古典注釈学・著述
『四書集注』
朱熹やその弟子たちは、経書に注釈を附す、または経書そのものを整理するという方法によって学問研究を進め、自分の意見を表明した。特に、『礼記』の中の一篇であった「大学」「中庸」を独自の経典として取り出したのは朱熹に始まる。更に、朱熹は『大学』のテキストを大幅に改定して「経」一章と「伝」十章に整理し、脱落を埋めるために自らの言葉で「伝」を補うこともあった。
宋学においては、孔子の継承者として孟子が非常に重視され、従来は諸子百家の書であった『孟子』が、経書の一つとしての位置づけを得ることになった。『大学』『中庸』『孟子』に『論語』を加えた四種の経書が「四書」と総称され、朱熹はその注釈書として『四書集注』を制作した。これにより、古典学の中心が五経から四書へと移行した。
具体的な政策論
朱熹の思想は、同時代の諸派の中では急進的な革新思想であり、その批判の対象は高級官僚や皇帝にも及んだ。朱熹の現実政治への提言は非常に多く、上奏文が数多く残されている。朱熹は、理想の帝王としての古の聖王の威光を借りる形で、現実の皇帝を叱咤激励した。また、朱熹は地方官として熱心に仕事に当たったことでも知られ、飢饉の救済や税の軽減、社倉法といった社会施設の創設なども行っている。
朱熹の説を信奉し、慶元党禁の後の朱子学の再興に力を尽くした真徳秀は、数々の役職を歴任し、数十万言の上奏を行うなど、積極的に政治に参加している。
その後の展開
元代
朱子学は元代に入るころには南方では学問の主流となり、許衡・劉因によって北方にも広まった。これに呉澄を加えた三人は、元の三大儒と呼ばれる。許衡の学は真徳秀から引き継がれた熊禾の全体大用思想を受け、知識思索の面よりも精神涵養を重視した。呉澄は朱子学を説きながらも陸学を称賛し、朱陸同異論の端緒を開いた。
延祐元年(1314年)、元朝が中断していた科挙を再開した際、学科として「四書」を立て、その注釈として朱熹の『四書集注』が用いられた。つまり、科挙が準拠する経書解釈として朱子学が国家に認定されたのであり、これによって朱子学は国家教学として、その姿を変えることになった。
明代
明代の初期、朱子学者である宋濂が朱元璋のもとで礼学制度の裁定に携わったほか、王子充が『元史』編纂の統括に当たった。国家教学となった朱子学は変わらず科挙に採用され、国家的な注釈として朱子学に基づいて『四書大全』『五経大全』『性理大全』が制作された。
明代の朱子学思想の発達の端緒に挙げられるのは、薛瑄・呉与弼である。ともに呉澄と似た傾向を有し、朱子学の博学致知の面はやや希薄になり、精神涵養の面が強調された。特に呉与弼の門下には陳献章が出て、陸象山の心学と共通する思想を強調し陽明学の先駆的役割を果たしたため、呉与弼は「明学の祖」とも呼ばれる。
薛瑄は純粋な朱子学の信奉者で、理気二元論を深く理解していた。同じく胡居仁も朱子学を信奉し、特に仏教・道教などの異端を批判する議論を積極的に展開した。陽明学の勃興と時を同じくした朱子学者が羅欽順であり、彼は陽明学を激しく批判し、その良知説や格物説、王陽明の「朱子晩年定論」などに異論を唱えた。
明末には、東林党が活動し、体得自認と気節清議に務め、国内外の多難に対して清議を唱えて節義を全うした。
清代
清代に入ると、朱子学・陽明学から転換し、考証学と呼ばれる経書に対するテキスト考証の研究が盛んになった。この原因については、明末に朱子学・陽明学が空虚な議論に終始したことに対する全面的な反発と見る説が一般的で、そこに文字の獄に代表される清朝の知識人弾圧が加わり、研究者の関心が訓詁考証の学に向かわざるを得なかったとされる。
一方、中国思想研究者の余英時は、考証学は朱子学・陽明学に対する反発と見る説と、朱子学・陽明学の影響が考証学にも及んでいると見る説があることを述べた上で、宋以後の儒学は当初から尊徳性・道問学の両方向を不可分に持っていたのであり、考証学は宋学の反対物ではなく、宋学が考証学に発展しうる内在的要因があったことと説明する。
京都工芸繊維大学名誉教授の衣川強は、理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで、儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が、朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している。
清代の朱子学者として、湯斌・李光地・呂留良・張履祥・張伯行・陸隴其・魏象枢のほか、桐城派の方苞・方東樹ら、清末湖南の唐鑑・賀長齢・羅沢南・曽国藩らがいる。