2026/01/05

日蓮(1)

日蓮(にちれん、承久4年(1222年)216日 - 弘安5年(1282年)1013日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

 

概要

文応元年(1260年)716日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。

 

立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。(日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。

 

『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも)いだきぬべし』(開目抄)、『日蓮が慈悲広大ならば(中略)、万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し

「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」

等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。

その直前に、幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。

 

文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」と、その際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエピソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)

 

文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。

 

だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。

 

文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)1013日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)。大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。

 

日蓮上人、日蓮聖人、日蓮大聖人等と敬称されるが、本項では敬称なしで表記する。

 

生涯

誕生

日蓮は、承久4年(1222年)216日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている。

 

両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」、「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる。

 

修学

日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った。天台宗は智顗以来、妙法蓮華経を最も優れた経典とする五時八教の教相判釈を受け継いでいた。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた。幼名は善日麿、あるいは薬王麿と伝えられる。

 

清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。清澄寺には、これらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。

 

伝承によれば、日蓮は16歳の時、道善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮が17歳の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名がある)。

 

宗教体験と遊学

得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り、主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た。

 

次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった。

 

遊学の中心は延暦寺で、比叡山の横川定光院に滞在したと伝えられる。比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を得ている。比叡山で日蓮は、妙法蓮華経を中心とする文献的な学問と、いわゆる天台本覚思想を学んでいる。恵心流の碩学・俊範を比叡山における日蓮の師とする説もあるが、日蓮は俊範から学んだとは述べておらず、実際には俊範の講義に参加していた程度と考えられている。

 

遊学中に日蓮が書写した文献には「授決円多羅義集唐決上」と「五輪九字明秘密釈」がある。著作としては「戒体即身成仏義」など数編が伝えられるが、いずれも真筆はなく、偽書の疑いがある。十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。