2025/03/07

アッバース朝(9)

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概要

西暦750年から1258年ごろまで存在したとされる国家。ムハンマドの親族としてカリフとなったアッバース家の当主が、中東諸地域を統治したもの。つまり宗教上の教主と世俗の帝王が同一人物である教団国家である。先代のウマイヤ朝が、アラブ人の特権を前提に成立したのでアラブ帝国とも呼ばれるのに対し、イスラム教徒は平等であることを謳ったのでイスラム帝国とも呼ばれる。最大領土は現在の西アジア、北アフリカ、西南ヨーロッパにまで及んだ。

 

歴史

イスラム教の開祖、ムハンマドが西暦632年に世を去ったのち、イスラム教団ではカリフという代理人を置くことになった。カリフは預言者ムハンマドの代理人として行政を統括し、イスラム法学者(ウラマー)たちが、合議によって定めた教義を信者に順守させる権限を持つ。4代に渡って、このカリフがイスラム教団を治めて、これを正統カリフ時代とも呼ぶ。だが、暗殺された第3代ウスマーンの親族であったウマイヤ家が、第4代アリーを暗殺の黒幕とみなして戦いを挑み、ついには660年に自らカリフを称した。これがウマイヤ朝である。アリーはほどなく暗殺され、ウマイヤ朝がイスラム教団を率いるカリフとなった。しかし、このカリフ選出には異論が多かった。アリーの支持者はシーア派と呼ばれてウマイヤ朝と戦いを続け、またアラブ人としての特権を持たないイスラム教徒の反乱も起こった。

 

アッバース家のサッファーフはムハンマドの親族の血筋であり、749年にもろもろの反乱勢力を統合してカリフと認められ、ウマイヤ朝に挑む。この勢力統合には、非アラブ人のイスラム教徒であって、大きな勢力を有するペルシア人の協力が必須であり、アラブ人への年金停止と非アラブ人だけに課せられた人頭税の廃止が行われ、イスラム教徒間の平等が確保された。サッファーフは、750年のザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝の軍勢を壊滅させ、ウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領して、ウマイヤ家をほぼ皆殺しにした。ただし、残党の一部はスペインに逃れて、後ウマイヤ朝を創始した。

 

後ウマイヤ朝はアミール(総督)と名乗り、アッバース朝の権威は認めずカリフは空位と主張した。また、ウマイヤ朝滅亡後は、シーア派は厳しく弾圧されることになった。第2代カリフのマンスールは首都としてバグダッドを建設し、第5代ハールーン・アッ=ラシードの時代に全盛期を迎えた。バグダッドは、人口150万人ともいう世界最大の都市となり、全ユーラシア経済の中枢ともなった。この当時に、アラビア・ペルシャ各地の伝承がまとめられて生まれた説話集が、『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』である。

 

ハールーン・アッ=ラシードの死後は、カリフ位をめぐる後継者争いが深刻化し、地方の武将が自立して独立王権を築くようになって、アッバース朝の領域は縮小していく。909年にはチュニジアにシーア派のファーティマ朝が建国され、アリーの子孫としてカリフを名乗った上でエジプトにまで領土を広げた。929年には、後ウマイヤ朝もカリフを称した為、アッバース朝カリフの権威は大きく損なわれた。さらに945年に、シーア派のブワイフ朝がバグダッドを占拠して世俗上の支配権を奪い、カリフには宗教的な権限しかなくなってしまった。

 

アッバース朝カリフはセルジューク朝を利用してブワイフ朝を追い、さらにセルジューク朝やホラズムといった諸勢力とあるいは同盟して軍事力を利用し、あるいは対立して政治的支配権を取り戻そうと争う。1171年にファーティマ朝が断絶すると、その遺領を支配したアイユーブ朝のサラディンは、アッバース朝カリフの権威を認めると宣言した。しかし、それで失われた権威が取り戻されたわけではない。

 

アッバース朝の最期は1258年、モンゴル帝国のバグダッド征服による。アッバース家はほぼ皆殺しとなり、滅亡した。だがその親族がエジプトに逃れて、マムルーク朝のバイバルスによってカリフとして遇された。1517年、オスマン帝国に滅ぼされるまで、エジプトに名目上のカリフが存在し続けることとなった。

 

文化

イラン東部は正式な建国前の747年には、アッバース家側の総督が制圧していた。その部下、ズィヤード・イブン・サーリフは751年、唐の将軍高仙芝とタラス川の岸辺で戦った。当時の東西大国の決戦であり、これをタラス河畔の戦いと呼ぶ。戦はアッバース朝の勝利となり、西域のイスラム化が進んでいく。同時に唐軍の捕虜によって製紙法がイスラムに伝わり、後に欧州にも伝播して印刷技術発展の礎ともなった。

 

7代カリフのマアムーンは、「知恵の館」という図書館を建設してギリシャ語の科学文献を大量にアラビア語に翻訳させた。以後、アラビア人において科学研究が盛んになった。例えばアラビア数字は現代まで使われている数字記法となり、医学では患者の状態をよく観察し衛生や薬の処方を行う実践的な医術が発展した。イブン・アル=ハイサムは眼の機能を調べ、光を集めることでモノが見えるという原理を発見した。他に光が屈折することも発見し、「光学の父」と讃えられる。またイブン・アル=ハイサムが行った科学的な実験の方法は、のちの世界各国の科学者たちに大きな影響を与える。

2025/03/03

アッバース朝(8)

イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴いアッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを預言者イドリースあるいはウフノフと同一視することで預言者を持ち、至高神として第一原因を観念するといった一神教化を遂げる。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する。

 

アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは、主にカイサーン派とザイド派のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家のムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクの支持者は当時、必ずしも多くなかったようである。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、イマーム派のなかから生まれた。

 

イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという。

 

5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは、近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。

 

7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。

 

アルフラガヌスは、第7代カリフ・マアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。

 

知恵の館の主任翻訳官を務めたフナイン・イブン・イスハークは、プラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。

 

サービト・イブン=クッラは、ペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。

 

シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。

 

アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。

 

イスラム神学 

初期アッバース朝時代に、公認の教義とされたイスラム神学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は、合理主義的な解釈に特徴がある。マアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。

 

文学

アラビア語で書かれた千夜一夜物語

様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。

 

この物語の国際性は、帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。

 

千夜一夜物語には、ユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。

 

10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。サアーリビーは、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。タヌーヒーは、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話はマカーマという文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評されたアル・ハマザーニーがマカーマを創始し、アル・ハリーリーが大成した。百科全書的な書籍としては、アブル・ファラジュによるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。

 

イスラム文明とヨーロッパ

アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムは、ユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡は、アラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。

2025/02/27

ミクロネシアの神話伝説(4)

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【エタオとジェメリウットの訣別】

エタオとジェメリウットが、マジュロ島を訪れたときのことです。2人が小道を歩いていくと、向こうから大きなサーフボードを担いだ男がやってきます。2人と出会っても道を譲ろうともせず、2人のほうが道をゆずりました。エタオはこのことに腹を立て、サーフボードを思い切り重くして、おまけに2度と肩からはずれないようにしてしまいました。

 

ジェメリウットは、ちょっと気が引けましたがエタオは笑っています。サーフボードの男は

「俺は今まで色んな魔術師を見てきたが、あんたのような偉大な魔術師には出会ったことが無い。俺が悪かった。どうか助けてくれ。」

と懇願し、おだてに弱いエタオはすぐさま術を解いてやったばかりか、ボードも軽くしてやりました。

 

ジェメリウットは、弟のこういうわがままさに辟易してきました。ジェメリウットは、この島で極上の美人と結婚することにしたのですが、弟に知れると何をされるかわからないと考え、秘密裡に結婚して人里離れたところに家を構えました。しかし、エタオが知らないわけはありません。島の人達みんなとの宴会の時、エタオは魔法の虫をジェメリウットの着物に這わせていき、身体中を痒くさせました。たまらなくなったジェメリウットは、みんなの前で着物を脱いで裸にならざるを得ず、大恥をかいてしまいました。

 

さすがのジェメリウットもこれには腹を立て「俺にだって少しは魔法が使えるんだ」と、魔法のサソリを出現させてエタオに向かわせますが、サソリは一瞬でやられてしまいました。ジェメリウットは「エタオ、お前には何をやってもかなわない。頼むからもう構わないでくれ」と、弟に頼みます。

 

エタオは、もとより兄が憎いわけでもなんでもなく、兄から嫌われるとは思ってもみなかったので

「いや、兄さん、僕が悪かった。気分直しに海で泳ごう。僕は遅い亀になるから、兄さんは速いイルカになっていいよ」

となだめます。

 

2人は海に出て、しばらく楽しく過ごします。と、そこに漁師が通りかかり、それを見たエタオは またつまらないイタズラを思いつきます。漁師のすぐ近くで「バッシャーン」と大きくひれを叩いてみせたのです。それまで全然気がついていなかった漁師は、浜のすぐ近くに大きな亀と大きなイルカがいることに驚き、これは大した獲物だとばかりに、まず亀に向かって銛を投げつけます。銛は亀の甲羅で簡単に跳ね返され、勢いでイルカの胴体に深く突き刺さってしまいました。

 

2人はすぐに人間の姿に戻りましたが、ジェメリウットは

「お願いだ。もうこれ以上関わり合いになるのはやめてくれ。島に戻って父さんに、ジェメリウットは死ぬまでこの島で暮らすことにしたと伝えてくれ」

とエタオに冷たく言ったのです。その後、ジェメリウットはマジュロの島で王となり、善政を敷いて人々から慕われ続けた、ということです。

 

【エタオとコネの木のカヌー】

エタオはマジュロを後にする前、ちょっとしたいたずらをしかけていました。彼は速く走るカヌーが欲しかったのです。当時、マジュロでカヌー作りの名人と言えば「ココ」という名の男で、ココのカヌーは速くカッコよく、マストや索具も美しく飾られていました。その上、相当な重さの荷物も運べる、という優れたものでした。

 

エタオは計略を巡らし「あのカヌーと交換できるようなカヌーを作ってしまえばいいんだ」と考えます。そこでエタオは、手近にあったコネの木(この木は鉄木(てつぼく)」と言われる大変堅い木で、カヌーになどしようものなら沈んでしまいます)を切り出し、カヌーのかたちにすると、それをピカピカに磨き上げ海岸に運んでくると、一見海に浮かんでいるように見えるように細工しました。(実はカヌーの底に台を当てて、水中に置いてあるだけ)

 

このピカピカのカヌーは人々の注目を集め、噂をきいたココもやってきて

「うーん、これは俺のカヌーよりもたくさんの荷物を運べそうだ。それに、何と言っても美しい」などと褒めます。ここぞとばかりに、エタオは「君のと交換してやってもいいよ」と持ちかけ、「本当か?いいのか?」というココの言葉も終わらぬうちに、ココのカヌーに乗って去っていきました。

 

エタオの詐欺はすぐにばれ、怒った人々は四方八方からエタオを追います。エタオも必死で逃げ、迫ってくる人々に向かって積んであった石を蹴りつけます。あまりにも多くの石を蹴りつけたために、現在、マジュロ環礁の東半分に見られる小さな島々は、このときに堆積した石がもとになってできたと言われています。

 

エタオは無事に逃げ切り、勝利の歌を歌い大海原を心地よく航海していきました。このとき彼が歌った歌も、現在に至るまでマジュロで歌い継がれているということです。

 

【パラウ】

その昔、パラウの島々がまだ1つの大きな島であったころ、ウアブという名前の子供が産まれました。この子は小さな頃から異常な大食いで、ばくばく食べてはどんどん大きくなり、子供の頃にはすでに大人の数倍の大きさにまで育っていました。母親は、自分の家の食料だけではもう養育できなくなり、村長に相談して、村として養ってもらうことにしました。

 

パラウの巨人ウアブ

しかし、ウアブの食欲はその後もとどまることを知らず、身体はますます大きくなり、やがては村で採れる食料でも足らなくなってきます。もともと豊かな村ではあったものの、このままでは村人全員が飢死してしまうと危惧した人々は、やむなく眠っているウアブを縛り上げ、彼を焼き殺そうと火を付けます。

 

熱さで目を覚ましたウアブは大暴れ。そのときに彼が自分の脚ごと蹴り飛ばしたのが、今のペリリュー島。そのおかげでペリリューの人々は、今でも走るのが速いそうです。お腹のあたりが一番大きなバベルダオプ島になり、ここの人々は決して飢えることがなく、ちょっと下品なところでは彼のペニスからできたアイメリク島では、一番雨が多いそうです。

 

などなど、ウアブはパラウの島々の起源に深く関わっており、人々は「昔、我々がウアブを養った恩返しで、今ではウアブが我々を養ってくれてるのさ」と語っています。

 

【ポンペイ】

その昔、サプウキニという聡明な男がいました。彼はシャカレンワイオという小さな島に住んでいましたが、島があまりにも手狭になったので大きなカヌーを作り、16人の人々と共に大洋に漕ぎ出しました。

何日もの航海の後、リダキカというあたりで巨大な鮹に出会い、鮹に「一体どこから来たのか?」と訊くと、「ちょっと南のほうの浅瀬に住んでるんだ」との答。サプウキニ達は、その浅瀬を目指すことにしました。浅瀬のあたりは珊瑚があちこちに顔を出していて、気候も良さそうです。

 

サプウキニは、ここに人が住める島を作ってしまおうと決意します。

人々は力を合わせて珊瑚や岩を積み上げますが、大きな波が来るたびに流されてしまいます。そこで、サプウキニは人工島の回りにマングローブを植え、波よけにしてはどうかと考えます。(今でも、ポンペイの海岸がマングローブで覆われているのはこのためです)

 

計画はうまくいき、完成した島には大きな祭壇(ペイ)が設けられました。その後、大きくは3つの部族が島に移り住み、今のポンペイの4大部族の祖先となりますが、ポンペイ(石の祭壇の上、という意味)という名前は、サプウキニが設けた祭壇が元になっているとのことです。

2025/02/25

アッバース朝(7)

イスラム科学

アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされ、イスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。製紙法は751年のタラス河畔の戦いの際、捕らえられた唐軍の捕虜の中に紙漉き工がいたことからアッバース朝に伝わり、757年にはサマルカンドに製紙工場が建設された。793年にはバグダードにも製紙工場ができ、イスラム世界に紙が普及することとなった。

 

二代目カリフ・マンスールは、サーサーン朝ペルシアの宮廷で行われていた占星術を利用した政治運営を継承しようとした。そのために、宮廷に占星術師を数多く召し抱え、占星術の実践に必要な天文知を異文化からアラブに積極的に取り入れた。マンスールは、新都バグダードの建設の日程を宮廷占星術師ナウバフト、マーシャーアッラーらに占わせた。ナウバフトはペルシア人、マーシャーアッラーはユダヤ人である。

 

また、インドから来た外交使節のなかに天文学についてよく知る者がいたので、占星術師に命じてその天文知をアラビア語へ翻訳させた。当時のインドの天文知は、天文計算に関する問いと答えを暗記に適した韻文の形式でまとめたもので、口承ベースで伝達されるものであったが、これにより、アラビア語、アラビア文字を使って文書化されることになった。また、インドで考案された正弦や、インド数字を使用する十進位取り記法が利用されるようになった。

 

翻訳者はファザーリーと言われ、この人物はイスラーム圏ではじめてアストロラーベを製作した者であるともされる。なおビールーニーによると、ファザーリーの翻訳したインドの天文知は、インドにいくつかあった天文知の体系のなかでもブラフマグプタの『ブラフマスピュタシッダーンタ』であったとのことである。しかし20世紀以後の検証により、それにはさらにサーサーン朝のシャーの命により作られた天文書の内容も組み込まれていることが判明した。

 

天文計算に関する問いと答えを簡潔にまとめたスタイルの天文書は「ズィージュ」と呼ばれ、ファザーリー以後、何度も改訂・継承されていくうちに、アラビアの天文書の中で主要ジャンルとなった。現存する最古のズィージュは、七代目カリフ・マアムーンのころから活動していたハバシュのものであるが、これにはインドの天文書にはない天文データ表が含まれている。プトレマイオスの『アルマゲスト』に倣ったもので、アッバース朝下の自然科学は、このころからギリシアの天文学の影響が顕著になってくる。マンスールがはじめた異文化の翻訳と文化受容はラシード、マアムーンにも引き継がれたが、そのころにはペルシア語著作あるいはペルシア語を介したギリシア語著作の重訳から、ギリシア語著作の直接翻訳あるいはシリア語を介した重訳に移行した。三村 (2022) によると、そのような変化には宮廷における強力な議論方法として<論証>の重要性の認識があり、厳密な幾何学的論証に裏付けられているプトレマイオス天文学などギリシア科学への関心が高まったという。

 

マアムーンは科学振興のため、バグダードに「知恵の館バイトル・ヒクマ」という天文台付きの図書館を建てたと言われる。ヨーロッパのオリエンタリストはアレクサンドリア図書館の模倣であろうと言い慣わしてきたが、サーサーン朝期のジュンディーシャープールにあった学院がモデルであるのは疑いない。その存在には疑問符も付けられ、21世紀現在は少なくとも施設として存在したことはないとされている。しかし、マアムーンはピラミッドの内部を調査するため穴を開けさせ、学者たちに地球の大きさを測量させたという、知的好奇心にあふれた君主であった。彼の宮廷では、キンディーやフナイン・イブン・イスハークらが活躍して、大規模で網羅的なギリシア科学書の翻訳が行われた。バヌー・ムーサー三兄弟やファルガーニー、ムハンマド・イブン・ムーサー・フワーリズミーも、マアムーン宮廷に出仕した天文学者である。

 

10世紀の書籍商イブン・ナディームが伝える逸話の中で、マアムーンは夢の中でアリストテレスに出会い「美とは何か」と質問したという。五十嵐 (1984)によると、アッバース朝カリフと古代の哲学者の問答の逸話には、美が何よりもまず知性の領域で問われている点と、その知性が発現され錬磨される領域が法に基づく共同社会であると規定されているという点でイスラームの特徴がよく表れており、さらに、知性と美は融合的理念である、共同体の中で、善美なる行為を積むことが人間にとっても本来的な在り方であるという価値観が示されている。ここでいう「知性」は、プロティノスの流出論の影響のもとでイスラームに取り入れられた叡知体を指す言葉であり、古典期からヘレニズム期にかけての古代ギリシアの知の伝統を継承した言葉である。そして、知性の働きにより善美なる行為を積むことこそ神に報いる道であるとして修業に励んだのがスーフィーたちである。

 

スーフィズムは、アッバース朝が成立した8世紀半ばにバスラのラービアが現れ新たな局面を迎えた。ラービアは神の美とその完全性、ただそれだけのために神を崇拝し、禁欲的苦行を重視した宗教心に神への純粋な愛という観念をはじめて持ち込んだ。アッバース朝期、特に五代目カリフ・ラシードから七代目マアムーンのころ、イスラーム法は体系化が進み、神学論争が活発になされた。結果、神の唯一性の理論は精緻に整えられ、六信五行といった儀礼的規範の規定が細かく決められていった。

 

しかし民衆にとって、信仰は理屈ではなく、神はもっと身近に感じられるものであるはずであった。神への愛を深め、神との一体感を得るため修業するスーフィーたちは、このようにアッバース朝下でのイスラームの制度化を背景に現れた。9世紀のスーフィー、エジプトのズンヌーンは「知性」などのいくつかの神秘主義用語を定義し、後続の神秘家に大きな影響を与えたが、彼は神秘家であると同時に錬金術師であった。低次の魂を浄化された安らかなる魂へと転換するという点で、スーフィーの目的は精神的錬金術であるともされる。

 

錬金術に関しては9-10世紀に、膨大な量の文献がギリシア語やシリア語からアラビア語へ翻訳された。そのうち、のちにラテン語へ翻訳されたものは、ごく一部にすぎない。伝説的な錬金術師ヘルメスの教えとする文献が2000点にのぼる。有名な緑玉板の初出は、マアムーンの宮廷に献上された著者不明の論文である。エジプトで受け継がれてきたヘルメス主義が、バグダードの宮廷にもたらされるに至った途中には、ハッラーンの「サービア教徒」がかかわった。彼らは古代メソポタミアから続く月神崇拝、星辰崇拝、偶像崇拝を実践していたが、マアムーン期に迫害を避けるために、クルアーンにおいて啓典の民として言及される「サービア教徒」を自称するようになった民である。

2025/02/20

アッバース朝(6)

軍事

首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。

 

アッバース朝は、月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝は、そのような体制を8世紀には実現していた。

 

アッバース朝では、中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になった。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。

 

交通

アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は、伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。

 

農業

アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクでは、アフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、サトウキビ、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められた。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えた。

 

経済

アッバース朝では、東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たといわれる。また、この時代、ムスリム商人が複式簿記を発明し、ジェノヴァ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。

 

アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。