改名について
「善信」実名説:「綽空」から「善信」(ぜんしん)への改名説。「親鸞」の名告りは、それ以降とする説。
覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。
「善信」房号説:宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』において主張し、真宗学者の本多弘之らが支持する説。「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。「善信房」の房号は、唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に見て取れる。
妻帯
妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。
法然のもとで学ぶ間に、九条兼実の娘である「玉日」と京都で結婚したという説。「玉日」について、歴史学者の松尾剛次、真宗大谷派の佐々木正、浄土宗西山深草派の吉良潤、哲学者の梅原猛は『親鸞聖人御因縁』、伝存覚『親鸞聖人正明伝』、五天良空『親鸞聖人正統伝』の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。
対して、日本史学者の平雅行は『親鸞聖人御因縁』、『親鸞聖人正明伝』、『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している。
これには、松尾は親鸞についての史料が少ない中で、疑わしい点のある史料であっても批判的検討を行って積極的に用いるべきであるとし、平の方法論は近年の歴史学的成果に逆行するものであると述べている。また、玉日の墓と伝えられる墓所があり、江戸時代後期に改葬がなされていることなど、考古学的知見も玉日実在説の史料になると主張する。
法然のもとで学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」と京都で結婚したという説。「恵信尼」については、大正10年(1921年)に恵信尼の書状(「恵信尼消息」)が西本願寺の宝物庫から発見され、その内容から実在が証明されている。
京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。
玉日と恵信尼は同一人物で、再婚ではないとする説。
法然のもとで学ぶ間に、善鸞の実母と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や、越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く、史料として価値が低いとしている。当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。
親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。
師弟配流
元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。
建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。
この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。
親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)と名告り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。
承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。
建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨が順徳天皇より下る。
同月、法然に入洛の許可が下りる。
親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。
建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。
赦免後の親鸞の動向については二説ある。
1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。
対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ
帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けていて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている。
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