2012/09/15

目黒(1)

「目黒(めぐろ)」という地名はあまりにも有名ですが、その地名語源は諸説あって決定的なものがありません。一番有名で一般に信じられているのは、徳川三代将軍家光が「五色不動尊」を設置し、そのなかの「目黒不動尊」に由来するという説ですが、これはまったくの俗説のようです。というのは「目黒」という地名は江戸時代に始まるものではなく、室町時代の文書にすでに登場しているからだそうです。

 

奈良時代末期に慈覚大師が寺を建てた時、目黒不動を安置したからことに由来するという説も無理があるようです。もしそうなら「目黒」不動一つだけを安置するというのはありえないことで、青・黄・赤・白・黒の五色の不動尊のすべてを安置しているはずだからです。黒以外の他の四つの不動尊が、どこか近くになければならないというわけです。

 

後でふれますが、目白に目白不動尊があるではないかということも言えますが、それならなおのこと他の色の不動尊がないといけません。まして家光は江戸時代初期の将軍で、そんな大昔の話ではありませんから。また馬を飼って訓練させているところがあって、目の黒いいい馬がいたからという説もあるのですが、これもそうなら何か有名な馬にまつわる「史実」や「伝説」があるはずですが、そういうのも聞きません。

 

地名研究者の説のうちには、湾曲・屈曲している土地を意味する「めぐる(廻る)」、あるいは崩壊地名の「めくれる」に由来するというのがあります。アップダウンの多い目黒あたりの地形を考えると、この説が妥当ではないかと思えます。

 

目黒区の目黒という地名は一体、何に由来しているのだろうか。興味を抱いた先人、今人たちはさまざまな説を展開しているが、残念ながらその真偽は明らかではない。  その説とは。

 

牧場の畦道(免畦・馬畦)説

馬畦(めくろ)の畦は田んぼの畦道ではなくて、馬が逃げ出さないように盛り土した牧場囲いの土手のことで、どんなものか実見したい人は世田谷区の九品仏浄真寺に行くがいい。寺は奥沢城址だ。中世の乗馬飛越防止の館囲いの土手が残っている。 高さにして2mばかり、それほど高くはない。サラブレッドなら簡単に飛越するが、和馬はロバを大きくした程度の大きさだから、これで十分だった。飛越のためには助走路が必要だから、外周を壕または軟弱地盤にしておけば強襲は防御できた。

 

慈覚大師の目の黒い不動尊像説

滝泉寺の不動尊像は、大同年間(806~9)に慈覚大師が比叡山に向かう途中、霊夢に突き動かされて彫刻し安置したものだといわれている。村名になってもおかしくないほど古い訳だ。不動尊像の目を黒く塗っていたことから「目黒不動」と呼ばれ、江戸五色不動の一つに数えられる。しかし、五色不動は目黄・目青が新設された明治に入ってからのことで、それまでは三不動だったらしいので、不動尊明王の目の黒いのは当たり前だから、それほど意識したろうか。

 

『小田原衆所領役帳』に「目黒本町」があり、それが何処だかは詳らかではないが、現在の目黒本町は目黒村とは無縁なのだ。目黒不動の近辺が最も早く開けたので、その辺りじゃないかといわれている。正保~元禄のころに、上・中・下3つの目黒村に分かれた。

 

馬の目や毛の色(馬黒)、馬の名前説

武蔵国は牧場が多かったので、馬に因んで名づけられた地名が少なくない。馬込・駒込・駒岡・駒林・馬引沢・駒沢・練馬・有馬・駒場・駒井など、その例はいくらもある。また昔は眼色・毛色を以て馬の名とし、それが地名となったものもあるから、目黒・馬黒となったというのも、強ちなくはない。

 

日本武尊が東征の時、1頭の青毛(黒色の毛)の駿馬を手に入れ、これを乗馬(じょうめ)として愛でたという。これを漢字に宛て「驪」と書き、これを愛馬とし「愛でる驪」つまり「愛驪(めぐろ)」が転じて「目黒」となったと説く。

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