2025/08/30

朱子学(3)

古典注釈学・著述

『四書集注』

朱熹やその弟子たちは、経書に注釈を附す、または経書そのものを整理するという方法によって学問研究を進め、自分の意見を表明した。特に、『礼記』の中の一篇であった「大学」「中庸」を独自の経典として取り出したのは朱熹に始まる。更に、朱熹は『大学』のテキストを大幅に改定して「経」一章と「伝」十章に整理し、脱落を埋めるために自らの言葉で「伝」を補うこともあった。

 

宋学においては、孔子の継承者として孟子が非常に重視され、従来は諸子百家の書であった『孟子』が、経書の一つとしての位置づけを得ることになった。『大学』『中庸』『孟子』に『論語』を加えた四種の経書が「四書」と総称され、朱熹はその注釈書として『四書集注』を制作した。これにより、古典学の中心が五経から四書へと移行した。

 

具体的な政策論

朱熹の思想は、同時代の諸派の中では急進的な革新思想であり、その批判の対象は高級官僚や皇帝にも及んだ。朱熹の現実政治への提言は非常に多く、上奏文が数多く残されている。朱熹は、理想の帝王としての古の聖王の威光を借りる形で、現実の皇帝を叱咤激励した。また、朱熹は地方官として熱心に仕事に当たったことでも知られ、飢饉の救済や税の軽減、社倉法といった社会施設の創設なども行っている。

 

朱熹の説を信奉し、慶元党禁の後の朱子学の再興に力を尽くした真徳秀は、数々の役職を歴任し、数十万言の上奏を行うなど、積極的に政治に参加している。

 

その後の展開

元代

朱子学は元代に入るころには南方では学問の主流となり、許衡・劉因によって北方にも広まった。これに呉澄を加えた三人は、元の三大儒と呼ばれる。許衡の学は真徳秀から引き継がれた熊禾の全体大用思想を受け、知識思索の面よりも精神涵養を重視した。呉澄は朱子学を説きながらも陸学を称賛し、朱陸同異論の端緒を開いた。

 

延祐元年(1314)、元朝が中断していた科挙を再開した際、学科として「四書」を立て、その注釈として朱熹の『四書集注』が用いられた。つまり、科挙が準拠する経書解釈として朱子学が国家に認定されたのであり、これによって朱子学は国家教学として、その姿を変えることになった。

 

明代

明代の初期、朱子学者である宋濂が朱元璋のもとで礼学制度の裁定に携わったほか、王子充が『元史』編纂の統括に当たった。国家教学となった朱子学は変わらず科挙に採用され、国家的な注釈として朱子学に基づいて『四書大全』『五経大全』『性理大全』が制作された。

 

明代の朱子学思想の発達の端緒に挙げられるのは、薛瑄・呉与弼である。ともに呉澄と似た傾向を有し、朱子学の博学致知の面はやや希薄になり、精神涵養の面が強調された。特に呉与弼の門下には陳献章が出て、陸象山の心学と共通する思想を強調し陽明学の先駆的役割を果たしたため、呉与弼は「明学の祖」とも呼ばれる。

 

薛瑄は純粋な朱子学の信奉者で、理気二元論を深く理解していた。同じく胡居仁も朱子学を信奉し、特に仏教・道教などの異端を批判する議論を積極的に展開した。陽明学の勃興と時を同じくした朱子学者が羅欽順であり、彼は陽明学を激しく批判し、その良知説や格物説、王陽明の「朱子晩年定論」などに異論を唱えた。

 

明末には、東林党が活動し、体得自認と気節清議に務め、国内外の多難に対して清議を唱えて節義を全うした。

 

清代

清代に入ると、朱子学・陽明学から転換し、考証学と呼ばれる経書に対するテキスト考証の研究が盛んになった。この原因については、明末に朱子学・陽明学が空虚な議論に終始したことに対する全面的な反発と見る説が一般的で、そこに文字の獄に代表される清朝の知識人弾圧が加わり、研究者の関心が訓詁考証の学に向かわざるを得なかったとされる。

 

一方、中国思想研究者の余英時は、考証学は朱子学・陽明学に対する反発と見る説と、朱子学・陽明学の影響が考証学にも及んでいると見る説があることを述べた上で、宋以後の儒学は当初から尊徳性・道問学の両方向を不可分に持っていたのであり、考証学は宋学の反対物ではなく、宋学が考証学に発展しうる内在的要因があったことと説明する。

 

京都工芸繊維大学名誉教授の衣川強は、理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで、儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が、朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している。

 

清代の朱子学者として、湯斌・李光地・呂留良・張履祥・張伯行・陸隴其・魏象枢のほか、桐城派の方苞・方東樹ら、清末湖南の唐鑑・賀長齢・羅沢南・曽国藩らがいる。

2025/08/27

カール大帝(シャルルマーニュ)(7)

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概要

カール大帝とは、中世フランク王国の国王。後にローマ教皇の認定によりローマ皇帝として戴冠したので、ローマ皇帝、あるいは西ローマ帝国の皇帝とも呼ばれる。初代神聖ローマ皇帝として数えられることもある。カロリング朝フランク王国ピピン3世の子。

 

カール「大帝」というのは、シャルルマーニュ(: Charlemagne)のドイツ語読み「カール・デア・グローセ(Karl der Große)」を意訳した表記。直訳すると「偉大なるカール」または「偉大王カール」となる。

 

他にカルロ・マーニョ(: Carlo Magno)、カロルス・マグヌス(: Carolus Magnus)、チャールズ・ザ・グレート(: Charles the Great)など。どの国でも、名を表すカールに相当する語の後に、その偉大さを讃える二つ名が続いている。

 

現在の西ヨーロッパと呼ばれる地域のほぼ全てを制圧し、「ヨーロッパの父」と呼ばれる。

 

カール大帝の築いた西フランク王国(フランス)と東フランク王国(ドイツ)の後裔国家において自分たちの建国者、国家的英雄と捉えられており、フランス語読みのシャルル大帝、ドイツ語読みのカール大帝で呼ばれることが多い。

 

主な経歴

カールがフランク王となった当時の西欧は、様々な外敵に脅かされ混乱していた。スペインはイスラム教徒の支配が続き、しばしば現代でいうフランスにまで侵入している。これに対してカールの祖父カール・マルテルは、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝を撃退したこともある。また東からはザクセン人、アヴァール人などがそれぞれ現代でいうドイツ、ハンガリーに侵入してきている。イタリアでは、東ローマ帝国の弱体化に伴ってランゴバルド族が各地を征服し、ローマを包囲するなどしてローマ教皇を脅かした。

 

このような情勢の下、カールは長年の遠征で西はスペインの一部、東はドイツに至るまで領土を広げた。イタリアでは773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世がカトリック教会の権威復興と保護を求め、カールに援軍を要請した。カールの父王ピピン3世も、教皇ザカリアスによってフランス王となる大義名分を与えられ、メロヴィング朝を倒して自らのカロリング朝を樹立し、「ピピンの寄進」を行って教会を保護した。

 

このような経緯から、カールも父王に倣ってカトリック教会を自分の統治に利用する。かくして774年にランゴバルド王国を滅亡させ、ローマ教皇の保護者となる。西方では778年にイスラム教徒の内紛に乗じてスペインに遠征する。これにはロンスヴォーの戦いで敗れ、後世に脚色されて『ローランの歌』という叙事詩の素材となる。だが795年にはピレネー山脈の南側にスペイン辺境伯領を設置することに成功する。

 

801年には、バルセロナまでフランク王国は拡大した。東方では791年にアヴァール族を討ち、804年にザクセン族を服属させるなど、ドイツ東部にまで領土を広げる。これらは、西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの秩序を回復する偉業であり、後の西欧社会の原型がここに出来上がった。

 

カトリック教会は彼の功績に対してローマ皇帝の称号を与え、全キリスト教信者の庇護者と顕彰した。この事件は、のちのち歴代の皇帝と教皇が互いに相手を利用し合い、権力闘争を繰り返すことにも繋がった。一方で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はカールの戴冠を認めず、彼をフランク皇帝と呼んでローマ皇帝とは認めなかった。カール自身も東ローマに配慮して、自らローマ皇帝を名乗ることは避けたと言われる。

 

カールの後継者

カールは自らの死に際し、王国を3つに分割して子供(それぞれカール若王、ピピン、ルートヴィヒ)に相続させた(しかしカール若王とピピンは直後に相次いで亡くなった為、結果的には末っ子のルートヴィヒが単独相続する事となった)。

 

やがて「敬虔帝ルートヴィヒ1世」として、カール大帝の後を継いだルートヴィヒも840年に亡くなり、その際にも彼の3人の息子に分割相続され、かくして広大なフランク王国はそれぞれ西フランク王国、東フランク王国、中フランク王国の3つに分裂した。以降は、相続領や皇帝位を巡る息子達の間での争いや、再統一・再分裂を繰り返すなど不安定な情勢が続いたが、これらはそれぞれ後のフランス王国、神聖ローマ帝国(後にネーデルラント、オーストリア、プロイセン、スイスなどが分かれる)、イタリア諸国を形成した。

このようにカールの築いた王国は、ヨーロッパの様々な国に分かれていったのである。

 

取り分けフランスは、カール大帝をフランスの英雄と位置づけ、シャルルとフランス語読みで呼び、神聖ローマ帝国に対抗しようとした(また敬虔帝ルートヴィヒ1世の仏語読みである「ルイ」の名も、後の歴代フランス国王に引き継がれていった)。

 

対する神聖ローマ帝国は、自らこそフランク王国の後裔国家と位置づけ、ヨーロッパ全土の支配者として振る舞おうとした。

フランスとドイツの対立は、ヨーロッパ史にたびたび戦火を招いた。

カールの築いた平和が、カールの栄光を奪い合う骨肉の争いに結びついたのは、皮肉と言わざるを得ない。

 

カロリング・ルネサンス

カールは、フランク王国をキリスト教帝国にしたいと考えていた。

すなわち統治の安定には、国民に宗教を浸透させ、教会にも優秀な人材を育てさせることだと考えた。

アーヘン大聖堂は、カールの文化振興のシンボルとして世界遺産となった。

 

人物

学者兼伝記作者のアインハルトによると、容姿は小太りの長身(195cm)で髪はふさふさとした銀髪、少し甲高い声であった。

馬術・狩猟・水泳が得意で、特に水泳は宮廷に温泉プールを作るほどに熱中したらしく、一族部下がおよそ100人ほど集まることもあったが、それでも誰も彼に勝てなかったという。

 

また文字の読み書きは出来なかった。ただしラテン語やギリシャ語を習い、前者は自由に会話できていたとのこと。読書、というより聴書も好み神学者アウグスティヌスの著作『神の国』が、特にお気に入りだったらしい。

 

五度の結婚の末、20人位の子供に恵まれている。大変な子煩悩で、娘達を溺愛するあまり他国へ嫁がせる事を許さなかったという。

(そこから後世において、娘達との近親相姦説が語り継がれている)

2025/08/26

朱子学(2)

内容

島田虔次は、朱子学の内容を大きく以下の五つに区分している。

 

    存在論 - 「理気」の説(理気二元論)

    倫理学・人間学 - 「性即理」の説

    方法論 - 「居敬・窮理」の説

    古典注釈学・著述 - 『四書集注』『詩集伝』といった経書注釈、また歴史書『資治通鑑綱目』や『文公家礼』など

    具体的な政策論 - 科挙に対する意見、社倉法、勧農文など

 

理気説

朱子学では、おおよそ存在するものは全て「気」から構成されており、一気・陰陽・五行の不断の運動によって世界は生成変化すると考えられる。気が凝集すると物が生み出され、解体すると死に、季節の変化、日月の移動、個体の生滅など、一切の現象とその変化は気によって生み出される。

 

この「気」の生成変化に根拠を与えるもの、筋道を与えるものが「理」である。「理」は、宇宙・万物の根拠を与え、個別の存在を個別の存在たらしめている。「理」は形而上の存在であり、超感覚的・非物質的なものとされる。

 

天下の物、すなわち必ずおのおの然る所以の故と、其の当(まさ)に然るべきの則と有り、これいわゆる理なり。

朱子、『大学或問』

「理」は、あるべきようにあらしめる「当然の則」と、その根拠を表す「然る所以の故」を持っている。理と気の関係について、朱熹はどちらが先とも言えぬとし、両者はともに存在するものであるとする。

 

性即理

朱子学において最も重点があるのが、倫理学・人間学であり、「性即理」はその基礎である。「性」がすなわち「理」に他ならず、人間の性が本来的には天理に従う「善」なるものである(性善説)という考え方である。

 

島田虔次は、性と理に関する諸概念を、以下のように整理している。

 

- - 形而上 - - 未発 - - -

- - 形而下 - - 已発 - - -

 

「性」は、仁・義・礼・智・信の五常であるが、これは喜怒哀楽の「情」が発動する前の未発の状態である。これは気質の干渉を受けない純粋至善のものであり、ここに道徳の根拠が置かれるのである。一方、「情」は必ず悪いものというわけではないが、気質の干渉を受けた動的状態であり、中正を失い悪に流れる傾向をもつ。ここで、人欲(気質の性)に流れず、天理(本然の性)に従い、過不及のない「中」の状態を維持することを目標とする。

 

性即理(せいそくり)は、「性」(人間の持って生まれた本性)がすなわち「天理」であるとする説。宋明理学の命題の一つ。中国北宋の程頤(伊川)によって提言され、南宋の朱熹に継承された、朱子学の重要なテーゼである。

 

朱熹は存在論として、理気二元論を主張する。「理」とは天地万物を主宰する法則性であり、「気」とは万物を構成する要素である。理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は理法であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。

 

そして、このような存在論的な「理」は人間の倫理道徳にも貫かれている。「理」は「性」である。この場合「性」は孟子の性善説に基づき善とされる。人間の本来性(理)は善であるが、現実の存在(気)においては善を行ったり、悪を行ったりする。そこで儒者は「居敬」や静坐を行ったり、「格物」や読書によって、その本来性(理)に立ち戻り、「理」を体得しなければならない。朱子学では「聖人学んで至るべし」と学問の究極的な目標は「理」を体得し「聖人」となることとされた。

 

居敬・窮理

朱子学における学問の方法とは、聖人になるための方法、つまり天理を存し、人欲を排するための方法に等しい。その方法の一つは「居敬」また「尊徳性」つまり徳性を尊ぶこと、もう一つは「窮理(格物致知)」、また「道問学」つまり知的な学問研究を進めることである。

 

朱熹が儒教の修養法として「居敬・窮理」を重視するのは、程顥の以下の言葉に導かれたものである。

 

涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り。

程顥、『程氏遺書』第十八

 

ここから、朱熹は経書の文脈から居敬・窮理の二者を抽出し、儒教的修養法を整理した。三浦國雄は、この二者の関係は智顗『天台小止観』による「止」と「観」の樹立の関係に相似し、仏教の修養法との共通点が見られる。

 

「居敬」とは、意識の高度な集中を目指す存心の法のこと。但し、静坐や坐禅のように特定の身体姿勢に拘束されるものではなく、むしろ動・静の場の両方において行われる修養法である。また、道教における養生法とは異なり、病の治癒や長生は目的ではなく、あくまで心の修養を目的としたものであった。

 

日常のいかなる時であっても、意識を集中させ心を安静の状態(敬)に置くこと。

 

宋代の儒教では、心の修養に仏教や道教に依らない独自のものを模索していた。その一つに「敬」があり、朱熹(朱子)の先駆者であった程頤は、儒家経典である『論語』憲問篇の

「己を修めるに敬を以てす」

や『易経』坤卦文言伝の

「君子は敬もって内を直し、義もって外を方す。敬義、立ちて徳、孤ならず」

の「敬」を「主一無適」(意識を一つに集中させて、あちこち行かない)と定義し「持敬」という修養法を唱えた。朱熹はこれを継承して「敬」を重視し、「窮理」のための一つの方法とし、著書『敬斎箴』で、その実践法を説いた。

 

その後、朱子学では「居敬」と「静坐」とが修養法として行われ、「居敬」は特に重要視された。

 

「窮理」とは、理を窮めること、『大学』でいう「格物致知」のことで、事物の理をその究極のところまで極め至ろうとすることを指す。以下は、朱熹が「格物致知」を解説した一段である。

 

いわゆる「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り」とは、吾の知を致さんと欲すれば、物に即きて其の理を窮むるに在るを言う。蓋し人心の霊なる、知有らざるはなく、而して天下の物、理有らざるは莫(な)し。惟だ理に於いて未だ窮めざる有るが故に、其の知も尽くさざる有り。是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知れるの理に因りて益ます之を窮め、以て其の極に至るを求めざること莫からしむ。

朱熹、『大学』第五章・注、島田1967ap.76

 

朱熹のこの説は、もともと程顥の影響を受けたものであり、朱熹注の『大学』に附された「格物補伝」に詳しく記されている。

 

儒教的世界観の中で全てを説明する朱子学は仏教と対立し、やがて中国から仏教的色彩を帯びたものの一掃を試みていくこととなる。

2025/08/19

カール大帝(シャルルマーニュ)(6)

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概要

数々の戦争によって、イギリスを除く現在のEUに当たる地域のほとんどを支配したカロリング朝フランク王国の王である。

 

彼の征服によって、ギリシャ・ローマ文化が当時ガリアやゲルマンと呼ばれていた現在の西欧に当たる地域に広まることになり、今のヨーロッパの礎となった。

 

トランプのハートのキングのモチーフと言われている人物。

 

即位まで

カール大帝の産まれたカロリング家は、8世紀に中ピピンやその息子カール・マルテル(カール大帝の祖父にあたる)を輩出するなど、元々名門であった。カールマルテルの子、小ピピン(ピピン三世、カール大帝の父)はフランク王国のメロヴィング朝から王位を簒奪し、カロリング朝が始まっている。

 

カール大帝の幼少期のことは史料が少なく、一説には出生に関して何らかの不義があったとも言われるが、詳細は分からない。小ピピンが没すると、フランク王国はカールと弟によって分割された(当時の社会では、土地は一子相伝のものではなかった)。カールは、アウストラシアの中央やネウストリアの沿岸などを。弟のカールマンはブルゴーニュなどを相続したが、弟が継承から三年後に死んだためカールはフランク王国の単独王となった。

 

征服

カール大帝の軍団の要になったのは騎馬兵団である。モンゴル兵しかり源義経しかり、近代戦争が始まるまで、騎馬兵団を上手く運用できた軍隊は強い。カール・マルテルの代に起こったvsイスラームのトゥール・ポワティエ間の戦いで、騎馬兵団の強さを肌で知っていたカロリング朝は騎馬兵団を起用し、カールもその軍団を受け継いでいた。即位から以後47年間、カールはこの騎馬軍団を用いて、ほぼ毎年のように遠征に明け暮れた。

 

カール大帝の最初の本格的な侵略先は、イタリア半島の中央に位置するランゴバルド王国であった。そのきっかけは、ランゴバルド王国が教皇領を不法占拠し、時の教皇ハドリアヌス一世がカールに救援を求めたことにあった。773年、カールはアルプスをこえて、ランゴバルド王国の首都パヴィアを包囲した。ランゴバルド王のデシデリウスは虜にされ、息子のアデルキスはコンスタンティノープルに亡命した。

 

続けて、カールはザクセン人の討伐にとりかかった。以後、カールは30年にわたってザクセン遠征をくり返し、時に見せしめに大量虐殺も行ったが、宗教も政治システムも異質なザクセン世界で上手くいかず、785年にザクセン王ヴィドギンドを屈服させた後も、その統治には苦戦させられていた。最終的にザクセン人をフランク王国内に強制分散移住させることによって、反乱を収束させた。

 

778年には、イスラーム系のコルドバ君主国を支配下におさめるためにイベリア半島(現在のスペインのある半島)に大軍を送るも、サラゴーサ城の提督アルフセインに徹底抗戦され、撤退を余儀なくされている。この帰途の途中で軍はバスク人の襲撃に会い、殿(しんがり)のブルターニュ伯ローランが戦死する。この出来事は、10世紀に『ローランの歌』として欧州文学史に名前を残すことになった。

 

失敗に終わったカールのヒスパニア遠征であったが、カールはバルセロナを中心としたヒスパニア辺境領を創設し、イスラーム勢力との戦いで離散した地域へ植民する政策をとっている。

 

787年には、カールはバイエルンにも侵攻している。バイエルン大公のタシロ三世はカールに恭順したが、翌年には忠誠違反の嫌疑を受けて修道院へ幽閉されてしまった。タシロのアギロルフィング家は6世紀から名を残す名門であったが、その威勢は失してしまった。

 

788年からは、モンゴル系遊牧民族のアヴァール人との戦いが始まっていた。北イタリアでの戦いをきっかけに、791年にはカールの方からアヴァール領への侵攻を開始する。フン族には及ばないまでも、かつて強大であったアヴァール軍団であったが、カールの時代には既に弱体化しており、大した反撃もないままカールは大勝利をおさめて多くの戦果を得た。

 

また、カール大帝は戦争だけでなく文化振興政策も進め、フランク王国はカールの治世下でカロリング・ルネサンスが発生した。

 

戴冠と死

西暦800年、カール大帝はローマの聖ペテロ大聖堂にて、教皇レオ三世から西ローマ皇帝の戴冠を受ける。むろんこれは476年に滅んだ西ローマ帝国の復活を意味しないが、それでもカール戴冠は国際政治的にも意義の大きいものであった。

 

東ローマ(ビザンツ)皇帝ニケフォロス一世はカールの皇帝号を認めず、806年にヴェネツィアを巡りフランク王国と武力衝突する。フランクは陸上では勝利したものの海では敗北を喫し、812年にミカエル一世の使節が訪れて和議が結ばれた。しかし、それでもなおビザンツはカールを皇帝として認めることはなかった。

 

814年、カール大帝はアーヘン宮廷で死去。享年72歳。遺体は葬儀を経ることもなく、その日のうちにアーヘンの宮廷内に埋葬されるというスピード葬送であった。約200年後に発掘されたカールの遺骸は玉座に座ったままであり、装飾品は首にあったペンダント一つだけであったという。

 

カールの死後、フランク王国はルイ敬虔王を経て、カールの孫によって3つに分割される。その3つの国はカールのカロリング朝は断絶したものの後のフランス、イタリア、ドイツの元となった。その意味で、やはりカール大帝はヨーロッパの礎となった人物であると言える。

2025/08/18

朱子学(1)

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。

 

北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。

 

成立の背景

唐・宋の時代に入り、徐々に士大夫層が社会に進出した。彼らは科挙を通過するべく儒教経典の知識を身に着けた人々であり、特に宋に入ると学術尊重の気風が強まった。そのような状況下で、仏教・道教への対抗、またはその受容、儒教の中の正統と異端の分別が盛んになり、士大夫の中から新たな思想・学問が生まれてきた。これが「宋学」であり、その中から朱子学が生まれた。

 

宋学・朱子学の先蹤

唐の韓愈は、新興の士大夫層の理想主義を体現した早期の例で、宋学の源流の一つである。彼の『原道』には、仁・義・道・徳の重視、文明主義・文化主義の立場、仏教・道教の批判、道統の継承など、宋学・朱子学と共通する思想が既に現れている。また、韓愈の弟子の李翺の『復性書』も、『易経』と『中庸』に立脚したもので、宋学に似た内容を備えている。

 

北宋の儒学者

宋学の最初の大師は周敦頤であり、彼は『太極図』『太極図説』を著し、万物の生成を『易経』や陰陽五行思想に基づいて解説した。これは、朱熹の「理」の理論の形成に大きな影響を与えた。更に彼の『通書』には、宋学全体のモチーフとなる「聖人学んで至るべし」(聖人は学ぶことによってなりうる)の原型が提示されている。学習によって聖人に到達可能であるとする考え方は『孟子』を引き継いだものであり、自分が身を修めて聖人に近づくということだけでなく、他者を聖人に導くという方向性を含んでいた。これも後に程頤・朱熹に継承される。

 

同じく朱熹に大きな影響を与えた学者として、「二程子」と称される程顥・程頤兄弟が挙げられる。程顥は、万物一体の仁・良知良能の思想を説き、やや後世の陽明学的な面も見られる。一方、程頤は、仁と愛の関係の再定義を通して、体と用の峻別を説き、「性即理」を主張するなど、朱熹に決定的な影響を与える学説を唱えた。更に、程頤は学問の重要な方法として「窮理(理の知的な追求)」と「居敬(専一集中の状態に維持すること)」を説いており、これも後に朱子学の大きな柱となった。

 

また、「気の哲学」を説いた張載も朱熹に大きな影響を与えた。彼は「太虚」たる宇宙は、気の自己運動から生ずるものであり、そして気が調和を保ったところに「道」が現れると考えた。かつて、唯物史観が主流の時代には、中国の学界では程顥・朱熹の「性即理」を客観唯心論、陸象山・王陽明の「心即理」を主観唯心論、張載と後に彼の思想を継承した王夫之の「気」の哲学を唯物論とし、張載の思想は高く評価された。

 

朱熹の登場

北宋に端を発した道学は、南宋の頃には士大夫の間にすでに相当の信奉者を得ていた。ここで朱熹が現れ、彼らの学問に首尾一貫した体系を与え、いわゆる「朱子学」が完成された。朱熹の出現は、朱子学の影響するところが単に中国のみにとどまらなかったという点でも、東アジア世界における世界的事件であった。

 

朱子学を完成させた朱熹は、建炎4年(1130年)に南剣州尤渓県の山間地帯で生まれた。「朱子」というのは尊称。19歳で科挙試験に合格して進士となり、以後各地を転々とした。朱熹は、乾道6年(1170年)に張栻・呂祖謙とともに「知言疑義」を著し、当時の道学の中心的存在であった湖南学に対して疑義を表明すると、「東南の三賢」として尊ばれ、南宋の思想界で勢力を広げた。しかし、張栻・呂祖謙が死去すると、徐々に朱熹を思想面において批判する者が現れた。その一人は陳亮であり、夏殷周三代・漢代の統治をどのように理解するかという問題をめぐって「義利・王覇論争」が展開された。

 

また、朱熹の論争相手として著名なのが陸九淵であり、淳熙2年(1175年)に呂祖謙の仲介によって両者が対面して行われた学術討論会(鵝湖の会)では、「心即理」の立場の陸九淵と、「性即理」の立場の朱熹が論争を繰り広げた。両者は、その後もたびたび討論を行ったが、両者は政治的に近い立場にいた時期もあり、陸氏の葬儀に朱熹が門人を率いて訪れるなど、必ずしも対立していたわけではない。

 

朱熹は、最後には侍講となって寧宗の指導に当たったが、韓侂冑に憎まれわずか45日で免職となった。韓侂冑の一派は、朱子など道学者に対する迫害を続け、慶元元年(1195年)には慶元党禁を起こし朱熹ら道学一派を追放、著書を発禁処分とした。朱熹の死後、理宗の時期になると、一転して朱熹は孔子廟に従祀されることとなり、国家的な尊敬の対象となった。

2025/08/12

カール大帝(シャルルマーニュ)(5)

学説

カール大帝の戴冠

カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界を決定づけたが、以下のような説がある。

 

尚樹啓太郎によれば、780年に即位したコンスタンディノス6世は10歳という幼さであったため、母后イリニが政治を後見した。コンスタンディノス6世は成長するにつれ、イリニとそれを補佐する宦官たちと対立するようになり、とくにイコン崇拝を巡ってはイリニがイコン擁護派であったのに対し、コンスタンディノス6世はイコン破壊派と結びつくようになった。最終的に796年、イリニが近衛軍を掌握してクーデタを起こして797年コンスタンディノス6世を追放し、イリニは帝国を一人で統治するようになった。

 

西方では、カロリング朝が領土を拡大し影響力を増した。また教皇は、このころローマ市生まれの人物がつくことが多くなり、東方で盛んであったイコン破壊運動にも不満を持っていたので、徐々にビザンツ帝国に距離を置いた。教皇レオ3世はコンスタンディノス6世が追放されて以後はローマの皇帝位は空白であると考え、800年のクリスマスの日にローマを訪れていたカール大帝に皇帝位を授けた。カール大帝は、この戴冠にあまり乗り気ではなかった。カール大帝はビザンツ帝国の承認を得ようとし、必要であればイリニとの結婚さえ提案するつもりであった。このときの状況は、かつてローマ帝国の皇帝が東西に分立していた時とは異なっていた。ローマ教皇もビザンツ皇帝も、皇帝と教会は一つであるべきだと考えていたから、カール大帝が西ローマ皇帝位の承認を求めても拒絶に遭うだけであった。ビザンツ皇帝はカール大帝を「皇帝」と認めても、「ローマ人の皇帝」とは認めなかったし、カール大帝も「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。

 

ハンス・シュルツェによれば、カール大帝の王国が西ヨーロッパで支配的な影響力をもつようになるにつれ、ローマ教皇も自身の宗教的権威の後ろ盾となる政治権力の必要性から頼みとするようになった。カール大帝自身も、自分の地位の上昇に明確な意識を持っていた。教皇レオ3世が反対派から暴行を受け、幽閉された先からカール大帝の宮廷に逃れてきたとき、カール大帝には「教皇の問題」に関わるべき権限が本来ないはずであったが、彼はレオ3世と反対派の陳述を聞いて判決を下した。

 

800年のクリスマスに、カール大帝の戴冠がおこなわれた。儀式はビザンツ帝国を意識したものであったが、ビザンツでの戴冠が「戴冠→民衆による歓呼→総主教による聖別」という順番であったのに対し、「教皇による戴冠→民衆による歓呼」という順番でおこない、意図的に教皇の役割を高めたものであった。カール大帝は東方のビザンツ皇帝、女帝イレーネに対しては彼女が女性であり、息子である前皇帝を盲目にして追放したという理由から、これを帝位請求権を持つ者とは考えていなかった。しかし、イレーネにつづくニケフォロス1世とは「共存関係」を結ぼうとした。カール大帝はかつてのローマ帝国の東西分割に範をとって、自身の帝国を「西帝国」と呼んだ。

 

ピレンヌによれば、ローマ教皇ハドリアヌス1世が死んだ頃には、カール大帝の意識の中に「キリスト教の保護者」という考えを見ることができる。カール大帝は、教皇レオ3世にあてた書簡で自身を「全キリスト教徒の支配者にして父、国王にして聖職者、首長にして嚮導者である」と述べている。

 

800年の戴冠によって成立した皇帝は、二重の意味でかつての西ローマ皇帝の再現ではなかった。まず教皇はカトリック教会の皇帝としてカール大帝を戴冠させた。教皇は、カール大帝に帝冠を与えたのがローマの市民ではなく教皇であるということを示し、さらにその皇帝は世俗的な意味合いが全くなかった。教皇は、すでにあるカールの帝国に聖別を施したというべきである。なぜならカール大帝の即位によって何らかの帝国組織、帝国制度が創出されたわけではないからである。

 

次にカール大帝の帝国は、かつての西ローマ帝国のように地中海に重心をもつのではなく、その重心は北方にあった。カール大帝は自らの称号で「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。彼は「ローマ帝国の統治者」と述べたのであり、つづく「フランク人およびランゴバルド人の王」というのが、より現実的な支配領域を指していた。カール大帝の帝国の中心はローマではなくて、アーヘンであった。ピレンヌによれば、カール大帝の皇帝戴冠は、彼がフランク国王としてキリスト教の守護者を任じていたということであり、これは西ヨーロッパが地中海中心の世界から内陸世界へと移行していく過程の必然の結果であった。

 

渡辺治雄は、ビザンツ帝国の女帝イレーネ即位という偶然的事象を重視し、カール大帝は皇帝になることは全く考えていなかったが、聖職者たちが女帝の支配は違法であり、ビザンツ帝国では帝位が消滅しているという理由から、カール大帝に皇帝即位を積極的に薦めた。教会主導でおこなわれた800年の戴冠以後は「西ローマ帝国の復興」という理解が一般化した。

 

802年に女帝イレーネが追われてニケフォロス1世が登極してからは皇帝空位論は成り立ちえず、カール大帝の皇帝即位はビザンツ帝国の政情に依存するところが大きかったとした。

瀬戸一夫は、戴冠は状況的かつ偶然的な出来事であったとする。教皇の目論見はビザンツ帝国の政治的圧力の回避にあり、フランク族の影響力を用いて当時混乱していたコンスタンティノープルの政局を遠隔操作することにあった。シャルルマーニュの目的は、ビザンツ帝国と同格かつ独自の「王国=教会」共同体をラテン地域に打ち立てることであった。両者の間にはしたがって一定程度の隔たりがあったのだが、レオ3世の不安定な地位が問題を棚上げして、一方的に帝冠の授与を行った。教皇の政治判断は理念的にも現実的にも破綻していたが、これが成功したのには当時のビザンツ政権が基盤が貧弱な女帝イレーネーによっていたことも大きく寄与した。彼女は反対派の攻勢に晒されており、そのため対外的に親フランク的な政策をとった。

 

イレーネーはシャルルマーニュとの婚姻にも好意的で、シャルルマーニュもこれには乗り気であった。しかし、これは一時の政治状況から成り立ったのであって、それが過ぎれば二帝問題・聖俗二元統治の実際上の問題など、いろいろな矛盾を事後的に正当化する必要が生じた。つまり計画的なものであったとは考えられず、戴冠は必然的ではなかったが、戴冠は教皇という宗教的権威が「ローマ人の皇帝」を創造するといった永続的な宗教的政治的意味を後世にもたらした。

 

ピレンヌ・テーゼ

ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱えている。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、ムハンマド(マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。

2025/08/10

朱熹(朱子)(3)

朱子学の概要

後世への影響

朱熹の死後、朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが広めた。最終的に真徳秀(1178 - 1235年)と魏了翁(1178 - 1237年)が活躍し、朱子学の地位向上に貢献し、淳祐元年(1241年)に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で、朱子学の影響を受け、考証学という学問が形成される。南宋末の王応麟の『困学紀聞』がとりわけ重要で、その博識ぶりは有名であり、朱熹に対して最大限の敬意を払っている。この時代の考証学は、後に博大の清朝考証学に受け継がれる。

 

元代に編纂された『宋史』は、朱子学者の伝を「道学伝」として、それ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。

 

13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。

 

日本においても中近世、ことに江戸時代に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも、特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。

 

朱子の書

朱子は書をよくし、画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』)と記している。

 

古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は

「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」

と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある。

 

韓琦が欧陽脩に与えた書帖に、朱子が次のような跋を記している。

「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)

朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる。

 

朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。

 

朱子は

「漢魏の楷法の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」

という。

 

また、朱子は書に工(たくみ)を求めず「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる。

 

朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる。

 

劉子羽神道碑

『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は淳熙6年(1179年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。

 

劉子羽(りゅう しう、1097 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。

 

劉珙が淳熙5年(1178年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。

 

尺牘編輯文字帖

『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、乾道8年(1172年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている。

 

論語集注残稿

『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で淳熙4年(1177年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが、教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm

 

有名な言葉

「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきている。

精神一到何事か成らざらん

子孫

             

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出典検索?: "朱熹" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (20201)

朱熹は朱塾・朱埜・朱在の三子があり、曾孫である朱潜は、南宋の翰林学士・太学士・秘書閣直学士の重臣を歴任するが、高麗に亡命して朝鮮の氏族新安朱氏の始祖となった。

2025/08/06

カール大帝(シャルルマーニュ)(4)

人物・人物像

カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼いた肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。

 

カールのサイン

また、文字の読み書きはできなかったという。カールは、しばしば"KAROLUS"7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の菱形だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが、神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。

 

服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製のゲートルをつけ、靴をはくという機能的なスタイルを好んだ。儀式のとき以外は、ローマ風の正装は好まなかったといわれる。

 

カールの言葉に

「平和なくして、神を喜ばせることはできない」

「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」

がある。

 

カールとルートヴィヒは、動物飼育に熱中したという記録が残っている。797年にはアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからアブル=アッバースという名のゾウ1頭と何匹かのサルを贈与され、9世紀初頭にはアフリカのイスラム政権アグラブ朝から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産のシカ、ノロジカ、ダマジカなどの哺乳動物や、クジャク、キジ、キジバト、ヤマウズラ、カモなどの鳥類が集められていた。

 

また、カールはフランスのトランプでは、ハートのキングのモデルとされている。

 

中世ラテン語文学において、カールはアルクィンをはじめ多くの学者・詩人によって賛美された。それらの作品においては、カールのランンゴバルド征服、対ザクセン戦争、バイエルン公タッシロ制圧等の軍功、キリスト教信仰、芸術保護、アーヘン市の建設などが称揚された。

 

中世フランス文学においては、「対サラセン人の、時には対サクソン人(『サクソン人の歌』≫Les Saisnes≪)の戦争におけるシャルルマーニュの武勲を物語る」詩群が生まれた。これは「王の詩群」(≫Cycle du roi≪)と呼ばれ、『ローランの歌』(≫Chanson de Roland≪)、『シャルルマーニュの巡礼』(≫Pèlerinage de Charlemagne≪)、『アスプルモンの歌』(≫Chanson d’Aspremont≪)などから構成されていた。「『シャルルマーニュの巡礼』は喜劇的な調子を添えてはいるが、だからといって護教論的な意図を棄てているわけではない。すなわち、シャルルを中心に集まったフランク人たちが、向こうみずな≪法螺≫を実際に遂行しえたのも神の加護があったからである」。

 

中世ドイツ文学においても、カール大帝とその家臣をめぐる作品が生まれたが、それらはフランスの武勲詩の翻案といってよいものであったが、宗教性の色が濃く出るものとなった。コンラート師『ローラントの歌』(Das Rolandslied des Pfaffen Konrad)は、フランス武勲詩の傑作『ローランの歌』の翻案であるが、作品冒頭で作者は、

「如何にしてあの優れた男子が、神の国を勝ち得たか(を書くのだ)。あれとは、まさにカール帝のことである。皇帝は神の御前にいる。なんとなれば、皇帝は神と共に多くの異教の国々を征服し、キリスト教徒の名誉を高めたためである」

と、ローラン中心の物語をカール中心の物語に変えている。

 

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ヴィレハルム』(≫Willehalm≪)は、フランスの「ギヨーム・ドランジュの詩群」(Cycle de Guillaume d’Orange)に属する武勲詩『アリスカン』(≫Aliscans≪)を基にした作品である。この物語の主人公は、カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世・敬虔王の重臣ヴィレハルムである。南フランスに辺境伯として居城を構える彼は、侵入してきた異教徒勢にいったん敗れると、救援を求めてルートヴィヒ1世の許に赴く。ヴィレハルムとその一族は、ルートヴィヒ王に帝国軍の派遣を訴えるのに際し、

「カール皇帝の勇気を相続し、ご先祖から受け継がれた名誉を汚さないでいただきたい」(182詩節)と、盛んにカールの名前を持ち出す。帝国軍の指揮官として指名され、異教徒へのリベンジを果たす主人公は、カール大帝の精神を受け継ぐ勇者として描かれている。

 

カール大帝をめぐる伝説の数は多い。グリム兄弟 『ドイツ伝説集』458番「アーヘンに近い湖の指輪」と459番「皇帝と蛇」は、カールと都市アーヘンとの深い関係について語り、455番「フランクフルト市建設」は市名の由来をカール軍との関わりから説き、544番「白鳥の騎士」と545番「優れたゲルハルト・シュヴァーン」では、大帝が白鳥の騎士伝説に結びつけられている。

 

444番「カールのハンガリーからの帰還」は、 長期の外征中窮地に陥った妃を救うために3日でハンガリーからアーヘンに戻った様を語っている。22番「ニュルンベルクのカール皇帝」は、皇帝は同市の深井戸にいると語られ、28番「ウンタースベルクのカール皇帝」では、皇帝は王笏を手に、王冠を戴く姿のまま山中にいるとされている。

 

26番「カール皇帝の出発」では、カール大帝は全軍とともにオーデンベルク山中にいて、戦争が勃発する前になると、山が開き、皇帝はそこから出て角笛を吹き、他の山に移動すると伝えている。

 

481番「カールの墓所を訪れたオットー3世」では、生きているかのような姿のカールをオットーが見たとされている。460番「カール王」は非常に長い伝説で、カールがローマ皇帝となり諸国を平定した過程とその死を物語っているが、協力した教皇レオをカールの兄弟としているのがユニークである。

 

カールをめぐる伝説に現れる多数のモチーフの少なからぬ部分は他の皇帝・王の伝説にも見られるが、カールの場合、そのモチーフの多彩さは他の追随を許さないと言えようか。

2025/08/05

西行(5)

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西行法師

文治6年(1190年)春、桜が咲く216日、

 

「願はくは花の下にて春死なむ

そのきさらぎの望月のころ」

 

と自ら詠んだ歌のとおり、河内国南葛城(現在の河南町)弘川寺で入滅した。

 

西行物語

出家す

円位上人こと西行は、元永元年(1118年)、父-佐藤康清、母-源清経の娘との間に生まれた。俗名を佐藤義清という。

 

代々、勇士の武門であるため、鳥羽法皇の北面の武士として仕えていたが、誉ある身分を捨て、保延6年(1140年)1015日、23歳の若さで出家した。

 

出家の述懐

出家後、西行は吉野山の麓に庵を結んでいる。

 

吉野山は、西行にとって在俗時から慣れ親しんでいた和歌の歌枕の地であり、清浄きわまりない桜の名所であった。それに西行は吉野山の桜をことさらに愛して和歌に心情を託している。

 

そしてなによりも、吉野山が古来からの霊地であることが、修行したいという西行の本意に叶っていたからであろう。それゆえ、

”花に染む心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に”

(出家したばかりなのに、どうしてこんなにも桜の花に魅了されるのだろう。)

 

庵での歌

西行は、実に様々な地で庵を結んでいる。

嵯峨の小倉山の麓の庵、また、鞍馬山の奥にも庵を結んだとされる。

そこで詠んだ和歌に、

”わりなしや氷る筧の水ゆゑに思いすててし春の待たるる”

とあり、冬景色に心を奪われながらも、寒冷に身を置く自分に春が早くこないかとは何事だと、弱い己の心を嘆じている。

 

陸奥への旅

西行が修行のため陸奥へ旅立ったのは久安2年(1146年)、29歳の頃であった。

 

平泉についた西行は、前9年の役、さらには後3年の役の舞台となった衣川を見て、

とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも

の様に、奥州藤原氏の本来の面目をまのあたりにみて、武人のそれに還り感動している歌も残している。

 

さて、西行は一冬を陸奥で過ごしている。年の暮れに詠んだとして、

”常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる”

があるが、ここでは旅立ちのころの気負いが失せている。

ひっそりと過ぎていく年を味わっていたのであろう。

 

高野山、入山す

陸奥の旅から帰り着いた西行は、拠るべき仏法を見定めたのか、心に期しての行動を高野山に見い出した。久安5年(1149年)ごろのことである。

 

以後、たび重なる出入りを繰り返しつつ、西行の30年にわたる高野山居住時代が始まる。

 

高野山は、当時、落雷で大塔や金堂などが炎上し、復興のため高野聖が結集していた。

西行も聖として住み着いたと思われる。

 

天野の地

高野山から京へ上る道で、天野を経る道がある。

この地、天野(現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町)は、田畑がなめらかで人家がひっそり佇む端正な風土で、まるで桃源郷を彷彿させる。

 

当時、京へは天野から笠松峠を越え、6キロの山坂を下らねばならなかった。

 

天野は、西行が高野山からたびたび訪れ、田を耕した場所とも言われる。

西行田という地名も残っていて、この地はやさしく西行とのかかわりを受けとめた唯一の場所であったとも想像される。

(現在、西行ゆかりの地として小高い丘の上に、西行堂が建っていて、近くに西行の妻と娘のものと言われる二基の宝篋印塔がある。)

 

西行と清盛

さて、西行の高野山入山のきっかけに、平清盛の誘いがあったという説がある。

若き日、同じ北面の武士として仕えたことから、あながち根拠のない説でもなかろう。

 

当時、清盛は、安芸守(あきのかみ)になっており、安芸の一宮(現在の厳島神社)の造営に力を注いでいた。

 

この頃、こころざすことありてと言う詞書で、西行が西国(すなわち安芸の一宮)へ向かって旅をし、高富の浦で詠んだと思える歌が残っている。

 

”浪の音を心にかけて明かすかな苫洩る月の影を友にて”

 

天下の情勢を知る清盛と、清盛と違った意味で世相を大観する西行とは、本質的に相通じるものがあったのではないか。

 

保元の乱、平治の乱

西行が高野山に住み慣れたころ、武家政権の到来を暗示させる、保元の乱、平治の乱が起こり、西行は歴史の転換期に遭遇する。

 

保元元年(1156年)72日、鳥羽法皇が崩御、崇徳上皇の皇位継承のふんまんに加えて、摂関家の内紛、武家同士の反目が加担し、正に血で血を洗う戦乱となった。

 

崇徳上皇は、後白河天皇に敗れ讃岐へ流された。保元の乱の三年後、平治の乱が起こり、平清盛の大勝となった。平治元年(1159年)12月のことであった。

 

西行がことさらに心に掛けたのは、崇徳上皇の御身の上だった。崇徳院が讃岐の配所で崩じたのは、長寛2年(1164年)8月のこと。

 

このころ西行自身は、崇徳院への深い追悼の念を持ちつつ、大峯修行を決行し、

”深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし”

と詠んでいる。

 

四国への旅

西行が讃岐(四国の香川県)へ旅をしたのは、仁安3年(1168年)、51歳の時であった。

目的は、まず讃岐で崩御した崇徳上皇の御墓に詣でることであった。

 

西行は、白峰にある御墓を探り当て、

”よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせん”

としみじみ詠んでいる。

 

もう一つの目的は、弘法大師空海誕生の地を訪ねることだった。

生を肯定する西行にとって、弘法大師空海の教えは相通じるものがあった。

 

源平動乱

治承4年(1180年)は、源平動乱の始まりでただならぬ年であった。

 

4月に後白河法皇第二皇子以仁(もちひと)王の平家追討の命令が、諸国の源氏に伝えられた。

 

6月には都が福原へ遷都され、八月伊豆で源頼朝が、九月には木曾義仲が挙兵した。そのころ、西行は伊勢に庵を結んでいる。

 

最初に結んだのは安養山(現在の度会郡二見町溝口の豆石山)といわれている。そして、のちに宇治(現在の伊勢市宇治館町)に移っている。俗に言う宇治の西行谷である。

 

治承5年(1181年)には、平維盛らが木曾義仲追討のため北陸へ向かったが大敗。7月には平家の都落ちという、尋常ならぬ事態になっていた。

 

西行は、伊勢の海でこの動乱を”こは何事の争ひぞや”とばかり詠んでいる。

 

”死出の山こゆるたえまはあらじかし亡くなる人の数つづきつつ”

 

陸奥ふたたび

さて、西行は、二度目の陸奥を目指す。かつて若き日、陸奥に旅立った時より40年の歳月が経ていた。

 

旅の目的は、相知りたる平泉の藤原秀衡の館へ赴き、東大寺大仏殿復興資金を勧進せんがためだった。

 

西行はまず、鎌倉に向けて旅立ち、源平の戦いの勝者である源頼朝に逢っている。

 

平泉に無事到着し、目的を果たした西行であったが、平泉でも、戦乱の余波が渦巻いていた。

 

藤原三氏の滅亡を、西行はどこまで予測し得たのだろうか。

目的を果たした西行は、文治3年(1187年)のいつごろか都に戻っていて、嵯峨の庵に暮らす身となっていた。

 

西行は70歳となっていて、明るい境涯を写すが如く、たはぶれ歌を残している。

 

”うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏のひるぶし”

 

老西行は、あくまでもうらうらと明るい。

 

老境の西行

年齢、和歌にも磨きが掛かった老西行。

嵯峨の庵ずまいで、伊勢の内宮に奉献する「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)と外宮に奉献する「宮河歌合」にはさぞかし力を注いだと思われる。

 

”いは戸あけし天つみことのそのかみに桜を誰か植ゑはじめけん”

”神風にこころやすくぞまかせつるさくらの宮の花のさかりを”

ここに見られるのは、神(仏)と桜と己が融合した宇宙である。常に求めたうららかさとやすらかさがある。

 

西行が高雄山神護寺を訪ね、明恵に語った言葉として

「万物すべて虚妄の相である。その万物を詠むわたしは仏像を造る思い、秘密の真言を唱える思いである」

と、「明恵上人伝記」に記されている。

 

入滅す

西行は、うらうらとした気持ちで死にたいと願って生きてきた。

少しでも心に濁りがあると、それは叶わない。

 

いまや年を重ね、

”花よりは命をぞなお惜しむべき待ちつくべしと思ひやはせし”

 

命あればこそと、感慨に耽る西行。いつしか弘川寺の幽玄な風致の中で、自分と同じように老いていく一本の桜に魅せられていったに違いない。

 

現在、弘川寺の西行塚の年老いた山桜は傷ましくもあるが、春になれば小さな花々が凛と咲きほころび、訪れた人々の心を愛情の念へと導く。

2025/08/03

カール大帝(シャルルマーニュ)(3)

カロリング・ルネサンス

アーヘン大聖堂(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州)。「皇帝の大聖堂」(Kaiserdom)とも呼称される。786年にカールが宮殿教会として建設を始めた。現在の大聖堂は805年完成の八角形の宮廷礼拝堂に、1414年のゴシック様式の聖堂を併設したもの。1978年、世界遺産登録。

 

カロリング小文字体

内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。

 

カールは教育を重視し、特に僧侶教育に力を入れ修道院学校や聖堂学校を建設するとともに、古典古代の学芸に属する書物の収集および書写を大規模に行った。カロリング小文字体が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。

 

8世紀末から9世紀始めにかけて見られた古典の復興は、ローマの遺産の継承にとっても重大で決定的な段階をなしたものであるが、この背景には再興したローマ帝国があった。エルベ川エブロ川まで、そしてカレーからローマまで及んだこの帝国は、軍事的経済的才略に加えてローマ教会からの祝福をも獲得したひとりの皇帝の威厳ある人格のおかげで、一時的にだが政治的かつ宗教的な統一体へとまとめあげられた。

 

カール大帝(768-814)の政治的手腕は、彼の後継者たちにまで引き継がれなかったが、彼のおかげで促進された文化運動は9世紀においてもその勢いを保ち、10世紀まで続いた」(レイノルズ/ウィルソン)。

 

カールの戴冠

797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、東ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。

 

80011月、カールはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところで、カールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。

 

8001225日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「ローマ皇帝」としての帝冠を授けた。この時、周囲の者は皆

「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」

と叫んだという。

 

これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人のパトリキウス」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった。ドイツでは、この出来事を神聖ローマ帝国の誕生として扱い、カールは初代神聖ローマ皇帝カール1世と呼ばれる。

 

この戴冠については、当時カールに仕えていたアインハルトが、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして

「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」

というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことが、いくつもの研究によって示されている。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。

 

カールがローマ皇帝に戴冠されると、コンスタンティノポリスの皇帝はカールの戴冠を皇帝称号の僭称であると見なし、西方の帝位を主張するには東ローマ皇帝の承認が必要であると強硬に反発した。それは西欧世界においても伝統的な認識であったが、そもそも当時の東ローマ皇帝は女帝であるが故に、帝国の西部では正当な皇帝であるとみなされていなかった。

 

カールは、自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるために東ローマ帝国の宮廷へ使者を送った。東ローマ帝国の女帝エイレーネーからは、エイレーネーとカールによる東西ローマ帝国を統一するための結婚が提案され、この申し出にカールも乗り気であったが、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。

 

東ローマ帝国は、当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも、東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない。これは、後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。

 

西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っており、ローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあり、また世俗権力と教権の二つの中心が並立する独自の世界の成立でもあった。

 

最期・列聖

アーヘンの宮廷礼拝堂

カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール若王・次男のランゴバルド分国王ピピン・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌811年にはカール若王が父に先立って没したため、813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814128日、アーヘンにおいて71歳で崩御した。遺体は、その日のうちにアーヘン大聖堂に埋葬された。

 

カールの列聖については、以下のような事情がある。

「フリードリヒ(フリードリヒ1世・バルバロッサ)はアーヘンに赴き、11651229日、心酔する偉大なる皇帝カール大帝を、パスカリス(対立教皇)がとりしきる荘重な儀式により聖者の列に加えた。アレクサンダー(教皇)はこれに反対した。その理由の一つは、聖別が敵によって行われたこと、他の理由は、新たに聖者に列したカールが行ったキリスト教の布教が、キリスト教的でないということだった。しかし、カールは数世紀後においてなお尊敬に値する人物であるという点が、すべての抗議を押し退けた。教皇たちでさえ、そのおかげを被っている人物に反対の立場を取り続けることができなかったのである」。

 

後に、カール大帝への崇敬はアーヘン司教区とオスナブリュック司教区では ≫beatus≪として許された(≫gestattet, nicht anerkannt≪)。フリードリヒ2世は、中世金細工工芸の傑作(Meisterwerk der mittelalterlichen Goldschmiedekunst)として有名な聖遺物容器「カールのシュライン」(Karlsschrein)を造らせ、1215年アーヘン宮廷礼拝堂(Aachener Pfalzkapelle)におけるドイツ王戴冠式に際して、自らそのシュラインの中にカール大帝の遺骨を納めたと言われている。

2025/08/01

西行(4)

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概要

西行(1118-1190)は、代々朝廷に仕える武家藤原氏出身の武士であったが、わずか23歳にして出家し、源頼朝が征夷大将軍となる2年前、73歳までの生涯を送った人物である。歌人として知られ、新古今和歌集に至る当時の歌壇に大きな影響を与えた。『小倉百人一首』にも、次の歌が選ばれている。

 

なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな

 

現代語訳例:私は恋人が冷たいと嘆く。それは月がそのような物思いに耽らせているのであろうか。いや、そうではない。月のせいにして流れるのだ、愚かなる私の涙が。

 

生涯

丁度、平清盛と同年の生まれである。出家する前の名は佐藤義清という。藤原氏の生まれといっても、貴族摂関家ではなく傍流の出身。その祖先は平将門を討ち、近江三上山の百足退治の伝説でも知られて武勇に定評ある武士藤原秀郷である。祖先の名声を引き継いで代々皇居の警護等を司る武士であり、祖父の代から佐藤姓を名乗る。各国の国司も務めており、諸国に多くの私有地を得て裕福な豪族でもあった。

 

義清もまた、鳥羽上皇に仕えるエリートコース北面の武士の一員となった。武芸ばかりか有職故事にも詳しく学問があり、中でも和歌に優れており、将来を期待されていた。しかし理由は不明ながら23歳で出家し、すがりついて泣く4歳の娘を縁から蹴り落として家を出たという(生前から多かった西行に関する伝説や説話を集めた鎌倉時代中期成立の『西行物語』が出典)。現代ならただの暴力オヤジであるが、中世的な観点から出典では、そこまでして出家したという美談として扱われている。

 

出家してからも京都近郊に滞在して俗世の人々と交流があり、また諸国を旅し、多くの和歌を詠んだ。歌壇に対しても影響力があり、当時新進歌人に過ぎなかった藤原定家を自らの和歌集『宮河歌合』にて登用して判を請うている。

 

その死も伝説に彩られており、かつて詠んだ

 

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ

 

という歌の通り、桜の花が咲き乱れる陰暦216日(きさらきは二月、もちつきは十五日を示す)に弘川寺にて世を去った。この寺には、西行桜と呼ばれる桜が今も残っている。

 

出家の動機

西行の謎と言えば、まず出家の動機であろう。藤原頼長は

「家も富み、若くして、心に愁いなども無かろうに、とうとう出家してしまった。人はこれを驚き褒め称えた」

等と記している(『台記』)。これほど恵まれた武士が何故、出家したのであろう。

 

まず、『西行物語絵巻』は、親しい友人の死が原因であったとする。『源平盛衰記』は、高貴な女房への失恋が原因だったという。実際に西行は待賢門院につかえた女房達との交流があり、それに関わる歌も残されている。瀬戸内寂聴のように、待賢門院自身への失恋ではなかったかとする者もある。また窪田章一郎『西行の研究』は、政治的な陰謀や恋愛の苦しみから解き放たれて和歌を詠み、修行に励む新しい自分を求めていたのではないかとしている。

 

出家遁世に際して、縁ある人に送った歌

 

世の中を そむき果てぬと いひおかむ 思ひ知るべき 人はなくとも

 

(『山家集』)

 

世の中に背を向け果てて出家するのだと言うべきでしょう、私の真意を理解する人が仮にいなかったとしても、といった訳になろうか。「世の中」には「現世」という意味以外に「男女の仲」という意味もある。縁ある人というのが親しき友人だったのかそれとも失恋相手だったのか、西行の真意を理解した人はいたのかいなかったのか、史料は黙して語らない。

 

歌人として

先述の通り、藤原定家が世に出る切っ掛けの一助をなしたばかりか、その父である当時の大歌人藤原俊成との関わりも深く、自歌合『御裳濯河歌合』の判は俊成に請うている。まさに野にあって、歌壇の行く末に影響したと言えよう。後鳥羽上皇も、西行を評して「生得の歌人」「不可説の上手なり」と絶賛している。

 

西行の歌に関する考え方は資料が乏しいが、『西行上人談抄』によると

「和歌は麗しく詠むものである。古今集の歌風を手本として詠め。その中でも、雑部を常にみるのだ」

とある。

 

よられつる 野もせの草の かげろひて すずしくくもる 夕立の空

 

現代語訳例:暑さに負けて細く萎れていた(夕立を運ぶ強風に縒り乱されたと解釈する場合も)野原の草に陰がさす。見上げれば涼しく曇った夕立の空であった