイネンが逃げ出さないので、あきらめて彼に多くの言葉を教え、彼はビプネンの口を出る(第17章)。

 

18章:イルマリネンの求婚

ワイナミョイネンは、ポホヨラの娘に求婚するために船を出した。それを知ったイルマリネンの妹アンニッキは、兄にそれを伝えた。イルマリネンはあわてて身支度をし、橇で彼を追った。両者は力づくで娘を奪うことはしないと約束し、ポホヨラへ向かった。ポホヨラの女主人は、やってくるのが求婚者2人と知ると、娘にどっちを選ぶか尋ね娘は若いイルマリネンの方がいいと答える。最初にワイナミョイネンが到着し、求婚するが、娘は拒否する(第18章)。

 

19章:イルマリネンと課題

イルマリネンは女主人に娘を求めると、彼女はその前に蝮の畑を耕して来るように求める。彼は娘のところに行って相談すると、娘は金の鋤と銀の鋤を鍛えるよう教える。彼はこれを作り上げ、畑を耕した。次にトゥオニの熊とマナラの狼をつないで来ることを求められる。娘に相談し、鋼の轡と鉄の馬ろくを作るよう教えられ、これをやり遂げる。

さらにトゥオネラの川から川カマスを取って来ることを求められ、娘に鷲を作ってそれにやらせるよう教えられる。彼は鷲を作り出し、鷲はカマスを食い殺す。ずたずたのカマスに文句がつくが、彼は改めて娘を求めた。ついに女主人はこれを認め、手打ちの歌を歌う。ワイナミョイネンは自分が老齢であることを認め、今後は老人が若い娘をもらわぬよう戒めた。

 

20章〜第25章:イルマリネンの婚礼

婚礼の準備に巨大な牛が殺され、ビールが作られる。お客が招待されるが、レンミンカイネンは招待されなかった(第20章)。

 

婚礼が始まる。歌い手としてワイナミョイネンが大いに歌う(第21章)。

 

宴は盛り上がり、いよいよ花嫁が花婿に引き渡される。花嫁は生まれ育った場所から引き離されることを嘆く。家政婦が彼女がいなくなること、これからの苦労を悲しむ歌を歌う。子供が激励の歌を歌う(第22章)。

 

花嫁の心掛けを説く言葉が告げられる。老婆は自分の過去を振り返り、その苦労などを語る(第23章)。

 

婿に対しても心掛けが説かれ、嫁を大事にするように告げられる。そして花嫁の決別の歌が歌われ、いよいよイルマリネンは花嫁を橇に迎える。橇はイルマリネンの家に向かった(第24章)。

 

実家では橇を待ち構え、花婿の帰還と花嫁の到着を歓迎する。歓迎の宴が行われ、出席者が次々に讃えられる。それからワイナミョイネンは橇に乗って故郷に向かうが、橇が壊れたので、トゥオネラの錐を手にいれるためにトゥオネラに赴き、帰還した(第25章)。

この部分は、結婚に関する祭礼などの歌を集めたものである。導入などにリョンロットの創作した部分がある。

 

26章〜第27章:レンミンカイネンのポホヨラ行

レンミンカイネンは、自分が招待されない婚礼があったことを知る。すぐに畑をなげうち、着飾って呼ばれぬ宴会に行くことを決意する。母や妻が押し止どめるが聞かない。母は、その行路に三つの死があると、また到着した地で三つの死があると言い聞かせる。しかし、彼は武具を身につけ出掛けた。予告どおりの危機をすべて脱して、彼は宴会に向かった(26章)。

 

彼は宴会に押し入り、そこで主人と魔法比べをする。さらに主人との決闘に勝ち、彼を殺す。女主人は怒って武者を多数呼び出し、彼を囲んだ(27章)。

 

28章〜第29章:レンミンカイネンの逃走

レンミンカイネンは家を逃げ出し、鷲に姿を変えた。ポホヨラの主人は鷹になって追う。レンミンカイネンは、自分の家に逃げ込んだ。母に聞かれて自分が主人を殺して追われていることを伝えた。母は、彼が二度と戦に出ないという誓いを立てさせた後、海原の小島に隠れるよう勧める(第28章)。

 

レンミンカイネンは食料を船に積んで出発する。島には乙女がいたので、彼が尋ねると、隠れるのはいいが開墾する場所はないと答える。彼は魔法の歌を歌って皆に御馳走を振るまって気に入られ、村中の女に手をつけた。ただ一人、醜い娘だけを相手にしなかった。レンミンカイネンは、旅に出る気になって船出の用意をしていると、彼女が現れ、自分を相手にしなければ座礁させる旨を告げる。それを無視して、ふと気が付けば、村中の男たちが彼を殺す準備をしていた。

レンミンカイネンは逃げようとしたが、既に船は焼かれていた。あわてて魔法で船を作り出し、旅立った。娘たちは泣いて見送った。レンミンカイネンは故郷に帰った。彼が故郷に帰って見ると、家がなくなっていた。ポホヨラの主人に攻撃された後であった。しかし、幸い母は無事で近くに小さな家を建てていた。彼は大いに喜んだ(第29章)。

 

30章:レンミンカイネンとティエラ

レンミンカイネンは、復讐のために戦に出ることを決める。そこで友人のティエラを誘うことにした。彼の家族は反対したが、彼はレンミンカイネンとともに出発した。船を進めると、ポホヨラの主人は魔法で氷を張らせ、船は壊れる。彼らは魔法で馬を出し、進行する。しかし、寒さのために進めない。

 

31章〜第33章:クッレルヴォの誕生と成長

ウンタモとカレルヴォは、ちょっとしたことからいがみ合うようになり、ついにウンタモはカレルヴォとその一党を滅ぼし、一人の女をつれ去った。その女が生んだのが、クッレルヴォであった。彼は非常に力強く成長した。父の殺害を強く恨みに思っていることを知ったウンタモは、彼を殺すことを試みたが、水に浸けても火で焼いても死ななかった。そこで彼を奴隷の子として育てた。しかし彼はどんな仕事もこなせず、子守をさせれば子供を殺し、開墾をさせれば畑も材木も壊れた。ウンタモは彼をイルマリネンのところへ売り払った(第31章)。

 

クッレルヴォは牧童をすることになった。主婦は家畜を送り出す歌を歌った(第32章)。

 

昼になり飯を食おうとすると、パンの中に石が入っていて父の形見の小刀を折ってしまう。彼は怒り、牛を殺し熊と狼を牛に歌い変え、それを連れて戻った。主婦は牛の世話をしようとして、熊と狼に襲われて死んだ(第33章)。

2024/05/11

大化の改新(2)

乙巳の変

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

 

そして、皇極天皇4年(645年)612日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制に終止符を打った。この蘇我氏本宗家滅亡事件を、この年の干支にちなんで乙巳の変という。この乙巳の変が、大化の改新の第一段階である。

 

新政権の発足

皇極4年(645年)614日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに倣おうとしたと推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

 

619日、孝徳天皇と中大兄皇子は、群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

 

85日、穂積咋を東国に国司として遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして、8組の国司を東国に派遣した。

 

鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に出家し吉野へ逃れていた。

 

古墳時代、大王と呼称された倭国の首長で、河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居である難波高津宮があったとされる現在の法円坂周辺へ、12月に都が飛鳥から再び摂津難波に戻り難波長柄豊碕宮とした。

 

改新の詔

大化2年(646年)春正月甲子朔、新政権の方針を示す改新の詔が発布された。詔は大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。詔として出された主な内容は以下の通りで、豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。

 

それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)

初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際に、この変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。

 

ü  戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)

ü  公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)

 

新政権の変遷

孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮から飛鳥へ、群臣もこれに従い孝徳天皇は全く孤立して、翌年に憤死する事件が起きた。この不和の背景には、孝徳天皇と中大兄皇子の間の権力闘争とも、外交政策の対立とも言われているが不明な点が多い。皇太子の中大兄皇子は即位せず、母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。

 

斉明天皇時代は、阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち、朝廷の支配権を拡大させた。一方で政情不安は続き、658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑された。

 

660年、伝統的な友好国だった百済が、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて、中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御する。662年、百済再興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡する。

 

日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった(668年には新羅によって高句麗も滅亡する)。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。中大兄皇子は、数年間称制を続けた後に668年に即位した(天智天皇)。670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての律令法典である近江令を施行している。

 

671年に天智天皇が崩御すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。

 

論議

蘇我入鹿暗殺のタイミングが、三韓朝貢の儀の最中である点。当時の常識として、外交儀式の最中にクーデターは起こさない(外交儀式中にクーデターを起こすことは、外交使節に対して国が内紛中で攻め込むに絶好の機会だと宣伝することと同義である)。また、仮に三韓朝貢が暗殺者の虚構だったとすれば、外交政策の中心人物である入鹿が気付かないはずがない。いずれにしても疑問があるとの指摘がある。

2024/05/09

イスラム教(9)

https://dic.nicovideo.jp/?from=header

キリスト教との関係

意外かもしれないが、イスラム教は聖書を聖典として認め、キリスト教の開祖であるイエス(イーサー)を五大預言者の一人に数えており、また、ユダヤ教・キリスト教と共通しているノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)、モーセ(ムーサー)もその中に入れている。これはイスラムのアラーとキリスト教のエホバの神が同一の神と解釈しており、イエスらが伝えきれなかったか誤伝された預言を、最後にして最大の預言者ムハンマドが伝え直したとされているためである。

 

逆に大きく違うのは、三位一体説(父:神と子:イエスと聖霊は結局一心同体である、要するにイエスは神でもあるという考え)が主流で、イエス自身が信仰されているキリスト教に対し、イスラム教はイエスを普通の人間と認識していることが大きく違う。イスラム教では、ムハンマドも一介の(最上で最後とはしているが)預言者としてしか考えられていないが、これはムハンマド自身が「崇拝すべきなのは神である」とし「自分はその言葉を預かっただけの、ただの人間に過ぎない」と宣言するなど、徹底的に個人崇拝を否定し続けたためである。

 

ちなみにキリスト教は当然、ムハンマドを預言者とは認めておらず、コーランもデタラメと解釈している。またユダヤ教は、イエスとムハンマド、そのどちらも預言者として認めていない。

 

西洋的な倫理観・価値観との対立

また、上記以外にも西洋的な倫理観や価値観(個人主義や民主主義、人権問題、男女同権など)と対立することも多い。

 

例えば、イスラム教では条件によっては16歳未満でも結婚出来るとされ、比較的近代的な法体系を備えるマレーシアでも、14歳の少女との結婚は条件を満たしていれば可能と判断された例がある。

つまり幼女と結婚できる。

預言者ムハンマド自身も、56歳の時に3番目の妻アーイシャ(当時9歳)との婚姻を「完成」させたとされているが、それはさておき。

またイスラム教国は一夫多妻制を認めている国も多く、この点も西洋諸国と対立している。

 

他にも、政教一致(近代国家は政教分離が基本である。但し世俗主義をとるトルコ、国教を決めていないインドネシアなど例外も多い)、死刑も含めた残酷な刑罰(鞭打ち刑、石打ち刑、報復刑)といった先進諸国が問題視しそうな物事は多い。

そのため「哲学や理念と言った点において、イスラムと西洋近代の価値観は必ずしも相容れないとは言えない」などの声明も欧米人を含む一部の学識者から出ているものの、そうした考え方は現実の政治的な動きに対して未だ大きな影響力を持つことの出来ない状態が続いている。

 

ジハードについて

ジハード(جهاد jihaad)は、日本語ではしばしば中二尤もらしく「聖戦」と訳されるが、これはほんの一面的かつ恣意的な解釈に過ぎない。アラビア語では「奮闘・努力」という日常的な言葉であり(例えばヒンズー教徒であるガンジーのインド独立に伴う活動も、アラビア語では「ジハード」と訳されている)、宗教的な文脈においては「ムスリムとしての奮闘・努力」を指す。その行為者形複数ムジャーヒディーン(مجاهدين mujaahidiin)も、宗教的な文脈において「ムスリムとして闘い励む者たち」となるが、これにも「聖戦士」「イスラム戦士」といった中二病な物騒なレッテルを安易に貼るべきではなく、「闘士たち、努力家たち」という素朴な本義がある事を憶えておくべきである。

 

ジハードは大きく「内へのジハード(大ジハード)」と「外へのジハード(小ジハード)」の2つに分けられる。前者は内なる自己に対する努力であり、ムスリムとしての自身を高めていくことを目標とし、信仰者の日常行為の規範として非常に重視されている。後者は外なる他者に対する奮闘であり、アッラーの定めに従うイスラム法による秩序の拡大・浸透が目標となる。

 

だからこそ、異教徒であってもイスラム法に従って人頭税さえ支払っていれば、今まで通りの宗教生活が保障されてきたのである。また、あくまでジハードの一手段に過ぎない「聖戦」にしても「異教徒が我々に戦いを挑んで不義を働いた場合に限る」とコーランに明記されているので、何でもかんでも戦いを吹っかけられるというわけではないのだ(その分、報復は執拗かつ容赦無いとも言えるが)。

 

しかし近年、ジハードは過激派イスラム教徒のテロの大義名分としてよく使われている。有名な例で「ジハードを行うと天国に行け、72人の処女を抱ける」というものがある。しかし、そうした主張については他のイスラム教徒から不適切であるという意見が出ることも多い。

 

また本来は(乱暴な例えだが)イスラム教徒版教皇とでも言うべき教主(カリフ)と呼ばれる教導的地位にある人物しか、このジハードは認定する事が出来ない。しかもこのカリフ位は、モンゴル帝国による侵略時に殺されて以来、新しい人物が立っていない。にもかかわらず最近では、ただイスラム教徒であるというだけで時には聖職者ですらない人物が「聖戦」を唱えるなど、明らかに怪しい使用例も多く見られる。

また、先行きの見えない貧困者や、まともな教育を受けない者たちに対し、過激派がテロや蜂起の決行を煽る為に、このような餌を使う例は古今東西に見られ、別にイスラム教に限った話でないことも心にとどめておく必要がある。