2024/09/30

アステカ神話(2)

建国神話

ウィツィロポチトリの誕生

ウィツィロポチトリはメシカの守護神であり、その母はコアトリクエである。コアトリクエがコアテペトル(ヘビの山)の上の神殿で掃除をしていたとき、天から羽根が落ちてきた。その羽根の力で、コアトリクエはウィツィロポチトリを妊娠した。コアトリクエの娘であるコヨルシャウキと、400人の兄弟は母親の不品行に怒って山に攻め登ってきたが、ウィツィロポチトリが武装して誕生し、シウコアトル(火のヘビ)でコヨルシャウキを攻撃した。ウィツィロポチトリはコヨルシャウキの体をバラバラにして山の上から落とし、400人の兄弟を打ち破った。

 

メキシコ盆地への移住

メシカの伝説では、4つの集団が外部からメキシコ盆地にやってきた。最初の集団はチチメカ、2番目がテパネカ、3番目がアコルワ、4番目がメシカであった。ディエゴ・ドゥランによると、メシカは洞窟あるいは泉から生まれ、アストランと呼ばれる所に住んだ。アストランの位置は明らかでないが北方にあり、テノチティトランと同様に湖の中の島だった。アステカという名前はアストランに由来する。

 

アストランからの移住については、文献によって大きく異なる。あるいは人々はアストランを離れてチコモストク(7つの洞窟)という所に至り、そこでテパネカ、アコルワなど7つの部族に分かれて南下したともいう。

 

ウィツィロポチトリに導かれた集団は民族名としてメシカを名乗り、長い年月をかけてメキシコ盆地にやってきた。しかしメシカは最後にやってきたために、先にこの地に住んでいる集団と軋轢を起こした。メシカははじめテスココ湖の西のチャプルテペクに住んだが、戦いに敗れて追いだされた。それから南のコルワカンの領主に従属して、ティサアパン(今の大学都市附近)に住むことを許された。コルワカンは、トルテカ以来の高い文化を持つ都市だった。しかしコルワカンの支配層の娘をウィツィロポチトリの生贄にささげたためにコルワカンの人々を怒らせ、そこを追いだされてテスココ湖の中の無人島まで逃げた。

 

彼らが島に上陸したとき、彼らはノパル(オプンティアに属するサボテン)に一羽のワシがとまっているのを見た。この光景は、ウィツィロポチトリの神官が幻影に見た目的の地であると見なされた。メシカはそこに都市を築いた。これは2の家の年(通常1325年と解釈される)のことだった。これがテノチティトランであり、今日のメキシコシティの中央部にあたる。この伝説は、現在のメキシコの国旗やメキシコの国章に描かれている。

 

神々

アステカ神話の神々はさまざまな由来を持ち、その数は非常に多い。1971年に人類学者ヘンリー・ニコルソン (H. B. Nicholson) 129の神々をまとめて14の群に分類し、それぞれ代表的な神によって名づけた。その分類によると、

 

ü  天上の創造神、父なる神

ü  オメテオトル群 - 原初の神。神々を創造した。オメテクトリとオメシワトル、あるいはトナカテクトリとトナカシワトルが含まれる。

ü  テスカトリポカ群 - 万能の神で王の守護神。イツトリ、チャルチウトトリン、テクシステカトル、テペヨロトルなどがここに属する。

ü  シウテクトリ群 - 健康と火の神。ウェウェテオトル、女神チャンティコおよびコヨルシャウキもここに属する。

ü  雨、水蒸気、豊穣の神

ü  トラロック群 - 雨と豊穣の神。

ü  センテオトル群 - トウモロコシの神。ショチピリ、マクイルショチトルなどがここに属する。トウモロコシの神には、ほかにチコメコアトルとシロネンがある。

ü  オメトチトリ群 - プルケ、リュウゼツラン、豊穣の神。400匹のウサギ(センツォン・トトチティン)のひとり。マヤウェルもここに属する。

ü  テテオ・インナン群 - 大地と豊穣、癒し、妊婦の女神。ショチケツァル、トラソルテオトル、シワコアトル、コアトリクエ、ツィツィミメなどの女神もここに属する。

ü  シペ・トテック群 - 豊穣神、金細工職人の守護神。戦争、犠牲、血、死の神

ü  トナティウ群 - 太陽神。

ü  ウィツィロポチトリ群 - 戦争、犠牲、太陽の神。メシカの守護神。

ü  ミシュコアトル群 - 戦争、犠牲、狩猟の神。

ü  ミクトランテクトリ群 - 死、地下世界、闇の神。その他

ü  ケツァルコアトル群 - 創造、豊穣、金星、風の神。神官の守護神。風神エエカトルはケツァルコアトルのひとつの姿とされる。

ü  ヤカテクトリ群 - 商業神。商人(ポチテカ)の守護神。

2024/09/25

天智天皇(1)

天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 67217日〈天智天皇10123日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668220日〈天智天皇713日〉- 67217日〈天智天皇10123日〉)。

 

諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。

 

また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。

 

生涯

大化の改新と即位

舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。

 

645710日(皇極天皇4612日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行った。また、有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて、一掃した。

 

百済が660年に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子の扶余豊璋を送り返し、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在したが、661824日(斉明天皇7724日)斉明天皇が崩御し、百済復興を図って663年に白村江の戦いを起こすも敗戦した。

 

その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。

663828日(天智天皇2720日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667417日(天智天皇6319日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668220日(天智天皇713日)、ようやく即位した。

 

668410日(天智天皇7223日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、67112日(天智天皇91116日)に第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、6711123日(天智天皇101017日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので、代わりに大友皇子を皇太子とした。

 

白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

 

中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(425日)に対応するグレゴリオ暦 (ユリウス暦ではないことに注意)の610日は、時の記念日として知られている。

 

崩御とその後

6691113日(天智天皇81015日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。

 

67110月(天智天皇109月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。67217日(天智天皇10123日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたとの云われがある。(『扶桑略記』では、天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)。

 

天智天皇は、大友皇子の側近として蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢比等・紀大人を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない。これは、乙巳の変以来、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである。

 

天武元年(672年)626日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体は、その機能を完全に喪失していたと見られる。

 

天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『日本書紀』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において、大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇に成る。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。

 

称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇が誕生した。以降は天智系統が続く。

 

弟の大海人皇子から額田王を奪ったので、自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている[要出典]

2024/09/24

最澄(1)

最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。

 

生涯

最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある。

 

最澄の父は『叡山大師伝』は三津首百枝(みつのおびとももえ)と記し、宝亀11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は正八位下、副知事のような地位であったとされる。本貫は、『国府牒』は近江国滋賀郡古市郷と伝えるが、天台宗の伝承によると大津市坂本の生源寺の生まれであったとされる。三津首について天台宗が最澄を讃える『伝教大師和讃』や『叡山大師伝』では後漢皇帝の子孫、登万貴王の末裔としている。

 

最澄の母は10世紀成立の『伝教大師由緒』は藤原鷹取の娘で藤子とし、『青蓮院門跡系譜』は応神天皇9世の孫とするが、いずれも後世の言い伝えで史実性は不明である。『叡山大師伝』は、両親は子に恵まれなかったが比叡山の神宮で祈請したところ最澄を身籠ったと記す。

 

最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると、天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。

 

『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。

 

出家

『国府牒』は、近江国分寺僧に欠員ができたので広野を得度させるよう指示した公文書である。これによれば、この頃の広野は『法華経』『最勝王経』『薬師経』『金剛般若経』などを読むと記される。当時の例にもれず、広野も優婆塞として3年ほど国分寺で雑用や奉仕をしつつ、経典を学んでいたと考えられる。

 

宝亀11年(780年)1112日に、広野は近江国分寺にて得度を受け沙弥となり、最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事するが、のちに最澄は行表から禅宗を教えられたとしたうえで、教えについて「心を一乗に帰すべきこと」と『内証仏法相承血脈譜』に記しており、師の教えがその後に最澄の求める仏教のあり方を方向づけたと思われる。つづいて延暦4年(785年)46日に東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となる。

 

比叡入山

ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には

「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」

とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。

 

(前略)伏して願わくば、解脱の味、一人飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん。(後略)

最澄、『願文』

 

この願文から、最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』は、この願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。

 

『叡山大師伝』によると、延暦7年(788年)に比叡山に小堂を建て自刻の薬師像を安置した。場所は現在の根本中堂の位置とされ、後に一乗止観院と称する。そこに籠った最澄は『法華経』の研究を重ね「智顗の教学にふれて、天台の法門を得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門の所在を知る人に邂逅し、鑑真が将来した経典を写しとることができたとされる。

 

延暦10年(791年)1228日に最澄は修行入位という僧位を授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位を授かった事は当時の最澄の評価の一面と考えられる。『天台霞標』によれば、延暦16年(797年)1210日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉は宮中の内道場で読師などを行う僧で10名が定員。欠員ある場合は清行の者で補い、任期は生涯であった。前述のように寿興と交流があったことから最澄が推薦されたと考えられる。

 

延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため南都諸寺に願文を送っている。この呼びかけに答えたのが、大安寺の聞寂や東国の道忠である。延暦寺浄土院に2巻のみ現存する『華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経したと記されるが、この時の経典とされている。なお道忠の門弟には円澄、円仁が居る。延暦17年(798年)10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ、毎年行われた。さらに延暦20年(801年)1124日には、南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催している。

 

最澄が比叡山に籠った理由は定かではないが、入山後も官僧としての務めを果たし南都各宗とも交流を持っていることは明らかであり、「既存の仏教に嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる。

 

高尾講会

延暦21年(802年)に和気弘世が氏寺の高尾山寺催した天台法門の講会で、最澄も招かれ講師を務める。この講会について『叡山大師伝』は、一乗仏教興隆の為と記している。また『伝述一心戒文』などには桓武天皇の意思によって催されたと記されるが、史実性は疑わしい。しかし、この法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年97日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる。

 

この時代、仏教宗派は南都六宗に限られていた。特に法相宗と三論宗に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は、新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる。

2024/09/19

壬申の乱(2)

白村江の敗戦

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。

 

近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

 

額田王をめぐる不和

天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は、『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。

 

異説・俗説

房総における伝説

千葉県には、大友皇子が壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びたとする伝説があり、それに関連する史跡が数多く存在する。

 

中心となるのは、君津市俵田の白山神社である。皇子はこの地に落ち延び、「小川御所」を営んで暮らしていたが、大海人皇子が差し向けた追討軍による急襲を受けて死亡したとされる。周辺の同市戸崎には、皇子に付き従った7人の侍を葬った「七人士の墓」が存在するほか、皇子とともに房総に下ったとされる蘇我赤兄を祀った飯綱神社が同市末吉にある。

 

また、残された后の十市皇女は山を分け入って大多喜町筒森の「限りの山」にたどりついたものの、その地で難産(流産)の末亡くなったとされ、地元の里人がこれを哀れに思い、大友皇子と十市皇女の霊を手厚く弔い社を建てたのが筒森神社である。

 

九州主戦場説

九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説もある。それによると、倭京は太宰府、大津京は肥後大津のことであり、難波は筑後平野に在ったと考えられるという。

 

阿波説

大和朝廷の前身としての邪馬台国は阿波で成立し、大和朝廷は710年(和銅3年)に奈良の平城京に遷都するまで阿波にあった、と解する阿波説では、壬申の乱は、鳴門市大津町と三好市三野町加茂野宮(吉野宮跡)との間で行われた戦いであり、鳴門市大津町と三好市三野町加茂野宮との間の吉野川北岸の東西ほぼ全域にわたって、日本書紀に見える壬申の乱に関わる地名が揃っている。

 

ü  粟津(滋賀県大津市膳所):鳴門市里浦町粟津

ü  大津宮(滋賀県大津市):鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野

ü  宇陀(奈良県宇陀市榛原町):鵜の田尾(阿波市土成町)鵜峠(宮川内街道:阿波市土成町~讃岐白鳥)

ü  鈴鹿(三重県鈴鹿市):鈴川、鈴川谷川(阿波市土成町樫原の東を流れる川)

ü  桑名(三重県桑名市):久王野(山)(阿波市土成町と市場町の境)

ü  安八幡(岐阜県安八郡):粟島(吉野川にある日本最大の川中島、現善入寺島、阿波市市場町粟島(旧粟島村))

ü  大野(奈良県宇陀市室生大野):阿波市市場町大野島

ü  尾張(愛知県):阿波市市場町尾開(旧尾開村)

ü  倭京(奈良県高市郡明日香村):阿波市市場町奈良坂(現「若宮皇太神宮」の鎮座する平山台地)

ü  不破道(岐阜県不破郡):阿波市市場町大門(讃岐の難波郷(香川県さぬき市津田町・大川町辺り)に通じる奈良街道(日開谷街道)入口

ü  乃楽山(奈良県北方の丘陵地帯):阿波市市場町奈良街道沿いの城王山(旧名大奈良山)

ü  美濃(岐阜県):阿波市市場町上喜来の美濃谷(川)(他に「美濃王」(東みよし町美濃田の勇者)、「三野王」(三好市三野町の勇者))

ü  伊勢(三重県):阿波市阿波町伊勢

ü  高安城(奈良県生駒市と大阪府八尾市の境の高安山):大滝山(美馬市脇町と香川県塩江町との境をなす山:地名に「安原上」、「安原下」などが残っている。また脇町は倭城に通じる。)

ü  吉野宮(奈良県吉野郡宮滝):加茂野宮(三好市三野町(旧美野郷))

ü  山崎(諸説あるも京都府乙訓郡大山崎):鳴門市撫養町木津に字名で旧「山崎」が存在

 

日本書紀によれば、672624日、大海人軍は吉野宮を出発し「大野に到りて日落れぬ」とあるが、大海人皇子がこの戦いで戦勝祈願をしたのが阿波市市場町大野字山野上の大野寺で、三好市三野町加茂野宮の吉野宮から約30km東にあり、吉野川の川筋を下れば一日で充分進める距離である。この大野寺は天智天皇の勅願にかかる古刹であり、徳道山灌頂院と号しているのは、天武天皇が出家し「陛下の為に功徳を修はむ」として仏門に入り、壬申の乱に及んで戦勝を祈願したことに因んで冠したものと思われる。阿波の徳道山灌頂院大野寺と奈良の楊柳山慈尊院大野寺の、寺院にとって何より重要な山号を比較すれば、壬申の乱の舞台が阿波であることは一目瞭然である。

 

また、桓武天皇が延暦13年(794年)10月に平安京に遷都した後の11月、それまでの「古津」を「大津」に改めているので、平安遷都より100年以上も前の天智6年(667年)に、天智天皇が「後飛鳥岡本宮」から遷都した「大津宮」が滋賀県の「大津」であることなどありえない。天智天皇の「淡海の大津宮」は鳴門市撫養町木津の金毘羅神社・長谷寺一帯であり、淡海(あふみ)とは阿波の海のことで、淡水に海水が流れ込む阿波吉野川下流域から鳴門海峡を巡って讃岐の難波郷(香川県さぬき市津田町・大川町辺り)までの海を指し、「阿波海(あわうみ)」が「淡海(あふみ)」と表記されたものである。

 

通説は「淡海(あふみ)」を琵琶湖のこととしているが誤りである。本居宣長も「あふみ」は「阿波宇美が切(つづ)ま」ったものと説いている。鳴門市撫養町木津の天智天皇の「淡海の大津宮」より古代櫛木街道を越した、現在の鳴門市北灘町粟田には葛城神社があり、祭神は天智天皇である。また、葛城神社の別当寺である長寿寺は天智天皇と中臣鎌足の伝記「阿州葛城山記」(版木)を伝える。それによると、天智天皇が巡幸の時に馬が呉竹に足を取られて落馬し右目を痛めて鎌足の介抱で事なきを得たという。以来、葛城山には呉竹を生やさず馬の飼育を慎んだとされる。このような天智天皇の故事を伝える長寿寺の版木の存在は、天智天皇が阿波に住んでいた何よりの証左である。

2024/09/18

不二一元論(シャンカラ)

不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット: अद्वैत वेदान्तAdvaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である。

 

哲学

ブラフマンが「未展開の名称・形態」を展開することで、虚空から風、風から火、火から水、水から地の順番で五大が展開し、五大より身体が生じ、ブラフマンはアートマンとしてこの身体に入る。よって、アートマンは物質的な身体とは全く異なるが、人の個我(アートマン)はブラフマンと同一・不異である。

 

「未展開の名称・形態」は、何とも言いあらわすことのできない未確定・未分化の状態にあるもので、物質的であり、純粋精神であるブラフマンと本質を異にするが、ブラフマンの中にあり、ブラフマンから独立した存在ではない。「未展開の名称・形態」から展開した諸現象・物質的な現象世界は、無明(アヴィディヤー、無知)によって仮にあるように見える虚妄、真実には存在しないマーヤー(まぼろし)のようなものである。

 

シャンカラの思想の中で無明が占める意味は大きいが、彼は著作の中で十分な論理的説明を行なわず、無明とは付託(adhyāsa 増益)であり、「付託とは前に知覚された甲が、想起の形で、乙の中に顕現することである」と簡潔に定義するのみだった。

 

現象界の万物の本体は平等であるが、高下・善悪などの様々な違いがある(差別相、しゃべつそう)。人が経験する現実では、多数の個我があるように見える。人は、統覚機能などのアートマンではない諸属性をアートマンであると思い、アートマンとブラフマンは別であると考える。こうした誤りは無明によるもので、無明によって人は迷い、自分という中心主体があるのだと思う。アートマンと非アートマンを区別できないことが、輪廻から抜け出せない原因である。

 

ブラフマンだけが唯一で不二の実在者であり、これが真実である。誤った付託を滅し、アートマンを正しく認識し、個我(アートマン)がブラフマンと同一で、現象界が実在しないマーヤーであると悟ることで(明知)、無明は退けられる。これにより個我による縛りはなくなり、解脱が果たされる。

 

知識のみが解脱の手段であり、一切の行為は無明に基づいているため、解脱の手段にはならないとして否定した。知識と行為の両方が解脱に必要であるという知行併合論を退けたが、行為は心の浄化に相対的・間接的には役立つため、明知を得るまでは実践すべきとした。

 

概要

経典『ブラフマ・スートラ』が成立してからシャンカラが活躍する時代までに、ヴェーダーンタ学派の思想は仏教の影響を受けて大幅に変質した。シャンカラは仏教化したヴェーダーンタ哲学を、原点であるウパニシャッドに立脚して本来の在り方に改革しようとしたが(シャンカラは、天啓聖典は疑い得ないもので、唯一の正しい知識根拠であるとする伝統主義者であり、ブラフマン=アートマンという知識は天啓経典に依るとする)、仏教的要素を排除することはせず、仏教的要素にヴェーダーンタ的解釈を施して取り込む形をとった。これにより、実在論的ブラフマン一元論であったヴェーダーンタ哲学は、幻想主義的ブラフマン一元論へと変容した。

 

シャンカラの思想はヴィヴァルタ・ヴァーダ(仮現説)と呼ばれるもので、大乗仏教の唯識派の説く万法唯識・阿頼耶識の思想などと類似がある。そのため、他派からは「仮面の仏教徒」と批判も受けた。

 

シャンカラは、『ブラフマ・スートラ』における一元論の論理の不徹底さという問題を解決すべく、新たに「未展開の名称・形態」と無明(アヴィディヤー、無知)の概念を導入した。「未展開の名称・形態」を世界の種子と考え、一切の物質的なものの原因と見做したため、サーンキヤ学派の根本物質に相当するとも見え、サーンキヤ的な二元論に近づいている。「未展開の名称・形態」から展開した現象世界は無明に起因するマーヤー(幻影、まぼろし)にすぎず、ブラフマン=アートマンのみが真実であり実在するという幻想主義的ブラフマン一元論を唱え、二元論に陥ることを避けた。

 

無明の本質を構成するものについて、シャンカラ以後のヴェーダーンタ学派では様々な議論を行い、またブラフマンと個我の関係、ブラフマンと現象世界の関係についても考察されて様々な学説が生まれることとなった。

 

シャンカラの思想は、『ブラフマ・スートラ注解』などの著作に記されている。彼の主要な著作は注釈文献であるが、注釈でない真作と考えられるものに『ウパデーシャ・サーハスリー』がある。他にもシャンカラの著作とされるものは膨大にあるが、大部分は偽作と考えられている。

 

スーフィー(イスラム神秘主義)にはヴェーダーンタ起源説、仏教起源説があり、シャンカラの系統の幻想主義的一元論と、スーフィーの思想には類似が見られる。スーフィーにおける「存在の唯一性」と「経験の唯一性」の論争も、シャンカラの系統のヴェーダーンタ哲学と共通している。

 

近現代では、イギリス領インド帝国下でのヒンドゥー教改革運動に始まるネオ・ヴェーダーンタと呼ばれる潮流がある。イギリスの神秘思想団体エコノミック・サイエンス派、ニューエイジのバイブル的存在であるアメリカの『奇跡講座』の思想、アメリカの思想家ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学にも顕著な影響が見られる。

2024/09/17

アステカ神話(1)

アステカ神話(英: Aztec mythology)は、アステカ時代の中央メキシコで伝えられた神話である。

 

アステカの中心都市であるテノチティトランの建設は14世紀、アステカ帝国の成立は15世紀であるが、メキシコ盆地ではそれよりはるか以前から文明が発達していた。たとえば主要な神のうちトラロックは、7世紀以前にさかのぼるテオティワカンに見られる。ケツァルコアトルもテオティワカンに見られ、さらにオルメカ文明にさかのぼる。アステカ神話は、テオティワカンやトゥーラの古い神話を引きついでいるものが多いが、それに自らの伝統をつけ加えている。また、アステカ帝国がメキシコ盆地から周辺地域に拡大するに従い、それらの外部の神話も取りこまれていった。たとえばシペ・トテックは、元々メキシコ湾岸およびオアハカ地方で信仰されていた神だった。

 

アステカの宗教にとって、もっとも重要なものは太陽崇拝と農業であり、この目的のために人間を犠牲として神に捧げたり、放血儀礼が行われた。ほかのメソアメリカと同様、アステカ暦には260日の周期からなるトナルポワリと365日の周期からなるシウポワリがあり、祭祀と重要な関係を持っていた。この2つの周期が一巡するカレンダー・ラウンドの境目(約52年に一度)には、新しい火の祭りという重要な祭祀が行われた。スペイン人の到来以前、最後の新しい火の祭りは1507年に行われた。

 

創造神話

5つの太陽の伝説

アステカの創造神話では、世界は今までに5回創造されたと伝えられている。「第5の太陽」と呼ばれる現在の世界に先だつ4つの太陽(=時代)はいずれも滅亡した。

 

1の太陽は「4のジャガー」(Nahui Ocelotl)といい、テスカトリポカが主宰し、巨人が支配していたが、ジャガーが巨人を喰い、滅亡した。

 

2の太陽は「4の風」(Nahui Ehecatl)といい、ケツァルコアトル(あるいはその風神としての側面であるエエカトル)が主宰し、大風で滅ぼされ、人間はサルになった。

 

3の太陽は「4の雨」(Nahui Quiahuitl)といい、トラロックが主宰し、火の雨で滅ぼされ、人間はイヌ、シチメンチョウ、チョウになった。

 

4の太陽は「4の水」(Nahui Atl)といい、チャルチウトリクエが主宰し、洪水で滅ぼされ、人間は魚になった。

 

5の太陽は「4の動き」(Nahui Ollin)といい、トナティウが主宰する。他の4つの太陽と同様に地震によって将来滅亡し、人間は空の怪物(ツィツィミメ)に喰われると考えられている。

 

このように世界が何度も創造されたとするのはメソアメリカ全般に見られ、非常に古い伝統にもとづく。

 

天地と人類の創造

ケツァルコアトルとテスカトリポカはヘビに変身し、カイマンワニあるいはトラルテクトリを2つに引き裂いた。トラルテクトリの上半身は陸地になり、下半身は天空と星々になった。天地ができた後、ケツァルコアトルは地下のミクトランに降り、地下の神であるミクトランテクトリをだまして第4の太陽で滅亡した人類の骨を持ち帰った。タモアンチャンという楽園で、女神シワコアトルが骨をメタテで粉にひき、神々がその粉に血を注ぐことで新しい人類が生まれた。

 

太陽と月の創造

太陽と月の創造については、ベルナルディーノ・デ・サアグンが詳しく記している。

 

世界がまだ闇の中にあったとき、神々はテオティワカンに集まり、神を犠牲にささげることで太陽を創造しようとした。裕福なテクシステカトルと、貧乏なナナワツィンがその候補になった。テクシステカトルは火を恐れてためらったが、ナナワツィンは勇敢に火の中に飛びこみ、太陽になった。その後テクシステカトルも火に飛びこみ、月になった。神々は、その顔にウサギをぶつけた。神々は自らを犠牲としてささげ、風神エエカトルが太陽と月を吹いて動かした。

 

世界の構造

アステカの世界観では、テノチティトランのテンプロ・マヨールを中心として、世界は東西南北の4つに分かれると考えられている。天は13層からなり、その最上層をオメヨカンといった。オメヨカンは、両面性を持つ神オメテオトルの住処とされた。地下の世界は9層からなり、その最下層をミクトランといった。

 

メソアメリカの他の地方と同様、方角と暦の日付が関係づけられていた。トナルポワリの20日周期のうち、最初のシパクトリが東とされ、そこから反時計回り(東西南の順)に順に方角が割りあてられる。したがって各方角には、5つの異なる日が割りあてられる。

2024/09/14

壬申の乱(1)

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年624 - 723日に起こった古代日本最大の内乱である。

 

天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。

 

名称の由来は、天武天皇元年(672年)が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。

 

乱の経過

660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇101017日(6711123日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出て、吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下った。そして天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れたとされる。

 

123日(67217日)、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。大友皇子が後継者としてその跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年624日(724日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野や、その他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。

 

この時、大海人皇子は近江朝廷における左右大臣と御史大夫による合議のことを述べているが、大海人皇子は近江朝廷が既に破綻していたことを把握していたと考えられる。さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は72日(731日)に軍勢を二手にわけて、大和と近江の二方面に送り出した。

 

近江朝廷の大友皇子側は、天武元年(672年)626日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる。群臣の中の4人の重臣(中臣金以外か)は、諸国に使節を派遣して農民兵を徴発するという、当時の地方支配体制の成熟度からは非現実的な方策を採択したことになる。

 

結局、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。

 

それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。72日(731日)には、近江朝廷の主力軍が不破に向けて進軍したことが見える。しかし、内紛を起こし、総帥的立場にあった山部王が蘇我果安と巨勢比等に殺され、果安も後に自殺した。また、蘇我氏同族の来目塩籠は「河内国司守」として近江朝廷軍を率いていたものの、不破の大海人皇子軍に投降しようとして殺されている。

 

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負は、このあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

 

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。大海人皇子方と近江方を区別するため「金」という合言葉を用いた。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、77日(88日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して箸墓の戦いでの勝利を経て進撃を続けた。

 

722日(820日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌723日(821日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言い、そうすれば大海人皇子を護ると神託をなした。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

 

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

 

また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

 

乱の原因

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。

 

皇位継承紛争

天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。

 

以上のように、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまった。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。

 

当時の皇位継承では、母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。

2024/09/12

シャンカラ

初代シャンカラ(梵: आदि शङ्कर, Ādi Śakara700年頃 - 750年頃)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した。

 

概略

「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者であった。彼の教えは、原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、アートマン(我)は同一であるという主張に基づいている。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。

 

シャンカラは、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達するため、インド各地を旅行した。彼は、ポスト仏教としてのヒンドゥー教とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の布教の歴史の発展において、重要な役割を担う4つの僧院を設立した。

 

今日においても全てが現存しているというサンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関するものである。しかし、300点を超える著作がシャンカラ著に帰せられているものの大部分は偽作と考えられている。主な著作は、ヴェーダーンタ派の根本聖典に対する現存最古の注釈『ブラフマ・スートラ注解』である。

 

このほかシャンカラの真作と考えられる作品には『ブリハッド・アーラニヤカ』など、古ウパニシャッドに対する注解がある。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用をおこなった。独立した著作物で彼の真作と思われるものとして『ウパデーシャ・サーハスリー』がある。これは、サーンキヤ学派や仏教に近い立場からの批判に対する反駁を、その内容としている。

 

シャンカラはヴェーダーンタの代表的な哲学者であるが、その思想は仏教との親近性が高いといわれる。歴史的にみれば、彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担ったともいえる。[要検証ノート]

 

シャンカラは、その解説書の中で仏教の多くの教義を批判している。しかし、彼の最も直接的な仏教批判は『ブラフマ・スートラ』2.2.32の注釈に見られる。

 

要するに、バイナシ派(仏教徒)の教義は、その信憑性を検討するたびに、砂上の楼閣のように崩れ落ち、それゆえ信憑性がない。釈迦は、無常、刹那、空という互いに矛盾する三つの教義を説いた。釈迦は民衆を憎んでいるか、民衆を惑わすために矛盾した教義を説いて、混乱した言葉を発しているのである。釈迦の教義は解脱を望む者にとっては尊敬に値しない。

シャンカラはヒンドゥー教では「アートマン(魂、自我)が存在する」と主張し、仏教は「魂も自我もない」と述べている。

 

何人かの学者は、シャンカラの歴史的名声と文化的影響は数世紀後、特にイスラム教徒の侵略と、その結果としてのインドの荒廃の時代に高まったと指摘している。シャンカラの伝記の多くは14世紀以降に執筆・出版されており、広く引用されているヴィディヤーナの『シャンカラ・ビジャヤ』などがある。

 

生涯

伝説では、インド半島南部のケーララ州カーラディ(英語版)の地でナムブーディリというバラモン階級の子として生まれたといわれている。伝説では「シヴァ神の化身」として描かれている。幼少時に父を亡くし、5歳の時にヴェーダ聖典学習の入門式を受け、7歳の時に師の元で学習を終えた。この時点で、すでに一切知者の状態に達していたといわれる。結婚することなく出家し、ゴーヴィンダに師事した。そののち、上述のように、全インドを遊行のために旅しており、そのなかでパドマパーダ、ハスターマラカ、トータカーチャーリヤ、ヴァールティカカーラという4人の弟子を得た。

 

シャンカラは正統的なバラモン教の歴史のなかで、初めて僧院を建立した人物である。シャンカラは、東西南北に4つの僧院を創設し、4人の高弟をそれぞれに配置した。ヴェーダーンタ派の僧院は現在インドの各地にあるが、総本山はカルナータカ州のシュリンゲーリ・シャラーダ・ピーサム[要曖昧さ回避]にあり、そのほか東部のプリー、西部のドヴァーラカー、ヒマラヤ山脈地方のバドリーナート、タミル・ナードゥ州のカーンチに主要な僧院が建てられている。

 

4つの僧院の法主の座は、現在は「シャンカラ・アーチャーリヤの座」と呼ばれ、ヴェーダーンタを体得した人でないとその座につけないので、空座になることも多い。シャンカラ・アーチャーリヤ(アーチャーリヤは「先生」の意)は直訳すると「シャンカラ(の)先生」となり、初代のシャンカラを表すときにはアーディ(「初代」の意)をつけて区別する。シャンカラ・アーチャーリヤはウパニシャッド聖典の真理を体得した聖者として、シャンカラの化身として尊敬と信仰を集め、現在のインドでも大きな社会的影響力がある。

 

シャンカラは、伝説ではヒマラヤ地方のケーダールナータの地で入滅したといわれている。

 

思想

ヴェーダーンタ哲学の不二一元論の立場を確立したインド最大の哲学者シャンカラは、原因を必要とせず存立するところのブラフマンと、個人の本体であるアートマンは本来同一であると主張した。上述のように、仏教思想からの影響を強く受け、「仮面の仏教徒」と称されることがある。

 

シャンカラが目ざしたものは輪廻からの解脱であり、その手段は、バラモン教の経典『ヴェーダ』の注釈書(奥義書)である『ウパニシャッド』の説く宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個体の本質であるアートマン(我)とは本来は同一であるという知識である。現実の日常経験がこの真理と矛盾しているのは、この知識を会得しない無知(無明)によるとし、肉体をも含めた一切の現象世界は無明によってブラフマンに付託されたものにすぎないものであって、本来実在しないと説いて幻影主義的な一元論(不二一元論)を唱えた。不二一元論は現代にいたるも、インド思想界の主流をなす教説として知られている。

2024/09/07

【体操女子】宮田選手を応援

女子体操の宮田選手が、オリンピックの前に「飲酒喫煙をしていたことが発覚した」ということが、まるで罪人であるかのような論調は実にケシカラン話である。

 

宮田は何も悪くない。

悪いのは他人の才能に嫉妬するマスゴミなどハイエナどもだ。

 

さらに言えば、このタイミングでの告発というのは内部リークに違いない。実力では到底勝負できない才能あるものに対する恨みややっかみを持ったうす穢い連中が、才能ある者の足を引っ張ろうと常に虎視眈々と狙っている醜悪が残念な日本の構図であり、こいつらは恥も外聞もなくまことに薄汚い手段に訴えてくる輩なのである。

 

そもそも、なぜオリンピック代表選手が酒やタバコをやってはいけないのか?

 

なんでもJOCのルールブックだかに書いてあるらしいのだが、いうまでもなく日本は法治国家なのだから法律が最高法規である。今の法律では18歳以上は成人と認められ、成人の飲酒喫煙は憲法で認められた日本国民の権利なのである。

 

JOCの規定だか規約だか知らんが、一部の関係者が勝手に作ったものが憲法より優先される道理はなく、こんなものは法律の前では紙屑のようなものだ。

そうでなければ、日本が法治国家ではなくなる。

 

であるから宮田は

 

「成人の私が飲酒喫煙して何が問題なのか?」

 

と敢然と突っぱねて堂々オリンピックに出場すべきだった。

が、おそらくは関係者どもに因果を含められ、泣く泣く「辞退を強要された」のが真相であろうと推測する。

 

なんとも可哀そうな話ではないか。

19歳の娘を、こうまで寄ってたかってイジメて一体何が楽しいのか?

 

そもそもアスリートなのだから、いかに酒やタバコをガンガンやろうが結果が出せればなにも問題ないのであって、むしろ酒タバコがいかに実害がないかの証明にもなるから、酒・タバコ嗜好家の活躍は日頃から根拠なき批判を受け続けている好事家にとっても最高の結末ともなるのである。

 

その宮田が国体で優勝した。

 

本来なら五輪で日本代表のエースを張っていたはずの逸材なのだから、レベルが段違いに格下の国体などは宮田なら勝って当たり前というべきだが、あの騒動醒めやらぬ中でも優勝して見せるメンタルは立派だ。

だからこそ、この強靭なメンタルをオリンピックで発揮していたら、と猶更惜しまれるのである。

 

幸い19歳とまだ若いだけに、次の五輪もまだ十分にチャンスはあるだろう。今後は細心の注意を払って(といっても「聖人君子」になどになる必要などは毛頭なく、狡猾な輩に上げ足を取られないようばれないようにやればよいだけw)、次の五輪で目の覚めるような演技を披露して、世間の阿呆どもを懺悔させるような大活躍を陰ながら期待する。

白村江の戦い(3)

戦後の朝鮮半島と倭国

白村江の戦いは、中原の再統一により東ユーラシア全域に勢力が跨る世界帝国である唐が現出し、それに伴って北東アジアの勢力図が大きく塗り変えられる過程を決定的にした戦役と言える。以下、朝鮮半島および倭国における戦後の状況について解説する。

 

朝鮮半島

高句麗の滅亡

白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった。

 

渤海の建国

698年、靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に満州南部で渤海国を建国した。建国当初は唐と対立していたものの、後に唐から冊封を受け臣従するに至った。また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。

 

新羅による半島統一

戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏と兵士を多数捕虜にした。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。

何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の朝鮮半島の大部分)がなされた。

 

倭国

総説

唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。

 

白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。

 

戦後交渉および唐との友好関係の樹立

665年、唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。

 

667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府の1つ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。

 

天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為、唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。後述するように天武期・持統期に一時的に中断したものの、遣唐使は長らく継続され唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。

 

捕虜の帰還

『日本書紀』によれば、白村江の戦いの後の67111月に、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋(比珍島)に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。この中には、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が含まれており、捕虜返還を前提とした上での唐への軍事協力が目的であったとされる。

 

684年(天武13年)、猪使連子首(いつかいのむらじこびと)・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の白村江の戦いにおける捕虜帰還である。

 

690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元実児(ゆげのむらじもとさねこ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。

 

707年、讃岐国の錦部刀良(にしこりのとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部形見(こせべのかたみ)らも帰還した。このほかにも、696年に報賞を受けた物部薬(もののべのくすり)、壬生諸石(みぶのもろし)の例が知られている。

 

防衛体制の整備

白村江における倭国軍の実態は国造軍による連合軍であったが、過去にも何度も朝鮮半島への出兵も経験していることから、必ずしも動員や兵站の面で過小評価は出来ないが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦などで唐・新羅連合軍に圧倒された。倉本一宏は仮説としながらも「とんでもない可能性」として、天智天皇は旧態依然の豪族の排除と軍制の解体を目論んで、勝てないのを承知の上で開戦に踏み切ったとする可能性もあるとする。

 

白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や、瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京(大津宮)へ移し、ここに防衛体制は完成した。

 

中央集権体制への移行と国号の変更

671年に天智天皇が急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。

 

皇位に就いた天武天皇は、専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。

 

天武天皇の死後も、その専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。

 

百済遺民の四散

天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。

 

百済王の一族、豊璋王の弟の善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。

 

史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる。

2024/09/05

役小角(役行者)(3)

修験道の開祖とされる在家僧侶であり最初の山伏。

ゆえに役優婆塞(剃髪せず、世俗と縁を切っていない仏教信者)とも称される。

 

実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きく、その記録書のほとんどが当時世間で流れていた話(説話)を取りまとめたものが多く、荒唐無稽なものが多いため、詳しい来歴については不明である。

 

ただ、現在でも天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など、多くの修験道の霊場に役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があり、修験道のみならず日本各地の仏教寺院をはじめとして信仰の対象とされ、近畿地方を中心とした各地で彼の足跡を見ることができる。

 

経歴

舒明天皇6(634)に大和国葛城上郡に、三輪氏の系列を組む神官の家に生まれる。

 

中世において、彼の伝承を含んだ非常に詳細な伝記である『役行者本記正系紐』によれば、両親は大和国と出雲国の双方の賀茂氏で、父は高賀茂十十寸麿、母は高賀茂白専女であり、更に遡ると大国主神の息子である事代主神に巡りつき、須佐之男命の系統である。

 

幼くしてその天才ぶりを発揮して山岳修行をはじめ、17歳にして飛鳥元興寺の高僧から『孔雀明王経』を教授され、紀伊山地・熊野にて30年にも及ぶ山岳修行に突入する。

 

その中で金峯山にて蔵王権現を感得し、日本古来の山岳信仰と仏教とを織り交ぜた修験道の基礎を築きあげ、近畿を中心として日本各地を行脚し修行の日々を送ったという。

 

その後、様々な呪法を身につけて人々を助けるも、弟子の韓国連広足の裏切りによって謀反人に仕立て上げられ、文武天皇3(699)に伊豆への流刑に処される。

 

二年後の701年に大赦によって流刑から解放され、その年の6月にこの世を去った。

 

彼の修行場の多くは修験道の聖地をされ、今なお日本に山岳信仰と日本宗教に強い影響を残している。

 

伝説

空海僧正、安倍晴明に並んで多くの伝説を持つ日本の宗教家の一人(晴明は正確には役人だが)であり、悪霊を払い、また使役したという伝説においては先の二人の大先輩に当たる。

 

特に前鬼・後鬼(もしくは赤目・黄口)の夫婦の鬼を従えたことは有名であり、役小角像の多くにこの夫婦鬼の像が付属している。

 

そのほかにも「日本の神々と語り、彼らの助力を得たり使役したりしていた」・「中臣鎌足の病を癒した」、「流刑中も空を飛んで富士山で修行していた」・「死んだのではなく、仙人となって母親とともに唐へと飛んで行った」など、彼にまつわる伝説は非常に多い。

2024/09/01

マヤ神話(2)

英雄譚

もう一つ『ポポル・ヴフ』で語られているのが、双子のフンアフプーとイシュバランケーを主人公にした英雄譚である。

 

フンアフプー(HunahpuHunahpú)は、マヤ神話に登場する神。フン・アプ、フンアプ、フナフプ、フナプと書かれることもある。彼の名前は「猟師」を意味する。

 

イシュバランケー(IxbaranqueXbalanque)は、マヤ神話に登場する神。シュバランケと書かれることもある。彼の名前は「小さなジャグヮール(ジャガー)」を意味する。

 

2人は双子の兄弟で、フン・フンアフプーとイシュキックの息子。『ポポル・ヴフ』で、2人の出自と功績が語られる。彼らは半神の首長たちをやっつけていく。最終的に、父親の仇を討って冥界を平定し、それぞれ太陽と月になって天に昇った。

 

出自

父フン・フンアフプーは、弟のヴクブ・フンアフプーとともに、冥界・シバルバー(Xibalba)の冥神フン・カメーとヴクブ・カメーの罠にはまって殺害された。フン・フンアフプーの首は木に吊され、ちょうどやって来たイシュキックは、フン・フンアフプーの吐いた唾を手に受けると、やがて赤ん坊を身ごもった。

 

これこそがフンアフプーとイシュバランケーであった。

 

地下界から地上に上がったイシュキックは、フン・フンアフプーの母(祖母)を訪ねて、嫁として認めてもらい、山の中でフンアフプーとイシュバランケーを出産した。2人があまりに泣くので、祖母は外に出せと言った。フン・フンアフプーと亡き妻イシュバキヤロとの間の息子、フンバッツとフンチョウエンは赤ん坊を憎み、殺したいと思って蟻の巣や刺の上に置いた。そのため、2人は野原で育てられることになった。

 

2人は成長すると、吹筒で猟をして鳥を獲ったが、異母兄に鳥を取られて、食事ももらえなかった。2人は兄たちの仕打ちに怒り、兄たちを人猿に変えて森へ追った。

 

巨人の親子の征伐

ヴクブ・カキシュ

巨人のヴクブ・カキシュの傲慢ぶりを見たフンアフプーとイシュバランケーは、彼の退治を決意した。ヴクブ・カキシュはナンセの木の実を食べているため、2人は木の根元で待ち伏せし、フンアフプーが吹筒を打ち、ヴクブ・カキシュの顎の骨に当てた。そして木から落ちてきたヴクブ・カキシュを捕らえようとしたら、逆にフンアフプーの腕が折られて奪われてしまった。

 

2人は老女のサキ・ニマ・チイス、老人のサキ・ニム・アクを訪ねて、自分たちと一緒にヴクブ・カキシュの家に行ってほしいと頼んだ。老女と老人は、奥歯が痛んで苦しんでいるヴクブ・カキシュを治療すると嘘を言い、ヴクブ・カキシュの歯も目も抜き取って殺した。その間に、フンアフプーは自分の腕を取り戻した。

 

シパクナー

ヴクブ・カキシュ長男のシパクナーが、400人の若者を殺してしまったので、フンアフプーとイシュバランケーは彼の退治を決意した。エク羊歯などの材料で、彼の好物の蟹の偽物を作り、大きな蟹がいると嘘を言い、シパクナーを谷の底へ連れて行った。シパクナーは蟹を追いかけるうちに2人の罠にはまり、山崩れの下敷きになって石になって死んだ。

 

カブラカン

ヴクブ・カキシュの次男のカブラカンが山を覆したり割ったりするのを見た神のカクルハー・フラカン、チピ・カクルハー、ラサ・カクルハーは、彼のやっていることが悪いことだから滅ぼせと、フンアフプーとイシュバランケーに命じたため、2人は彼の退治を決意した。2人は、太陽の出る方角にとても高い山を見たと嘘を言い、カブラカンと一緒に歩きだした。途中で鳥を獲り、ティサテ(石膏)を塗って白い土で包むと、いい匂いがするように焼いてからカブラカンに食べさせた。土のせいでカブラカンは手足から力が抜けてしまい、大きな山に着いても覆すことができなかった。2人はカブラカンの手足を縛って土に埋めて殺した。

 

冥府シバルバー攻め

フンアフプーとイシュバランケーは、ネズミから、父フン・フンアフプーが使っていた球戯の道具(首環、手袋、球)が天井から吊されていることを教えられた。この道具のせいで息子が死んだため、祖母が隠していたのだった。そこで2人は祖母と母に用事を頼んで外出させ、その間に道具を見つけて手に入れた。そして父たちが遊んだ球戯場へ行って球戯を楽しんだ。するとシバルバーのフン・カメーとヴクブ・カメーがこの音を聞きつけ、2人を呼ぶ使いを送った。祖母から使いの伝言を聞いた2人は、家の中にトウモロコシを植えた。このトウモロコシが枯れれば2人は死んだということになり、芽が出れば生きているということになるのだと2人は言い、シバルバーへ向かった。

 

シバルバーの冥神たちは2人の父フン・フンアフプーと叔父ヴクブ・フンアフプーにしたような企みを次々に仕掛けてきたが、2人はその企みを見破った。毎晩泊められる闇の館、剣の館、寒冷の館、ジャガーの館、焔の館、どれも2人は切り抜けていった。日中はシバルバーの者たちと球戯をした。蝙蝠の館では、カマソッツの武器を避けるために2人は吹筒に入って寝ていたが、夜が明けたか確かめようとしたフンアフプーが吹筒から頭を出すと、カマソッツがすかさず頭を切り落としてしまった。頭はシバルバーの者たちに奪われた。

 

イシュバランケーは、動物を呼び集めた。その中で亀が、フンアフプーの胴体に近づくと、くっついて頭になった。多くの予言者やフラカンが、この蝙蝠の館の上に集まり、みなでフンアフプーの顔を作っていった。イシュバランケーはうさぎに協力を命じ、復活したフンアフプーと一緒に球戯場へ行った。そこにフンアフプーの頭があった。うさぎがシバルバーの者たちを球戯場の外へおびき出した間に、フンアフプーは自分の頭を取り戻した。

 

フンアフプーとイシュバランケーは自分たちが焼き殺されることを知り、予言者のシュルーとパカムを呼んで協力を命じた。やがてシバルバーの者たちが焚いた焚火のそばに連れてこられた2人は、自ら火に飛び込んで死んだ。シバルバーの者たちは大喜びし、シュルーとパカムを呼んで死体の扱いを相談した。そして言われたとおりに2人の骨を挽いて川に捨てた。前もって打ち合わせていたとおりに、2人は川の中から現れた。

 

フンアフプーとイシュバランケーは、みずぼらしいなりの老人に化け、シバルバーの者たちの前で踊った。次に手品をしたが、家を燃やしても元に戻したり、互いに斬り合って片方が死ぬともう片方が生き返らせたりした。フン・カメーとヴクブ・カメーがこの謎の2人の話を聞き、自分たちの元へ呼び、2人の踊りや手品を楽しんだ。またイシュバランケーがフンアフプーを殺して生き返らせて喜ぶのを見て一緒に喜んだ。とうとうフン・カメーとヴクブ・カメーは、自分たちを殺して復活させろと言った。フンアフプーとイシュバランケーはフン・カメーとヴクブ・カメーを殺し、生き返らせなかった。シバルバーの者たちはみな、フンアフプーとイシュバランケーに降参した。

 

フンアフプーとイシュバランケーは、父と叔父の仇をとるべく皆殺しにすると宣言し、シバルバーの滅亡が始まった。2人は父と叔父の体を見つけたが生き返らせることはできず、球戯場に置き、褒め称えた。そして太陽と月になって天に昇っていった。先に死んだ400人の若者も星になって2人に付き従った。

 

後日談

フンアフプーとイシュバランケーが祖母の家に植えていったトウモロコシは、2人が火に飛び込んで死んだときに枯れてしまったが、復活と共に再び芽を出していた。祖母はトウモロコシにニカフ(家の中心)と名前をつけて崇めた。