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イスラムの発展
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正統カリフ時代
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ムハンマドが死んでからの時代を、正統カリフ時代(632~661)といいます。
ムハンマドが死んだ時点で、イスラムはアラビア半島を統一して大勢力になっていましたね。この大きな集団を誰が統率するかということが当然問題になる。まず、ムハンマドには、跡取りとなる男の子がいなかった。またムハンマドは「最後にして最大の預言者」ですから、かれ以上の宗教指導者は理論上現れることはない。結局、残された信者たちは、選挙で自分たちの中から指導者を選ぶことにしました。このようにして選ばれた信者の指導者を「カリフ」といいます。カリフは「預言者の代理人」という意味です。
ムハンマド死後、選挙で選ばれたカリフのことを「正統カリフ」といいます。正しい手続きで選ばれたカリフということです。正統カリフは四人つづき、イスラム共同体を指導したこの時代を「正統カリフ時代」というわけです。
最初の正統カリフがアブー=バクル、二代目がウマル、三代目がウスマーン、四代目最後の正統カリフがアリーです。最後のアリーだけは、しっかり覚えておいてください。
さて、この正統カリフ時代は、アラブ人の大発展が始まります。それまで、部族対立でバラバラだったアラブ人が、イスラムによって一つにまとまる。これは非常に大きな政治的勢力になって、アラブ人のエネルギーがアラビア半島の外に向かって爆発する。
アラビア半島の北、メソポタミア地方からシリア方面はどういう情勢だったかというと、長く東ローマ帝国とササン朝ペルシアが対立抗争して、両者とも疲弊していた。そこにイスラム=アラブ人がなだれ込んでくる。
642年、ニハーヴァンドの戦いで、イスラムはササン朝ペルシアを破る。この後、ササン朝は急速に衰えて651年には滅亡して、その領土はイスラムの支配下に入ります。
また、イスラム勢力は東ローマ帝国とも争い、シリア、エジプトを奪いました。
この段階で、イスラム教徒はほとんどアラブ人ですから、イスラムの発展は、イコール、アラブ人の発展です。
このようにして、イスラム教の支配地が急速に広がる。イスラム教徒たちは、征服地にミスルと呼ばれる軍事都市を建設します。新領土の拠点となるところにミスルを建設して、ここにアラブ人が移住します。
アラビア半島から出てきたアラブ人の戦士たちは、各地のミスルに住んで周辺の住民を支配するわけですね。
支配された被征服諸民族はジズヤと呼ばれる人頭税、ハラージュと呼ばれる土地税の支払いを義務づけられました。イスラム教徒は、非イスラム教徒に改宗を強制はしなかったようです。ジズヤとハラージュさえ払ってくれれば、それで満足です。
集められた税金は、ミスルに移住したイスラム=アラブ人戦士たちに年金として支払われました。この年金をアターといいます。また、イスラム教徒は免税特権を持っていた。
正統カリフ時代には、イスラム教徒=アラブ人は支配者階級であり、特権階級としてエジプトからシリア、イラク方面を支配したのだということですね。
こうなってくると、カリフは単なる信者の指導者としてだけでなく、この広大な支配地の支配者として、強大な権力と富を手にすることができるようになってきます。正統カリフに選ばれた人たちは、みなムハンマドが布教を開始した頃からの古い信者で、質素で素朴な信仰生活をおくっていた人たちなのですが、それでも三代目のウスマーンは王侯のような贅沢な生活をした。指導者層の間にも、俗な欲望を持つ者もあらわれてくる。イスラム共同体=ウンマがだんだん変質して、共同体が理念だけになってくるのです。
ウスマーンは、その贅沢ぶりに反感を持つ信者グループに暗殺され、次の第四代の正統カリフになったのがアリーです。
アリーは、現在でもイスラム教徒の中では人気の高い人です。武人として剛胆、信仰も堅固、性格は実直。しかも、ムハンマドのいとこ、かつ、娘婿でもあった。ムハンマドの娘ファーティマと結婚していて、二人の間には息子もいます。この子供は、ムハンマドの孫にもあたるわけですね。血縁の点で、アリーは特別な人だったのです。
が、実際の政治的能力はそれほどでもなかったようで、イスラムの中で生まれかけていた派閥対立をうまく調整することができなかった。
シリア総督だったムアーウィヤが、アリーのカリフ位に反対したのです。
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