2025/09/27

ガーナ王国

ガーナ王国 (Ghana) 、もしくはガーナ帝国は、8世紀(1世紀頃とも)から11世紀(13世紀とも)にかけて、金と岩塩を隊商が運ぶサハラ交易の中継地として繁栄した黒人王国である。金や岩塩のほかにも、銅製品・馬・刀剣・衣服・装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。

 

ノク文化にはじまると考えられる西アフリカの鉄器時代前半のニジェール川流域周辺には、ニジェール=コンゴ語族に属するマンデ人による kafu とよばれる政治的単位ないし小首長国が形成されていた。1つの kafu は、合計すると10000–50000人の規模に達する村落の連合体であり、それぞれの kafu は、マンサ (mansa) と呼ばれる宗教的、世俗的権威を兼ね備えた王ないし首長によって支配されていた。ガーナ王国はそんな kafu のうち、マンデ人の北方のソニンケ語 (Sonink) を話す人々ソニンケ族の kafu の連合国家であった。

 

伝承と記録

トンブクトゥに伝わるマフムード・カアティの『探求者の歴史』の写本によると、ヒジュラ元年以前に20-36代続く白人(この場合アラブを含む)王朝があり、その後も21代続いたという伝承が収録されているが、同書は16世紀に作成されたものである。11世紀コルドバの歴史家、アブー・ウバイド・バクリーの著書『諸道と諸国の書(英語版)』のガーナ王国に関する記載は、比較的信頼できるとされている。これは、10世紀頃にサハラを越えて旅をした人々からの証言を集めたものである。

 

バクリーは、ガーナ王国について

「イスラム教徒にとって異教の国家であったが、彼の時代にイスラム教の影響を受け入れ始めた唯一の黒人国家である」

としている。

11世紀ごろのガーナ王国の首都は al-ghaba すなわち「森」と呼ばれた。王の住んでいる場所は柵で仕切られ、特徴的な円錐状の屋根をもつ小屋が連なっていたという。バクリーはガーナ王国について次のように書いている。

 

王は、女性がつける装飾品を首や腕につけていた。また良質の綿でできたターバンにくるまれた、金の刺繍のされた帽子を(王冠として)かぶっていた。王は臣民に謁見し、臣民の苦情を調整し、解決するときに使った小屋の周りには、金の馬飾りをつけた10頭の馬がいた。彼の背後には、金で飾られた盾や剣を運ぶための奴隷たちがいた。

 

王の権力は、彼の封臣でもある王の息子たちの頭から金を編みこんだ高価な外套を着せる力に基づいていた。王の周りには大臣たちが座り、王の前には都市の統治者が座った。王宮のドアには、首輪に金や銀の玉飾りをつけた血統のすぐれた犬たちがおかれて、守られていた。王の謁見式はドラムを叩くことで、人々に知らされた。彼に従う異教徒(=臣民)たちは、這って王のかかとに近づき、尊敬の印として自ら「ほこり」を頭上に撒き散らした。イスラム教徒は、あいさつの印として手を打ち鳴らした。

 

王が死ぬと、王の遺体が埋葬された場所に大きな木の小屋が建てられた。その小屋には、王の食べ物や飲み物を捧げるために、王が生前に飲食に使用した器が置かれた。食べ物や飲み物を捧げる人々は、墓の入り口を安全に保つため小屋にマットや布を被せて土をそのうえにかけたので、自然地形の丘そっくりに見えた。

 

ガーナ王国の王は、セネガル川上流のバンブク (Bambuk) を支配していた。直接、金鉱を掘るコミュニティを支配していたわけではないが、金鉱を掘るコミュニティとの接触を独占的に支配していた。また1050年頃、アウダゴストを占領して支配し中継貿易の利益をますます吸収していったが、その繁栄は、モロッコのムラービト朝の嫉視を浴びることとなった。

 

考古学的な調査成果

ガーナ王国に関する考古学調査は、1949年から1951年にかけてフランス人、P. テモセイ (Thomassey) R.マウニー (Mauny) によって行われた、ガーナ王国の首都と考えられるモーリタニア南東部のティンペドラ=ナラ街道沿いに位置するクンビー・サレーの調査が知られる。この調査成果は、1956年に発掘報告書として公刊されている。

 

バクリーは

「クンビー・サレーはイスラムの町と6マイル離れた「王宮の町」で構成されている」

と記述しているが、「王宮の町」については発見されていない。イスラムの町については、バクリーが記述するような集住的な石造りの建物が発見された。また北西部分には広大な墓地を伴い、アフリカでは初期の様式のモスクがあることが判明した。これらの建物は複数階の構造を持ち、地中海周辺で見られる様式のものであった。

 

出土した精製土器やガラス器は、北アフリカ・マグリブ地方から輸入されたものであった。クンビー・サレーの中央の通りと、モスクから採取された有機物のサンプルから放射性炭素年代測定が行われ、13世紀初頭という値が得られ、11世紀後半(1076年)にモロッコのムラービト朝に滅ぼされてからも、町自体は2世紀近く繁栄を続けていたことが判明した。

 

その後、セルジュ・ロベールによって、さらに下層の居住層の発掘調査が1975 - 76年に行われている。その調査成果は発表されていないが、予備調査の成果は1972年に発表されている。この調査によって得られたサンプルで、6世紀から18世紀にわたる放射性炭素年代が得られており、現にクンビー・サレーがガーナ王国時代に繁栄していたことが証明された。

2025/09/24

法然(1)

法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。

 

法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

 

大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。

 

『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

浄土宗では善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖として崇め、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と敬称し、元祖と位置付ける。親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

生涯

生い立ちと出家・授戒

長承2年(1133年)47日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

 

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

 

その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。

 

「年少であるのに出離の志をおこすとは、まさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。

 

法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。

 

これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。

 

その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に、師法然の法言として

「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」

と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。

 

浄土宗の開宗

承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 

法然は、この地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)が、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

 

養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は、翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。

 

建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて、浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては、弟子たちの力も借りたという。

 

建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。

 

元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)に、その法要の場面が描かれている。

 

法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。

2025/09/14

ローランの歌(3)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

ローランの歌:La Chanson De Roland

あらすじ

 フランク王シャルルマーニュ(カール大帝)の甥ローランは、スペイン遠征から引き揚げるフランス軍のしんがりをつとめた。しかしサラセンの大軍に襲われ、親友オリヴィエとともに玉砕する物語である。ロンスヴォーの戦い(Roncevaux、スペイン語:ロンセスバーリェス Roncesvalles)

 

 この話は、次の史実に基づいて創作された。778年、シャルルはスペインのサラゴサを攻撃するが陥落しない。そのうち本国でサクソン人が蜂起し、やむなく撤退を決意した。帰途についたフランス軍がピレネー山中に差しかかった時、バスク族の待ち伏せに会い、しんがり部隊は全滅した。

 

 この敗退は、シャルルの生涯の中で最も重大な事件であった。フランスで作られたこのローランの歌は、善なるキリスト教徒が悪なるイスラム教徒を徹底的に打ち負かすストーリに置き換わり、ヨーロッパ全土で莫大な人気を博した。

 

ガヌロンの裏切り

 われらが大帝シャルル王は、まる7年、イスパニアにあって異教徒の街を攻め、これを平定した。残るは山間の街サラゴサ(Zaragoza)のみ。サラゴサのマルシル王は、とりあえず降伏することとし、莫大な財宝と人質の提供を申し出てきた。

 

 大帝は重臣たちと、この申し出を検討する。ローランは信用できないと反対するが、ガヌロンや他の重臣は賛成し、サラゴサに使者を出すことになった。ローランは使者の役目を申し出るが許されず、「では、義父ガヌロンを!」と推挙した。ガヌロンは「危険な使者に選ばれた」と、ローランを深く恨んだ。

 

 ガヌロンは、サラセンの迎えの使者ブランカンドランと一緒にサラゴサに向かった。二人は、ローラン憎しで意気投合する。そして、サラゴサ王マルシルにフランス軍を破る秘策を教える。フランス軍の強さはローランと親友のオリヴィエがいるからで、彼らを後衛に配置して集中的に攻撃すれば破ることができる。

 

 ガヌロンはサラゴサの鍵と大量の財宝、20人の人質を連れて帰り、和平が成立した。

 

マルシル王の追撃

 フランス軍は進軍ラッパを鳴らして引き上げを開始、ガヌロンの陰謀でローランたち12人の勇士と2万の軍勢が後衛に配備された。

 

 サラゴサ城内には3日で40万の軍勢が集まり、マルシル王は追撃を開始した。まず、サラセン12人衆10万の軍勢が迫ってきた。オリヴィエは未曾有の大軍を見て

「ローランよ、角笛(オリファン)を吹き給え。大帝の軍は返り来るべし」

と進言する。

しかし、ローランは「それは武門の恥!」と断り、手元の兵力で迎え討った。

 

 大僧正チュルパンは

「死せば殉教の聖となって、いとも尊き天国に御座を得ん」

と将士を祝福する。

フランス勢は、一斉に立ち上がる。ローランは駿馬ヴェイヤンチーフにまたがり、名刀デュランダルを手に敵勢に突っ込む。

 

 ローランと12人の騎士は、サラセン軍を次々と討ちとる。戦闘すさまじく敵味方入り乱れて戦い、フランス軍は10万の敵を打ち破った。その時、マルシル王が新たな軍勢を率いて打ちかかってきた。多勢に無勢、フランス軍の12勇士も次々と倒れ、残りは僅か60騎となった。

 

フランス軍の奮戦

 あまりの損害に、ローランは角笛を鳴らそうとする。今度はオリヴィエが「今頃吹くのは、それこそ恥」と制止した。大僧正は「吹いても手遅れ、さりとて吹かぬよりはまし」と諭した。

 

 ローランは角笛を吹く。その音色は30里離れた大帝の耳に届いた。馬首をめぐらさんとする大帝をガヌロンは制止する。大帝は怒りガヌロンを裏切り者として逮捕、ローラン救援に向かった。

 

 ローランは戦場にとって返し、奮然と打ち戦う。見ればかなたにマルシルあり、威風堂々、フランスの諸将を次々と討ち取っていく。ローランはマルシルに斬りつけたれば、その右の拳を切って落とす。続いてマルシルの息子ジュルファルーの首をも打ち落とす。マルシル軍は怖れをなして退却する。

 

 マルシル退却のあとに、その伯父マルガニスがエチオピア軍5万を率いて現れる。

「いよいよ殉教の時至る。敵に一泡吹かそうぞ!」

と叫んだローランは、敵陣に跳り入る。

マルガニスは、オリヴィエの背後から撃ちかかり胸を突き刺す。オリビエは、深傷を負いながらマルガニスの脳天を切り裂き、「今生後世の別れなるぞ!」と叫んで果てた。

 

ローランの最後   

 フランス勢はことごとく討ち死し、生き残れるは大僧正チュルパンとローラン、ゴーチエの3人のみ。3人は大軍の中に飛び込み、めったやたらと斬りまくる。サラセン勢は怖れをなし近寄る者なし。敵勢は遠くから投げ槍、銛(もり)、鏑矢(かぶらや)を射かける。集中攻撃でゴーチエが倒れ、チュルパンも、4本の槍を浴びる。

 

 ローランは、最後の力を振り絞って角笛を吹く。それに6万騎がラッパで応えた。サラセン軍は怖れをなし退却した。ローランは死を悟り、名剣デュランダルを敵に渡さないよう、岩にはっしと斬りつける。しかし、さすが名剣、刃こぼれ一しつしない。刃を折ることかなわず、ローランは息絶えた。

 

 大帝はロンスヴォーの戦場に到着、敵と味方の死骸累々と横たわり、足踏み入れる余地だになし。大声でローランやオリビエの名を叫べど返事なし。大帝は逃げまどうサラセン軍を見つけ追撃した。

 

大軍の激突         

 サラゴサに逃げ帰ったマルシルのもとに、エジプトのバリガン王の援軍が到着した。瀕死のマルシルは、イスパニア全土を差し出すから仇を討ってくれと懇願する。

 

 一夜明けて、大帝は戦場の累々たる死骸の中にローランと12人衆の遺体を発見する。その嘆きは深く、10万のフランス将士もみな地に臥して慟哭す。その時、バリガンの軍勢が現れる。大帝は愛刀ジョワユーズとビテルヌの盾を持ち、名馬タンサンドールにまたがった。フランスの10万騎も一斉に突撃する。

 

 敵味方の軍勢は雲霞のごとく、その隊伍は整いて美し。間をへだつるに、山なく、谷なく、陵もなく、森もなければ、林もなく、兵を伏するよすがなし。両軍、平原のまっただ中にて遭遇す。

 

 両軍入り乱れての激しい戦いが始まった。そして大帝とバリガン王との一騎打ちが始まり、激戦の末に打ち負かす。

 

ガヌロン処刑       

 ついに、アラビア勢は敗走、フランス軍は追撃してサラゴサを占領した。そして、異教の住民を改宗させたが王妃のみが改宗せず、捕虜としてフランスへ連れ帰った。

 

 フランスに帰った大帝は、ガヌロンを裁判にかける。ガヌロンは重臣で一族も多く、助命する意見が大勢を占めた。一人、チエリーが異議を唱え、ガヌロンを処刑すべきと主張した。チエリーはガヌロンの一族と決闘してこれを破り、裁きは確定。ガヌロンは八つ裂きに、その親族も全員処刑された。

 

 サラゴサの王妃はキリスト教に改宗し、ジュリアーヌと改名した。

2025/09/13

朱子学(5)

明治時代

朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。

「学制」が制定された当時、教科の中心であった儒教は廃され、西洋の知識・技術の習得が中心となった。その後、明治政府は自由民権運動の高まりを危惧し、それまでの西洋の知識・技術習得を重視する流れから、仁義忠孝を核とした方針に転換した。

 

1879年の「教学聖旨」、1882年「幼学綱要」に続き、1890年(明治23年)、山縣有朋内閣のもと、『教育勅語』が下賜された。明治天皇の側近の儒学者である元田永孚の助力があったことから、『教育勅語』には儒教朱子学の五倫の影響が見られる。

 

また、1882年(明治15年)に明治天皇から勅諭された『軍人勅諭』にも、儒教の影響が見られる。『軍人勅諭』には忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5か条の解説があり、これらは儒教朱子学における五常・五論の影響が見られる。この「軍人勅諭」は、後の1941年(昭和16)に発布された『戦陣訓』にも強く影響を与え、第二次世界大戦時の全軍隊の行動に大きく影響を与えた。

 

後世の評価

日本思想史研究者の丸山眞男は、徳川政権に適合した朱子学的思惟が解体していく過程に、日本の近代的思惟への道を見出した。但し、この見解には批判も寄せられており、少なくとも江戸時代の朱子学人口は徐々に増加する傾向にあり、儒学教育の基礎作りとしての朱子学の役割は変わらず大きかった。江戸時代には『四書』また『四書集注』、『近思録』といった朱子学関連の書籍は数多く出版されてよく読まれ、朱子学は江戸時代の基礎教養という役割を担っていた。

 

基本文献

『四書集注』

朱熹が『大学』『中庸』『孟子』『論語』の「四書」に対して制作した注釈書。『大学』『中庸』には「或問」が附されており、特に『大学或問』は朱子学のエッセンスを伝えるものとされる。

 

『近思録』

北宋四子の発言をテーマ別に抜粋したもの。朱熹・呂祖謙の共編。朱熹は、本書は四書を読む際の入門書であると言い、日本でも『十八史略』や『唐詩選』と並んでインテリの必読書として普及した。のちに宋の葉采・清の茅星来や江永らによって注釈が作られた。

 

『伊洛淵源録』

朱熹編。伊洛(二程子のこと)の学問の由来を明らかにするために、周敦頤・程顥・程頤・邵雍・張載やその弟子たちの事跡・墓誌銘・遺書・逸話などを集めた本。

 

『周子全書』

明の徐必達が周敦頤の著作を集めたもの。周敦頤の著作はほとんど残されていないが、『太極図』『太極図説』『通書』に対して朱熹が「解」をつけたものが残されており、これらが収録されている。

 

『河南程氏遺書』

朱熹が程顥・程頤の発言を整理したもの、加えて『程氏外書』もある。ほか、『明道先生文集』『伊川先生文集』『周易程氏伝』『経説』、そして楊時編『程氏粋言』もあり、これらをまとめて『二程全書』という。二程の発言は、どれがどちらのものか混乱が生じている場合があり、注意が必要である。

 

『周易本義』

朱熹による『易経』に対する注釈。易数に関する研究書の『易学啓蒙』もある(蔡元定との共著)。

 

『書集伝』

『書経』の注釈だが、朱熹の生前に完成せず、弟子の蔡沈によって完成した。

 

『詩集伝』

朱熹による『詩経』に対する注釈。

 

『儀礼経伝通解』

「礼」に関する体系的な編纂書で、朱熹の没後にも継続して編纂された。より具体的な冠婚葬祭の手順を明示する『家礼(文公家礼)』もある。

 

『五朝名臣言行録』

朱熹が、北宋の朝廷を担った名臣たちの言動を検証する歴史書。ほか、『三朝名臣言行録』『八朝名臣言行録』もある。

 

『資治通鑑綱目』

司馬光『資治通鑑』を朱熹が再検証した歴史書。

 

『西銘解』

張載の『西銘』に対して朱熹が注釈をつけたもの。

 

『朱子語類』

朱熹と、その門人が交わした座談の筆記集。門人別のノートが黎靖徳によって集大成され、テーマ別に再編成された。当時の俗語が多く見られ、言語資料としても価値が高い。

2025/09/08

ローランの歌(2)

主な登場人物

フランク王国側

    シャルルマーニュ - フランク王国の王、カール大帝。

    ローラン - 物語の主人公。シャルルマーニュの甥。フランク王国の辺境伯。十二勇将のひとり。愛剣はデュランダル。勇猛だが、騎士としての矜持が災いし、十二勇将を破滅へと導く。

    オリヴィエ - 十二勇将のひとり。ローランの親友。

    テュルパン - ランスの大司教

    ガヌロン - ローランの継父。フランク王国を裏切り、ローランを死に追いやる。結局、裏切りがばれて、彼自身も一族もろとも処刑された。

 

サラセン帝国側

    マルシル王 - イベリア半島を支配するイスラム王国の王。

    ブランカンドラン - ヴァルフォンドの城主。知謀優れた男で、マルシル王の信頼を受けている。

    バリガン - エジプト王、マルシルの味方

 

史実との比較

基本的に778年のロンスヴォーの戦いをめぐる歴史的事実を元にしているが、物語と歴史の事実が異なる部分もある。例えば、歴史上では戦う相手がバスク人とガスコーニュ人であったのに対し、詩の中ではイスラム教徒に変えられている。その他にも、多くの点で恣意的に歴史とは違えられたところがあるとされる。ただし、イスラム勢力である後ウマイヤ朝との争いは史実で、『ローランの歌』でもアブド・アッラフマーン1世の戦闘の勝利を賞賛している部分がある。

 

これは、11世紀という十字軍の時代に、イスラム教徒に対抗するキリスト教徒を勇気づける役割をこの歌が担っていたからであり、歴史的事実とは異なるとはいえ中世の騎士道精神を示す典型的な例になっていると考えられている。

 

11世紀後半までには、現代のローランの歌は出来上がっていた。しかし、伝説によってふくらまされた部分が大きくなって、歴史的な考察は殆ど姿を消していた。例えば、この戦いの時点でシャルルマーニュは36歳であるが、歌の中では白髭を垂らし終わりなき戦いに長けた人物とされている。

 

シャルルマーニュの伝記作者であるアインハルトは、シャルルマーニュの同時代の人物で伝記作者のみならず、顧問役としてシャルルマーニュの王子のルイ1世につかえた人物である。アインハルトは、スペイン遠征からフランスへの帰国の途に就いたシャルルマーニュ軍の後衛が、軽装備で有利な地点から襲ったバスク人のために殲滅の悲劇にあったことを伝え、戦死した将の一人としてブリタニア辺境伯(Brittannici limitis praefectus)フルオドランド(Hruodland)の名を挙げている。

 

史実では、そもそもシャルルマーニュがイベリア半島に赴いたのも、後ウマイヤ朝に抵抗するムスリム勢力への加勢であり、サラゴサを包囲はしても攻略することなく退却している。アインハルトの著作には、ロンスヴォー峠という名前ではなく、ただピレネー山脈の峠とのみ書かれている。さらに歴史的には十二人の勇将の名も、当然ガヌロンの名前も確認されていない。

 

フランク王国年代記(Annales regni Francorum)にも、シャルルマーニュの後衛部隊の虐殺やロンスヴォーという記述はなく、歌には登場するマルシル、バリガンという名前も出て来ない。改訂版には、バスクのゲリラ軍がシャルルマーニュの後衛軍ではなく、全軍と戦ったという記述がみられる。

 

また、十二勇士は常に同じ12名ではなく、いくつかの伝説によればシャルルマーニュの親友にして、最も信頼できる戦士であった。彼らのことをパラダンもしくはパラディン(Paladin)と呼ぶが、この名称はパラティーヌ(宮中伯)と同義で、イタリア語のパラティーノからの借用例であると思われる。

2025/09/07

朱子学(4)

朝鮮半島への影響

朱子学は13世紀には元に留学した安裕によって朝鮮半島に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした。そのため朱子学は、今日まで朝鮮の文化に大きな影響を与えている。特に李氏朝鮮時代、国家教学として採用され、朱子学が朝鮮人の間に根付いた。日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした両班は、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層に発展した。

 

高麗の末期の白頤正、李斉賢、李、鄭夢周、鄭道伝らが安裕の跡を継承し、その後は權陽村らが崇儒抑仏に貢献した。李氏朝鮮時代に入ると、朝鮮朱子学はより一層発展した。その初期には、死六臣・生六臣や趙光祖など、特に実践の方向(政治・文章・通経明史)で展開し、徐々に形而上学的な根拠確立の問題追求に向かうようになった。

 

16世紀には李滉(李退渓)・李珥(李栗谷)の二大儒者が現れ、より朱子学の議論が深められた。李退渓は「主理派」と呼ばれ、徹底した理気二元論から理尊気卑を唱え、その思想は後に嶺南地方で受け継がれた。一方、李栗谷は「主気派」とされ、気発理乗の立場から理気一途説を唱え、その思想は京畿地方で受け継がれた。のち、権尚夏の門下の韓元震と李柬が「人物性同異」の問題(人と動物などの性は同じか否か)をめぐって論争になり、主気派の「湖学」と主理派の「洛学」の間で湖洛論争が交わされた。

 

朝鮮の朱子学受容の特徴として、李朝500年間にわたって仏教はもちろん、儒教の一派である陽明学ですら異端として厳しく弾圧し、朱子学一尊を貫いたこと、また朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を徹底的に制度化し、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変するなど、朱子学の研究が中国はじめその他の国に例を見ないほどに精密を極めたことが挙げられる。こうした朱子学の純化が他の思想への耐性のなさを招き、それが朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある。

 

琉球への影響

17世紀後半から18世紀にかけて活躍した詩人・儒学者の程順則は、琉球王朝時代の沖縄で最初に創設された学校である明倫堂創設建議を行うなど、琉球の学問に大きく貢献した。清との通訳としても活動し、『六諭衍義』を持ち帰って琉球に頒布した。この書は琉球を経て、日本にも影響を与えている。

 

沖縄学者伊波普猷は、朱子学の弊害について

「仮りに沖縄人に扇子の代りに日本刀を与え、朱子学の代りに陽明学を教えたとしたら、どうであったろう。幾多の大塩中斎が輩出して、琉球政府の役人はしばしば腰を抜かしたに相違ない。」

と述べている。

 

日本への影響

朱子学の日本伝来

土田 (2014)の整理に従い、朱子学の日本伝来のうち初期の例を以下に示す。

 

年代的に早いものとしては、臨済宗の栄西、律宗の俊芿、臨済宗の円爾などが南宋に留学し多くの書物を持ち帰ったことから、朱子学の紹介者とされる。

南北朝時代には、虎関師錬が禅宗の僧侶の中ではいち早く道学を論難した。その門下の中巌円月も、道学に対する仏教の優位を述べる。また、義堂周信は『四書』の価値や新注・古注の相違に言及している。

 

室町時代の一条兼良の『尺素往来』には、朝廷の講義で道学の解釈が採られ始めたことが記録されている。

博士家では、清原宣賢が道学を重視した。

 

ほか、北畠親房の『神皇正統記』や、楠木正成の出処進退には朱子学の影響があるとの説もあるが、土田 (2014, p. 44-48)は慎重な姿勢を示し、日本の思想史の中に活きた形で朱子学を取り込んだ最初期の人物としては、清原宣賢・岐陽方秀とその門人を挙げる。また、室町時代には朱子学は地方にも広まっており、桂庵玄樹は明への留学後、応仁の乱を避けて薩摩まで行き、蔡沈の『書集伝』を用いて講義をし、ここから薩南学派が始まった。また、土佐では南村梅軒が出て海南学派が始まった。

 

江戸時代

江戸時代の朱子学の嚆矢として、藤原惺窩が挙げられる。室町時代まで、日本の朱子学は仏教の補助学という立ち位置にある場合が多かったが、彼は朱子学を仏教から独立させようとした。実際には、彼の思想は純粋な朱子学ではなく、陸九淵の思想や林兆恩の解釈を交えており、諸学派融合的な方向性を有している。

 

惺窩以来、京都に伝わった朱子学を「京学派」と呼び、その一人に木下順庵がいる。その門下からは新井白石、室鳩巣、祇園南海、雨森芳洲らが出た。詩文の応酬が多く見られるのが京学派の特徴で、思想家として自己主張を行うというよりも、自身の教養の中核に朱子学があり、文芸活動が盛んであった。

 

また、山崎闇斎から朱子学の純粋な理解を目指す学風が始まった。彼は仏教に対する儒教の特質を「三綱」と「五常」に見て、社会的倫理規範を重視した。闇斎の学派は「崎門」と呼ばれ、浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎らが出たが、闇斎が後に神道に傾斜したことによって主要な門弟と齟齬が生じ、多くは破門された。ただ、厳格さを特徴とするこの学派は驚異的な持続性を見せ、明治まで継続した。

 

幕府に仕えた朱子学者である林羅山は、将軍への進講、和文注釈書の作成、学者の育成など、朱子学を軸にした啓蒙活動を積極的に行った。林羅山の子の林鵞峰も同じく啓蒙的活動に力を入れ、儒家の家元としての林家の確立に尽力した。

 

当初は朱子学を信奉したが、後に転向し反朱子学の主張を取るようになった学者として伊藤仁斎がいる。仁斎は朱子学・陽明学・仏教を受容したうえで、それらを否定し日常道徳が独立して成立する根拠を究明した。そして、仁斎学と朱子学をまとめて批判することで、自分の立場を鮮明にしたのが荻生徂徠である。徂徠は、朱熹『論語集注』と仁斎『論語古義』を批判しながら、自己の主張を展開し、『論語徴』を著した。

 

山崎闇斎らの朱子学の純粋化を求める思想と、伊藤仁斎らの反朱子学的思想の形成はほぼ同時期である。土田 (2014, pp. 96–97)は、朱子学があったからこそ思想表現が可能になった反朱子学が登場したのであり、朱子学と反朱子学の議論の土台が形成されたことが、江戸時代の思想形成に大きな影響を与えたと述べている。たとえば、反朱子学を主張した伊藤仁斎は、自分の主張を理論化する際には朱子学の問題意識と思想用語を利用し、朱子学との対比から自分の思想を確立した。

 

松平定信は、1790年(寛政2年)に寛政異学の禁を発したが、この時期は多くの藩で藩校を立ち上げる時期に当たり、各地で幕府に倣って朱子学を採用する傾向を促進した。この頃の学者としては、尾藤二洲・古賀精里・柴野栗山ら「寛政の三博士」のほか、林述斎・頼春水・菅茶山・西山拙斎らがいる。二洲や拙斎を含め、この時期には徂徠学から朱子学に逆に転向してくる学者が多かった。

2025/09/01

ローランの歌(1)

『ローランの歌』(または『ロランの歌』、仏: La Chanson de Roland)は、11世紀成立の古フランス語叙事詩(武勲詩)である。

 

概要

『ローランの歌』は、シャルルマーニュの甥であるローランを称える、約4000行の韻文十音綴から成る叙事詩である。ノルマンディ地方で用いられたアングロ=ノルマン方言の、古フランス語を用いて書かれている。レコンキスタの初期の戦いともいえる、シャルルマーニュ率いるフランク王国とイベリア半島のイスラム帝国の戦い(ロンスヴォーの戦い)を描いた物語である。

 

成立年は諸説があるが、11世紀末ごろとされている。現存する最も古いものは、1170年ごろに書かれたオクスフォード写本である。写本は、オクスフォード本以外にも14世紀ごろのフランコ・プロヴァンサル語のヴェニス本、12世紀前半のドイツ語のコンラッド本など、複数のものが存在している。一定でない長さのスタンザ(節)で書かれ、類韻と呼ばれる、母音だけの押韻でつながれている。この技巧的な表現を、他言語で効果的に再現するのは不可能で、現代の英語訳の翻訳者も、ほぼ一番近いと思える同義語を当てはめている。

 

もともとは、ローランを支持するブリトン人が歌っていたといわれているが、その後メーヌに、アンジューに、ノルマンディーに広まり、国家規模で歌われるようになって行った。『シャンソン・ド・ジェスト』のように、フランスの偉大なる英雄をたたえる詩としては最初のもので、愛国歌の先駆的存在ともいえる。

 

作者について

『ローランの歌』は初め、ロンスヴォーの戦いの直後に、ゲルマン民族の中から自然発生的に作られていったと思われていた。19世紀後半には、ガストン・パリスが、そうやってできていった歌謡が数世紀を経て受け継がれ、11世紀頃に現在の形になったのではないかという説を発表している。

 

それに対し、ジョゼフ・ベディエは、アーサー王伝説などと同様に英雄の墓や、ローランの角笛だと伝えられている笛、ローランが愛剣デュランダルを叩き付けたといわれる岩などの、地域伝承を元に、11世紀になってテュロルドというフランスの詩人が一人で作り上げた物だという説を発表した。この発表は学会に大きな反響をもたらしたが、後にパリスたちのいう歌謡に関する資料が発見されたり、歴史家たちから批判が出たりしている。

 

テュロルド説に関して言えば、一番古い手書本は12世紀前半のものといわれる。これはオックスフォード大学に所蔵されており、「テュロルデュス(テュロルド)撰ぜし武勲の書、ここに終わる」とあって、末尾に撰者の署名もある。これに従えば、かつてのラテン語の記録を聖職者たちがまとめ、伝承にならって作ったものと考えられる。

 

あらすじ

ローランの死

シャルルマーニュには、十二勇士(パラディン)と呼ばれる武勇に秀でた臣下がいた。その1人ローランは、彼が特に目をかけている甥だった。この時代、サラセン帝国の支配下にあったイベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻すべく、シャルルマーニュと十二勇士はイベリア半島に遠征しイスパニアで戦っていた。敗色が濃くなると、サラゴサのサラセン人王マルシル(マルシリウス、マールシーリョ)は、シャルルマーニュと停戦交渉するための使者を派遣し、シャルルマーニュがフランク王国へ帰りアーヘンに戻るならば、マルシル王も共に行き、キリスト教徒に改宗するだろう、そしてまた多くの贈り物を贈ると共に人質を差し出すだろう、と告げた。

 

サラセン人の降伏を受ける否かで会議はもめた。ローランは、以前にフランク王国から送った二人の使者が殺されていることをあげ、彼らのことは信用できないと意見するが、ガヌロンは好条件だから和睦を受けるべきだと主張した。迷いながらもシャルルマーニュは、降伏を受け入れることに決めるが、そこで新たに返信の使者を誰にするかが問題になった。

 

ネーム、ローラン、オリヴィエ、テュルパンらの4人は自ら行くと進み出る。ところがシャルルマーニュは、彼らに別の誰かを推薦しろと命じる。そこでローランは、智謀に長けた自分の継父であるガヌロンを推す。それを知ったガヌロンは、殺されるかもしれない使者に推されたことで動揺して、ローランの心を疑う。自分が死んだ場合、彼が亡きあとの領地を乗っ取るのではないかと疑心暗鬼に駆られ、ついには激怒しローランへの復讐を誓う。

 

使者としてガヌロンを迎えたのは、サラセンの勇将ブランカンドランだった。彼らはマルシル王のところへ向かう途中で意気投合し、やがてローランを殺す計略を立てた。それは一旦敗北を受け入れた事にして、シャルルマーニュが帰国するところを狙い、その背後からだまし討ちにしようという作戦だった。ガヌロンはマルシル王に、ローランを殺すことが王の今後を安泰にするだろうと話して計略を整えた。そうしてマルシル王から多くの貢ぎ物と人質を受け取ると、ガヌロンは何食わぬ顔でシャルルマーニュの元へと帰った。

 

シャルルマーニュは、ガヌロンからのマルシル王の返事を受けて、フランク王国へ帰ること決めた。そこで、殿軍を誰に任せるかと臣下を集めて相談すると、ガヌロンはかねての計画通りローランを推薦した。何も知らないローランは勇んでその任を受けてしまうが、十二勇将はこぞってローランと運命を共にすることを選んだので、二万人がローランと共に殿軍として残ることになった。残されたローランたちは、その後、サラセン人の大軍が近づいていることに気付いた。そのあまりの人数にオリヴィエは、ローランに角笛を吹いて援軍を呼ぶように求めるが、ローランは虚栄心からそれを断ってしまう。

 

ローランたちの軍は、攻め込むサラセン軍を次々と討ちと取るものの、次から次に襲いかかる新たなマルシル王の軍勢に対して多勢に無勢となって苦しみ、ついに残り60騎となってしまった。十二勇将も次々と倒れてローランも窮地に陥り、しかたなく角笛を吹かざるをえなくなった。計略が露見しそうになり、ガヌロンは場を取り繕おうと試みるが、シャルルマーニュはその行動から彼の裏切りに気づき、ガヌロンを拘束するように命じると、すぐに自ら戦場へと向かった。

 

ローランは再び戦闘に戻る。彼は、マルシル王がフランク王国の勇士たちを討ち取る様を見て奮起し、王に斬りつけて彼の右の拳を切り落とし、さらにマルシル王の王子ジュルファルーの首も打ち取った。ローランの奮戦ぶりに怖れをなしたサラセン軍は退却する。その後、エチオピア軍の軍勢5万人がやって来る。この戦いでローランは親友オリヴィエを失う。彼は敵に致命傷を与えたが負傷してしまい、最期に彼の妹、ローランの婚約者でもあるオードのことを心配して、ローランによろしく頼むと言って果ててしまう。

 

近づく自らの死を悟ったローランは、最期にローランの裂け目の場所で聖剣デュランダルを岩にたたきつけて粉砕しようとしたが、剣は折れずに岩が真っ二つに裂けてしまった。やっとシャルルマーニュの軍勢がサラセン人たちをなぎ倒して、ついに「モンジョワ!」の勝ちどきが上がった。その時すでに遅く、ローランは大奮闘の末にその生涯を閉じていた。

 

その後、裏切り者ガヌロンは裁判にかけられ、助命嘆願もあったものの結局は八つ裂きの刑となり、彼の親族もまた処刑された。