<「かながわ」の名は昔、神奈河、神名川、上無川などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(現在の横浜市神奈川区)の地域を言い、古くから陸上・海上交通の重要なところでした。これが県名になったのは、横浜開港に伴い安政6年(1859)に「神奈川奉行所」を置いた事によります。そして明治元年(1868) 9月に、神奈川県となりました>
「都道府県名の語源」から
かつて、東海道神奈川本宿があるところに小川が流れていた。
水源が不明だったことから、「上無川(かみなしかわ)」と呼ばれていた。
水源が不明なのは、水量がものすごく少なかったからだ。
その後、日本武尊が東方に行く際、
彼の持っていた草薙剣が金色に光ったので「金川(かながわ)」と改めました。
そして、鎌倉時代、源頼朝が金川を見て言った。
「神大いに示すの地、よって神大いに示すと書き、字を神奈川となすべし」
それで源頼朝が神奈川にしたと言う説である。
「地名由来辞典」から
神奈川県は、県域の主要地区として古くから栄えた宿場町「神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)」に由来し、1859年(安政6年)、武蔵国久良岐郡に「神奈川奉行所」を置いたことによる。
「神奈川」は、「武藏國神奈河郷」の名で見られるのが最も古いが、
その由来は以下の通り諸説ある。
(その1)この地に水源地が解からない川があり、「上無川(かみなしがわ)」と呼ばれていたため「神奈川」になったとする説。
(その2)「金川」もしくは「狩野川」と呼ばれていた川の名から、「神奈川」になったとする説。
(その3)朝鮮系住民が多かったことから「韓川(からかわ)」と呼ばれる川があり、転じて「神奈川」になったとする説。
(その4)その他、地形から見た説では、神奈川「かな」は「かま」が転じたもので「岸の崩れやすい川」「急流の川」を表しているといった説もある。
箱根越えの東海道は、江戸時代に開発されたものだから、
鎌倉時代の頃の東海道は、箱根越えではなく御殿場廻りであった。 JRの場合と同じである。
都から神奈川(韓川)に向かう旅人は、
御殿場から足柄峠を抜けて神奈川(韓川)に入った。
神奈川(韓川)に入るには、足柄峠から下り道を歩いて秦野に向かう。当時は、神奈川(韓川)以東のことを「足柄峠の東=坂東」と呼んだ。
<昭和2年に誕生した神奈川区。区名は中世からこの地で栄え、既に県名ともなっていた神奈川の地名をとりました。神奈川は、鎌倉幕府の執権北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名ですが、その由来には様々な言い伝えがあります。
「江戸名所図会」の、上無川の項に
「神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略して、カナガワというようになった」
という説が記してあります。また、日本武尊が東方へ赴く際、上無川から舟に乗った時にその宝剣が水面に写り金色に輝いたので、金川と名づけたとする説や源頼朝が金川の風光を愛で
「神大いに示すの地、よって神大いに示すと書き、字を神奈川となすべし」
と言ったので、その時から金川を神奈川としたという説もあります。(広報よこはま神奈川区版)
その昔、区内を流れていた小さな流れを「上無川(かみなしがわ)」といっていました。
それは、いつも水が涸れてほんの少ししか流れていない。水源地もどこかわからないので、「上(かみ)がない川」と呼ばれていました。それがいつしか「み」「し」の二字を略して「かな川」をいうようになったという話です。
また、日本武尊が東方へ赴く際、今の神奈川の海辺柚ヶ浦に船出の用意をしました。そこが「上無川(かみなしがわ)」なのでした。その時、倭姫にいただいた宝剣が金色燦然としてこの川水に映ったので、この地を「金川(かながわ)」と名付けました。
その後、時が移り源頼朝が、この金川(かながわ)の風光を賞し
「<金>は西の方角をつかさどるというが、西方は上(かみ)にあたるし、皇城(こうじょう=都、天子のすむところ)にもあたる。これは神を大いに示す地である。」
として<大いに示す>を「奈」の字にして、金川→神大示川→神奈川とすべきだといったので、その時から金川を神奈川としたという話です。
ほかにも、古文書の中に「神奈河」「狩野川」「かの川」「かな川」と記されているものがあります。
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