口語訳:最後に伊邪那美命自身が追ってきた。そこで伊邪那岐命は千人がかりでなければ動かせない大きな石を、黄泉比良坂を塞ぐように置いて、その石を間に挟んで妻に向かい、絶縁を申し渡した。
すると伊邪那美命は
「愛しいあなた、こんな風にされたからには、あなたの国の人々を毎日千人殺してあげましょう」と言った。
そこで伊邪那岐命は
「あなたがそうするなら、私は毎日千五百人の産屋を建てるだろう」と言った。
こういうわけで、現世の人は毎日千人が死に、毎日千五百人が生まれるのである。このため、伊邪那美命を黄泉の大神という。また追ってきたことから道敷の大神ともいう。またその黄泉比良坂を塞いだ大石を道返しの大神とも、塞坐黄泉戸大神ともいう。この黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂というところである。
最後は、白檮原の宮(神武天皇)の段に「いやさきだてる」とある歌に基づいて「いやはて」と読む。【その歌の前に、「知立於2最前1(いやさきにたてることをしりて)」とある。】拾芥抄の人名の部に「最」の字を「彌(いや)」のところに出している。この神武の歌のことは、そこ【伝二十の二十六葉】で述べる。大穴牟遅神の段にも「最後之來(いやはてにきませる)」とある。【枕草子に「さいはての車」とあるのは最後の車である。その頃は「最」の字を音で読んでいたのだろう。また今の世で「最前(さいぜん)」と音で言う言葉も、もとは「いやさき」と言っていたのだろう。】「はて」とは、なにごとであれ、終わりのことであるのは、昔も今も同じである。
○身自は「みみずから」と読む。普通「自」の一字を「みずから」と読むが、おのずから【己自である。】、てずから【手自である。】、口ずから【口自である。】なども言うので、自は「から」であって、「みずから」は本来「身つ自」である、ここで「みみずから」と「み」を重ねるのは、上に「御(み)」を添えたのである。
○千引石は「ちびきいわ」と読む。【「ちびきの」と言わないのが古言である。】これを書紀には「千人所引盤石(ちびきいわ:千人が引く岩)」と書いたのは、名の意味を顕わにしたのである。万葉巻四【五十二丁】(744)に「吾戀者千引乃石乎七許頚二将繋母(わがこいは、チビキのイワをナナばかりクビにかけんも)云々」とあり。和名抄には「ちびきのいし」というのが出ている。弘仁私記も同じである。【ではあるが、石は「いわ」と読むのが良い。】記中には、他に五百引石(いおびきいわ)という語もある。
○度事戸は「ことどわたす」と読む。書紀では「建2絶妻之誓1」と書き、「絶妻之誓は『許登度(ことど)』と読む」と註がある。弘仁私記では「古事記には『度事戸』とあるので、ここではその文によって解釈した。『度』は『言い渡(度)す』の意味と思われる、云々」と言う。【今俗に人にやるべきことを言いつけるのを「申し渡す」という。よく似た言い方だ。「引導を渡す」と言うのはなおさらである。】
この書紀の文字で大意は分かるのだが「ことど」という言葉の意味は定かでない。その誓いの言葉をそう呼ぶのかとも思われる。それは書紀の一書に「盟之曰族離、又曰不負於族(チカイたまわくはウガラはなれん、またウガラまけじとノリたまいき)云々<口語訳:伊弉諾尊は誓って『離縁しよう』と言い、また『族には負けない』と言った。とあるのが、つまり事戸の言葉のように思われるからである。
この後(書紀一書第十)に「次に掃う神を『泉津事解之男(よもつこととけのお)』という」【この「解」の字は、昔から「さか(ことサカのお)」と読んできたのだが、そう読むべき確かな証拠もないので、「とけ」と読んでも差し支えなかろう。】とあるのを見ると、「事戸」は「事解言(ことどけごと)」の縮まった形ではあるまいか。【「とけごと」を二度縮めれば「と」になる。その「ご」の濁りを映して「ど」になる。こういう縮約は原語からほど遠いようだが、「こと」に「と」が重なっているから、こう縮まるのが語の勢いというものである。上述の書紀の「建2絶妻之誓1」は、古くは「ことどわたる」と読んでいた。だがそう読むのが正しいなら、この記には「事戸度」とあるはずなのに、「度事戸」と(度が動詞、事戸が目的語のように)書いてあるのはおかしい。
師はこれを古い本にあるように「ことどにわたる」と読んで、「夫婦が同じ部屋に住んでいたのが、離れて別戸に渡って行く意味だ」と言った。しかしこの場面の様子では、そういう意味のようでもない。書紀の記載のように、夫婦の関係を全く絶つように思われる。万葉巻十九(4251)に「玉桙之道爾出立徃吾者、公之事跡乎負而之将去(たまぼこのミチにイデタチゆくワレハ、キミのコトドをオイテシゆかん)」とあるが、この歌は大伴家持卿が越中から京に上るとき、はなむけした人に答えた別れの歌であって、ここの「事跡(ことど)」とは、はなむけの離別の言葉のことで、それを忘れず心に持って行く、というのである。その意味とすれば、ここに出た「事戸」と同じく、離別の言葉なのだろう。
ただこの歌は、師の説では『「事跡」は文字の通り「しわざ」と読む。このはなむけした人は、越中の次官だったから「君の国での業績を京にも待っていって申し上げる」という意味だ』と言う。この説の通りなら、ここの「事戸」とは無関係だということになる。だが「業績を負って行く」というのは、どうだろうか。さらに考察する必要がありそうだ。】
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