ローマ帝国
3世紀末から4世紀前半にかけて、ローマ帝国の中心は東方世界へと移行した。当時「皇帝」は世界に一人しかおらず、「皇帝」とは「ローマ皇帝」であることが自明であったため、わざわざ「ローマ皇帝」と名乗る必要もなかった。また、「ローマ人」の概念も、都市ローマとの結びつきが薄れ、ローマ帝国全土の住民の意味に変貌していた。更に、コンスタンティノープルが建設されたからといって、直ちにコンスタンティノープルの権威が都市ローマを上回ったわけではないため、「コンスタンティノープル帝国」などという用語は発生しなかった。しかし410年にローマが陥落すると、次第にコンスタンティノープルでは「新しいローマ」という自意識が育ち始めた。
五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようにな」り「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。同地の人々は、遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。
9世紀以降には、西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが、自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写:Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。
中世になると、帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。
ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
この帝国の7世紀頃以降は、文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(1516年~1580年)の功績とされる。
ヴォルフは、ビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル、ヨハネス・レウンクラヴィウス、ドゥニー・プトー、ヴルカニウス、メウルシウス、レオ・アラティウスら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。
これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで、一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称は、コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記である。日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり、7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えばオックスフォード・ビザンツ事典や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では、7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。
ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
古代ローマの人々は、同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはなかった。カール大帝の戴冠によって、西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた。
東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「Έλληνες,
ヘレーネス, イリネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても、東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。
出典 Wikipedia
0 件のコメント:
コメントを投稿