品川は、古くから開けた川湊で元暦元年(1184)に初見する。品川御殿山(谷山→やつやま)は、江戸城に拠る前に太田道灌が館を構えた所で、江戸に城を築いたのと同じ理由、つまり経済立地に目をつけて館を置いた。戦国時代から、川を境に村は南北に分かれて開けていたようで、元禄のころ川を境に明確に北品川宿・南品川宿となった。
「お江戸日本橋七つ立ち初上り」の東海道中の初駅(第一宿)に指定され、江戸からの取っ付きが『め組の喧嘩』の舞台「土蔵相模」だ。京都からは東海道の五十三次目の駅で、江戸の玄関口として送迎の場だった。芝高輪から大井村まで約2kmに渡り海に沿った細長い宿場町で、宿場でありながら御殿山、品川の浜、東海寺、海晏寺、妙国寺、品川寺、荏原神社、品川神社など神社仏閣が甍を競い、春は桜、夏は潮干狩り、秋の紅葉と季節ごとの行楽地でもあった。
どういう理由によるものか判らないが、江戸から2里の距離ながら飯盛女(売春婦)を置くことが許されていた。本来は旅人のために特別に許可されていたのだが、近辺に寺と武家屋敷が多かったことから、これらの関係の客筋が多く、特に芝増上寺の僧侶、薩摩屋敷の侍たちが目立ち、だから遊郭とまで格式は高くないが江戸男の手近な遊興の場でもあったのだ。
南北両品川宿には、飯売旅篭屋・平旅籠屋・水茶屋・煮売渡世・餅菓子屋・蕎麦屋・煙草屋・酒屋・寿司屋・小間物屋など、当時の宿内を物語る商店が約1600店舗も立ち並び、そこに住んでいた人7000人という非常に活気のあった町だった。八ツ山から一心寺辺までが「歩行新宿(かちしんしゅく)」、一心寺辺から目黒川までが本陣のあった「北品川宿」川から天妙国寺前辺りまでが「南品川宿」だった。
品川は農村で特産品の「品川蕪」、「品川葱」、「品川人参」があったことは忘れまい。特産品の外にも大根・牛蒡・漬菜・小松菜・キャベツ・菠薐草(ほうれんそう)・甘藷(かんしょ)・馬鈴薯(ばれいしょ=ジャガイモ)・胡瓜(きゅうり)・白瓜・冬瓜(とうがん)・西瓜・南瓜(かぼちゃ)・茄子(なす)・独活(うど)などが栽培され、また大豆・小豆・黍(きび)・玉蜀黍(とうもろこし)・隠元豆・豌豆(えんどう)・蚕豆(そらまめ)などの穀類も栽培されていた。
品川に伝わったネギは関西系らしく、冬場は寒さに弱いため地上部の葉は枯れてしまった。ところが、土中に埋まっていた葉鞘が美味しかったことから、白い部分の長いネギに改良され「根深ネギ」として好まれるようになった。おそらく砂村系だろう。
品川蕪は根がやや長く、江戸時代には冬を越して春まで食べる漬物の材料として、品川から荏原にかけ大量に作られていた。長蕪は学術的には北方(シベリア)系で、来歴などは不明だ。縄文人が作っていたか、元々自生していたものを古い時代に改良した物かもしれない。
「品川人参」は「大井人参」の系統だ。もともと品川浦は、古くは品川湊と呼ばれ海上交通の要地として船舶の繋留地だったため、漁村としての形を留めてなかった。猟師町の寄木神社境内に建っている「江戸漁業根元之碑」には
「品川浦の漁業は、豊臣の遺臣本田九八郎の一族がここに定住して漁師になり、瀬戸内海の漁法を伝えた」
と記されているが、御菜肴八ヶ浦の一つの漁場として発展したのは江戸時代以降のことだ。
御菜肴浦は、漁撈した鮮魚を江戸城の御膳所に献上する義務を持たされた漁場で、江戸湾44ヶ浦の漁業上の元締めとなって、漁撈の優先的な特権を持っていた。初め本芝・芝金浦の両浦だったが、後から品川浦が加えられて三ヶ浦とし「元浦」と称えたが、後に御林・羽田・生麦・神奈川・新宿が追加され八ヶ浦となった。
19世紀初頭の記録によると、品川猟師町は二人乗り18艘、三人乗り35艘、計53艘、大井御林町では三人乗り20艘、四人乗り25艘、計45艘の魚舟が在船していた。これらの舟によって水揚げされた日々の漁獲物は、江戸小田原町、芝金杉、本芝町の魚問屋に直接送り、外売りは一切行わなかった。
では、どんな魚介類が水揚げされていたのかを天保十四年(1843)の『宿方明細書上帳』で拾うと、「四ツ手網」「手繰り」「地引」「釣り」などの漁法により、鯒(こち)、鮃(ひらめ)、芝えび、鯊(はぜ)、白魚、鮎魚女(あいなめ)、烏賊(いか)、小鯛、鱚(きす)、石持、鰻、鯔(ぼら)、細魚(さより)、鰈(かれい)、魴(ほうぼう)・あかえい・鰆(さわら)、穴子(あなご)など、今日では想像もつかないほどの多種多様な魚が漁獲されていたらしい。
当然「袖ヶ浦の潮干狩り」と言われたほど、赤貝・蛤(はまぐり)、馬鹿貝、浅蜊(あさり)、牡蠣なども多く取れていた。袖ヶ浦とは品川浦の別称、一名「竹柴の浦」ともいう。浦の形、衣の袖に似たる故に、土俗に称するなり。往古は芝・金杉辺より南の方、大井村境迄総て竹柴の浦と呼ぶ。