2026/03/30

ファーティマ朝(2)

アズハル・モスク

エジプトの征服にあたり、ファーティマ朝はイフシード朝以来の支配層の財産を保証し、強圧的なイスマーイール派の押し付けを避けて、多数派であるスンナ派との融和をはかった。このため、ファーティマ朝は内部にこれまで以上のスンナ派勢力を抱えることになったが、978年にはムイッズの建設したアズハル・モスクにイスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され、カイロでイスマーイール派の教理を学んだ教宣員たちはファーティマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばってイスマーイール派を布教した。現在、シリア、イラン、パキスタン、インド西部で信仰されているイスマーイール派は、こうしたファーティマ朝の積極的な布教により広がったものである。

 

しかし、10世紀末のシリアで土着のスンナ派勢力による反ファーティマ朝の動きが広がり、ファーティマ朝支配から独立した。一方、王朝発祥の地チュニジアでは、ファーティマ朝からマグリブ(西アラブ)・トリポリタニア(現リビア)方面の統治を委ねられていたズィール朝が事実上の独立を果たし、エジプト以西の領土が失われていた。さらに、第6代カリフのハーキムが1021年に謎の失踪を遂げて以降は実力のないカリフが続き、行政官庁の最高実力者である宰相(ワズィール)が実権を掌握した。

 

同じ11世紀にはシリア地方にセルジューク朝、ついで第1回十字軍が到来し、エルサレムをはじめとするシリア地方のほとんどがファーティマ朝の支配下から失われた。ヒジャーズの宗主権もセルジューク朝に奪われ、12世紀にはファーティマ朝はもはやほとんどエジプトのみを支配するに過ぎなくなった。

 

ファーティマ朝の滅亡

12世紀の後半に入ると、幼弱な者がカリフの地位に就くようになり、宰相の地位をめぐる軍人たちの争いが一切の抑えを失って、政治はますます混乱した。さらにファーティマ朝の衰退に乗じ、シリア地方で激しく争うイスラム勢力のザンギー朝と、エルサレム王国などの十字軍国家がエジプトへの侵攻、介入をはかるようになっていった。

 

1163年、ファーティマ朝の有力者同士の宰相位を巡る争いに際し、一方の要請を受けたザンギー朝のヌールッディーンは、部下のクルド人の将軍シールクーフをエジプトに派遣した。1164年、シールクーフはカイロに入ったが、エルサレム王アモーリー1世の介入によりシリアへと撤退を余儀なくされた。シールクーフとエルサレム王国は、その後もエジプトへの介入を繰り返し、1169年、最終的にシールクーフがエルサレム王国軍を追ってカイロに入城した。

 

1168年、カリフの援軍要請によりシールクーフはエジプトへ入り、カリフはスンナ派である彼を宰相に任じたが、シールクーフはそのわずか2ヵ月後の同年323日に急死し、かわって甥サラーフッディーンが宰相に就任した。サラーフッディーンは一切実権をもたないカリフになりかわってエジプトの政治を取り仕切り、外来のシリア軍に対して反乱を起こしたファーティマ朝の黒人奴隷兵軍団を撃破し、カリフ宮廷で勢力を振るっていた黒人宦官を殺害して政権を固めた。さらに、自身の親族やマムルークにイクターを授与してザンギー朝式の国制を導入し、イスマーイール派の法官(カーディー)を追放してスンナ派の法官にすげ替えるなど、体制の切り替えを進めた。

 

1171年、宮廷に篭りきりだった最後のカリフが20歳の若さで病死するのに前後して、サラーフッディーンはエジプトがアッバース朝カリフの宗主権を承認する宣言を行い、ファーティマ朝は終焉を迎えた。

 

ファーティマ朝の消滅にともない、かわってサラーフッディーンによるスンナ派王朝、アイユーブ朝がエジプトを支配し、やがてシリアへと勢力を広げてゆく。

 

国制

ファーティマ朝のきわだった特性は、カリフを絶対君主とするきわめて中央集権的な国家体制をもったことである。これは、預言者ムハンマドの従弟にして娘婿であったアリー以来、その子孫がイマームとして父から子に受け継がれる政治的・宗教的な指導力を引き継ぐとするシーア派の原理に裏打ちされていた。ファーティマ朝のカリフは、すなわちシーア派の一派であるイスマーイール派のイマームであるとされ、クルアーン(コーラン)などに示された神の意志の真なる意味を解釈する能力を認められる。この点で、原則としては政治的な指導者に過ぎなかったスンナ派のカリフと比べると、神権的な力に裏付けられた権力を正当化することができた。

 

国家機関は、アッバース朝と同様、イスラム時代の初期からイスラム王朝によって行われてきたものを踏襲し、ディーワーンと呼ばれる行政官庁によって徴税を行い、軍人に俸給(アター)を分配した。行政官庁の長が宰相(ワズィール)で、エジプト時代に地位を高め、次第にカリフに代わる実質上の最高権力者となっていった。エジプト時代の初期には、カリフ専制体制を背景に、宰相には宮廷との個人的なつながりによって登用された有能なユダヤ教やキリスト教からの改宗者が就任したが、11世紀後半以降は軍人出身の有力者が就任するようになる。

 

軍人は王朝の創建当初は、その成立事情を反映してベルベル人の軍団、将軍が力をもったが、後には黒人、ギリシャ人、スラヴ人、トルコ人などからなる傭兵あるいは奴隷身分の出身者(マムルークなど)により編制された。軍人たちはそれぞれの出自、身分別に編成された軍団に分かれ、有力者同士の宰相位を巡る争いによって相互に対立したことは、ファーティマ朝の混乱の大きな要因となった。

2026/03/29

時宗

時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。

 

時衆と時宗

他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。

 

時衆とは、善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。一遍が布教していた同じ時期に、全く別個に一向俊聖も同じような思想を持って布教を行っていた。

 

思想

浄土教では、阿弥陀仏への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。

 

時宗(時衆)の語源は

「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」

とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。

 

一遍は聖達より浄土宗西山義を学び、父である河野通広(如仏)は西山上人・証空に師事している。日本浄土教各宗派の中での位置付けは、法然の高弟である証空や聖達を大成者とする西山派を「浄土宗の子」とするならば、証空・聖達の門弟であった一遍の時宗は「浄土宗の孫」という立場になる。

 

歴史

中世

一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿(他阿弥陀仏)である。他阿は、バラバラであった時衆を統制するために、信徒に対して僧である善知識を「仏の御使い」として絶対服従させる知識帰命の説を取り入れ、「時衆制誡」「道場制文」などを定め、『時衆過去帳』を作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。それ以後、一遍と他阿の後継となる教団の指導者は、他阿と同じ他阿弥陀仏を称して遊行上人と呼ばれ、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。

 

藤沢市清浄光寺本堂

三代目遊行上人智得が没すると、真光の当麻道場無量光寺と呑海の藤沢道場清浄光院(のちの清浄光寺)に教団は分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは様々な困難を伴った。教団が発展する中で、順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。

 

近世

江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が一遍の流派を中心とする「時宗」という単一の宗派に統合され、一向の流派などもその中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。

 

近代

1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争中は時宗報国会を組織し、満洲の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。

 

法式

戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。

 

宗紋

折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。

 

一遍が出た伊予河野氏は代々大三島の大山祇神社を信奉し、これを奉祀する一族であるため、元来一族の家紋は大山祇神社の神紋である「折敷に揺れ三文字」であった。しかし河野通信が源頼朝挙兵に呼応し、その軍功を讃えられて頼朝・北条時政に次ぐ三番目の席次を充てられた際に置かれた折敷に「三」と書かれていた事から、以後家紋の三文字を「揺れ三文字」から一般的な「三文字」に替えたという。一遍は河野通信の孫となるので、宗紋は通信以来の「折敷に三文字」としている。

 

※ただし中の「三」の字は文字様ではなく、直線的な三本の線となっている。

2026/03/26

ファーティマ朝(1)

ファーティマ朝(アラビア語: الخلافة الفاطمية Al-Khilafah al-Fāimīyah)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909 - 1171年)。

 

その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で、預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。

 

ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期には、イベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したので、イスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。 

 

歴史

建国

ファーティマ朝の淵源は、8世紀後半にイマーム派(シーア派の多数派)の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなった時、その長子イスマーイールのイマーム位継承を支持したグループが形成したイスマーイール派にある。イスマーイールの死後は、この派からはイマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になってイスマーイールの子ムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて救世主(マフディー)として再臨し、隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った。

 

ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)は、イスマーイールの子孫を称するイスマーイール派教宣運動の指導者で、899年には[要出典]従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディーであると宣言、活動を先鋭化していた。ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる)は、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909年にイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした。彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの地でファーティマ朝が建国された。

 

ウバイドゥッラーは、王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清してカリフによる独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設して、シーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた。

 

ファーティマ朝の拡大

ウバイドゥッラーによる北アフリカへの進出は、そもそも西方で王朝の基盤を建設して東方バグダードにあるアッバース朝を滅ぼすための第一歩と位置付けられていたので、ファーティマ朝は王朝の初期から東方への進出をはかり、たびたびエジプトに遠征軍が派遣された。この一連の遠征軍派遣はアレクサンドリアを一旦は占領するものの、いずれもアッバース朝の軍により退けられ成功を収められなかった。このため、内政の強化とマグリブ方面への進出へと方針転換されたものの、モロッコでは後ウマイヤ朝の介入により、はかばかしい成果をあげられなかった。

 

一方で、北アフリカにおける勢力拡大も進められ、シチリア島まで勢力下におき、そこに海軍基地を設けた。また、チュニジアではスンナ派が住民の多数を占めたので、ファーティマ朝によるイスマーイール派至上主義に対する反感が強まり、軍事費の増大を賄うためにイスラーム法によらない増税が行なわれ、民心がますます離反した。アブー・アルカースィムの代に、ハワーリジュ派を中心とする組織的抵抗も起こったが、ファーティマ朝の勝利に終わって王朝の基盤は強化された。

 

エジプト支配

9696月、第4代カリフのムイッズは、エジプトを支配するイフシード朝の内部崩壊に乗じ、シチリア出身の将軍ジャウハル率いる遠征軍をアレクサンドリアに派遣した。ジャウハルは、ほとんど抵抗を受けることなくエジプトを支配下に収め、カリフのエジプト移転にあわせてエジプトの首府フスタートの北隣に新都カーヒラ(「勝利の都」)を建設した。カイロは、アラビア語のアル=カーヒラ (ar:القاهرة) が西欧の諸言語で訛った呼び名である。

 

エジプトにおけるファーティマ朝はイフシード朝の版図を踏襲し、エルサレムを含む南シリア地方まで支配を広げた。さらにマッカ(メッカ)を含むアラビア半島西部のヒジャーズ地方をも保護下においた。ムイッズと、その子アズィーズの治世が、ファーティマ朝の最盛期となった。

2026/03/25

一遍(2)

思想と評価

一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いた。

 

阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁した。

 

一遍の神祇観は

「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」

との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。

 

浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。

 

「六十万人」とは一遍作の頌

「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」

の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず60万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる60万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。大橋俊雄は、この算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。

 

寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の13日前の正応2810日の朝に、所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著および所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。

 

和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は、後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。

 

一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は20から40人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。その過激な狂乱状態は、保守的な人々からは反発を受けた。例えば六条有房の『野守鏡』では、法悦状態で服を脱ぎ罵詈雑言を叫ぶ踊念仏の見苦しさに対する強烈な批判が述べられている。

 

有名な法語、和歌

旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき(時宗宗歌となっている)

身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ

生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり

夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。

世の人おもへらく、自力他力を分別してわが体をもたせて、われ他力にすがり往生すべしと、云々。この義しからず。自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち捨てて唯一念仏になるを他力とはいふなり。

 

時宗教団の成立

門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や、2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。

 

ゆかりの文化財

その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝える。『遊行上人縁起絵』(宗俊撰述、別名:一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)は、他阿が描かせたものである。『一遍上人語録』は、江戸期に編纂された。当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある(宝厳寺も木造一遍上人立像(重要文化財)を所蔵していたが、2013810日の本堂火災で焼失)。

 

廟所は真光寺にあり、律宗の影響が指摘される巨大な五輪塔である。阪神・淡路大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された。無量光寺にもそれを分骨したと伝えられる墓塔があるが、信者により削り取られ、原形を留めない。

 

一遍の笈(おい)は3個が現存するとされ、群馬県安中市の聞名寺が所蔵する1つが群馬県指定重要文化財となっている。

 

また手許の経典の一部は、死の13日前に書写山の僧に預けた。一説には、それが近世に書写山側から遊行上人に託され、現在清浄光寺に眠るともいわれるが、真偽のほどは明らかとなっていない。

 

なお、長野県佐久市の「跡部の踊り念仏」は、一遍上人ゆかりの古い姿を伝えているとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また佐久市にある時宗の金台寺所蔵の「紙本著色一遍上人絵伝 巻二」と「紙本墨書他阿上人自筆仮名消息」は国の重要文化財。同寺の鎌倉時代の梵鐘は、一遍上人ゆかりの品とされ佐久市有形文化財。

 

諱について

一遍の諱は時氏と主に言われているが、時氏の兄・通秀や、通秀か時氏の系譜的位置で通尚とも言われている[要出典]

2026/03/23

五代十国時代(7)

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科挙

 宋代の科挙を簡単に見ておきます。

 科挙は誰でも受験することができます。年齢、出身地関係なし。女性はダメですけれどね。

 試験は三年に一回。

 三段階の試験があります。最初が郷試、これは地方試験。合格したら都で二次試験を受けることができる。これを会試という。

 会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試。これは宋代からはじまった。皇帝自身による面接試験です。宮殿でおこなうから殿試だ。

 

 官僚になれば、一族みんなが潤うような財産と権力とが手に入る。一番で合格すれば、将来の大臣は約束されたようなもの。

 

 一旗揚げようという血気盛んな者達は、腕力にものをいわせるんではなくて机に向かって勉強するようになる。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚になってしまったほうが話が早い。

 

 そういう意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝します。これは科挙を受けるように勧める歌です。

 

 「金持ちになるに良田を買う要はない。

  本のなかから自然に千石の米がでてくる。

  安楽な住居に高殿をたてる要はない。

  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。

  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。

  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。

  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。

  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。

  男児たるものひとかどの人物になりたくば、

  経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」

         宮崎市定「科挙」中公新書より

 

 窓口に向かってというのは、昔だから照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから、暗くなっても勉強しろということですね。

 

 この歌は、太宗趙匤義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だったわけです。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は、必死に受験勉強させます。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合って、いい先生のところに入門させて科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのだから、プレッシャーも大きい。現在の受験勉強とは比較にならないでしょうね。

 優秀な人だと十代で合格する場合もあるし、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいました。

 

 合格率はどれくらいかというと、これは17世紀はじめくらい明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、それに対して殿試合格定員が300人程度です。すごい高倍率。

 

 どんな試験をするのか。

 論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。当然、すべて論述です。

 政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことでしょうか。 儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなんです。詩を書かせるのは、文化人としての教養をみることです。

 つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強いように思われます。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがある。

 だから、字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書くんですよ。しかも、清書用紙を墨で汚したりしたらまず不合格だ。緊張します。

 

 しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験します。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書くのです。

 なかには緊張にたえきれずに、発狂する受験者もいたようです。

 

 合格するためにカンニングをする者もでるんだ。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書くときにそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするのかというところが勝負所です。

 だから、合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが、採点する担当者を買収することです。高い点数をつけてもらう。

 政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。

 まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官が、だれの答案かわからないように。

 

 みなさん、高校受験の時、答案用紙に名前を書いたかどうか覚えていますか。書かなかったでしょ。受験番号だけだったね。教師のなかには受験生のことを知っている人もいる。ついつい、甘くなったりするかもしれない。そんなの困りますからね。名前を書いてはいけないことになっている。

 

 ついでに言うと、わたしたち教員が試験が終わったらすぐに採点をするんですが、採点するときには、受験番号も見えないようにくくってあるんですよ。当然ながら全教員が一室に集まって一斉に採点する。必ず複数で答案をみる。また、答案をその部屋から持ち出すことはできません。間違っても教師が不正しないように、ですね。

 

 高校入試ですらこうですから、国家の指導層を選ぶ科挙では、さらに不正対策がとられている。

 受験者の名前を隠すだけでは足りません。受験者の筆跡で誰かわかる場合がある。何しろ筆で答案書くんですから、個性がハッキリでがちです。筆跡をわからなくするために、受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写すの。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。

 ここまでやると、不正はできないと思うでしょう。ところが、まだある。

 

 どんな手段があるかというと、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておくのです。といっても、どんな問題がでるかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。

 これは、もう防ぎようがない。しかし、あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいりますよね。

 

 そんなこんなの不正をたくらむ輩はいたかもしれませんが、科挙はおおむね公正におこなわれていきます。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて、王朝が変わってもずっとつづけられ、20世紀1904年まで科挙はおこなわれたんです。

 

 宋の時代には、科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ特権を得ました。徭役を免除など簡単にいったら減税ですね。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまうものです。そういう意味で、家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

 

 宋はこの科挙に象徴されるように、文治主義の政治体制をつくりあげていきました。

2026/03/22

一遍(1)

一遍(いっぺん、英語: IPPEN)は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。全国各地で賦算(ふさん)と呼ばれる「念仏札」を渡し、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)と唱える「踊り念仏」を行った。

徹底的に自身の所有物を捨てたことで「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれた。

 

一遍は、承久3年(1221年)の承久の乱により没落した伊予国(愛媛県松山市)の豪族の河野家の次男として、延応元年(1239年)に生まれる。宝治2年(1248年)に10歳より仏門に入り、建長3年(1251年)からは太宰府の聖達上人の元で、浄土教を学んだ。

弘長2年(1262年)に父の訃報を受けると、一度故郷に帰り、半僧半俗の生活を続けていたが、文永8年(1271年)に33歳で再出家し、文永11年(1274年)より全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の遊行の旅に出る。

 

熊野本宮大社に着いた時、夢の中に白髪の山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)が現れ、

「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されているので、あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。」

とのお告げを受けて歓喜し、この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加し、諸国遊行を続けた。

 

弘安2年(1279年)からは、信濃国佐久郡(長野県佐久市)で一遍が尊敬してやまない平安時代の僧侶空也が始めた、輪になって念仏をとなえながら踊る「踊り念仏」を始めた。

 

一遍は、学問や理論ではなく、「念仏をとなえて極楽浄土へ往生する」という仏教的実践、つまり余計な考えは捨て、南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを人々に勧めた。

 

「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されており、仏教を信じれば、極楽浄土へ行ける喜びが踊りや歓喜となって現れるだろう」

という考え方で、日蓮宗が唱える「南無妙法蓮華経」でも「南無阿弥陀仏」と同じ功徳があるとも言っており、非常に柔軟性に富んだ考えだった。

 

一遍は、著書を残すこともなく、信徒を組織化して教団を作ることもしなかったが、弟子の他阿弥陀仏が時宗の教団化を行うことで再興した。一遍は念仏札を25万人以上に配ったと言われている。

 

「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す[信頼性要検証]

「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。諡号は「円照大師」(明治19年(1886年)8月、近代における私諡号[要出典])、「証誠大師」(昭和15年(1940年)323日宣下)。俗名は河野時氏[要出典]とも、通秀[信頼性要検証]とも、通尚ともいうが、定かでない。

 

略歴

延応元年(1239年)、伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。

 

有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について敗れ、祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれたころにはかつての勢いを失っていた。

 

10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長3年(1251年)、13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせた。

 

「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断であった。建長4年(1252年)から弘長3年(1263年)まで、聖達のもとで修学。

 

弘長3年(1263年)、25歳の時に父の死(524日)をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)に32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行。窪寺では十一不二の偈を感得する。

 

文永11年(1274年)28日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され大いに悩むが、参籠した熊野本宮で阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。

 

建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることができる)」を拝し、建治3年(1277年)に豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる。

 

さらに各地を行脚し、弘安2年(1279年)には伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。

 

弘安5年(1282年)には、鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)に上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や當麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287年)は圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。

 

文永11年(1274年)以来14年の遊行を経て、正応元年(1288年)には瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に3日間参籠して浄土三部経を奉納、1216日一遍一行は3艘の船に分乗して、今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に3日間参籠後、今治に戻る。

 

正応2年(1289年)1月下旬に大山祇神社の供僧長観(124日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、25日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は26日再度大山祇神社参詣、29日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請。

 

その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼、61日阿波の大鳥の里の川辺で発病、7月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、718日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51歳(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で旧暦823日午前7時ごろ 没し、15年半の遊行を終えた。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。

2026/03/19

【WBC2026】ベネズエラがアメリカを破り初優勝(日本は準々決勝敗退)

■準々決勝

〇ドミニカ共和国 10―0 韓国●

1次リーグは「やっとこさ2勝2敗」ながら「タナボタ」で準々決勝に進出した韓国と、優勝候補の一角に挙げられるドミニカ共和国との対戦は「順当に」ドミニカが圧勝。そもそも韓国の実力は3A以下だろうし、準々決勝の顔ぶれの中で圧倒的に格落ちだから、メジャーリーガーが揃うドミニカの相手ではなかった。

 

〇アメリカ 5-3 カナダ●

こちらもバリバリのメジャーリーガーを揃えたアメリカだが、カナダ相手に予想以上の苦戦をした。1次リーグ最終戦でもイタリアに打ち負けるなど、アメリカの調子がイマイチの感は否めない。

 

〇イタリア 8-6 プエルトリコ●

イタリアが激しい打撃戦を制し、ヨーロッパ勢として唯一かつ初の準決勝進出を決めた。

 

〇ベネズエラ 8-5 日本●

連覇を狙う日本はベネズエラのパワーに屈した。

 

1回表、ベネズエラに先頭打者本塁打が飛び出すも、その裏すかさず大谷が先頭打者本塁打の返礼で同点に追いつく。1点リードされた3回裏には、代打森下の3ランなどで4点を奪い、5-2とリードした。

 

これで日本ペースになるかと思われたが、中盤からはメジャーリーガーを揃えたベネズエラがじわじわと底力を発揮し、日本の繰り出す自慢の投手陣を打ち砕く。一方、日本打線は中盤以降は凡打の山を築き、これといった見せ場も作れずにあっけなく敗退。

二連覇を目指した日本だったが、前回大会では胴上げ投手となった大谷が最後の打者となるという、これ以上ない皮肉な結末となった。

 

■準決勝

○アメリカ 2-1 ドミニカ共和国●

ここまで5試合で51得点と猛威を振るったドミニカ打線も、アメリカの前に1点しか取れず惜敗。アメリカは2大会ぶりの優勝に王手をかけた。

 

〇ベネズエラ 4-2 イタリア●

ベネズエラが逆転の勝利。イタリアは予選でアメリカに勝つ大金星を挙げ、ヨーロッパ勢で唯一準決勝に進出したものの決勝進出はならず。

 

■決勝

〇ベネズエラ 3-2 アメリカ●

準々決勝で日本を破ったベネズエラがアメリカに勝って初優勝。

 

準決勝、決勝の3試合は、どれもが接戦となった。

 

ドミニカは、1次リーグでベネズエラに勝った。そのドミニカにアメリカは準決勝で勝ったが、決勝でベネズエラに負けた。さらにイタリアも1次リーグでアメリカに勝った。

こうしてみると4強に進んだ各チームは、それぞれがもう一度戦ったら、どっちが勝ってもおかしくないくらい実力が拮抗しているのではないか。

 

翻って日本代表はといえば、6大会目にして初めて準決勝進出を逃した。

確かにこれまでの大会とは違い、以前はメジャーリーガーを出し惜しみしていた各国が一流のメジャーリーガーを揃え、ようやく「本気に」なってきた。それだけに、そう簡単には勝てなくなっているのは事実で、メジャーリーガーの少ない日本の準々決勝敗退は決して「番狂わせ」ではなく、実力通りとは言えなくもない。

 

それよりも、ワタクシの疑問は

「なぜ代表監督が、監督経験のない井端なのか?」

である。

 

別に個人攻撃をするつもりはまったくない。ただ、代表監督をだれが決めているのかは知らぬが、どう考えても「わざわざ監督経験のない人物を監督に抜擢した」料簡は、まったく理解不能である。

 

確かにベネズエラは強かったとはいえ、日本にも勝つチャンスが十分にあった。あるいは短期決戦の戦い方を知悉した指揮官なら、違った結果になっていたかもしれない。

 

思えば今大会は、1次リーグから苦戦続きだった。

初戦の台湾戦だけは大勝したものの、続く韓国、オーストラリア、チェコと思わぬ苦戦の連続で、特に「最弱」と思われたチェコ戦も結果は9-0だが、7回までは0-0だった。いかにメンバーを落とした戦いだったとはいえ、アマチュア相手にここまでの苦戦は想定外と言える。

 

試合を重ねるごとに投手陣がほぼ総崩れとなったのは、単純にメジャーリーガーを抑えるだけの力がなかったのだろうが、打つ方では近藤、岡本、牧ら結果が出ていない選手に拘り続けるなど疑問を感じる采配が多かった。

 

短期決戦の戦い方は難しいといわれる。長いシーズンなら最終的には実力がモノをいうだろうが、短期決戦は違う。ましてやWBCの決勝トーナメントとなると、負ければ終わりというシビアな戦いだ。そんなことはド素人でも百も承知のことなのに、なぜ国際舞台での短期決戦はおろか、監督経験すら皆無の人物を敢えて抜擢したのか理解に苦しむのである。

2026/03/17

五代十国時代(6)

https://timeway.vivian.jp/index.html

五代から宋へ

 唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

 

 華北、黄河流域には、開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。

 後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。

 

 それ以外の地域に、合計10ほどの独立政権が成立。

 

 この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。各政権の皇帝や王は、みな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。その過渡期の混乱。

 

 新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。

 

 また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは、一つの地域を丸ごと持っていることをいう。豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。

 

 しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。

 

 黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。すべて人民は、同じ身分。

 

 日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。中国では10世紀には、すでに貴族が消滅している。こういう面で、中国はものすごく進んでいる社会です。

 

 五代最後の後周が宋に替わるのが960年。

 宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960~976)。都は開封です。

 

 宋が成立したときには、すでに統一に向けた機運は生まれつつあった。

 

 宋の前の後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいました。この人は非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては戦乱を終わらせてくれるだろうと期待されていた。ところが三十代の若さで病死します。代わって即位したのが幼い息子。

 

 みんなガックリする。また、混乱がつづくのか、というわけだね。唐末以来の長い混乱で情勢は煮詰まっている。平和な世の中をみんなが望んでいる。幼い皇帝では、こういう期待に応えられない。軍人たちも無能な皇帝に仕えていてろくな事はないですから、幼い皇帝を喜ばない。

 

 趙匡胤は後周の軍人だった。節度使の経験もありますが、新皇帝のもとで親衛隊長をしていた。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣した。

都の北方で宿営していたらかれのもとに、部下の将校たちが押しかけてきて迫った。

「幼い現皇帝では混乱が起きる。あなたが皇帝になってください。」

 

 趙匡胤は親衛隊長として反乱なんてできないと断るのですが、部下たちは強引で断りつづけたら自分は殺されるかもしれない。そういう雰囲気だった。そこで、やむなく皇帝になると約束しました。部下たちは喜んで黄色の服を持ってきて趙匡胤に着せた。黄色は皇帝の象徴なのです。

 

 そんなわけで、趙匡胤はいやいやながら皇帝にされ、親衛隊をひきいて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪いました。こうして宋は建国された。

 

 これは、宋の成立したあとに作られた記録だから、本当に趙匡胤がいやいや皇帝になったかどうかはわからないんですが。はじめから、そういう段取りを部下たちとつけていたのかもしれない。しかし、それにしてもそういう芝居なら人民が納得する状況だったのです。

 

 これはおまけの話ですが、宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していく。宋の時代に後周皇帝家は、ずっとつづいている。「水滸伝」には豪傑の一人として、後周皇帝の末裔が出てくるんですよ。

 

 後周以外にも、宋が全国統一するときにすすんで降伏してきた十国の君主たちも、同じように丁重な扱いを受けます。

 戦乱を終わらせる、余分な血を流さないという民衆の願いを、宋の支配者は自覚しているようですね。

 

宋の基本政策

 趙匡胤は、宋の太祖ともいいます。かれの時に、ほぼ中国を統一しますが、完全に統一したのは二代目皇帝の時です(979)。二代目は趙匡胤の弟、趙匤義(ちょうぎょうぎ)(位976~997)です。こちらは、宋の太宗と呼ばれるほうが多い。

 

 この兄弟が宋の基礎を固めた。

 

 宋の政治方針は漢字四文字で覚える。「文治主義」です。

 

 「文」の反対語は何かわかりますか。この場合は「武」です。文治というのは武力ではなく「文の力」で治めることです。

 

 具体的には、節度使の権限をどんどん削っていく。地方の軍も弱体化させる。兵士を急に減らすと、失業兵士が賊になってしまうかもしれませんから、急には減らさない。そのかわり新しい兵士を採用しない。兵士はどんどん年をとってお爺さんになるわけだ。これでは戦力としては役に立たないのですが、政府はかれらに地方都市の城壁の修理とか、橋や堤防工事などをさせる。こんなふうに地方軍を骨抜きにしていきます。

 

 かわりに皇帝直属の軍、「禁軍」というのですが、これを強化します。

 

 軍人の力を削って、かわりに文人官僚による行政機構を整備します。多くの文人官僚を採用するために科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験がおこなわれた。

 

 「選挙」という名で隋の時代からはじまって、唐の則天武后時代に充実されていたのですが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からです。

 なぜかわかりますね。この時代に貴族階級がいなくなっているからです。すべての官僚が科挙によって選ばれるのですから。

2026/03/13

日蓮(11)

https://dic.pixiv.net/

日蓮にとって、宗教は個人やあるグループが信じてればいい、というものではなく、あらゆる人が真の宗教を信じるべき物であり、それは国の統治者も例外ではない。

 

彼は鎌倉幕府の要人に反仏教と看做す諸宗派を排し、真の仏教と信じる法華宗を受け入れるよう上告までする。これが『立正安国論』である。

 

それにおいて、蒙古(モンゴル帝国)が日本に攻めて来たのも邪宗を野放しにした結果であるとしたが、伊豆へ流罪された。

 

その後も念仏信徒等に命を狙われつつも活動を続けるが、とうとう死罪が言い渡される。

 

首を刎ねられるはずだったが、その時強烈な光が現れ下手人や立会人は目が眩み、処刑は中止されたという。この事柄は刑場の場をとって「竜の口の法難」と呼ばれている。

 

市中引き回しの際には、源氏の武人たちの前で「(彼らの信仰対象であり、仏教の守護神ともされていた)八幡神はまことの神か」と社に向けて呼ばわる等、世間の人々を驚かせる行動にも出る。

 

処刑のやり直しはされなかったが、佐渡へ流罪され迫害は続いた。いつまでたっても鎌倉幕府が日蓮を登用せず、真言宗や天台宗ばかり重用するため、その後現在の山梨県身延へと移住し、そこで教団を運営、彼は他殺ではなく病死によってその生涯を閉じた。享年60

 

死後

日蓮は亡くなる前に、弟子の中から六人(六老僧)を選び後継者としていたが、六老僧のひとり日興が離脱し分裂した。その弟子たちの後継者たちは「門流」と呼ばれる諸流派と、そこから枝分かれした教団を形作った。

 

さらに後世、それらの諸門流、宗派グループとしての合流の道を選んだり、単立の教団としての道を選ぶことになる。

 

今日、日蓮宗といえば、だいたいは身延山久遠寺系の派閥を指す。しかし日蓮系で最も有名なあの創価学会は日蓮宗の系譜ではない(ややこしい)。これは、六老僧の一人「日興」が興した「富士大石寺」の門派、現在の日蓮正宗から生まれた教団なのである。

 

よって日蓮宗と創価学会は、むしろ仲が悪かったりする。さらに日蓮正宗と創価学会も破門以降、めちゃくちゃ仲が悪い。宗祖日蓮からして他の宗派を認めない人だったため、仕方ないといえば仕方ない。

 

一方、日興門下かつ、日蓮宗に合流している教団もある。両者とも別な日蓮本宗、法華宗興門流として活動する派もある。

 

日興以外での弟子に連なる門派の多くは後世に日蓮宗となっているが、現在もそちらに合流しない教団(法華宗本門流、本門法華宗、法華宗真門流、法華宗陣門流、顕本法華宗、不受不施日蓮講門宗)も存在する。

 

日蓮を祖とする諸教団において、根本的な仏「本仏」は釈迦如来とするが、日興に連なる「富士門流」の中には「本仏」を日蓮とする教団があり、後に日蓮正宗として合流している。

 

両者の立場の違いが生じるのは、聖典である御書(日蓮の著作)や弟子の著作や口伝として残るテキストのうち、どれを正典とするか両宗派で違っているためである。というのは、自派閥の正当化をするために、日蓮御書の偽書が量産された歴史があるためである。

 

例えば日蓮宗では、日蓮正宗が根拠とするテキストを正典としないし、その逆も然り。

そのため日蓮宗と日蓮正宗などをごちゃまぜにするのは、当人たちにとってはかなり不快がられる事である。

 

他宗を虚偽と断じ、蒙古襲来という国難から流星まで謗法の報いと唱える日蓮は、非宗教的な現代的観点からするとエキセントリックそのものである。学習研究社が1982年に刊行した『学研まんが 日本の歴史 (6) 元寇のあらし 鎌倉時代・後期』での、路上の人々に向けて

「日本がほろぶ。日本がほろびますぞ!!」

「わたしの予言が当たった!今に元の大軍が攻めてきますぞ」

と赤い吹き出しで叫ぶコマは、ふたばちゃんねるで取り上げられネタにされた。

 

このページでは

「真言、浄土、禅宗の宗派をことごとくつぶしてくだされーっ!」

とも言っている。

 

たしかに『立正安国論』において謗法を禁じる事を求めているが、斬刑に処すべきというのかという問いは否定し、他宗を禁じる具体的な手段としては布施を止める事のみを語っている。もっとも、この書を送った相手のような権力者に、パトロンの座を退かれる事が大打撃になる事には違いないのだが。

 

苛烈な日蓮には謎の引力があるようであり、その側面は近年の学習漫画でも取り上げられている。2015年の『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 5 鎌倉時代』では

「このっ あほうがっ!!念仏なんぞを唱えておったら 無間地獄へ落ちるぞ!!」

「法華経だけが正しく、他の経は全て間違っておる」(正確には「劣っている」という立場)とシャウトしている。

 

特に戦前の日蓮主義の時代にかけて「革命家日蓮」として描かれてきた日蓮だが、日蓮主義がいろいろやらかしてしまったため、戦後の日蓮宗側および新宗教では「法華経を唱える親鸞」のようなマイルドな描かれ方をされる傾向にある(破門後の創価学会も同様)。

 

児童向けの偉人伝では、比較的かなり柔らかめにわかりやすく日蓮の信念を解説する事があり、「日蓮は、この世で人は救われなければ意味がないと行動した」などと解説される事がある。

 

法然や空海、禅批判を避けるため犠牲になるのが日蓮生涯のライバル(?)極楽寺良観で、彼の真言律宗は小派閥に過ぎないため大悪人として描かれるのが定番である。

2026/03/12

【WBC2026】1次ラウンド結果

1次ラウンド(予選リーグ戦)が終了し、ベスト8が出そろった。

 

■プールA

≪準々決勝進出≫カナダ、プエルトリコ(3勝1敗)

≪予選敗退≫キューバ(2勝2敗)、コロンビア、パナマ(1勝3敗)

NPBで活躍するモイネロ(ソフトバンク)、マルティネス(巨人)を擁するキューバは予選敗退。

 

■プールB

≪準々決勝進出≫イタリア(4勝0敗)、アメリカ(3勝1敗)

≪予選敗退≫メキシコ(2勝2敗)、イギリス(1勝3敗)、ブラジル(0勝4敗)

3連勝で「準々決勝進出と勘違いした」(?)アメリカは、最後のイタリア戦で中盤まで0-8と大量リードを許し、終盤の反撃も及ばず6-8で敗退の醜態を演じた。

「あわや予選敗退か?」という断崖絶壁に追い込まれながら、最終戦でイタリアがメキシコに勝ってくれたおかげで「タナボタで」どうにか準々決勝進出を決めた。

かつてないほどメジャーの大スターを揃えてきたアメリカだけに、まさかの予選敗退を回避できて、さぞほっとしていることだろうw

 

■プールC

≪準々決勝進出≫日本(4勝0敗)、韓国(2勝2敗)

≪予選敗退≫オーストラリア、台湾(2勝2敗)、チェコ(0勝4敗)

日本が4戦全勝で勝ち上がったのは順当だが、2位争いは3チームが2勝2敗で並ぶ大混戦となった挙句、韓国がタナボタで勝ち上がった。

幸いにして、日本と韓国は決勝トーナメントのヤマが別になっただけに、両チームが決勝進出しなければ再戦はない。前回チャンピオンの日本はともかく、韓国がドミニカ共和国やアメリカなどに勝って決勝に進出してくる可能性は限りなく0%と言えるだけに、これ以上嫌な思いをすることはないだろう。

しかし予選リーグ「2勝2敗」で、決勝トーナメント進出とかいわれてもなあ。

 

■プールD

≪準々決勝進出≫ドミニカ共和国(4勝0敗)、ベネズエラ(3勝1敗)

≪予選敗退≫イスラエル(2勝2敗)、オランダ(1勝3敗)、ニカラグア(0勝4敗)

こちらは波瀾はなく、2強が順当にトーナメント進出を決めた。

 

この結果、準々決勝は以下の通りとなった。

 

    ドミニカ共和国vs韓国

    カナダvsアメリカ

    イタリアvsプエルトリコ

    日本vsベネズエラ

 

順当ならドミニカ共和国、アメリカは勝ち上がるだろう。

イタリアとプエルトリコは、名前だけならプエルトリコが強そうだが、今回はイタリアが予選でアメリカにも勝って4連勝と強いだけに、なんとも言えない。

そして日本。

もちろん狙うは優勝だが、ベネズエラもメジャーリーガーを揃えた強豪だけに、簡単には勝てないかも。

2026/03/11

【WBC2026】日本が全勝で決勝トーナメント進出決める(1)

WBCが開幕した。

前回大会(2023)は決勝でアメリカを破り、チャンピオンとなった日本。

これまで「連覇」を達成したのは日本のみだが、今回は「二度目の連覇」がかかっている。

 

グループCは、日本のほかオーストラリア、台湾、韓国、チェコという顔ぶれだ。この中で最も強敵とみられる台湾と、いきなり初戦でぶつかった。

台湾には、過去の大会で好投手に抑えられて苦戦する場面も見られただけに、初戦としてはかなり嫌な相手と言える。

 

〇日本 13-0 台湾●

日本相手には毎度エース級をぶつけてくる台湾だけに今回も苦戦が予想されたが、今回は序盤から予想外の展開が待っていた。

まず、2回表に「千両役者」大谷がいきなり満塁ホームランで敵のド肝を抜く。これに勢いを得たかナント打者15人の猛攻で大量10点を奪うと、3回にも3点を追加。投げては先発・山本が22/3を投げ無安打無失点。2番手以降も台湾打線をまったく寄せ付けず、13-0で圧勝。初戦から「日本強し!」を印象付ける戦いとなった。

 

〇日本 8-6 韓国●

初回いきなり3点を奪われたが、すかさず鈴木の2ランで反撃の口火を切ると、3回裏には大谷、鈴木、吉田の「メジャートリオ」によるド派手な3ホームランで大逆転。一気に日本に流れが傾くかに見えたが、日本相手には死に物狂いの異様な執念を発揮する韓国が粘りを見せ、4回に同点に追いつく。

5-5とヒリヒリする展開で迎えた7回。この嫌なムードを立ち払うかのように、鈴木が押し出し四球を選び勝ち越すと、続く吉田が2点タイムリーを放ち、しつこくしがみつく韓国を突き放した。

打線は台湾戦に続いて好調を維持しているが、「格下」韓国に6失点と投手陣に不安を残す一戦となった。

 

〇日本 4-3 オーストラリア●

台湾、韓国に連勝した日本だが、この日は苦戦を強いられる。

6回まで0-1と、ここまで好調だった打線がわずか3安打に抑えられるという苦しい展開だ。

1点を追う7回裏、吉田に値千金の2ランが飛び出し逆転。続く8回には、代打・佐藤のタイムリーでさらに2点を挙げ、リードを広げた。

オーストラリアは、9回に2本のソロホームランで1点差まで追い上げたものの、日本がなんとか薄氷の勝利だ。

これで3連勝となり、早くも1次ラウンド首位通過で決勝トーナメント進出を決めた。

前回大会のメキシコ戦でも、敗色濃厚の展開から逆転ホームランを打った吉田は、さすがに国際大会では頼りになる存在と言える。一方、抑えの大勢は9回に立て続けにホームランを許し、1点差まで詰め寄られる失態。大勢の抑えは危なかしくて観てられんよ。

 

〇日本 9-0 チェコ●

相手はグループ最弱とみられるだけに、多少メンバーを落として主力を温存したとしても楽勝が予想されたが、7回を終わった時点でまで0-0とまさかの大苦戦となる。

8回裏、若月の二塁打に相手失策が絡み、やっとこさ先取点をあげた。これでようやく目が醒めたか、続けて周東の3ラン、さらには村上の満塁ホームランも飛び出すなど遅まきながらに打線が爆発し、この回一挙9点。

投げてはチェコ打線を2安打完封リレーで、日本は前回王者の貫禄を見せて1次ラウンド全勝での予選突破となった。

2026/03/10

五代十国時代(5)

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十国

十国とは以下の国家を指す。

 

    (902-937)

    前蜀(907-925)

    荊南(907-963)

    呉越(907-978)

    (907-951)

    (909-945)

    南漢(909-971)

    後蜀(934-965)

    南唐(937-975)

    北漢(951-979)

 

また、十国以外の国として李茂貞の岐(901-924)と、劉守光の燕(895?911-913)がある。

 

群盗の出身の楊行密が、現在の南京周辺を支配した政権。黒雲都と呼ばれる軍勢を率いたことによって台頭したが、頼り過ぎたが故に黒雲都の指令官である徐温と張顥が実権を握るようになる。

楊行密が死んだ後の君主は完全に傀儡であり、徐温と張顥との権力争いは徐温の勝利に終わる。が、その徐温も禅譲直前に病死、その養子である徐知誥に禅譲することによって4代で滅んだ。

 

南唐

禅譲によって南唐を建国した徐知誥は、楊行密に拾われた正体不明の孤児で、才能を見込まれたが楊行密の子たちとは折り合いが悪かったため、徐温の養子になる。ここで才能を発揮し、徐温の実子たちを差し置いて後継者へと成り上がり、ついには国王にまでなった。皇帝即位後は唐の宗族と自称して李昪と改名、国名も唐にちなんだものとした。

 

国を運営するうえで最重要物資である塩の生産地を抑えていたため、十国の中では最強といわれていたが、李昪は外征よりも内政に力を尽くした。その姿勢はまさしく名君といってもよかったが、外征をしなかったことが結果的に最悪な展開を迎えてしまう。

 

2代目の李景は外征を推し進め、内乱に乗じて楚と閩を滅ぼすがその後の処理がまずく、得た領土を手放すことになってしまう。その上、文人気質で実務に疎い傾向にあったため、後周の世宗に敗北、大幅な領土の割譲など、後周の属国になることを余儀なくされてしまう。

 

3代目の李煜は国を保つことに保身するが、結局は後周の後継である宋に攻め込まれて滅ぼされることとなった。

 

前蜀

群盗出身で黄巣の乱で名を上げた王健が、蜀に割拠した政権。

戦乱の世ではあったが、天然の要害である地理条件と塩や鉄などの重要資源が産出することから経済発展に尽くし、別天地ともいえる平和な空間を造り上げた。文人たちが避難してきたことによって文化が花開いたが、その反面、秘密警察を作って国民を監視するなど暗い面もあった。

だが、その後を継いだ2代目が無能であり、蜀の天然資源に目をつけた後唐によってあっさり滅ぼされた。

 

後蜀

前蜀滅亡後の蜀の統治を任された孟知祥が、混乱に乗じて独立。

前蜀譲りの経済力で文化が花開いたが、天下の険があることをいいことに外よりも内に向いてしまい、奢侈に走るのも前蜀と同じであった。そして、宋にあっけなく滅ぼされてしまう。

 

群盗の王審知が、福建に中心に割拠した政権。

初代の王審知は名君であったが、後継者に恵まれず、内紛の果てに南唐に攻め込まれて滅亡。

閩時代の遺物が、今でも意外に残されている。

 

呉越

群盗の銭鏐(せんりゅう)が杭州を中心とした地域を支配した政権。

内政に務め、長江、東シナ海、南シナ海の結節点という立地を生かしての貿易国家として栄えた。その一方で、細々としたものに税をかけていたと言われている。

 

周辺諸国と比較して後継者には恵まれていたため内紛が少なかったこと、強国に臣従して金で安全を買うことによって、五代十国としては長期に渡って存続したが、宋が南唐を滅ぼして直接国境を接するようになると不利を悟り、自ら領土を献上する形で滅んだ。国としては一番まともな終り方であり、呉越公室は優遇されたという。

 

時代は流れて現代、子孫の一人が中国においてはロケット博士になり、もう一人の子孫はアメリカに渡ってノーベル賞を受賞をしているのだから、地下の銭鏐もさぞかしびっくりしているだろう。

 

木工出身の群盗、馬殷が長沙周辺に割拠した政権。

経済国家であり、茶の販売が主な収入源だったため5代の国家には臣従、皇帝とは名乗らなかった。

馬殷は子沢山であったが、その息子たちが凡庸であったことから内紛が勃発、南唐に攻め込まれて滅亡する。

ちなみに馬王堆は馬殷の墓だという伝承があってつけられた名称であったが、実際に葬られていたのは全くの別人、そして馬殷よりも遙か古代の人だった。

 

荊南

丁稚出身で、後梁の朱全忠に才能を認められた高季興が荊州以下、3州の統治を任され、その後、独立した勢力。実は国家ではなく自治領という存在であり、員数合わせのために五代十国に組み込まれたのではないかという説もある。

 

十国中、もっとも小さい国家ではあったが大陸の中心という立地条件を生かし、五代の国のみならず後唐や呉越といった国まで臣従、勢力の緩衝地帯と認識させることよって独立を保った。だが、宋の侵攻が始まると交通の要所という点から真っ先に攻撃目標とされ、宋に国軍を通過させろと脅されて認めると、そのまま占領されて滅んだ。荊南の滅亡により、十国が連携して宋を攻撃することが不可能になったので重要な意味を持つ。

ちなみに、万事休すとはこの国発祥の故事成語である。

 

南漢

劉隠が広東を中心に割拠した政権。ちなみに劉隠はアラブ系だったのではないかという説がある。

その頃の広東は中央から遠く離れていたので平和であり、南海貿易で栄えていたので国力も豊かであった。ただし、ベトナムの呉朝との戦いに敗れて独立を許し、これを契機に中華王朝のベトナム支配が終わったというのは重要な事件である。

 

特徴としては、宦官大好き政権であったこと。宦官でないと役人として登用されない有様だったので、人口100万人に対し宦官の人口が7000人、末期には20000人に増加したといわれている。まともな状況ではなかったので、宋が侵攻するとあっさりと滅亡した。

 

北漢

後漢皇帝、劉知遠の弟である劉崇が甥の隠帝が殺された後、太原を中心として独立した政権。

誕生の経緯から後周、宋に敵対的ではあったが国力では叶わなかったため遼に臣従した。

遼の支援を受けて後周と対決するが敗北、内紛もあって4代で滅亡。北漢の滅亡により、中国統一は完了した。

2026/03/08

日蓮(10)

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出自

鎌倉仏教と呼ばれる鎌倉時代に誕生した日本大乗仏教諸宗派の開祖の一人である。

 

現在の千葉県にあたる安房国の海岸地域に住む漁師の家の出。幼少期の名は善日麿(ぜんにちまろ)。当時の漁業民の中では中級にあたる「釣人権頭(つりびとごんのかみ)」の家系である。(この事から、後述の出家前の生活についても「平民の中では裕福な家」とする説も有る)

 

しかし、彼自身は自身の出自を「旃陀羅(せんだら)」であると語っている。

 

元はインドの言葉で、チャンダーラという被差別階級を漢訳した語である。非アーリア系の狩猟文化を持ったインド先住民であるが、東征してきたアーリア人に敗れカースト下層に置かれた人々である。

 

「ヴェーダの宗教」から見れば殺生として破戒にあたる屠畜などに従事していたと見られ、実家が漁業という魚を死なせる要素を持つ職業であることを恥じて、日蓮はこの語を使ったともされる。

 

貴族出身の道元や親鸞と比べれば平民であり、生活は豊かではなかったようである。

 

経歴

十二歳の時に天台宗の寺「清澄寺」に預けられ、薬王麿(やくおうまろ)と名を改めた。そこで仏教を学び十六歳で出家して僧侶となる。当時は仏僧として是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と呼ばれた。それから十二年後に比叡山の門を叩くことになるが、それまでの彼の事跡は当時無名の一僧侶だったこともあり、さほど明らかではない。

 

比叡山延暦寺の天台宗は『法華経』を至上とする中国天台宗の思想を中心に、日本において念仏や禅、密教、律など仏教の様々な修行法を集大成した宗派である。

 

ただし鎌倉で浄土教について学んだりと、各地で経験・研鑽を積んでいたことは確かである。

 

この下積みの十二年間と比叡山入山後で彼は仏教諸宗派について学んだが、後にそれらを完全否定する事になる。清澄寺で念仏をしても、他の場所で様々な法門を学んでも救いの実感を得られなかった事が背景にある。

 

32歳の時、彼は「南無妙法蓮華経(私は法華経に帰依する)」を旨とし、これを題目として唱える法門を立ち上げる。

 

後に日蓮宗(身延久遠寺系)と日蓮正宗(富士大石寺系)などに分かれることになる「法華宗」の誕生である。この時から、彼は「日蓮」と名乗るようになる。幼名と出家名を合わせたような名前である。

 

しかし彼自身の意識としては新しい宗派を興したというよりも、天台宗の根本聖典でもある『法華経』への回帰、それを説いたとされた釈迦如来の本心を明らかにしたいというものであった。

 

現在では、法華経も含め大乗経典は釈迦からかなり後の時代の成立とみられているが、当時はすべて釈迦の直説とされていた。あまりにも膨大な経典を整理したのが中国天台宗の智顗で、彼は『法華経』を最高の経典と判定し、この学派を伝教大師最澄がこの思想を日本に伝え、興したのが比叡山延暦寺である。

 

ところが末法到来と言われた11世紀以降、延暦寺で学んだ法然(と弟子の親鸞)は浄土思想に傾倒、道元や栄西は禅に傾倒し、天台宗自体も密教に傾倒、法華信仰が時代遅れになっていた。智顗・最澄の後継者を自認する日蓮にとって、これは許し難いものであった。

 

「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」という他宗派否定の言葉(『与建長寺道隆書』『諫暁八幡抄』にみられる)は有名だが、実は古巣である当時の天台宗も否定している。

 

彼は中国の天台智顗や日本の最澄は尊敬しているが、「法華経以外の不純物」が持ち込まれて以降の天台宗は邪宗扱いなのである。

 

その性格は、よくマルティン・ルターと比較される。しかし思想的には、カトリック側の対抗宗教改革に近いところもある。

 

日蓮は四月二十八日、朝日差す中、清澄寺にて開教の決意をする。その日は出家にも立ち会った師匠・道善坊が弟子である彼のために、始めての法座(僧としての説法の場)を用意した日でもあった。

 

念仏信徒も集まるその場で、日蓮は

「謗法である念仏を捨てて、正法である法華経の信仰に立ち返れ」

と説き、最初の波乱を巻き起こすのである。

 

天台宗の説法の場に念仏信徒が来ている事からもわかるように、当時の諸宗派は自宗こそ最高の教えとしつつも他宗派に一定の配慮はしていたわけだが、日蓮はその全てに対し喧嘩を売った。

 

歯に衣着せぬ遠慮無い否定と非難によって全方位から敵意を買った日蓮は迫害を受け、命すら狙われる事になる。

 

本人はというと「法華経に信徒が迫害されると書いてるのが実現した」と、さらに気合を入れるのだった。

 

彼は唱題を説きつつ、題目曼荼羅という「南無妙法蓮華経」の周囲に神仏の名を配した幾何学的な曼荼羅を作成し、信者たちに分け与えた。その内のいくつかは現存している。

2026/03/06

五代十国時代(4)

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五代十国とは、10世紀(907960)の中国の時代区分である。

 

概要

具体的には朱全忠による唐の滅亡(907年)から、趙匡胤(ちょうきょういん)の即位(960年)までの時代である。

この約50年の間に、華北では5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が覇権を競い、一方で華中、華南では10の地方政権が独立して成立していた。

 

後梁

907年、唐を倒して後梁をたてた朱全忠は開封に都を定め初代皇帝となり、ここに五代十国時代が始まる。しかし建国時の後梁の領土は唐の1/4にすぎず、各地には晋王の李克用、前蜀の王建など天下を狙う武将達が存在した。その多くは、唐の辺境の将軍である節度使出身であった。また同じ頃、耶律阿保機(やりつあぼき)が率いる遊牧民族の契丹は北アジアや中央アジアに勢力を広げており、万里の長城を超えて中国国内への進出を狙っていた。

 

907年、李克用は長男の李存勗(りそんきょく)と共に後梁へ侵攻を開始。李克用は片目が不自由であったため「独眼竜」と呼ばれ、また彼の軍隊は全員黒い衣装を着ていたので鵶軍(あぐん、カラス軍団の意)と呼ばれ、その強さを恐れられていた。しかし、朱全忠に比べ政略や謀略という面で劣っていた李克用は朱全忠に遅れを取り、朱全忠打倒を果たす前に死去し、李存勗がその跡を継ぎ晋王を名乗った。

 

そんな中、体調を崩した朱全忠は自分の跡を養子である朱友文に継がせようとしたが、これに怒った実子の朱友珪が912年に父である朱全忠と朱友文を殺害してしまった。しかし朱友珪自身も、翌年に弟の朱友貞に謀反を起こされ死亡。こうして朱友貞が皇帝となった。

 

この隙をついて晋の李存勗は、知恵袋の馮道(ふうどう)の勧めで契丹との和平を結んだ後に後梁へ攻め込んだ。李存勗は後梁の基地を次々と攻め落とし後梁の首都、開封に迫っていった。李存勗は916年に黄河の岸に達し、923年には魏州で皇帝として即位して新しい国を建てた。これが後唐である。その年の秋には、荘宗(李存勗)は大軍を率いて黄河を渡り開封へと進撃した。末帝(朱友貞)は、これに対抗できず自殺。後梁はわずか2代、17年で滅んでしまった。

 

後唐

しかしその後、都を洛陽に移した荘宗は唐の朝廷に習って宦官を復活させ側近政治を行ったため批判が強まった。また、荘宗は贅沢な暮らしを好んだため馮道は引退してしまった。

 

その後、華北で反乱が起き、荘宗は義兄である李嗣源(りしげん)に鎮圧を命じるも、これを不服に思った李嗣源は926年に荘宗に反旗を翻し、軍を率いて洛陽を落としてしまった。こうして李嗣源は、後唐の皇帝の座についた。

 

明宗(李嗣源)は引退していた馮道を召還し、そのアドバイスに従って宦官を遠ざけ、財政の立て直しをはかった。また、皇帝直属の軍隊をつくり、皇帝の権力を強めることにつとめた。明宗の時代は大きな戦いもなく、それなりに平和であったが933年に明宗が病気で倒れると、次の皇帝の座を巡って再び激しい権力闘争が始まった。3代皇帝の閔帝(李従厚)は即位後はずか半年で殺され、934年に末帝(李従珂)が4代目皇帝になった。

 

その後、河東節度使の石敬瑭(せきけいとう)が反乱を起こしたので末帝はこれを兵糧攻めするも、石敬瑭と結んだ契丹の攻撃を受け936年に後唐は滅び、石敬瑭は太原(晋陽)で帝位につき国号を晋とした。これが後晋である。

 

後晋・後漢

後晋は援軍を送ってくれた契丹に臣下の礼をとり、毎年30万匹の絹布と、燕雲十六州を契丹の耶律徳光に送った。燕雲十六州は万里の長城の南、河北省・山西省の北部の地域で、現在の北京や大同を含む広大な地域であった。この地域は地政学的に重要な地域で、この地域を巡って北方民族と中華は、後々に長いこと争うことになる。

 

一方その頃、朝鮮半島では918年には開城(けそん)を本拠地とする王建が高麗を建国し、935年には朝鮮半島を統一した。

 

937年、石敬瑭は都を洛陽から開封に移した。942年に石敬瑭が亡くなると、甥の石重貴(せきじゅうき)が跡を継いだが、石重貴は契丹への貢ぎ物を拒否したため、946年、契丹の皇帝、耶律徳光は開封に軍隊を送り、出帝(石重貴)を捕虜にした。ここに後晋は212年で滅んだ。このとき契丹は打草穀騎と呼ばれる略奪部隊を作り、河北地域を荒し回った。また契丹は翌年の947年に国号を遼と改めた。しかし打草穀騎は後晋の農民の激しい抵抗にあり、遼軍は北方に追いやられた。

 

後晋にかわって後漢を建てた劉知遠は、突厥出身のトルコ系の武人の家柄であったが、皇帝となってわずか1年で病死してしまう。18歳の隠帝が跡を継ぐも、2年後側近の兵に殺された。後漢の治世はわずか3年。五代の中で最も短命な王朝であった。

 

後周

951年、後漢の有力武将であった郭威は、部下に推され後周をたて皇帝となった。これが後周の太祖である。郭威は内政に力を注ぎ、国力の充実をはかるも954年に死去した。郭威の一族は、後漢の隠帝に殺されていたため、養子の柴栄(さいえい)が二代目皇帝として即位した。

 

世宗(柴栄)は馮道をまた重用したのだが、馮道にとってこれは5つ目の王朝であった。後唐、後晋、遼、後漢、後周と五朝十一皇帝に仕えた馮道を、人は不倒翁と呼んだ。また、この頃には後に宋の初代皇帝となる趙匡胤も台頭し始めていた。

 

華北が北で5つの王朝を交代させている間、華中や華南では10の地方政権が存在していた。華北をおおよそ統一した後周は、中国統一のためにそのうちの一つ、後蜀を攻めることを決定する。955年、世宗の柴栄は自ら後蜀を攻撃し、4つの州を奪い取った。こうして西方の脅威を取り除いた後周は、937年に南唐への侵攻を開始した。南唐は徐知誥(じょちこう)により建国された国家で、金陵に都を置き十国の中で最も豊かな経済力と高い文化を誇っていた。

 

南唐の抵抗にあいつつも958年、後周は南唐の長江以北の1460県を奪取した。進退窮まった李昪(徐知誥)のあとを継いでいた李璟は、後周へ服属することを決めた。

 

南唐を屈服させた後周の次の敵は、遼と遼を後ろ盾にしていた北漢であった。959年、世宗は趙匡胤とともに、燕雲十六州を奪い返すために軍隊を派遣した。後周軍は各地で遼軍をやぶり、瀛州と莫州を取り返すも世宗が倒れたことにより汴州(開封)へ退却。跡をついだのは、わずか7歳の柴宗訓(さいそうくん)であった。960年に趙匡胤は再び遼や北漢と戦うために北進するが、その途中、趙普と趙匡義の推戴を受けて皇帝となった。五代十国という時代はここで一区切りにされるが、この後も趙匡胤の中国統一の戦いは続いて行く。

2026/03/05

日蓮(9)

逸話

佐渡流罪2年目の文永9年(1272年)、日蓮の配所が塚原三昧堂から一谷に移されてまもなく、鎌倉の女性信徒が幼子の乙御前を連れて、はるばる佐渡の日蓮を訪ねてきた。日蓮はその女性を「日本第一の法華経の行者の女人」と称賛し、「日妙聖人」と日号・聖人号まで授与している。その上で、日蓮は乙御前母子の帰りの旅費が十分でないことを心配し、日蓮の世話をしている一谷入道から、後で法華経十巻を書写して与える約束をして、その代償に母子の旅費を用立ててもらった。一谷入道は地頭などに遠慮して念仏の信仰を捨てることができなかったが、入道の妻は日蓮の門下となった。建治元年(1275年)、日蓮は自ら書写した法華経十巻を入道の妻にわたしている。

 

建治2年(1276年)3月、最古参の門下の一人で下総方面の中心的信徒だった富木常忍が、身延の日蓮のもとに母親の遺骨を納めに来た。しかし常忍は下総に帰る時、常に所持している経典を置き忘れてしまった。日蓮は、すぐに常忍が忘れた持経を弟子にもたせて、常忍のもとに届けさせた。日蓮は、引っ越しの際に妻を旧宅に置き忘れた人がいた等の中国の故事を引いた後、常忍に対して「日本第一の好く忘るるの仁(ひと)か」とユーモアを含めて教示した。その上で、下総から身延までの困難な道のりを母の遺骨を運んできた常忍の行動に触れ、母を思う常忍の心情を深く汲み取っている。

 

建治3年(1277年)6月、四条金吾は、極楽寺良観らの讒言を真に受けた主君・江馬氏から、法華経の信心を続けるならば所領を没収し、江馬家から追放する旨の命令を受けた。金吾から、決して法華経の信心を捨てることはないとの誓いの言葉を聞いた日蓮は、金吾が主君に提出する陳状(答弁書)を金吾に代わって自ら執筆し(「頼基陳状」)、併せて主君の代理の奉行人に対して、金吾が言うべき言葉まで具体的に教示している。

 

それは次のような言葉だった。

「自分から江馬家を出て、所領を差し上げることはいたしません。しかし主君が私の所領を没収するのであれば、それは法華経への布施となりますから、むしろ幸いであると思います。私の領地は主君からいただいたものではなく、主君の病気を法華経の薬によって助けてあげた褒美としていただいた所領ですから、それを取り上げるならば主君の病気もまた戻ってくるでしょう。その時になって、『四条金吾、助けてくれ』などと言ってこられたとしても、そのような要請には一切応じられません」。

 

奉行人に対し、このように憎々し気に言い切って、席を蹴って帰ってきなさいと日蓮は四条金吾に教示した。実際に、主君はまもなく鎌倉で流行していた病にかかり、金吾の治療を受けなければならない事態になってしまった。金吾の助けを得て病を癒すことができた主君は、金吾に対する態度を改め、弘安元年(1278年)には金吾に新たな領地を与えている。

 

身延の日蓮のもとには多くの門下が訪れたが、下部温泉の湯治のついでに訪問したという者には真剣な信心が認められないとして面会せず、全て追い返した。老齢の内房(うつぶさ)の尼御前が訪ねてきた時も、尼御前が氏神に参詣したついでに来たと言ったので、日蓮は仏が主で神は従であるとの道理を尼に分からせるためにあえて面会しなかった。

 

早い時期に日蓮の弟子となった三位房は、その後、比叡山延暦寺に遊学した学僧だったが、遊学先から日蓮に宛てた手紙で、貴族に招かれて説法したことを面目をほどこしたなどと書いてきたので、日蓮はその態度について「日蓮を卑しんで書いたのか」と厳しく戒めた。さらに三位房の言葉遣いもさぞかし京都なまりになっただろうとして、それでは田舎法師でも京法師でもない中途半端な存在になってしまうから、言葉はあくまでも田舎言葉でなければならないと訓戒している。

 

文永の役の翌年、建治元年(1275年)4月、杜世忠ら蒙古の使者が日本にやってきたが、幕府は使者の言葉に耳を貸さず、同年9月、竜の口の刑場で斬首した。日蓮はその事実を知って、罪もない使者が処刑されたのは「不便(ふびん)」であるとし、彼らに深い同情を寄せた。さらに平頼綱や北条時宗らが日蓮を用いていたならば、決して使者を斬首させることはなかっただろうと述べている。

 

文永11年(1274年)5月、鎌倉を去って身延に入った日蓮は、その途中、富士の賀島にある日興の叔母が嫁いだ高橋六郎入道宅を訪問したいと思ったが、富士方面には日蓮を敵視する北条時頼・北条重時の未亡人やその関係者が多くいたので、高橋入道宅の訪問は入道に対するの迫害を招く恐れがあると判断し、あえて立ち寄らなかった。弟子たちにも入道宅の周辺に行かないよう注意している。日蓮は信徒を迫害にさらしてはかわいそうだとして、そのような事態を極力回避しようとした。

2026/03/02

五代十国時代(3)

北漢

劉崇によって建てられた北漢は中原を支配することができなかったため、五代ではなく十国のひとつに数えられる。太原を首都とし、現在の山西省北部を支配した。北漢は国力が少なかったために、後周に対抗するために遼の援助を求め、事実上は遼の衛星国家となった。遼の兵力によって後周に対して有位を保ったこともあるが、それは一時的なものにとどまった。後周の後を継いで北宋が成立すると、北宋の圧力によって国内は混乱し、979年にはついに北宋に屈して北漢は滅びた。

 

宋(北宋)の成立と中国再統一

後周で世宗(柴栄)の死後、次の皇帝になったのは、わずか7歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は、遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。

 

幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都の開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた(960年)。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は、後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。

 

宋の太祖(趙匡胤)は、それまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。

 

まず、963年に中国大陸の中央部の要地である湖北の荊南を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年には広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年、華南における最大勢力の南唐を滅ぼした。

 

これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝太宗となる趙光義による毒殺も疑われている(千載不決の議)。

 

太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。

 

ここに五代十国時代は終わり、これは唐の滅亡から72年後のことである。

 

後世から見た研究と評価

五代十国時代に関しては、北宋成立直後に薛居正らが正史である『五代史』を編纂したが、後に欧陽脩が春秋の筆法の影響を強く受けた『五代史記』を著した。これが欧陽脩の没後に、国子監に納められて認められて大いに広まったことから、金では1207年に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は、南宋では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。

 

清の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『永楽大典』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。

 

欧陽脩は、この時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは司馬光の『資治通鑑』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。

 

明の遺臣である王夫之は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている。

 

欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界であり、それを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている。

 

例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような世家は立てておらず、岐などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される)、欧陽脩より少し前の人物である路振が編纂した諸国に関する歴史書も、北楚(荊南)を除いた『九国志』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。

 

南平王・荊南節度使の高季興およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は、北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたといわれている。こうした一連の歴史観は、日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。

 

唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(唐宋変革)。

 

五代十国時代は、こうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い。

 

小島毅や與那覇潤は、五代十国時代が北宋によって統一されず中国が分裂したままだったとしたら、ヨーロッパと同様に複数の国家が誕生していたかもしれず、北宋以降の専制皇帝のような中国全土を統一する世俗権力がつくられずに、分裂した中国各地の王権や軍閥がミニ国家をつくって、やがてヨーロッパのヴェストファーレン体制に近い国際関係が生まれた可能性があり、そこが東西の歴史の最大の分岐点だったのではないかと指摘している。

2026/03/01

日蓮(8)

立正安国論

日蓮が文応元年(1260年)716日に、得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに、浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。

 

その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。

 

しかし、時頼没後の文永5年(1268年)には、モンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。

 

日蓮と、その信者は『立正安国論』を、この事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。

 

一谷入道御書

文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている。

 

(前略)去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)

 

この「一谷入道御書」は、日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて、文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。

 

その他の書簡における、蒙古襲来についての記載

日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において、何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず、人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように、京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり、国は滅びてしまうとも警告している。

 

例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には

「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」

と記している。

 

しかしながら、近年の研究によると「一谷入道御書」以降の書簡では、文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている。

 

四箇格言

日蓮は鎌倉に現れ、辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない。

 

立宗感

自身は法華宗の僧と称していたが、一宗派を立てたという自覚に関しては有無両説ある。すなわち、有は「〔佐渡流罪時代に〕自身の純正法華宗を組織すべくも決意された」とする(勝呂信静 1967, p. 53)、無は「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」(『妙密上人御消息』)を根拠とした(宮崎英修 2013, p. 30)、もしくは「法華宗は〔略〕久遠実成の本仏たる釈尊によって立てられた〔と日蓮は主張した〕」とする(金岡秀友 1979, p. 230)である。