166年に司隷校尉(首都圏長官)の李膺が、宦官の犯罪を摘発したことをきっかけとして、第一次の党錮の禁(とうこのきん)が起きる。李膺を初めとした200余人が逮捕されたが、豪族勢力の働きかけにより釈放されて禁錮(禁錮刑のことではなく、官職追放されて以後、仕官が出来ないということ)となった。しかし、李膺たちは義士として称えられることになり、三君・八俊と言った人物の格付けを行った。
その後、霊帝を擁立した外戚の竇武(竇憲のいとこの子)が、168年に清議派の陳蕃らとともに宦官を誅殺しようとする事件が起きたため、宦官勢力は169年に第二次の党錮の禁を起こす。今度は官職追放では留まらず、李膺は逮捕後に獄中で殺され、死者は百人を超えた。更に党人の親族縁者も禁錮とされ、太学の学生たちも逮捕された。
黄巾の乱が勃発すると、黄巾と戦うために再び外戚が力を伸ばし、また知識人が黄巾と共同するのを防ぐために禁錮を解いた。その後も外戚と宦官の対立は続き、189年に外戚の何進が十常侍に殺害されるが、同年、袁紹に十常侍たちが皆殺しにされたことで、外戚・宦官の勢力はともに消滅した。
思想
前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していたが、光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために、更に儒教の力を強めようとした。郷挙里選の科目の中でも、孝廉(こうれん、親孝行で廉直な人物のこと)を特に重視した。また前漢に倣って洛陽に太学(現在で言えば大学)を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させた。孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭祀は国家事業とした。
また民間にも儒教を浸透させるために、親孝行を為した民衆を称揚したりした。また、法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって、儒教の優位性が確立されることになる。
その一方で、後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でも、それら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想も、この時期に形成されたようである。
中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には、浮屠(ふと)と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初は、あくまで上流階級の者による、異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。
仏教の無の概念を理解するに当たり、中国人の窓口となったのが老荘思想の無為である。その結果として、仏教は老荘の影響を受けて変質したようであり、また老荘の方も仏教に刺激を受けて道教教団の成立が行われることになる。
第11代桓帝は道教に傾倒したことで有名であり、老子の祭祀を何度も行っている。仏教と同じく社会不安と共に信者が増えていき、太平道と五斗米道の2つの教団が作られた。これらの教団は民間の病気治療などを行うことで信者を集め、五斗米道は義舎と呼ばれる建物を建てて中には食料が置かれており、宿泊を無料で行うことが出来たという。
黄巾の乱により太平道の組織は瓦解するが、しかし信者が消滅したわけではなく例えば曹操の青州軍など、各地の群雄の中に吸収されていった。五斗米道は後漢が滅びた後も長く続き、後の正一教となる。
科学技術
後漢は、科学技術の進歩が著しい時代であった。
蔡倫による製紙技術の改良は後漢代のみならず全ての時代、全ての地域に多大な影響を与えた。それまでの竹簡(竹を一定の大きさに切って束ねた物)とは比べ物にならないほどに小さくて済む紙は文化の伝達速度を格段に上げ、優れた文学・書物が地方に伝播するのに大きく貢献した。
安帝から順帝の時の太史令の張衡は天文を研究して、渾天儀・地動儀を発明した。渾天儀は現代で言う天球儀のことで、水力により地球の公転に併せて回転して、星座を正確に表示したと言う。地動儀は地震計のような物で、壷に周囲に球を咥えた龍が作られており、遠くで地震があるとそれを感知して球が落ち、それによりどの方角で地震が起きたかが分かった。また張衡は月食の原因を初めて解き明かし、円周率を計算して3.162と言う近似値を得ている。
南陽の人である張仲景は、後世に医聖と称えられる人物である。彼は一族を傷寒により失い、これに憤慨して『傷寒卒病論』を著した。この書には、それまでの研究を元に張仲景の研究の成果が載せられており、後世の医学のバイブルとされた。特に日本では、非常に重視されている。
また沛の人である華佗は、麻沸散と言う薬を使って史上初の全身麻酔を行い、腹部を切開する大手術を行ったとされる。他にも、健康法として体操を発明したと言われる。
この時代に成立したと見られる著者不明の『九章算術』と言う算術書には、様々な数学の問題が載っており、後には数学教育のテキストに採用されている。
文学
前述したように蔡倫の製紙法改良により、文章の伝達速度が上がったことは文学の世界にも大きな影響を及ぼし、ある所で発表された作品が地方に伝播することで流行が形作られることになる。
歴史の分野では、まず班固の『漢書』である。『史記』の紀伝体の形式を受け継ぎつつ、初めての断代史としての正史であるこの書は『史記』と並んで正史の中の双璧として、高い評価を受けている。
他には班固の父の班彪が『史記』の武帝以後の部分を埋めた『後伝』、後漢王朝について同時代人が書いた文章をまとめた『東観漢記』などが挙がる。
漢詩の分野では、班固『両都賦』・張衡『二京賦』などがあり、この時代に五言詩が成熟し、末期の蔡邕になって完成したと言われる。
その流れが、建安年間(196年 - 220年)になって三曹(曹操・曹丕・曹植の親子)や建安七子へと受け継がれ、建安文学が形作られる。
彫刻
甘粛省武威市より出土した銅奔馬は、従来の東洋芸術一般の特徴であった静的イメージを一新する躍動的な青銅彫刻である。
出典 Wikipedia