2022/06/25

ビザンツ帝国の盛衰(1)

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東ヨーロッパ世界の形成

 ローマ帝国が東西に分裂した(395)あと、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で滅び、ゲルマン人の国家が建設されます。

 東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス帝(位527~565)は、これらゲルマン民族国家を滅ぼし、旧西ローマ帝国の領土をある程度回復します。これが、古代ローマ帝国の最後の輝きです。

 ユスティニアヌス帝は、トリボ二アヌスに命じてローマ法を集大成した「ローマ法大全」を編纂させたことでも有名です。

 

 ユスティニアヌス帝の死後、一時拡大した領土はまた縮小していきます。イタリアはランゴバルト族に奪われ、東方ではササン朝ペルシアとの抗争が続きます。また北部国境は、黒海の西からブルガール人が侵入してくる。

 

 東ローマ帝国は、これらの外敵に対して基本的に守勢一方。都がローマにあるわけでもないのにローマ帝国というのもおかしいですから、ユスティニアヌス帝以後、この国をビザンツ帝国と呼ぶのが一般的です。ビザンツとは首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからついた呼び名です。

 

 イスラム勢力にエジプト、シリアを奪われてからのビザンツ帝国の領土はバルカン半島と小アジアだけになり、実質的にはローマ人の国というよりギリシア人の国ですね。ただし、ローマ帝国の理念だけは引き継がれている。

 かつてのローマ市は「パンとサーカスの都」といわれましたが、コンスタンティノープルでも市民への食糧の配給は行われていました。これはイスラム勢力によって、穀倉地帯エジプトが奪われる618年まで続いた。ユスティニアヌス帝時代は、この意味でもローマ帝国らしい最後の時代だったのです。

 

 ただ、あとの時代になっても、コンスタンティノープルの競馬場で戦車レースは盛んに行われていた。貴族や市民が詰めかけて大いに熱狂した。もちろん皇帝も観戦。古代ローマをみんなで演じていたみたいです。

 

 ヘラクレイオス1世(位610~641)の時代に、イスラム勢力が急速に領土を拡大してきます。首都での食糧無料配給を止めたのが、彼の時代です。

 この時期に、イスラムとの戦争のための新しい制度が生まれる。軍管区制と屯田兵制です。

 軍管区制は、テマ制ともいう。地方の軍司令官に行政権も委ねる制度です。行政の臨戦態勢ですね。地方軍団の兵士は農民です。農民たちは租税を免除される代わりに、戦争になったら武器自弁で戦った。負けて領土を奪われたら自分たちの土地が無くなるわけですから必死になって戦った。侵略戦争には向きませんが、防衛戦争には力を発揮する。これが屯田兵制です。

 

 宗教は、皇帝教皇主義です。皇帝がキリスト教会のトップの地位にあることをいう。

 

 ビザンツ帝国は常にイスラム勢力と境を接して争っているので、宗教面でも対抗心が旺盛です。イスラムとの関係で8世紀の皇帝レオン3世が出した法律が「聖像崇拝禁止令」。イエスやマリアの像を拝むことを禁止する。それまでは日常的に聖像崇拝が行われていたのですが、イスラム教が偶像崇拝を厳しく禁止しているのに刺激されて、偶像崇拝を禁止したのですね。偶像も聖像も同じことです。

 前にも説明しましたが、キリスト教もイスラム教も同じ神を信じていますから、厳格なイスラムに比べキリスト教は堕落しているように思われたのでしょうね。

 

 ところが、この聖像崇拝禁止令が、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を生んだ。ローマ帝国時代に、各地に五本山と呼ばれる大きな教会ができるのですが、ローマ教会もコンスタンティノープル教会もそのうちの二つです。どちらが偉いということはないけれど、以前から二つの教会は高い権威をもって張り合っていた。

 

 ローマ教会は西ローマ帝国が滅んだあとは、ビザンツ帝国と協力関係にあるのですが、イタリア半島はビザンツ帝国の領土から外れているから、実際にはビザンツ帝国は頼りにならない。そこで、ローマ教会は生き延びるためにゲルマン人たちに一所懸命布教して、教会の存続をはかっています。で、ローマ教会はゲルマン人に布教する時に、イエスやマリアの像を使っていたんだね。多分、十字架磔のイエスの画像なんかを見せて「お前たちの罪を償うために、イエス様はこのように死なれたのだ!」とか言って布教していたんでしょう。ゲルマン人はまだまだ文明度は低いですから、そんな絵を見て何とかキリスト教を理解できたのかもしれない。

 

 だから、ローマ教会にとって聖像を使用できなくなるというのは死活問題だった。そこで、ローマ教会はビザンツ皇帝の方針に反対します。元々、ローマ教会は皇帝教皇主義にも不満だったので、ここで両教会はケンカ別れをしていくことになった。

 

 ローマ教会はローマ=カトリック、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と呼ばれるようになっていきます。

 両教会の分裂を生んだという意味で、聖像崇拝禁止令は大事です。

 

 余談になりますが、聖像崇拝禁止令が出た直後の時期には、ビザンツ帝国では聖像は破壊されましたが、のちに復活します。現在、ギリシア正教では聖像のことをイコンといい、信仰上重要な意味づけがなされていて、非常に大事にしている。今でも、修道院などで盛んに作っています。決して上手な絵ではなくて、わざとへたくそに描いているようでもある。制作者はサインをせず、個性を押さえて描くのが基本だそうです。

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