2024/07/31

これが「本物の柔道」だ(2024パリオリンピックpart4)

◆柔道

柔道男子81kg級の永瀬貴規選手が偉業を達成した。

前回の東京五輪に続く2大会連続金メダルだけでも凄いが、その前の2016年のリオデジャネイロ五輪でも銅メダルを獲得しているから、なんと3大会連続の五輪メダリストとなった。

 

柔道では、かつて「五輪3連覇」を成し遂げた野村忠宏選手と、5大会連続メダルの田村(谷)涼子選手(金2、銀2、銅1)など、凄まじい結果を残したレジェンドがいたが、それに続く偉業か。

 

さらに素晴らしいのは、全試合一本勝ちか技ありによる圧倒的な内容だったこと。海外のインチキチャンピオンらに見られる「姑息な反則勝ち狙い」とはまったく次元が違う。もっとも、そんなセコイ手を使う必要がないくらい危なげのない王者の貫禄で、世界選手権3連覇中の決勝相手をも圧倒し、格の違いを見せた。

 

ところで最近気づいたが、いつの間にか「効果」と「有効」がなくなっているではないか。その代わりに「指導」のバリエーションがやたらと増え、少しでも攻めが出ないとすぐに指導を出される。寝技に行こうとしても、すぐに止められてしまうなど、柔道の醍醐味がどんどんと消されていく。

 

「オリンピック柔道」というのは、日本で生まれた「柔道」という武道ではなく、海外で流行っている「JUDO」なるスポーツである、とは以前から指摘してきたが、回を重ねるごとに益々劣化していくのは実に嘆かわしい。

 

◆体操

女子団体決勝で、日本は8位に終わった。

前日に金メダルを獲得した男子とは違い、元々メダルには程遠い女子だけに、これまで過去の大会で女子が話題になることは殆どなかったが、今回は開幕前からセンセーションを巻き起こした。

ただし競技の実力ではなく、スキャンダルで・・・

 

大会直前にエースの宮田笙子の「飲酒喫煙」が発覚し出場辞退!

 

実はワタクシ自身も、10代の学生時代から酒もタバコも自由にやっていたから

「たかが酒やタバコくらいで大騒ぎするな!」

と、出場辞退(事実上の出場停止?)は納得いかない派である。

 

まあワタクシ自身の場合は、幸いにして(?)何の才能もないから宮田選手のように世の期待を背負ってもおらず、たとえバレたとしても何の影響もないのをよいことに野放図に好き放題やっていたものだが、今回のような開幕直前に発覚したところには意図的なものを感じ、余計に憤慨したのである。

 

もちろん、宮田選手が「たかが飲酒喫煙程度のことで」五輪に出場できなかったことへの同情は大いにあるし、いくら飲酒喫煙をしようが結果を出せるなら文句はないと思う。ただ仮に宮田が出ていたとしても、トップ国との総合力の差は歴然だけに日本のメダル獲得はまったく無理だったろう。

 

ここまで日本が獲得した金メダルは7個となり、オーストラリア、チャイナ(6)、地元フランス(5)を抑え依然トップを走る。アメリカはまだ4つだ。

2024/07/30

遠くて近い?「金」(2024パリオリンピックpart3)

◆体操

男子団体総合決勝

鉄棒、平行棒の2種目を残しチャイナが大きくリード。今回はロシアが不参加とはいえ、進境著しいアメリカ、イギリス、ウクライナなどの激しい追い上げもあり、熾烈なメダル争いは日本にとっても予断を許さない展開だ。

 

すでにチャイナとはかなりの点差を付けられていたこの時点

 

「もはや金は難しいが、なんとか銀を確保してくれ」

 

というジリジリする展開の中、最終種目の鉄棒で奇跡が起きた。

 

チャイナ選手が落下!

しかも一度ならず二度も!

 

予想外の形で、恐らくは当の選手ら自身も直前までは思いもしていなかったであろう「金」のチャンスが到来した!

 

ここで最後に登場してきたのは、エースの橋本大輝選手。言うまでもなく、前回東京五輪の個人総合金メダリストだ。が、この日はあん馬でまさかの落下をするなど、寧ろ足を引っ張って来たように、決して調子が良くなかったのかもしれない。しかしながら、この土壇場でさすがの底力を発揮し、2大会ぶりの団体総合「金」を決める演技を魅せた。

 

◆スケートボード

前回東京五輪金メダリストの堀米雄斗選手が、大逆転で2大会連続の「金」

東京五輪後のルール変更が堀米選手のスタイルに不利という見方もあり、今回は厳しいのではとの予想が多かったが、そんな予想を覆した見事な連覇を達成。さすがはオリンピックチャンピオンの底力というべきか、最後の最後で逆転するところは、やはり本番に強いタイプなのだろう。

 

一方、前評判は堀米選手以上で「金メダル候補」にも挙げられていた白井空良選手は、惜しくも4位に終わった。

 

それにしても、スケートボードといういかにも近代的な競技に似つかわしくない、解説者のボソボソとした陰気な喋りは何とかならんものかw

 

かつては「金メダル候補」や「ガチガチの本命」と期待されながら、プレッシャーで本領を発揮できずに期待外れに終わる日本の選手が多く「近くて遠い金メダル」の印象が強かったが、お家芸の体操男子団体や「新お家芸」スケボーなどは「遠くて近い金」となった。

 

◆柔道

女子の舟久保遥香選手、男子の橋本壮市選手が、ともに準々決勝で敗退。そこからも両者が同じように、敗者復活戦を根気よく勝ち上がって銅メダルを獲得した。

柔道競技としては3日連続の金メダルとはならなかったが、ここまでの3日間は阿部詩を除く5選手がメダルを獲得した。

舟久保選手、橋本選手が敗れた相手は、ともにフランスの黒人選手だった。ここまで「フランス代表」って黒人選手しか見てない気がするわ・・・

 

ちなみに女子決勝戦はカナダ選手とコリア選手の対戦となったが、どちらも片親が日本人という日系の選手で、日本に柔道留学をした選手だ。

かつてのマラソンや駅伝で日本に留学して頭角を現したアフリカ選手勢(ワキウリ、オツオリなど)もそうだが、留学生を一生懸命に鍛え上げて日本選手よりも強くして、金メダルを獲らせて喜んでいるバカモノ指導者は、世界広しと言えど間違いなく日本くらいなものだろう。自国民からは税金を取れるだけ搾り取って、海外に無意味な無償援助ばかりを繰り返しているバカ政治屋どもと見事に重なる。このような日本人のメンタリティを変えないと、日本は外国の食い物にされ続けるばかりだ。

 

◆その他

日本が総合馬術団体で銅となり、なんと92年ぶりのメダルを獲得。

 

一方、海外ブックメーカーのメダル予想で「金メダル候補」に上げられていた女子サーブル個人の江村美咲は、3回戦で敗退した。

 

ここまでのメダル獲得数は「金6、銀2、銅4」

過去には金メダルがひとケタの大会も多かったが、最近は様々な競技で金メダリストが誕生して今回も早くも金メダルが6個だ。これは開催国のフランスやチャイナ、アメリカなどを上回り依然トップである。

2024/07/29

怒涛のメダルラッシュ(2024パリオリンピックpart2)

日本が怒涛のメダルラッシュとなった。

 

□柔道

前回東京五輪では、そろって金メダルの快挙を成し遂げた阿部一二三&詩の兄妹。今大会も兄妹揃ってガチガチの金メダルの本命だ。

先に登場したのは妹の詩。2回戦からいきなり世界ランキング1位の強豪が相手とはいえ、先にポイントを取って完全に詩選手のペースに見えた。このまま順当に優勢勝ちかと思われた残り1分、相手の谷落としが決まりまさかの一本負け。

いかに優勢に試合を進めていようとも、一瞬のスキとたったひとつの大技で勝負がひっくり返ってしまう柔道の恐ろしさを、まざまざと見せつけられるような試合だった。

 

それにしても敗退後の会場に響き渡るような号泣は、オリンピックチャンピオンでもある超一流の武道家の振る舞いとして、あれはないだろうと思ってしまった。いや、オリンピックチャンピオンであろうがなかろうが、あのような品位に欠ける行為はあってはならないし、狼狽えて抱きかかえることしかできないようなコーチの醜態を観るにつけ、指導者がこんなテイタラクだからメンタルの指導も満足に出来なかったのかのだろう、などと皮肉の一つも言いたくもなる。

 

かつて詩選手よりも遥かに期待されながら、「まさかの敗戦」と言われた例は数多くあった(田村(谷)涼子など)が、たとえ不本意な結果であっても武道家としての礼儀作法まで忘れて、感情に流された例は少ない(意外にもレスリングの吉田は残念な例だったが)

 

まさかの詩選手の敗戦で、一気に重苦しいムードに包まれた日本チーム。そんな嫌なムードを振り払うように、兄の一二三選手が躍動。相手を全く寄せ付けぬような圧倒的な強さで一本勝ちを続け、見事な五輪連覇を達成。消化不良に終わってしまった妹の無念を晴らすような、胸のすく快進撃だ。

 

この一二三選手の、終始闘志を内に秘めたような冷静さと、武道家のお手本のような所作の美しさを観るにつけ、この兄なら万が一負けるようなことがあっても決して取り乱したりせず、淡々と振舞っていたのだろうなと思えた(しつこい?w)

柔道競技は2日が終わり、「金2,銀1」となった。

 

□スケートボード

女子ストリート

前回の東京五輪から採用されたスケボー。日本は4種目で「金3、銀1、銅1」とメダルを量産した。中でも女子ストリートで13歳の西矢選手が、女子パークで12歳の開選手が五輪最年少のメダリストとなり、話題をさらったのは記憶に新しい。

この日行われた女子ストリートでも、14歳の吉沢恋選手が「金」、15歳の赤間凛音が「銀」と、中学生のワンツーフィニッシュという快挙を達成。まるでスケボーが新しい日本の「お家芸」となったかのような勢いである。

 

□その他

フェンシング男子エペ個人で加納虹輝選手が「金」を射止め、この日だけで日本勢は金3つ。また競泳男子400メートル個人メドレーでは、松下知之選手が「銀」

 

大会5日目まで、日本のメダルは「金4、銀2、銅1」となり、あくまで暫定ではあるが現時点でメダル争いでトップを走る。

オリンピック開幕(2024パリオリンピックpart1)

 オリンピックが始まった。

「オリンピックオタク」のワタクシは、これで何度目のオリンピック観戦となるだろうか?

 

日本選手がメダルを量産したり、逆になかなかメダルが取れない大会など様々だが、それでもどうしても気になって見てしまうのがオリンピックなのだ。

 

勿論、日本の選手が活躍して、たくさんのメダルを獲ってくれるに越したことはないが、それ以上に各競技において世界最高レベルの選手が集まり、「4年に一度」という過酷な条件下で最高のパフォーマンス発揮し、人類の極限に挑戦する姿は何度見ても感動的なのである。

 

ということで今回も時間の許す限り、というよりはムリヤリ時間を作ってでもできるだけ観戦するつもりだ。

 

□柔道

 女子48キロ級の角田夏実が安定感抜群の柔道で危なげなく勝ち上がり、見事に金メダルを獲得。日本選手として、今大会最初の金メダルをもたらした。

 「お家芸」の柔道で、初日から「アベック金」が期待された男子60キロ級の永山竜樹は、準々決勝で23年世界王者のフランシスコ・ガリゴス(スペイン)に不可解な判定で一本負け。

 これまでも毎度のように、ド素人のへっぽこ審判による「不可解判定」に泣かされ続けてきたのが日本の柔道選手だが、今回は永山選手が犠牲者となった。それでもなんとか気持ちを切り替えて、敗者復活戦で勝ち上がってメダリストになったのは立派だったが、笑顔のない銅メダリストとなった。

 

□体操

 金メダル候補の橋本大輝。2021年東京五輪種目別鉄棒で金メダルに輝いたのは、記憶に新しい。今大会で五輪連覇が期待されたが、まさかの予選落ち。

 

□卓球

 混合ダブルスは張本智和&早田ひなという日本のエースコンビが、北朝鮮のペアにまさかの初戦敗退。21年東京五輪で、奇跡の金メダルを獲得した水谷隼&伊藤美誠組に続く日本の連覇の夢は、あっけなく絶たれてしまった。

 どうも日本は、五輪で北朝鮮との相性が悪いようだ。

 

□サッカー

 男子の一次リーグ初戦。南米の強豪パラグアイを序盤から圧倒した日本は、前半に先制して折り返すと、後半は怒涛のゴールラッシュ。後半だけで4点を奪う会心のゲームで「5-0」と圧勝。これ以上ない好スタートとなった。

 一方、女子は初戦でスペインに敗退。

 

□バレーボール

 優勝候補と言われている日本は、一次リーグ初戦でドイツに敗退。本当に優勝候補なのかいな?

2024/07/25

ウマイヤ朝(5)

https://timeway.vivian.jp/index.html

 ムアーウィヤは第三代正統カリフ、ウスマーンと同じウマイヤ家出身でした。自分こそがカリフになるべきだと考えて、アリーと合戦をします。これは勝負がつかないのですが、そのあとも両者は対立を続けた。やがて661年に、両者の対立に反対するグループにアリーが暗殺されると、ムアーウィヤは選挙ではなく実力でカリフになります。かれは、信者の選挙という形でカリフにならなかったので、正統カリフとは呼ばれません。

 さらに、かれは自分の子孫にカリフの地位を世襲させていきます。こうなると、イスラム共同体とは名目だけで、実質的には王朝です。

 

 そこで、ムアーウィヤがカリフになって以降をウマイヤ朝(661~750)といいます。

 首都はダマスカス。シリアの中心都市です。ムアーウィヤが総督として地盤を築いていたところを、そのまま首都にした。アラビア半島の外に首都を置いたのが、イスラムの発展ぶりを物語っていますね。

 

 こんなふうに教団上層部ではごたごたあるのですが、対外的にはイスラム教は領土的な発展をつづけます。

 

 東は中央アジアからパミール高原、西は北アフリカ沿岸を西進して、ジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島までを支配下に置いた。さらに、イスラム軍はピレネー山脈をこえて、現在のフランスにまで進撃します。当時、ここにはゲルマン人の一派であるフランク人が建てたフランク王国というのがあった。フランクはイスラム軍を撃退します。これが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732)。この戦いに敗れたイスラム勢力は、これ以上ヨーロッパには広がりませんでした。

 

ウマイヤ朝の政治の特徴について。

 ウマイヤ朝は、アラブ人至上主義をとります。領土が拡大して多くの民族が支配下に入りますが、支配者はあくまでも、イスラム教徒であるアラブ人だということです。そういう意味で、ウマイヤ朝はアラブ帝国と呼ばれることもある。

 

 ところが、イスラムは宗教ですからアラブ人以外にも入信する者が、ぼちぼちでてきます。民族が違っていても信者は平等です。アッラーの前ではみんな同じ。イスラム共同体、ウンマの一員なんですね。しかし、現実の政治ではウマイヤ朝はアラブ人だけに特権を認めて、他民族のイスラム教徒を対等に扱わない。

 そこで、非アラブ人のイスラム教徒による反ウマイヤ運動が起こってきます。

 

 また、シーア派という宗派が生まれました。暗殺されたアリーの子孫こそが正統なカリフである、という信仰を持つグループです。当然ムアーウィヤがカリフになったことを認めず、ウマイヤ朝の正統性を否定します。

 

 このシーア派は、ウマイヤ朝が滅んだあとも、アリーの子孫を教主と仰いでつづく。アリーの子孫は一二代目で途絶えましたが、シーア派はいろいろな分派に分かれながらも、現在まで大きな勢力としてつづいている。たとえば、現在のイランはシーア派を国教にしています。ムハンマドよりアリーを偉いと考える人たちもいるくらいですね。

 

 話を戻しますが、シーア派が誕生してウマイヤ朝の正統性を問題にするのですが、大多数のイスラム教徒は「ムアーウィヤがカリフになってもいいじゃないの」と考えていて、これらウマイヤ朝を認める人たちはスンナ派と呼ばれました。

 スンナ派は、現在でもイスラムの多数派です。

 

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アッバース朝

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 預言者ムハンマドの近親者で、アブル=アッバースという男がいた。この人はムハンマドの叔父さんの家系で、イスラム教の指導者層の一人なわけだ。だから、自分もカリフになる資格があると思っていて、機会を狙っていた。

 かれはイラン人シーア派の反ウマイヤ運動を利用して反乱を起こし、ウマイヤ朝を倒すのに成功した(750)。この新王朝をアッバース朝という。首都はバグダードです。

 

 アッバース朝は、アラブ人至上主義を批判する勢力の協力で建てられたので、民族差別をやめる。すべてイスラム教徒は同じ扱いにします。

 

 具体的にはアラブ人の特権を廃止して、それまで払わなくてもよかった土地税を課税する。政府の要職にイラン人を登用する。イラン人とはペルシア人のことです。かれらはアケメネス朝、ササン朝という大帝国を作ってきた民族でしょ。行政手腕を含めて、非常に高い文化を持っているわけです。

 かれらイラン人の力も加わってアッバース朝は中央集権化、官僚制度の整備をおこなっていきました。

 

 アラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝と対比して、アッバース朝のことをイスラム帝国ということもあります。アラブ人の国からイスラム教徒の国になったというニュアンスです。

 正統カリフ時代、ウマイヤ朝と発展してきたイスラムの総まとめの国です。アッバース朝以後、現代までイスラムの国は無数にあるのですが、イスラム世界がほぼ一つにまとまっていた最後の時代です。

 

 アッバース朝以後、イスラム世界は政治的に多様化していくのです。

 ムハンマドが無くなって百数十年、ムハンマドを直接知る人はいなくなったけれど、イスラム共同体=ウンマの理念が実体として感じられた最後の時代だと思います。

 

 最盛期は8世紀後半、第五代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代です。

 アッバース朝は10世紀以降は衰退して、名目だけの存在になるのですが、アッバース朝のカリフは宗教的な権威として、イスラム教徒の中で特別な存在でありつづけるのです。

 

 首都バグダードを建設したのは、第二代カリフ、マンスール。

 バグダードには「知恵の館」という総合学術機関が作られて、イスラム世界の学問芸術の中心となった。

 対外関係として、751年のタラス河畔の戦い。中央アジアでアッバース朝が唐の軍隊を破った。この時の中国人捕虜から、製紙法が西アジアに伝わった。

 

 アッバース朝は軍事力として、中央アジアのトルコ系遊牧民を導入した。かれらは騎馬戦術に優れていて、兵士として有能だったのですね。

 8世紀くらいから中国でもトルコ系軍人は大活躍で、安史の乱の安禄山もトルコ系ですし、それを鎮圧したウイグル人もトルコ系、五代十国時代の皇帝や軍人の中にもトルコ系の人がかなりいる。

 

 アッバース朝は、奴隷としてトルコ系遊牧民を買って軍人としました。この、奴隷軍人のことをマムルークという。身分は奴隷ですが、功績があれば富も軍人としての地位も手に入れることができる。古代ローマの奴隷のように、鞭でびしびし打たれている人たちではありません。

 これ以降、マムルークはイスラムの歴史の中でどんどん活躍するから、しっかり覚えておいてください。

 

 アッバース朝は領土が広すぎたので、10世紀以降は地方の総督、軍人や周辺民族などが自立して王朝としての実体はなくなっていきますが、宗教的権威だけで生き延びる。このアッバース朝を最終的に滅ぼすのが、カリフの宗教的権威に全然無頓着なモンゴルのフラグでした(1258)。

2024/07/23

玄奘(3)

https://dic.pixiv.net/

特に、インドや西域から教典をもたらし漢訳した人々を尊称して“訳経三蔵”“聖教三蔵”或いは“三蔵法師”と呼ぶ事が多い。

 

これまで「三蔵法師」の号で呼ばれた僧侶は複数居るが、通常は「西遊記」で御馴染みの玄奘三蔵を指す。

 

『西遊記』の玄奘三蔵

俗名は陳江流(ちん こうりゅう)。

生まれる前に賊に父・光蕊(こうずい)を殺され母・温嬌(おんきょう)を奪われて、生まれてすぐに川に流される(「江流」の名は、この過去の出来事に因む命名)が、古刹・金山寺の住職に拾われて養育され、後に同寺で受戒、「玄奘」の法名を授かった。修行の末、高僧として大成し、後に別れ別れになった温嬌とも再会を果たす。のち、二人で賊を告発して処刑させ、父の仇に報いる。

 

ここまでの出来事が『西遊記』にて、三蔵が受ける定めであった八十一難のうちの第四難までを占めているのだが、数多ある『西遊記』原本のバージョンによっては、冗長な樵と漁師の語らいに差し替えられている。

 

その後も修行を続けていたが、太宗皇帝が主催した大規模な仏事「水陸大会」(すいりくたいえ)の席上で観音菩薩の命を受け、天竺へと取経の旅へ遣わされる。その際、太宗皇帝と義兄弟となった。

 

実は前世で釈迦如来の第二の弟子、金蝉子(こんぜんし)であったが、仏法を軽んじた罪によって下界に落とされた。玄奘三蔵が金蝉子の生まれ変わりだと言う事は、金角・銀角をはじめとする天上から降ってきた妖魔にはほぼ常識であり、その肉を喰えば不老長生が得られ、その肉体と交わって元陽を受けた女怪は上位の神仙になれると信じられている。その為、道中ではしばしば妖魔に狙われる。

 

高僧とは言え凡人である為、孫悟空が倒した妖魔の変化を見抜けず悟空が人間を殺したと思い込んだり、悟空の忠告を聞かずに妖魔の手に落ちる事もしばしば。

 

女性であると誤解されるが・・・

現在の舞台やドラマでは女性が演じる事が多く、このせいで史実の玄奘を女性だと本気で信じ込んでいる人も多いが「法師」と記載されている通り、本来の性別は男である

 

天竺の霊山を登る途中、凌雲渡なる川にて凡人の肉体を捨てて悟空たちと同じ仙人・仏の肉体となる(このことは彼の前世の名前である金蝉子が伏線と言えよう。人間が仙人となるさいに、肉体を捨てる「尸解仙」と呼ばれる現象が蝉に例えられる事がある)。旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)という仏に成る記別を釈迦如来より与えられ、直後に一行の他四名ともども正果に達しその通りになった。

 

なお、「旃檀功徳仏」という名称は悟空の「闘戦勝仏」と同じく、大乗仏典で語られる「三十五懺悔仏」のメンバーに由来する。漢訳仏典側の表記では「栴檀功徳仏」(サンスクリット語名:Candanaśrī、チャンダナシュリー)だが、一般的な『西遊記』訳本の元になる事が多い世徳堂本、李卓吾本ではなぜか最初の一字が、このように変わっている。

 

史実上の玄奘三蔵

生没は602664年、隋代から唐代の変革期に生を受けた僧侶。

俗名は陳褘(チンイン)、諡は大遍覚(だいへんがく)

玄奘は僧名であり、また諱でもある。

 

僧の最高峰“三蔵”の号を得た高僧で、初代三蔵・鳩摩羅什(くまらじゅう/クマラジーヴァ)上人と共に「二聖」、そこに真諦・不空金剛の両大上人を加えた「四大訳経家」の一角に挙げられる。

のちに法相宗の開祖としても崇められることになる。

 

出家と修行の道

士大夫の家柄の出身者であり、恵まれた環境の中で勉学に励み、儒学の勉学に際して故事に則り自ら起立して学んだことから、幼いころから天才児として評判であった。

 

10歳のときに父と死別し、浄土寺で暮らしはじめる。そこでまた勉学に励み、11歳のころには「法華経」に「維摩経」という、経典でも難しい部類のものを誦するまでに成長した。

 

ほどなく得度(僧侶としての免許認定)を認定する度僧が行われると志願するが、年齢が若いとして受験を拒否されてしまう。それに対し、陳褘は試験会場の門前に待ち構え、それを知った当時の大理卿(法務大臣)が玄奘のもとを訪れた。

 

大理卿が

「何故僧になりたいか?

と問いただすと、陳褘は

「いずれは仏様と人々の縁を取り持ち、また僧になって仏様の遺されたこの仏教を、より高めていきたいからです」

と返答した。

 

大理卿は「この気骨ある少年を逃すには惜しい」と考え、特例で得度を認め、彼を正式に国家認定の僧侶とし、晴れて陳褘は出家して僧侶となり、「玄奘」と名乗ることになった。

 

その後は浄土寺で修行に邁進し、「涅槃経」を始めとした、さらに高度な経典や資料の修得していった。

そして21才で具足戒(一人前の僧として戒律を授かる儀式)を受け、荊州の天皇寺に移って修行を続けた。

 

西域へ

時代は唐代へと移り、玄奘は長年の研鑽から、経典と経疏(キョウショ/訳説本のこと)のあいだに埋めがたい誤差があることに気付き、それを修正したいと考えるになっていった。

 

そのためには国外へ仏跡を遍歴する旅に出て、インドで経典の原本を獲得するしかないと結論する。しかし建国間もない唐は、国状の不安定を理由にむやみな出国を制限しており、当然ながら玄奘の申し出は受け入れられなかった。

それでも諦めきれない玄奘は、死刑覚悟で役人の目を盗んで国外へ出奔する。

持って出られたのは、僅かばかりの荷物と老いたロバだけだった。

 

河西回廊(チベットへと向かう険しい山岳路)を抜けて高昌(チベットの小国家)に至り、高昌の王が熱心な仏教徒だったことから歓迎され、王から旅費を工面してもらうことが出来た。

高昌からは、商隊に交じってシルクロードに入り、その中でも死の道と恐れられる天山路を進む。

幾度も死の危機に面しながらも、ヒンドゥーク山脈を越えて遂にインドに至った。

 

しかし、当時のインドはグプタ王朝が壊滅して間もなく、エフタル族の侵攻でまともな経典が残されてはいなかった。それでも諦めずインドを遍歴し、遂に仏教の生きる地でナーランダ大学に辿り着き、賢戒(シーバトーラ)法師から「唯識」の教えを授かり、新王朝・ヴァルダーナの王で熱心な仏教徒であるハルシャ・バルダナに講義を為すなど、破格の待遇を受けるに至った。

 

その後、西域南路で657部もの経典と仏像数点を持ち帰り、帰国。

甘んじて極刑を受けるつもりの玄奘を待っていたのは、盛大な出迎えだった。

太宗皇帝と謁見を許され、その席で直々に労いの辞と国外出奔の罪を罷免を告げられる。

 

太宗は玄奘の西域に関する見聞を欲し、国政への参画まで求めたが、玄奘自身は持ち帰った経典の解読に専念したいと辞退し、太宗もそれを容認する。代わりに西域の事情を書物にまとめる事業を請け負い、これがのちの『大唐西域記』である。

 

その後もひたすらに経典の漢訳に尽力し、また次代の高宗皇帝とも詮を交わした。

拠点を弘福寺、のちに勅令から大慈恩寺に移し、経典群の翻訳を進めていく。

自らが持ち帰った経典と仏像の保存のための建造物の建立を申請し、大慈恩寺内に大雁塔を建立する。

そして最も重要とされる『大般若経』の翻訳を終えた100日後、62年の生涯を終えて寂した。

 

史実と演義の差異

ざっとまとめると、以下の点が違っている。

 

史実=玄奘、西遊記=三蔵

玄奘は地方役人の息子で自主的に出家、三蔵は孤児で拾われた寺でそのまま僧となる。

玄奘は主体的だが、三蔵は受動的。

玄奘は完璧超人的だが、三蔵はひよわで人間的。

この辺りは、演義の中で張飛や諸葛亮ら周囲の人物の活躍を際立たせる為に無力化させられた劉備と似ている。

2024/07/21

フィンランド神話(8)

 フィンランド神話は、18世紀まで口伝によって継承されてきた。

 

 フィン族は精霊信仰をベースに、世俗化はしたものの原始宗教的な伝説を守ってきた。狩り(ペイヤイネン Peijainen)や収穫、種蒔きといった儀式は、社会的イベントとして開催されたが、根底にある宗教的部分は全く欠落しなかったのである。

 

 周囲の文化の緩やかな影響によって、単一神教的な考え方から空神を主神格に上げたが、彼らにとっては空神も元来は他と同じ「自然界の存在の1つ」でしかなかった。 最も神聖視された動物の熊は、フィン族の祖先の化身と見なされていたため、具体的な名前を声に出して呼んだりせず、"mesikämmen"(草地の足), "otso"(広い額), "kontio"(陸に棲むもの)といった婉曲表現で呼んでいた。

 

 フィンランド古代の神々が「マイナーな異教神」になってしまっても、その精神は長年の伝統となって大多数のフィン族の生活に浸透しており、習慣としてその神々を大切にしている。神の大部分は、森や水路、湖や農業といった自然の事象と密接に関連している。

 

 歴史上フィン族の信仰に関する最初の記述は、1551年にフィンランドの司教のミカエル・アグリコラ (Mikael Agricola) が、新約聖書のフィンランド語版を紹介した時のものである。彼は、ハメ地方やカレリア地方の神や精霊について、多く記述している。 だがこれ以降、19世紀にエリアス・リョンロートがカレワラを編纂するまで、それ以上記録に留める人はいなかった。ただし彼も多少の改竄を加えているため、原文とは異なる。

 

●世界の起源と構造

 フィンランド神話の中では、この世界は鳥の卵が破裂してできあがったもの、とされている。また空は卵の殻かテントのようで、北にある北極星まで届く大きな柱が、それを支えていると考えられていた。星の動きは、北極星を中心に空の大きなドームが回転する事でおこると説明付けられていた。

 

 地球の端には "Lintukoto" (鳥の住処)と呼ばれる暖かい地域があり、冬の間鳥が住んでいた。天の川は "Linnunrata" (鳥の通り道)と呼ばれ、鳥は季節によってフィンランドとLintukotoの間を行ったり来たりすると信じられていた。フィンランドでは今でも、天の川の事をLinnunrataと呼んでいる。

 

 鳥の存在には、もっと別の重要性もあった。まず人が産まれる瞬間、その魂は鳥が運んできた。そして死の瞬間に運び去るのだ。また、枕元に木製の鳥の像(Sielulintu)を置いておくことで、夢の中で魂が道に迷って帰って来られなくなる事を防いだ。水鳥は物語ではごく普通の存在であるが、岩絵や彫刻に見られるように、古代人の重要な信仰の対象だった事をうかがわせる。

 

●死者の国トゥオネラ

 トゥオネラ (Tuonela) は死者の国である。そこは全ての死者が赴く地下の収容場所もしくは都市であり、死者は善悪を問わずそこへ行く。トゥオネラは全てのものが永遠に眠る、暗く生命のない場所であるが、優れたシャーマンだけが祖先の教えを請うため、トランス状態でトゥオネラに行く事ができた。

 

 トゥオネラに行くためには、魂はトゥオネラの暗い川を渡らなければならなかったが、正統な理由があれば魂を運ぶ船が来るという。シャーマンの魂は本当に死んでいるかのように信じ込ませ、トゥオネラの見張りを何度も騙さなければならなかった。

 

●空と雷の神、ウッコ

 ウッコはフィンランド神話中の主神であり、天空・天気・農作物(収穫期)と、その他の自然の事象を司る神でもある。現在のフィンランド語の「雷 (ukkonen)」がウッコの名前から派生したように、雷を司る事でも知られている。雷神としてのウッコは、彼のもつウコンバサラと呼ばれるハンマーから、稲光を発したという。

2024/07/15

ウマイヤ朝(4)

交易

ウマイヤ朝が実現させたパクス・イスラミカのなかでムスリム商人は経済力をつけ、中央アジアやインド、東南アジア、中国へと活動を広げた。

 

通貨

アラブによって征服された後も、東部のイランやイラクなどではサーサーン朝時代に用いられていたディルハム銀貨が流通しており、西部のエジプトやシリアではビザンツ帝国時代にディーナール金貨が流通していた。しかし、東西を結ぶ流通が活発になり経済が発達するにつれ、旧来の貨幣システムでは対応できない状況になった。695年、第5代カリフであるアブドゥルマリクは、純粋なアラブ式貨幣を鋳造して流通させることを決定し、表にクルアーンの章句を、裏に自らの名を刻んだ金貨と銀貨を発行した。

 

新貨幣にクルアーンの章句が刻まれたことで、保守派の宗教家がこの貨幣の発行に反対したが、一時的なものに終わった。この貨幣の発行により貨幣経済の進展は加速され、官僚や軍隊への俸給の支払いも現金で行われるようになった。

 

軍事

ムカーティラ

成年男子のアラブ人ムスリムは、ディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)でムカーティラ(兵士)として登録された。総督は軍事活動の必要が生じた際に登録台帳に従ってムカーティラを徴兵し、出動させる権利があった。ムカーティラは、この徴兵に従う代わりに現金俸給であるアターや、現物俸給であるリズクを受け取る権利を与えられた。こうした俸給は膨大な額であったが、これらの大部分はズィンミーから徴収したハラージュで賄われていた。

 

宗教

ウマイヤ朝はイスラーム王朝であったが、住民のほとんどはムスリムではなかった。キリスト教が主流だったシリアやエジプトでは、キリスト教がビザンツ帝国の政治と切り離されたことで、異端とされていた合性論派が主流となり、シリア正教会やコプト正教会が形成された。イラクでも、異端とされていたネストリウス派が勢力を拡大させた。

 

サーサーン朝の支配地だったイランなどでは、ゾロアスター教が主流だった。しかし、サーサーン朝の滅亡と共に宗教組織が消滅し、ゾロアスター教は急速に衰退していった。いずれの被支配地域においても、ビザンツ帝国やサーサーン朝など当時の政治権力と結びついていた宗教組織が消滅し、民衆と結びついた宗教組織が成立していった。

 

イスラーム神学

ウマイヤ朝の末期近く、シリアでカダル派が誕生した。カダル派は、人間は自由意志を持っており、自分の行動に責任を持っていると主張し、人間は自分の行為を創造するという「行為の創造」を中心的なテーゼとして掲げた。ウマイヤ朝の支配を受け入れたカダル派は、ウマイヤ家を背教者とするハワーリジュ派と激しく対立した。

 

また、ハワーリジュ派と対立する学派として、ムルジア派が存在した。彼らは、何の落ち度もないうちからウマイヤ家を正統でない支配者と決めつけるべきではないが、クルアーンの規範に背いた場合は厳しく非難すべきだとした。また、信仰による罪の救いを強調していた。この学派の支持者には、後にイスラーム法学という学問分野を開拓したアブー・ハニーファがいた。

 

ワースィル・イブン・アターは、穏健なムゥタズィラ学派を創始した。この学派は人間の自由意志を重視し、全ムスリムの平等を主張したという点ではカダル派と同じだったが、ムゥタズィラ派は神の公正さを強調し、自分のために他人を利用するムスリムに対しては非常に批判的だった。この学派は、その後100年に渡ってイラクの知識人世界で主流となった。

 

イスラーム法学

イスラーム法学は、内乱後に生まれた不満に起源をもつ。人々はウマイヤ朝による統治の問題点について話し合い、イスラームの信条に従って社会を運営する方法を議論していた。バスラやクーファ、マディーナ、ダマスクスでは、初期の法学者が各地に即した法制度を提案したが、クルアーンには法律的な要素がほとんどなかった。そのため一部の法学者はハディースの収集を始め、別の法学者は自らの町のムスリムが実践している慣行を遡って、何が正しいのかについての知識を得ようとした。

 

文化

カイラワーンの大モスク

ダマスカスのウマイヤ・モスク:現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である

 

言語

イラク地方のバスラやクーファでは、移住者によってさまざまなアラビア語方言が話されており、共通語としての文語を確立するために2つの町の学者はそれぞれ学派を形成して文法の精緻さを競った。

 

学問

サーサーン朝時代のイラン南西部には、ホスロー1世が設けたギリシア学術の研究所があり、ガレノスの医学書やアリストテレスの論理学などをシリア語に翻訳させていた。この地域を支配したウマイヤ朝は、こうしたシリア語の訳書をアラビア語に翻訳していた。しかし、ウマイヤ朝において、これらの学問は初歩的な段階に留まっていた。

 

建築物

ウマイヤ朝時代は、初期イスラーム建築が建設された時代である。サーサーン朝の影響を色濃く受けているが、首都がダマスカスに置かれてこともあり、ビザンティン建築の影響もわずかながら受けている。

 

ウマイヤ朝時代に建設され、現存する建築物の代表格が、ダマスカスに残るウマイヤド・モスクと、エルサレムの岩のドームである。岩のドームは、第5代カリフアブドゥルマリクによって692年によって建設され、692年に完成した。イランのタイル職人やビザンツのモザイク師、エジプトの木彫り工などが建設に加わり、様々な文化が融合した建築になっている。また、大征服を展開する中で、新しい都市が建設された。その中でもウマイヤ朝時代の建築が残るのが、670年に建設された北アフリカのカイラワーン(現チュニジア)である。

ヨルダンには、未完成で建設を放棄したムシャッタ宮殿がある。

 

音楽

10世紀中葉のアッバース朝期に成立し、イスラーム成立以降の音楽と歌手に関して伝える唯一の歌手伝である『歌書』には97人の歌手が掲載されており、このうち32人がウマイヤ朝期に活動した。マアバドやイブン・スライジュ、イブン・アーイシャなどは、第9代カリフであるワリード1世から第11代カリフであるワリード2世の時代を中心に宮廷歌手としてカリフに寵愛された。また、ウマル2世やワリード2世といったカリフたちも、作曲家として名を連ねている。

 

『歌書』に掲載されている歌手たちの一部は、サーサーン朝やビザンツの音楽を学んだのちにウマイヤ朝の宮廷で活躍していたとされており、『歌書』の成立時にはウマイヤ朝の宮廷音楽の起源は、サーサーン朝やビザンツの音楽にあると考えられていたという。

2024/07/13

玄奘(2)

ナーランダ僧院

ナーランダ僧院では戒賢(シーラバドラ)に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している。

 

こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観191月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。

 

太宗が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗の思惑があったとする見方もある。事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』である。

 

帰国後

帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)26日から、弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は、後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。麟徳元年25日(66437日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂した。

 

訳経

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玄奘自身は、亡くなるまでに国外から持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったが、それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16600巻(漢字にして約480万字)を含め761347[6](漢字にして約1100万字)に及ぶ。玄奘はサンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。

 

『般若心経』も玄奘が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩は、鳩摩羅什による旧訳では『観音経』の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、サンスクリット語「Avalokiteśvara(アヴァローキテーシュヴァラ)」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を批判している。

 

一説では、時の唐の皇帝・太宗の本名が「李世民」であったため、「世」の字を使うことが避諱により憚られたからともされる。

 

宗派

玄奘自身は、明確に特定の宗派を立ち上げたわけではないが、彼の教えた唯識思想ともたらした経典は、日中の仏教界に大きな影響を与えた。

 

法相宗

法相宗の実質的な創始者は、玄奘の弟子の基である。しかし、『仏祖統紀』などは、玄奘とナーランダー留学時の師である戒賢までを含めた3人を法相宗の宗祖としている。

 

日本の法相宗

遣唐使の一員として入唐した道昭は、玄奘に教えを受けた。 道昭の弟子とされるのが、行基である。

 

著作・伝記

玄奘の作品

玄奘自身の著作である『大唐西域記』により、彼の旅程の詳細を知ることができる。玄奘の伝記は仏教関係の様々な書物に記載されているが、唐代のものとしては『大慈恩寺三蔵法師伝』と『続高僧伝』がある。

 

大唐西域記

玄奘は、その17年間にわたる旅の記録を『大唐西域記』として残しており、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える貴重な歴史資料となっている。

 

大慈恩寺三蔵法師伝

慧立と彦悰により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる垂拱4315日(688年)に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成した。略称は『慈恩伝』。

 

大正新脩大蔵経では、『大唐大慈恩寺三藏法師傳』としてNo.2053に収録されている(T50_220c)。また、興福寺と法隆寺の所蔵する院政期の写本は共に国の重要文化財である。

 

日本語訳

『続高僧伝』は、道宣の編纂した中国僧の伝記集。ただし、『続高僧伝』が完成した645年は玄奘の帰国直後であるのに対し、玄奘の項には664年の死までが記されている。

 

派生したフィクション作品

中国映画『三蔵法師・玄奘の旅路』(2016年)

西遊記

元代に成立した小説『西遊記』は、『大唐西域記』や 『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえたうえで書かれており、玄奘は三蔵の名で登場している。

 

なお、三蔵法師とは経、律、論の三つに精通している僧侶に対して皇帝から与えられる敬称であり、本来は玄奘に限ったものではない。例えば鳩摩羅什、真諦、不空金剛、霊仙なども「三蔵法師」の敬称を得ている。だが今日では、特筆すべき功績を残した僧侶として「三蔵法師」といえば、玄奘のことを指すことが多くなった。

2024/07/06

ウマイヤ朝(3)

政府と行政

カリフ位

ウマイヤ朝によって、カリフ制度は王朝的支配の原理として確立された。ウマイヤ朝において、カリフ位はウマイヤ家の一族によって占められ、なおかつ14人のカリフのうちムアーウィヤを含めた4人は子にカリフ位を譲った。後に発展したスンナ派の政治理論では、正統カリフ時代は共同体による選出と統治委任の誓いによって統治に正統性が生じていたとされており、ウマイヤ朝はこの理論から逸脱している。しかし、嶋田 (1977)は、アラビアでは家長の地位が父から子に伝えられた事例は多く、カリフの父子継承は、ウマイヤ家の家長としての地位を譲ることを国家制度の領域にまで拡大させたことであるとしている。

 

ウマイヤ朝のカリフは全員がウマイヤ家の一族だが、最初の3代のカリフと残りの11代のカリフは、ウマイヤ家の中の異なる家系に属している。ムアーウィヤから第3代カリフであるムアーウィヤ2世までは、ムアーウィヤの父であるアブー・スフヤーンにちなんでスフヤーン家と呼ばれ、第4代カリフであるマルワーン1世以降のカリフは全員が彼の子孫であるため、マルワーン家と呼ばれた。

 

意思決定

正統カリフであったアブー・バクルやウマルは、重要な意思決定の際にムハージルーンの長老らに意見を求めていた。この一種の合議制は、マディーナ時代には有効に作用したものの、ムアーウィヤはダマスクスに都を置いたため、ムハージルーンの意見が政策に反映されることはなくなり、カリフが自ら政策を決定できるようになった。

 

カリフの私的な諮問機関として、アラブ有力部族の族長会議であるシューラーと代表者会議であるウフードが設けられ、必要に応じて招集されたが、これは説得と同意を取り付ける場に過ぎなかった。これはムアーウィヤとヤズィード1世の時代において、有効に機能したと言われる。

 

行政官庁

正統カリフ時代には、行政官庁に当たるものはウマルが創設した、ムカーティラ(兵士)の登録と俸給の支払いを司るディーワーンがあるのみだったが、ウマイヤ朝初代カリフであるムアーウィヤは、これをディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)と改名したうえで、租税の徴収を司るディーワーン・アル=ハラージュ(租税庁)や、カリフの書簡を作成するディーワーン・アッ=ラサーイル(文書庁)、それを保管するディーワーン・アル=ハータム(印璽庁)を設立した。これらのうち、ディーワーン・アル=ジュンドとディーワーン・アル=ハラージュが、国家機関のほとんどすべてであった。これらの中央官庁は行政州に出先機関を持ち、それらの支所は行政州の管轄に置かれた。

 

ディーワーン・アル=ジュンドなどの行政官庁ではアラビア語が用いられていたが、ディーワーン・アル=ハラージュでは各地の言語が用いられていた。第5代カリフであるアブドゥルマリクは改革に着手し、697年には彼の指示を受けたハッジャージュが、イラク州の官庁で用いられていたペルシア語をアラビア語に変える命令を下した。また、700年にはシリアでギリシア語から、705年にはエジプトでコプト語から、742年にはイランでペルシア語から、それぞれアラビア語への切り替えが行われた。こうした行政言語の切り替えによって官庁で働く役人も、各地のズィンミーに代わってアラブ人が重用されるようになった。

 

総督

大征服が行われるにあたり、カリフに任命された遠征軍の司令官は進路や作戦行動などを全て一任され、政府は基本的にこれに干渉しなかった。また、それぞれのミスルの軍の征服地が、そのままミスルの行政や徴税の範囲となり、行政州が形成された。司令官が行政州の総督となり、ミスルは行政州の首都となった。これによってウマイヤ朝は、各行政州単位の地域連合となった。各州の総督はカリフにより任命されたが、シリア州のみは首都州としてカリフの直轄地となった。総督はカリフの代理として集団礼拝の指導や遠征軍の派遣、カーディーの任命、治安維持などの任についた。

 

総督はアルメニア、イエメン、イラク、エジプト、キンナスリーン、ジャズィーラ、パレスティナ、ヒムス、マディーナ、マッカ、ヨルダンなどに置かれた。マディーナや、アルメニアといった、ビザンツとの国境地帯の総督にはカリフの親族が重用されたが、アブドゥルマリクやワリード1世の時代を除くと、総督にカリフの親族が重用されることはほとんどなかった。

 

司法

ウマイヤ朝の中期以降、イスラームの司法制度が整えられた。これは各行政州にカーディーが任命されたことを指す。正統カリフ時代において、カーディーは地方公庫の管理者や部族間紛争の調停者に過ぎなかったが、ウマイヤ朝の第二次内乱以降は裁判官としての面が現れ、ウマイヤ朝の末期までには全国に任命された。しかし、当時は司法権は行政権の元にあったため、カーディーの判決はカリフや総督によって覆されることがあった。

 

裁判官としてのカーディーの出現はイスラームを生活の規範として確立させ、イスラーム法の体系化と成文化へとつながった。

社会・経済

税制

現在のイスラーム法ではジズヤは人頭税、ハラージュは地租税を指すが、ウマイヤ朝時代にはこのような区別はなく、行政用語ではジズヤ、旧サーサーン朝支配下ではハラージュと呼ばれていた。しかし人頭税と地租税は、それぞれ「首のジズヤ」または「首のハラージュ」、「土地のジズヤ」または「土地のハラージュ」と呼ばれて区別されていた。ウマル2世は、改宗したズィンミーからの租税の徴収の免除を行った。この際に彼はジズヤの免除と言ったため、このとき初めて人頭税がジズヤ、地租税がハラージュであるというイスラーム法の用語が確定した。

 

ハラージュは耕地面積に応じて貨幣と現物との二本立てで、村落共同体単位で徴収された。現物での徴収は、収穫のほぼ半分に及んだという。

 

こうしたジズヤやハラージュは、非ムスリムであったズィンミーに課されており、アラブ人地主などはウシュルと呼ばれた十分の一税のみを収めていた。

 

マワーリー

重税に苦しんだ非ムスリムの農民は、土地を棄てて周辺のミスルに流れ込み、イスラームへ改宗した。こうした改宗者はマワーリーと呼ばれる。彼らは移住先のミスルで貴重な労働力となったが、その一方で農民が減ったことで税収が減り、政府は財政の基礎を守るため彼らを元の村に強制的に追い返した。

 

8代カリフであるウマル2世は、イスラームへの改宗を自由に認めたうえでミスルへの移住や、マワーリーへの俸給の支給を決定した。しかし、こうした改革は芳しい結果はもたらさなかった。マワーリーはミスルで生計を維持することが出来なかったため結局、農村に留まって重税を払って生きるほかなく、むしろ現場の徴税官の間に混乱が広がって税収はかえって減少した。

 

南北アラブの対立

古代のアラブは、イエメン地方に住んでいた南アラブ族とシリアなど北部に住んでいた北アラブ族の大きく2つに分けられており、それぞれ古代南アラビア語と古代北アラビア語、南アラビア文字と古代北アラビア文字など異なる言語や文字、文化を持っていた。両者は、イスラームが興る前から入り混じって生活していたが、ムアーウィヤが都を置いたダマスクスがあるシリアには、南アラブが多く住んでいた。彼は南アラブのカルブ部族の女性と結婚し、その子であったヤズィード1世もカルブ部族の女性と結婚して、南アラブとの親善関係を保つことに努めた。しかし、各ミスルではアラブの系譜意識が深まり、自らの出自で政治的な党派が作られるようになった。この南北アラブの党派争いは総督の地位をめぐって争われ、カリフの選出にも影響を及ぼした。

2024/07/04

玄奘(1)

玄奘(げんじょう、602 - 66437日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(ちんい)。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。玄奘三蔵と呼ばれ、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされる。

 

629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って、645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。

 

生涯

仏教への帰依

陳褘は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い洛州緱氏県(現在の河南省洛陽市偃師区緱氏鎮)で陳慧(または陳恵)の四男として生まれた。母の宋氏は洛州長吏を務めた宋欽の娘である。字は玄奘で、戒名はこれを諱とした。生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。

 

陳氏は、後漢の陳寔を祖にもつ陳留出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。特に曽祖父の陳欽(または陳山)は、北魏の時代に上党郡太守になっている。その後、祖父である陳康は北斉に仕え、緱氏へと移住した。

 

8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳褘の神童ぶりが評判となった。

 

10歳で父を亡くした陳褘は、次兄の長捷(俗名は陳素)が出家して洛陽の浄土寺に住むようになったのをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。ほどなくして度僧の募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の大理卿である鄭善果は、陳褘に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、陳褘は度牒を得て出家した。こうして兄と浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。

 

武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄と長安の荘厳寺へと移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。かつて煬帝が洛陽に集めた名僧らは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人を尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究を進め、歴史や老荘思想への見識を深めた。

 

武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘は一人で旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。

 

西域の旅

玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国し、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。

 

高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせた。玄奘は西域の商人らに混じって、天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。