卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の中華の史書に記されている倭国の王(女王)で、邪馬台国に都をおいていたとされる。諱は不明で、封号は親魏倭王。
史書の記述
『三国志』の卑弥呼
「魏志倭人伝」の卑弥呼
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように、卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い。ただし中華の史書には、黎明期の中華道教や、儒教的価値観にそぐわない政治体制を鬼道と記している例もある。
本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。
福岡県糸島市の平原遺跡から、八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから、原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。
既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。
「魏書帝紀」の俾弥呼
『三國志』(三国志)の卷四
魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
年譜
『三国志』
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はないが、弟がいて国の統治を補佐した。
景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と、銅鏡100枚を与えられた。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
『後漢書』
建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。
永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。
189年前後か? - 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。
『晋書』
泰始二年(266年) - 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。
『三国史記』新羅本紀
173年 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。
193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。
208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。
232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。
『三国史記』于老列伝
233年 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の昔于老が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので、倭兵は溺れて全滅した。
249年 - 倭国使臣が、新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。
以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。
『梁書』
光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。
正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
『隋書』
桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。
189年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。
『北史』
光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。
184年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。
正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
日本列島における皆既日食
247年3月24日日没
248年9月5日日出
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