2023/07/13

アウグスティヌス(2)

自由意志

アウグスティヌスは、人間の自由意志についても論じていた。アウグスティヌスの自由意志の解釈を巡っては、相反する2つの立場がある。

 

1)アウグスティヌスは、予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じたとする立場。

2)救いにおける個人の自由意志を積極的に認めたとする立場。

 

先行的恩寵

前者の先行的恩寵に基づく解釈は、プロテスタンティズム神学で述べられることが多い。AE・マクグラスは、アウグスティヌスの自由意志論を次のように2段階に分けて整理する。

 

自然的な人間の自由は肯定される。人間が物事を為すのは自由意志による。

人間の自由意志は罪によって破壊も排除もされていないが、罪によってゆがめられているために、その回復には神の恵みが必要不可欠である。

アウグスティヌスによれば、人間の自由意志はいわば悪の分銅によって傾けられた天秤のようなもので、悪へと向かう深刻な偏りが存するのである。

 

宮谷宣史は、以下のように整理する。

 

生きとし生ける者は誰でも、キリストの恩恵なしには罪の裁きを免れることは出来ない。

神の恩恵は、人間的な功績によって与えられることはない。

恩恵は全ての人に与えられるわけではない。

恩恵は神の一方的な憐れみにより与えられる。

恩恵が与えられないのは神の裁きによる。

善であれ悪であれ、自分の行為に対しては報いがある。

主への信仰は人間の自由意志による。

 

宮谷はアウグスティヌスの自由意志論にパウロの影響を認めつつ、アウグスティヌスは罪を「無知」あるいは「無力」として捉え、人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく、「神の」自由な選びと予定である。

 

クラウス・リーゼンフーバーによれば、アウグスティヌスにおいて、自由とは歴史を形成する能力であるが、原罪を孕んだ結果、人間の自由は悪へと傾斜することとなり、中立的な自由を失った。しかし神の恩寵により自由な「神の国」において、人間は自らの自由を取り戻すことが出来るが、その段階においても意志の弱さは残る。その時人間が神への愛に貫かれて生きるなら、つまり愛への意志によって恩寵により完成されるならば、もはや罪を犯すことのない自由を得ることが出来る。そして個人は、この救いの過程を通して、歴史の進展に寄与するとした。リーゼンフーバーによれば「アウグスティヌスは、人間本性はアダム以来継受される原罪によって損なわれ、それゆえ神と掟の遵守へと向かうためには、先行する無償の恩寵が必要であると考え」た。

 

ほかに福田歓一も、アウグスティヌスはペラギウスと自由意志を巡る論争で、自由意志を認めつつも、人間性は「無知」と「無力」のゆえに自由意志によって救いに至ることができないと述べたとして、同じ立場に立つ。金子晴勇『宗教改革の精神』では、アウグスティヌスは自由意志を否定したのではなく、その価値を認めて自由意志を許容したが、人間はその原罪のゆえに自由意志を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができないのであると説いたのだといい、これも前者に近い。前者のような理解のもとに、アウグスティヌスを発展させて明確に自由意志を否定したのがルターである。

 

個人の自由意志

個人の自由意志を積極的に認めたとする後者の立場としてはエラスムス、南原繁がいる。南原繁はアウグスティヌスは「神と人間のあいだの道徳的人格関係」を明らかにしたと述べている。また半沢孝麿によれば、彼は古代以来の「自由」という言葉を「神との関係における人間そのもののあり方に関わる言葉」とした。アウグスティヌスは予定説によって、世界を神による永遠不易の秩序内にあるとしたが、それは人間の自由意志による救いを少しも否定しないというものである。アウグスティヌスは、神は人間を本性上自由意志を持つ者として創造したのであるから、人間の救いは自由意志に基づくものでなければならないと考えたとする。

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