2025/10/02

フランク王国分裂(1)

帝国の分割

カール1世のカロリング帝国は、その領内の諸民族がひとつのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や、制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった。統治機構においては、国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に、いまだその基礎をおいていた。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した。

 

806年の王国分割令によって、すでにイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていたルートヴィヒ1世(ルイ)の支配を確認するとともに、長男小カールにはアーヘンの王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった。

 

しかし実際には、810年にイタリア王ピピンが、811年に小カールが相次いで歿したため、814年にカール1世が死去した時には、ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔帝)が唯一の後継者となった。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(Pius)」は、彼の宗教生活への傾斜から来ている。彼は宮廷から華美を一掃した。評判の悪い姉妹たちを追放し、アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代からの側近を登用した。さらにアニアーヌ修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていたアニアーヌのベネディクトを政治顧問とした。

 

ルートヴィヒ1世は、814年に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きたとき、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て、同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した。これによって発せられたのが、帝国整序令(帝国分割令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子ロタール1世(ロータル1世)はただちに共治帝となり、次男ピピン1世はアキテーヌ王、末子ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタール1世に服属すべきことも定められた。イタリア王ピピンの庶子ベルンハルトはこの決定に不満を持ち、818年に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった。

 

こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の1人であったユーディト・フォン・アルトドルフがシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団と、ヴェルフェン家の対立を誘発した。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった。

 

緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は830年、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対して、ルートヴィヒ1世を復帰させた。さらに833年にも同様の試みが行われ、834年にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった。

 

この争いのさなか、シャルル2世の成人(15歳)が近づきつつあった。母親のユーディトはロタール1世と結び、837年にフリーセン地方からミューズ川までの地域と、ブルグンディア(ブルゴーニュ)をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡し、その息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した。

 

バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、840年に反乱を起こした。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した。

 

ヴェルダン条約

ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタール1世は、ローマ教皇グレゴリウス4世やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した。841年、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされるフォントノワの戦いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した。

 

ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する中、ストラスブールで互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った(ストラスブールの誓い)。この宣誓の言葉は、シャルル2世の家臣ニタルト(ニタール)の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけは、フランス語(古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するためにヴァイキングやザクセン人、異教徒であるスラブ人との同盟も厭わなかった。

 

争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、842年、ブルゴーニュのマコンで会談し、和平を結んだ。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して、新たな分割線を決定するための委員会が設けられた。この結果、843年にヴェルダン条約が締結され、分割線が最終承認された。

 

ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世(東フランク王国)、西部をシャルル2世(西フランク王国)、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世(中部フランク王国)が、それぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中部フランク王国について)きわめて人工的な、まとまりのない地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた。

2025/10/01

法然(2)

延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難

元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

 

承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、1207年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件。建永の法難(けんえいのほうなん)とも。

 

宣旨自体は1207227日に土御門天皇の命で出されているが、当時13歳であった土御門天皇の意志とは考えられておらず、院政を敷いていた後鳥羽上皇の意志による処断であると一般に認知されている。

 

従来、その処断理由について、法然や親鸞などによる念仏宗が国家体制を揺るがしかねないとして、朝廷及び朝廷と結びつきの強い旧仏教教団による念仏宗の弾圧であると解釈されてきた。

 

法然の伝記『法然上人行状絵図 四十八巻伝」(国宝)』によると、120612月、後鳥羽上皇の熊野詣の折、法然門下の住蓮と安楽が東山鹿ケ谷で催した念仏集会へ宮中の女官数名が密かに参加した。この内数名の女官が感銘を受けそのまま出家、帰京しこの事を知った後鳥羽上皇が激怒し住蓮と安楽を逮捕した、と記されている。

 

当時の時代的背景として、藤原氏の氏寺である興福寺から念仏宗を非難する訴えを受けた事から、朝廷とて無視する事はできず、かといって積極的に念仏宗の弾圧を行う状況にも無い中、朝廷は念仏宗への対応を保留としていた。

 

そのような時勢の中で起きた上記の事件をきっかけに、後鳥羽上皇は密通等不義の行いを大義名分として、主催の4人を死罪、関係未詳の親鸞を含む7人及びその師である法然の計8名を流刑とするなど、次々に念仏宗一派を処断した。

 

蓮如は「歎異抄」の自筆写本の奥書において、この時処分された人々を「興福寺の僧が敵意を持って後鳥羽上皇に讒言した上、法然の弟子に風紀を乱す行いをする者がいるという無実の噂により処断された人」であるとした。

 

概要

延暦寺からの批判

元久元年(1204年)10月、延暦寺の衆徒は、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える決議を行う(「延暦寺奏状」)。彼らは、当時の天台座主真性に対して訴えを起こした。

 

「延暦寺奏状」

延暦寺三千大衆 法師等 誠惶誠恐謹言

天裁を蒙り一向専修の濫行を停止せられることを請う子細の状

一、弥陀念仏を以て別に宗を建てるべからずの事

一、一向専修の党類、神明に向背す不当の事

一、一向専修、倭漢の礼に快からざる事

一、諸教修行を捨てて専念弥陀仏が廣行流布す時節の未だ至らざる事

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

一、一向専修の濫悪を停止して護国の諸宗を興隆せらるべき事

 

興福寺からの批判

元久2年(1205年)9月、興福寺の僧徒から朝廷へ法然に対する提訴が行われ、翌月には改めて法然に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。

 

「興福寺奏状」

興福寺僧網大法師等 誠惶誠恐謹言

殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。

 

九箇条の失の事

第一 新宗を立つる失

第二 新像を図する失

第三 釋尊を軽んずる失

第四 不善を妨ぐる失

第五 霊神に背く失

第六 浄土に暗き失

第七 念仏を誤る失

第八 釋衆を損ずる失

第九 国土を乱る失

 

法然の対応

元久元年(1204年)11月、法然は、自戒の決意を示すべく記した「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、『一念往生義』を説く法本房行空や、『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西が非難の的にされた。法然は行空を破門したものの、事態は収まらなかった。

 

朝廷の対応

朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久21219日に法然の「門弟の浅智」を非難して、師匠である法然を宥免する宣旨が出された。これに納得しない興福寺の衆徒は翌元久32月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。その結果、330日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。

 

ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心の訴訟」であると高らかに謳っていたにもかかわらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。

 

朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。

2025/09/27

ガーナ王国

ガーナ王国 (Ghana) 、もしくはガーナ帝国は、8世紀(1世紀頃とも)から11世紀(13世紀とも)にかけて、金と岩塩を隊商が運ぶサハラ交易の中継地として繁栄した黒人王国である。金や岩塩のほかにも、銅製品・馬・刀剣・衣服・装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。

 

ノク文化にはじまると考えられる西アフリカの鉄器時代前半のニジェール川流域周辺には、ニジェール=コンゴ語族に属するマンデ人による kafu とよばれる政治的単位ないし小首長国が形成されていた。1つの kafu は、合計すると10000–50000人の規模に達する村落の連合体であり、それぞれの kafu は、マンサ (mansa) と呼ばれる宗教的、世俗的権威を兼ね備えた王ないし首長によって支配されていた。ガーナ王国はそんな kafu のうち、マンデ人の北方のソニンケ語 (Sonink) を話す人々ソニンケ族の kafu の連合国家であった。

 

伝承と記録

トンブクトゥに伝わるマフムード・カアティの『探求者の歴史』の写本によると、ヒジュラ元年以前に20-36代続く白人(この場合アラブを含む)王朝があり、その後も21代続いたという伝承が収録されているが、同書は16世紀に作成されたものである。11世紀コルドバの歴史家、アブー・ウバイド・バクリーの著書『諸道と諸国の書(英語版)』のガーナ王国に関する記載は、比較的信頼できるとされている。これは、10世紀頃にサハラを越えて旅をした人々からの証言を集めたものである。

 

バクリーは、ガーナ王国について

「イスラム教徒にとって異教の国家であったが、彼の時代にイスラム教の影響を受け入れ始めた唯一の黒人国家である」

としている。

11世紀ごろのガーナ王国の首都は al-ghaba すなわち「森」と呼ばれた。王の住んでいる場所は柵で仕切られ、特徴的な円錐状の屋根をもつ小屋が連なっていたという。バクリーはガーナ王国について次のように書いている。

 

王は、女性がつける装飾品を首や腕につけていた。また良質の綿でできたターバンにくるまれた、金の刺繍のされた帽子を(王冠として)かぶっていた。王は臣民に謁見し、臣民の苦情を調整し、解決するときに使った小屋の周りには、金の馬飾りをつけた10頭の馬がいた。彼の背後には、金で飾られた盾や剣を運ぶための奴隷たちがいた。

 

王の権力は、彼の封臣でもある王の息子たちの頭から金を編みこんだ高価な外套を着せる力に基づいていた。王の周りには大臣たちが座り、王の前には都市の統治者が座った。王宮のドアには、首輪に金や銀の玉飾りをつけた血統のすぐれた犬たちがおかれて、守られていた。王の謁見式はドラムを叩くことで、人々に知らされた。彼に従う異教徒(=臣民)たちは、這って王のかかとに近づき、尊敬の印として自ら「ほこり」を頭上に撒き散らした。イスラム教徒は、あいさつの印として手を打ち鳴らした。

 

王が死ぬと、王の遺体が埋葬された場所に大きな木の小屋が建てられた。その小屋には、王の食べ物や飲み物を捧げるために、王が生前に飲食に使用した器が置かれた。食べ物や飲み物を捧げる人々は、墓の入り口を安全に保つため小屋にマットや布を被せて土をそのうえにかけたので、自然地形の丘そっくりに見えた。

 

ガーナ王国の王は、セネガル川上流のバンブク (Bambuk) を支配していた。直接、金鉱を掘るコミュニティを支配していたわけではないが、金鉱を掘るコミュニティとの接触を独占的に支配していた。また1050年頃、アウダゴストを占領して支配し中継貿易の利益をますます吸収していったが、その繁栄は、モロッコのムラービト朝の嫉視を浴びることとなった。

 

考古学的な調査成果

ガーナ王国に関する考古学調査は、1949年から1951年にかけてフランス人、P. テモセイ (Thomassey) R.マウニー (Mauny) によって行われた、ガーナ王国の首都と考えられるモーリタニア南東部のティンペドラ=ナラ街道沿いに位置するクンビー・サレーの調査が知られる。この調査成果は、1956年に発掘報告書として公刊されている。

 

バクリーは

「クンビー・サレーはイスラムの町と6マイル離れた「王宮の町」で構成されている」

と記述しているが、「王宮の町」については発見されていない。イスラムの町については、バクリーが記述するような集住的な石造りの建物が発見された。また北西部分には広大な墓地を伴い、アフリカでは初期の様式のモスクがあることが判明した。これらの建物は複数階の構造を持ち、地中海周辺で見られる様式のものであった。

 

出土した精製土器やガラス器は、北アフリカ・マグリブ地方から輸入されたものであった。クンビー・サレーの中央の通りと、モスクから採取された有機物のサンプルから放射性炭素年代測定が行われ、13世紀初頭という値が得られ、11世紀後半(1076年)にモロッコのムラービト朝に滅ぼされてからも、町自体は2世紀近く繁栄を続けていたことが判明した。

 

その後、セルジュ・ロベールによって、さらに下層の居住層の発掘調査が1975 - 76年に行われている。その調査成果は発表されていないが、予備調査の成果は1972年に発表されている。この調査によって得られたサンプルで、6世紀から18世紀にわたる放射性炭素年代が得られており、現にクンビー・サレーがガーナ王国時代に繁栄していたことが証明された。

2025/09/24

法然(1)

法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。

 

法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

 

大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。

 

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

浄土宗では善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖として崇め、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と敬称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

生涯

生い立ちと出家・授戒

長承2年(1133年)47日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

 

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

 

その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。

 

「年少であるのに出離の志をおこすとは、まさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。

 

法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。

 

これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。

 

その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に、師法然の法言として

「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」

と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。

 

浄土宗の開宗

承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 

法然は、この地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)が、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

 

養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は、翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。

 

建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて、浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては、弟子たちの力も借りたという。

 

建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。

 

元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)に、その法要の場面が描かれている。

 

法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。

2025/09/14

ローランの歌(3)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

ローランの歌:La Chanson De Roland

あらすじ

 フランク王シャルルマーニュ(カール大帝)の甥ローランは、スペイン遠征から引き揚げるフランス軍のしんがりをつとめた。しかしサラセンの大軍に襲われ、親友オリヴィエとともに玉砕する物語である。ロンスヴォーの戦い(Roncevaux、スペイン語:ロンセスバーリェス Roncesvalles)

 

 この話は、次の史実に基づいて創作された。778年、シャルルはスペインのサラゴサを攻撃するが陥落しない。そのうち本国でサクソン人が蜂起し、やむなく撤退を決意した。帰途についたフランス軍がピレネー山中に差しかかった時、バスク族の待ち伏せに会い、しんがり部隊は全滅した。

 

 この敗退は、シャルルの生涯の中で最も重大な事件であった。フランスで作られたこのローランの歌は、善なるキリスト教徒が悪なるイスラム教徒を徹底的に打ち負かすストーリに置き換わり、ヨーロッパ全土で莫大な人気を博した。

 

ガヌロンの裏切り

 われらが大帝シャルル王は、まる7年、イスパニアにあって異教徒の街を攻め、これを平定した。残るは山間の街サラゴサ(Zaragoza)のみ。サラゴサのマルシル王は、とりあえず降伏することとし、莫大な財宝と人質の提供を申し出てきた。

 

 大帝は重臣たちと、この申し出を検討する。ローランは信用できないと反対するが、ガヌロンや他の重臣は賛成し、サラゴサに使者を出すことになった。ローランは使者の役目を申し出るが許されず、「では、義父ガヌロンを!」と推挙した。ガヌロンは「危険な使者に選ばれた」と、ローランを深く恨んだ。

 

 ガヌロンは、サラセンの迎えの使者ブランカンドランと一緒にサラゴサに向かった。二人は、ローラン憎しで意気投合する。そして、サラゴサ王マルシルにフランス軍を破る秘策を教える。フランス軍の強さはローランと親友のオリヴィエがいるからで、彼らを後衛に配置して集中的に攻撃すれば破ることができる。

 

 ガヌロンはサラゴサの鍵と大量の財宝、20人の人質を連れて帰り、和平が成立した。

 

マルシル王の追撃

 フランス軍は進軍ラッパを鳴らして引き上げを開始、ガヌロンの陰謀でローランたち12人の勇士と2万の軍勢が後衛に配備された。

 

 サラゴサ城内には3日で40万の軍勢が集まり、マルシル王は追撃を開始した。まず、サラセン12人衆10万の軍勢が迫ってきた。オリヴィエは未曾有の大軍を見て

「ローランよ、角笛(オリファン)を吹き給え。大帝の軍は返り来るべし」

と進言する。

しかし、ローランは「それは武門の恥!」と断り、手元の兵力で迎え討った。

 

 大僧正チュルパンは

「死せば殉教の聖となって、いとも尊き天国に御座を得ん」

と将士を祝福する。

フランス勢は、一斉に立ち上がる。ローランは駿馬ヴェイヤンチーフにまたがり、名刀デュランダルを手に敵勢に突っ込む。

 

 ローランと12人の騎士は、サラセン軍を次々と討ちとる。戦闘すさまじく敵味方入り乱れて戦い、フランス軍は10万の敵を打ち破った。その時、マルシル王が新たな軍勢を率いて打ちかかってきた。多勢に無勢、フランス軍の12勇士も次々と倒れ、残りは僅か60騎となった。

 

フランス軍の奮戦

 あまりの損害に、ローランは角笛を鳴らそうとする。今度はオリヴィエが「今頃吹くのは、それこそ恥」と制止した。大僧正は「吹いても手遅れ、さりとて吹かぬよりはまし」と諭した。

 

 ローランは角笛を吹く。その音色は30里離れた大帝の耳に届いた。馬首をめぐらさんとする大帝をガヌロンは制止する。大帝は怒りガヌロンを裏切り者として逮捕、ローラン救援に向かった。

 

 ローランは戦場にとって返し、奮然と打ち戦う。見ればかなたにマルシルあり、威風堂々、フランスの諸将を次々と討ち取っていく。ローランはマルシルに斬りつけたれば、その右の拳を切って落とす。続いてマルシルの息子ジュルファルーの首をも打ち落とす。マルシル軍は怖れをなして退却する。

 

 マルシル退却のあとに、その伯父マルガニスがエチオピア軍5万を率いて現れる。

「いよいよ殉教の時至る。敵に一泡吹かそうぞ!」

と叫んだローランは、敵陣に跳り入る。

マルガニスは、オリヴィエの背後から撃ちかかり胸を突き刺す。オリビエは、深傷を負いながらマルガニスの脳天を切り裂き、「今生後世の別れなるぞ!」と叫んで果てた。

 

ローランの最後   

 フランス勢はことごとく討ち死し、生き残れるは大僧正チュルパンとローラン、ゴーチエの3人のみ。3人は大軍の中に飛び込み、めったやたらと斬りまくる。サラセン勢は怖れをなし近寄る者なし。敵勢は遠くから投げ槍、銛(もり)、鏑矢(かぶらや)を射かける。集中攻撃でゴーチエが倒れ、チュルパンも、4本の槍を浴びる。

 

 ローランは、最後の力を振り絞って角笛を吹く。それに6万騎がラッパで応えた。サラセン軍は怖れをなし退却した。ローランは死を悟り、名剣デュランダルを敵に渡さないよう、岩にはっしと斬りつける。しかし、さすが名剣、刃こぼれ一しつしない。刃を折ることかなわず、ローランは息絶えた。

 

 大帝はロンスヴォーの戦場に到着、敵と味方の死骸累々と横たわり、足踏み入れる余地だになし。大声でローランやオリビエの名を叫べど返事なし。大帝は逃げまどうサラセン軍を見つけ追撃した。

 

大軍の激突         

 サラゴサに逃げ帰ったマルシルのもとに、エジプトのバリガン王の援軍が到着した。瀕死のマルシルは、イスパニア全土を差し出すから仇を討ってくれと懇願する。

 

 一夜明けて、大帝は戦場の累々たる死骸の中にローランと12人衆の遺体を発見する。その嘆きは深く、10万のフランス将士もみな地に臥して慟哭す。その時、バリガンの軍勢が現れる。大帝は愛刀ジョワユーズとビテルヌの盾を持ち、名馬タンサンドールにまたがった。フランスの10万騎も一斉に突撃する。

 

 敵味方の軍勢は雲霞のごとく、その隊伍は整いて美し。間をへだつるに、山なく、谷なく、陵もなく、森もなければ、林もなく、兵を伏するよすがなし。両軍、平原のまっただ中にて遭遇す。

 

 両軍入り乱れての激しい戦いが始まった。そして大帝とバリガン王との一騎打ちが始まり、激戦の末に打ち負かす。

 

ガヌロン処刑       

 ついに、アラビア勢は敗走、フランス軍は追撃してサラゴサを占領した。そして、異教の住民を改宗させたが王妃のみが改宗せず、捕虜としてフランスへ連れ帰った。

 

 フランスに帰った大帝は、ガヌロンを裁判にかける。ガヌロンは重臣で一族も多く、助命する意見が大勢を占めた。一人、チエリーが異議を唱え、ガヌロンを処刑すべきと主張した。チエリーはガヌロンの一族と決闘してこれを破り、裁きは確定。ガヌロンは八つ裂きに、その親族も全員処刑された。

 

 サラゴサの王妃はキリスト教に改宗し、ジュリアーヌと改名した。