2025/11/03

親鸞(1)

親鸞(しんらん、承安341 - 弘長21128日)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。

 

法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の草稿本が完成した1224年(元仁元年415日)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

 

生涯

親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物(『御伝鈔』など)によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

 

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

 

時代背景

永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。

 

保元元年(1156年)79日、保元の乱起こる。

 

平治元年(1159年)129日、平治の乱起こる。

 

貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。

 

誕生

承安3年(1173年)41日(グレゴリオ暦換算 1173521日)に現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿 (まつまろ)」。兄弟全員が出家しており、母は源義朝の娘で、親鸞は源頼朝の甥にあたるとの研究もある。

 

治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。

 

幼少期、平家全盛の時で、母(貴光女)は源氏の各家の男子は、ことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが、元を正せば天皇家の血筋でもあった。

 

治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、42300人とされる。(『方丈記』)

 

戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。

 

出家

治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。

 

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、

 

「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

 

と詠んだという。無常観を非常に文学的に表現した歌である。

 

出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。天台宗は「法華経」を重視した宗派だったが、そもそも「八幡太郎」の嫡流は八幡神社思想が「三つ子の魂」で「法華経」はなじまなかったという学説がある。

 

建久3年(1192年)712日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。

 

六角夢告

建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年45日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、

 

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

 

意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」

 

という偈句(「女犯偈」)に続けて、

 

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

 

の告を得る。

 

この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。

 

入門

法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう)の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、次第に法然に高く評価されるようになる

 

『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。また、その年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。

 

『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ[18]」と記されている。

 

『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに」と記されている。

 

元久元年(1204年)117日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である。このことから元久元年117日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる[20]

 

元久2年(1205年)414日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2414日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。

 

元久2年(1205年)閏729日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない。改名の名はについて石田は「善信であったとされる。」としている。