2023/01/11

ヤマト王権(10)

こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトに迎えられて王統を統一した。しかし、オホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。オホド大王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱)。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。

 

継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。一方、オホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部に及ぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱の後には各地に屯倉とよばれる直轄地が置かれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、540年には、オホド大王を擁立した大伴金村が失脚している。

 

ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)

6世紀前半は、砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。その一方、半島からは暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘・部民などの獲得を巡って抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かを巡って対立し、大臣蘇我馬子と大連物部守屋の代には、ついに武力闘争に至った(丁未の乱)。

 

丁未の乱を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えたが(崇峻天皇)、次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。続いて姪の額田部皇女を即位させて推古天皇とし、厩戸王(聖徳太子)とともに強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など、官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。

 

6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配を支えるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。

 

「日本」へ

7世紀半ばに唐が高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮で大化の改新が行われた。壬申の乱にて大王位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、持統天皇の代には飛鳥から遷都した。701年、大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本国」を国号の表記として用い(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)、大王に代わる新しい君主号を、正式に「天皇」と定めた。

 

史書の記録

前史

『日本書紀』によれば、伊奘諾尊と伊奘冉尊の間に生まれた太陽神である天照大神が皇室の祖だという。その子天忍穂耳尊と栲幡千千姫(高皇産霊尊の娘)の間にうまれた子の瓊瓊杵尊(天孫)は、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原より日向の襲の高千穗峰に降臨した(天孫降臨)。

 

瓊瓊杵尊は、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火闌降命(海幸彦。隼人の祖。)・火折尊(山幸彦。皇室の祖。)・火明命(尾張氏の祖)を産んだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「山幸彦と海幸彦」がある。

 

火折尊は海神の娘である豊玉姫を娶り、二人の間には彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊が生まれた。鸕鶿草葺不合尊は、その母の妹である玉依姫を娶り、五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊が生まれた。瓊瓊杵尊より鸕鶿草葺不合尊までの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。

 

神武東征と建国

磐余彦尊は日向国にあったが、甲寅年、45歳の時に饒速日(物部氏の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめて、その地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。速吸の門では、国神である珍彦(倭国造の祖)に出会い、彼に椎根津彦という名を与えて道案内にした。筑紫国菟狭の一柱騰宮、同国崗水門を経て、安芸国の埃宮、吉備国の高島宮に着いた。磐余彦は大和の指導者長髄彦と戦い、饒速日命はその主君であった長髄彦を殺して帰順した。辛酉年、磐余彦尊は橿原宮で初めて天皇位につき(神武天皇)、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。

 

伝承の時代

初代天皇の神武天皇(神日本磐余彦天皇)の後は、

2代:綏靖天皇(神渟名川耳天皇)

3代:安寧天皇(磯城津彦玉手看天皇)

4代:懿徳天皇(大日本彦耜友天皇)

5代:孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇)

6代:孝安天皇(日本足彦国押人天皇)

7代:孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇)

8代:孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)

妹と伝わる倭迹迹日百襲姫命は、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳の被葬者と伝わる。この古墳の築造を期に、各地で前方後円墳が築造され始める。

 

9代:開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇)

以上の8代は記紀において事績の記載がほとんどないため、欠史八代と称されることがある。

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