2025/08/05

西行(5)

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西行法師

文治6年(1190年)春、桜が咲く216日、

 

「願はくは花の下にて春死なむ

そのきさらぎの望月のころ」

 

と自ら詠んだ歌のとおり、河内国南葛城(現在の河南町)弘川寺で入滅した。

 

西行物語

出家す

円位上人こと西行は、元永元年(1118年)、父-佐藤康清、母-源清経の娘との間に生まれた。俗名を佐藤義清という。

 

代々、勇士の武門であるため、鳥羽法皇の北面の武士として仕えていたが、誉ある身分を捨て、保延6年(1140年)1015日、23歳の若さで出家した。

 

出家の述懐

出家後、西行は吉野山の麓に庵を結んでいる。

 

吉野山は、西行にとって在俗時から慣れ親しんでいた和歌の歌枕の地であり、清浄きわまりない桜の名所であった。それに西行は吉野山の桜をことさらに愛して和歌に心情を託している。

 

そしてなによりも、吉野山が古来からの霊地であることが、修行したいという西行の本意に叶っていたからであろう。それゆえ、

”花に染む心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に”

(出家したばかりなのに、どうしてこんなにも桜の花に魅了されるのだろう。)

 

庵での歌

西行は、実に様々な地で庵を結んでいる。

嵯峨の小倉山の麓の庵、また、鞍馬山の奥にも庵を結んだとされる。

そこで詠んだ和歌に、

”わりなしや氷る筧の水ゆゑに思いすててし春の待たるる”

とあり、冬景色に心を奪われながらも、寒冷に身を置く自分に春が早くこないかとは何事だと、弱い己の心を嘆じている。

 

陸奥への旅

西行が修行のため陸奥へ旅立ったのは久安2年(1146年)、29歳の頃であった。

 

平泉についた西行は、前9年の役、さらには後3年の役の舞台となった衣川を見て、

とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも

の様に、奥州藤原氏の本来の面目をまのあたりにみて、武人のそれに還り感動している歌も残している。

 

さて、西行は一冬を陸奥で過ごしている。年の暮れに詠んだとして、

”常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる”

があるが、ここでは旅立ちのころの気負いが失せている。

ひっそりと過ぎていく年を味わっていたのであろう。

 

高野山、入山す

陸奥の旅から帰り着いた西行は、拠るべき仏法を見定めたのか、心に期しての行動を高野山に見い出した。久安5年(1149年)ごろのことである。

 

以後、たび重なる出入りを繰り返しつつ、西行の30年にわたる高野山居住時代が始まる。

 

高野山は、当時、落雷で大塔や金堂などが炎上し、復興のため高野聖が結集していた。

西行も聖として住み着いたと思われる。

 

天野の地

高野山から京へ上る道で、天野を経る道がある。

この地、天野(現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町)は、田畑がなめらかで人家がひっそり佇む端正な風土で、まるで桃源郷を彷彿させる。

 

当時、京へは天野から笠松峠を越え、6キロの山坂を下らねばならなかった。

 

天野は、西行が高野山からたびたび訪れ、田を耕した場所とも言われる。

西行田という地名も残っていて、この地はやさしく西行とのかかわりを受けとめた唯一の場所であったとも想像される。

(現在、西行ゆかりの地として小高い丘の上に、西行堂が建っていて、近くに西行の妻と娘のものと言われる二基の宝篋印塔がある。)

 

西行と清盛

さて、西行の高野山入山のきっかけに、平清盛の誘いがあったという説がある。

若き日、同じ北面の武士として仕えたことから、あながち根拠のない説でもなかろう。

 

当時、清盛は、安芸守(あきのかみ)になっており、安芸の一宮(現在の厳島神社)の造営に力を注いでいた。

 

この頃、こころざすことありてと言う詞書で、西行が西国(すなわち安芸の一宮)へ向かって旅をし、高富の浦で詠んだと思える歌が残っている。

 

”浪の音を心にかけて明かすかな苫洩る月の影を友にて”

 

天下の情勢を知る清盛と、清盛と違った意味で世相を大観する西行とは、本質的に相通じるものがあったのではないか。

 

保元の乱、平治の乱

西行が高野山に住み慣れたころ、武家政権の到来を暗示させる、保元の乱、平治の乱が起こり、西行は歴史の転換期に遭遇する。

 

保元元年(1156年)72日、鳥羽法皇が崩御、崇徳上皇の皇位継承のふんまんに加えて、摂関家の内紛、武家同士の反目が加担し、正に血で血を洗う戦乱となった。

 

崇徳上皇は、後白河天皇に敗れ讃岐へ流された。保元の乱の三年後、平治の乱が起こり、平清盛の大勝となった。平治元年(1159年)12月のことであった。

 

西行がことさらに心に掛けたのは、崇徳上皇の御身の上だった。崇徳院が讃岐の配所で崩じたのは、長寛2年(1164年)8月のこと。

 

このころ西行自身は、崇徳院への深い追悼の念を持ちつつ、大峯修行を決行し、

”深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし”

と詠んでいる。

 

四国への旅

西行が讃岐(四国の香川県)へ旅をしたのは、仁安3年(1168年)、51歳の時であった。

目的は、まず讃岐で崩御した崇徳上皇の御墓に詣でることであった。

 

西行は、白峰にある御墓を探り当て、

”よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせん”

としみじみ詠んでいる。

 

もう一つの目的は、弘法大師空海誕生の地を訪ねることだった。

生を肯定する西行にとって、弘法大師空海の教えは相通じるものがあった。

 

源平動乱

治承4年(1180年)は、源平動乱の始まりでただならぬ年であった。

 

4月に後白河法皇第二皇子以仁(もちひと)王の平家追討の命令が、諸国の源氏に伝えられた。

 

6月には都が福原へ遷都され、八月伊豆で源頼朝が、九月には木曾義仲が挙兵した。そのころ、西行は伊勢に庵を結んでいる。

 

最初に結んだのは安養山(現在の度会郡二見町溝口の豆石山)といわれている。そして、のちに宇治(現在の伊勢市宇治館町)に移っている。俗に言う宇治の西行谷である。

 

治承5年(1181年)には、平維盛らが木曾義仲追討のため北陸へ向かったが大敗。7月には平家の都落ちという、尋常ならぬ事態になっていた。

 

西行は、伊勢の海でこの動乱を”こは何事の争ひぞや”とばかり詠んでいる。

 

”死出の山こゆるたえまはあらじかし亡くなる人の数つづきつつ”

 

陸奥ふたたび

さて、西行は、二度目の陸奥を目指す。かつて若き日、陸奥に旅立った時より40年の歳月が経ていた。

 

旅の目的は、相知りたる平泉の藤原秀衡の館へ赴き、東大寺大仏殿復興資金を勧進せんがためだった。

 

西行はまず、鎌倉に向けて旅立ち、源平の戦いの勝者である源頼朝に逢っている。

 

平泉に無事到着し、目的を果たした西行であったが、平泉でも、戦乱の余波が渦巻いていた。

 

藤原三氏の滅亡を、西行はどこまで予測し得たのだろうか。

目的を果たした西行は、文治3年(1187年)のいつごろか都に戻っていて、嵯峨の庵に暮らす身となっていた。

 

西行は70歳となっていて、明るい境涯を写すが如く、たはぶれ歌を残している。

 

”うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏のひるぶし”

 

老西行は、あくまでもうらうらと明るい。

 

老境の西行

年齢、和歌にも磨きが掛かった老西行。

嵯峨の庵ずまいで、伊勢の内宮に奉献する「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)と外宮に奉献する「宮河歌合」にはさぞかし力を注いだと思われる。

 

”いは戸あけし天つみことのそのかみに桜を誰か植ゑはじめけん”

”神風にこころやすくぞまかせつるさくらの宮の花のさかりを”

ここに見られるのは、神(仏)と桜と己が融合した宇宙である。常に求めたうららかさとやすらかさがある。

 

西行が高雄山神護寺を訪ね、明恵に語った言葉として

「万物すべて虚妄の相である。その万物を詠むわたしは仏像を造る思い、秘密の真言を唱える思いである」

と、「明恵上人伝記」に記されている。

 

入滅す

西行は、うらうらとした気持ちで死にたいと願って生きてきた。

少しでも心に濁りがあると、それは叶わない。

 

いまや年を重ね、

”花よりは命をぞなお惜しむべき待ちつくべしと思ひやはせし”

 

命あればこそと、感慨に耽る西行。いつしか弘川寺の幽玄な風致の中で、自分と同じように老いていく一本の桜に魅せられていったに違いない。

 

現在、弘川寺の西行塚の年老いた山桜は傷ましくもあるが、春になれば小さな花々が凛と咲きほころび、訪れた人々の心を愛情の念へと導く。

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