言語
魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は、日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は、8世紀(奈良時代)の日本語の特徴と同じであることが、森博達らによって指摘されている。
その特徴とは
開音節(母音終わり)を原則とする。
ア行は原則として頭音にくること。つまり二重母音は回避されること。
頭音には原則としてラ行が来ないこと。
頭音には原則として濁音が来ないこと。
などである。
こうした特徴が見出されることは、現代日本語の基礎が邪馬台国時代に、すでに形作られていたことを物語る。二重母音回避の規則性に従えば「邪馬台」を「ヤマタイ」と発音することは回避され、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」等に発音されることになる。
風俗
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾がある。以下は便宜上、その2ヶ所を区別せず列記する。
男子はみな、顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
その風俗は、淫らではない。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子は、ざんばら髪。
着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は、飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みは無く、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
邪馬台国のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで、150年近く中国の史書に倭国に関する記録はない。これは壹與以後に邪馬台国連合が衰えて、中国に朝貢する国力も無くなったためであろう。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。
邪馬台国連合とヤマト王権との関係については諸説あるが、若井敏明は「邪馬台国の滅亡 吉川弘文館2010年出版」で、邪馬台国連合は九州北部にあり、近畿のヤマト王権とは関係が無かったとした。しかし西暦366年頃のヤマト王権の仲哀天皇・神功皇后の九州遠征により、邪馬台国末裔は最終的に滅亡したとしている。
名称・表記
現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は、晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)の刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190年 - 1194年)の刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』は成本が10世紀で現存の『三国志』写本より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。
『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。
日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。
表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説などがある。
発音
邪馬臺(台)國(国)
秦 漢
ʎia mɔ dʰəɡ kwək
魏
jia ra əї ək
隋
jia ma dʰɑ̆i kuək
現代
yé ma tái guó
実際には、さらに複雑多岐で時代や地方で発音が異なる上に、忘れ去られたと考えられる発音もある。
「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに、発音の近さを手掛かりの一つとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から場所をあてはめようとするものである。
新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定して、その場所を比定したと考えられている。
「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 旁 】(つくり)にあり【 壹 】の旁は【 豆 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある。
なお、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない。
現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。[独自研究?]
出典 Wikipedia
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