日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志倭人伝」から引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。なお、一般に「魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の一部分で(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史もしくはそれ以外の史書にも、この「魏志倭人伝」に由来すると思われる記事が少なくない。
史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。
古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石は「古史通或問」において奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が、中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。
位置に関する論争
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに単純に距離と方角を足していくと、邪馬台国は太平洋の真ん中に行きつく。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで、学界の主流は「九州説」(白鳥庫吉ら)と「畿内説」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説(若井敏明の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。若井は、筑後川下流域にあった邪馬台国後裔は仲哀天皇の九州遠征により、365年頃に滅亡したとしている。
邪馬台国は、魏志倭人伝に記載のあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)から、『日本書紀』の晋書起居註に記載があるように壹與が晋に泰始2年(266年)に朝貢したことから、3世紀に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した邪馬台国からヤマト政権に政権が移ったことになる。邪馬とは、山と音訳出来る。
連続式と放射式
「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従って方角を90度読み替えたり、距離を修正しながら比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対海国・一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる説。
「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説。伊都国までは連続読みと同じだが、その先は表現方法が変化していることから、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点に読んでいく説。
同じ「放射式」だが、伊都国ではなく末廬国を起点とする説。
伊都国を起点とする放射式だが、投馬国への行程だけは伊都国からでなく、不彌国から連続して読む説。言い換えると、邪馬台国までの「連続式」の行程とみて、奴国と投馬国の二つの「傍線行程」(支線)があると解釈するもの。
さらに古田武彦は、邪馬壱国への「水行十日・陸行一月」を「帯方郡→邪馬壱国」の日程と解釈し、不弥国の南に邪馬壱国が「接している」とする。
距離の計算
「魏志倭人伝」の距離(里数)が大雑把に約5倍に誇張されているという問題については、後述するように短里が使用されていたとする説、当時は兵力などを10倍に誇大に記載する例が多いことから、公孫氏を滅ぼした魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説、魏が呉を地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため都合よく書き換えたという説、曹爽の功績である「親魏大月氏王」の距離と、曹爽の政敵の司馬懿の功績である親魏倭王の距離のバランスをとるため誇張したという説、などがある。
宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は、現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから、現在ではこの点に関しては問題とはされていない。
また「自郡至女王國萬二千餘里」の記述は、行程に関する最も重要な1文であるにも関わらず、多くの説において故意に無視されている。
短里説
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは、尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では、狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。
古田武彦は、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。[要出典]これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。これは、三国志が「蜀志」については、漢の伝統を守っていたことを陳寿はそのまま記したものと思われる。[要出典]これを「魏朝短里説」という。
これに対して安本美典らの説では「短里は東夷伝の三韓条と倭人条のみに見られ、他の箇所では存在しない」として、魏朝の制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡が残存した可能性を示唆しているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する[要出典]。周代の度量衡であるかは別として、藤田元春、宝賀寿男なども倭韓地短里説を採る。
なお渡邉の著書では、白鳥庫吉までも短里説論者に入れているがこれは誤認であり、白鳥は「全体で」平均すると約5倍になっていると言ってはいるが、個々の数値は1里あたりの実測距離がバラバラであることから、特定の距離単位が実在したとは認めていないので、短里説論者ではない。
出典 Wikipedia