石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
社伝では、また一方で素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った時の十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では、明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。
垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動した時、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し、容易には開かないと記されている。
中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には再び神宮号を名乗ることが許された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
出典 Wikipedia
ポリネシア語で読み解く『石上神宮』
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
<天理市北部、春日断層崖から奈良盆地に至る地区を石上といい、式内社石上市神社が鎮座します。石上神宮(式内社石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社。または布都(ふつ)御魂神社)は、天理市布留町の布留川扇状地の上に鎮座します。
『姓氏録』に「布都努斯神社は、山辺郡石上郷布瑠村高庭にあり」とありますが、古代には付近一帯を石上と呼んだものでしょう。石上坐布留御魂神社は布都御魂大神、またの名を甕布都(みかふつ)神、佐士布都(さじふつ)神ともいい神武東遷の際、天照大神の命で武甕槌神が下した、神剣フツノミタマ(『日本書紀』神武即位前紀戊午年6月条)の霊とされます。
神武天皇即位の後、軍事を司る物部氏の祖ウマシマジ命に命じて宮中で祀らせ、崇神天皇の時、物部氏の伊香色雄命に命じて現在地に移したといい(『先代旧事記』。『姓氏録』は仁徳天皇の時とします)、代々物部氏の氏神として祀り、国家非常の際には天皇が行幸して鎮護を祈ったといいます。
また、この神社の「天神庫(あめのほくら)」には、大量の武器が納められていた事は有名です(『日本書紀』垂仁紀39年10月条。『日本後紀』延暦24年2月条)
この「いそのかみ」は、「イソ(石、石の多い場所)・カミ(上)」の意とする説があります。この「いそのかみ」は、マオリ語の「イト・ノ・カミ」、ITO-NO-KAMI(ito=object of revenge,enemy;no=of;kami=eat)、「敵を征服する(神の鎮座する場所)」または「報復を受けて切り落とされた山(断層崖のある土地)」
の転訛と解します。
なお、この「イト、ITO」は「ウト、UTO」の語と同義とされますので、有度(うど)山を「ウ・タウ、U-TAU、美しい乳房のような山」と解するのと同じく「報復を受け(て切り落とされ)た山(海側に断層崖のある山)」と解すべきかも知れません。宮崎県の鵜戸(うど)神宮も、同じ可能性があります。この布留御魂の「ふる」は、マオリ語の「フル」、HURU(contract,gird on as a belt,an incantation recited over weapons
before fighting)、「(戦闘の前に刀剣などの武器に対し)呪文を唱えて霊力を与える(神霊)」の転訛と解します。
この布都御魂の「ふつ」、甕布都神の「みかふつ」、佐士布都神の「さじふつ」は、マオリ語の「フ・ツ」、HU-TU(hu=promontory,hill;tu=stand,settle)、「高いところ(または丘)に鎮座する(神霊)」、「ミカ・フ・ツ」、MIKA-HU-TU(mika(Hawaii)=to
press,crash;hu=promontory,hill;tu=stand,settle)、「押し潰された丘に鎮座する(神霊)」、「タ・チプ・ツ」、TA-TIPU-TU(ta=the;tipu=swelling,lump;tu=stand,settle)、「膨らんでいる丘に鎮座する(神霊)」の転訛と解します。
ちなみに、物部の「もののべ」、「天神庫」の「ほくら」は、マオリ語の「モノ・ノペ」、MONO-NOPE(mono=disable by means of incantations,an incantation to
disable an enemy;nope=constricted)、「呪文を唱えて敵を調伏する(ことを司る)氏族で、(天皇に)従属するもの」、「ホウ・クラ」、HOU-KURA(hou=dedicate;kura=treasure)、「奉納された宝物(を納める倉庫)」の転訛と解します。
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