出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
しかし少しソクラテスを離れて冷静に物事を見てみると、快楽ということがなくなったら人間の文化というものが成立してきません。快楽を求めることがないのですから人間は生まれたままのものとして、ただし動物としての衣食住の充足は求めつつ、それが充足していればそれで十分満足するものとして現にあるがままにあり、そうあり続けることになるでしょう。
しかし少しソクラテスを離れて冷静に物事を見てみると、快楽ということがなくなったら人間の文化というものが成立してきません。快楽を求めることがないのですから人間は生まれたままのものとして、ただし動物としての衣食住の充足は求めつつ、それが充足していればそれで十分満足するものとして現にあるがままにあり、そうあり続けることになるでしょう。
「もっと裕福に、もっと安全に、もっと安楽に」と追求していくこともなく、原始時代のままそれなりにやっていくかも知れませんが、そしてそれでも良かったような気もしますが、少なくとも現実の人間の本性とは全然違った生物の社会となるでしょう。キュニコス学派の「犬のような生活」というあり方が、それをよく示しています。つまり私たち人類とは、悲しいことに快楽を追求せずにはおれない哀れな生物なのかもしれません。
しかし、もしそういう人間のあり方に気がつくと、快楽を拒絶するのに無理を感じてくるでしょう。なぜなら、どう快楽の劣等性を主張しようと、それは快楽を求める人間本性に反することだからであり、それは「人間であることの拒否」ともなりかねないからです。だとしたらどうするか。
肉体の本性に従ってどこまでも快楽を追い続けるか、しかしそれではもう一つの人間の本性、つまり理性という本性の言ってくる悪を憎み、善を求め、徳性を尊ぶ人間本性を完璧に破壊してしまいます。私たちの社会そのものが、その事を実証しています。これを憂うならば、やむなくキュニコス学派の道をとるのも一つでしょう。そして、さらにそれを柔軟にしたストア学派の道もあり、これは実際、そうした人間性の喪失を憂いた多くの人たちに受け入れられ、受け継がれていったのでした。したがって、ここでは快楽の拒否となったのでした。
ところが、ここにアリスティッポスは第三の道を提起してきていると言えるのです。つまり快楽を初めから悪とみなすのを止めよう、それは人間の本性に合致している限り無理だ、むしろ人間の本性に合致しているものとして善として認めよう、ただし、これが行き過ぎてもう一つの本性を破壊するようなものになったら、これは人間本性の破壊活動なのだから悪としよう、というような立場なのです。
つまり、二つの人間本性を両立させようというのが、彼の立場だったのでした。なお、ここの「快を求める人間本性」を「本能」と理解しておいてもいいでしょう。ですからキュレネ学派における快楽というのは、かなり積極的な肉体的快楽を意味していると理解して良いでしょう。
しかし、以上のような立場がバランスよく追求されているなら、快を楽しみつつ品性において高く、自由でおおらかな一つの見事な人間のあり方を実現させてくるでしょう。おそらくアリスティッポスが目指していたのはこの場面の人間で、そしてその完成体をソクラテスのなかに見ていたのでしょう。そして彼はこの場面で自分を実現させたいと考えていたのでしよう。
しかし、どうしてもこの快楽は多分に妖しい魔力をもって人を籠絡してこれにおぼれさせ、一方快楽は相対的ともなり刹那的ともなるわけで、アリスティッポス以降のキュレネ学派は無神論者といわれるテオドロスのような人を生みだし、彼はニヒリストとなって世の価値観を認めず、快だけが真実として窃盗・姦淫・神殿荒らしなども社会の通念上の犯罪で、自然的には悪とは断定できないとまで主張までしていきます。
また、死の勧誘者ともいわれるヘゲシアスのような人は、肉体は多くの煩いに満ちて苦痛を与え、心もそれに伴って煩わされ、我々が望むものは殆ど遇運がこれを阻害し、したがって本当の意味で快楽は得られない、それゆえ幸福などあり得ず、生と死はどちらも同じくらいの望ましさしかないと主張していきます。
こうしてキュレネ学派は、行き詰っていったのでした。アリスティッポスの精神は、むしろもう少し後に現れるエピクロスに引き継がれていると評価できるでしょう。
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