2026/04/30

遼(契丹)(1)

遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。

 

中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。

 

名称

建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。

 

歴史

11世紀のアジア

現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。

 

太祖耶律阿保機は、西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

 

さらに2代耶律徳光は、五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて、多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

 

宋の太宗は、燕雲十六州の奪還をもくろんで北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。

 

6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り「澶淵の盟」を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

 

その後は、宋から入る収入により経済力をつけたことで国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

 

女真は次第に強大になり、1115年には自らの金王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。

 

この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた(遼の滅亡)。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や、13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。

 

政治

遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。

 

北面官の機関には、北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。

 

南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし、南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。

 

この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と、契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。

 

遼の兵制は北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。

 

地方行政

遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(複都制)。

 

    上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗南波羅城)…キタイ人の本拠

    東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)…渤海人の中心地

    中京大定府(現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県)…奚人の中心地

    西京大同府(現在の大同市)…沙陀チュルク人の中心地

    南京析津府(燕京:現在の北京市)

 

首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の大興安嶺山脈の麓)の南に置かれた。遼の五京制は、女真(ジュシェン)国家の金朝にも引き継がれた。

 

日本との関係

中国()と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある。

 

また日本側の『中右記』によれば、寛治6年(1092年)913日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で、検非違使から取り調べを受けている。

 

続いて、嘉保2年(1094年)525日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。

 

なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として、遼の太祖を挙げている。

 

『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には

 

「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」

 

との一文がある。

 

高麗との関係

993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するために、はじめて高麗に侵攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)を行うことを告げた。

 

その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。

 

高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道郭山郡)を攻陥した。

2026/04/28

オッカムのウィリアム(2)

存在論的倹約

オッカムが近代科学、および近代の知的文化に対してなした一つの重要な貢献として、オッカムの剃刀と呼ばれるようになる、説明や理論構築の上でのケチの原理がある。

 

バートランド・ラッセルの解するところでは、この格言は、ある仮定された存在がなくても現象を説明できるならば、その存在を仮定する理由がない、つまり常に原因、要因、変数が可能な限り最小となる説明を選ぶべきだということを言っている。彼は、この原理を存在論的倹約に用いた。この原理によれば、必要以上に存在を増やすべきでないEntia non sunt multiplicanda sine necessitateということになる。ただし、この著名な原理の定式化は、現存するオッカムの著作のどこにも見出されない。

 

彼は次のように定式化している

「自明(語義上は、それ自体を通じて知られる)であるか、経験によって知られているか、権威や聖典によって証明されるかしていない限り、理由がないなら何ものも仮定されるべきではないので[要出典]。」

 

オッカムにとって、唯一の本当に必要な存在は神であった。他のすべてのものは不確定である。そのため彼は充足理由律を受け入れず、本質と実在の区別を否定し、能動的知性と受動的知性というトマス・アクィナスの学説に反対した。彼の存在論的倹約の要求によって導かれる彼の懐疑論は、人間の理性は魂の不滅性も神の存在、唯一性、無限性も証明できないという彼の学説の内に現れる。彼の説くところによれば、こうした真理は啓示によってのみ知られる。

 

自然哲学

オッカムは自然哲学に関する膨大な量の著作を書いており、そのなかにはアリストテレスの『自然学』の長い注釈書もある。存在論的倹約の原理に従って、アリストテレスの十のカテゴリーのすべてを使う必要はないと、オッカムは述べている。たとえば、数学的存在が「現実」ではないために量のカテゴリーは不必要である。数学は実態や質といった、他のカテゴリに適用されなければならず、そのため近代科学のルネサンスを予期する一方で、アリストテレスが「メタバシス」を禁止したのを破る。

 

知識の理論

知識の理論においては、オッカムはスコラ学の種の理論を不必要で経験によって支持されていないとして否定し、普遍(:abstractum)の理論のほうを好んだ。これは後期中世認識論における重要な発展である。さらに彼は直観的認識(notitia intuitiva)と抽象的認識(notitia abstractiva)とを区別した。直観的認識は対象が存在するか否かに基づいているが、抽象的認識は対象を存在するという述語から「抽象」する。この二つの認識活動の果たす役割に関しては、解釈者の間でもいまだに評価が定まっていない。

 

政治理論

西洋を形作った理論、特に責任の制限された政府という理論を発展させてきた功労者としてもオッカムは徐々に認知されつつある。彼は中世で初めて教会と国家の分離という形式を唱道しており、所有権の概念の初期の発展においても重要である。彼の政治思想は「自然な」つまり「世俗的」だとみなされていて、世俗絶対主義の立場に立っている。君主が責任を負うという発想は『Dialogus(1332-1348年に書かれた)で支持されており、公会議主義運動に大きな影響を与え、自由民主主義思想の発生を助長した。

 

論理学

論理学の分野では、オッカムはのちにド・モルガンの法則と呼ばれる公式を書き残しており、3値論理、つまり三つの真理値を持つ形式体系について考察した。これは1920世紀に数理論理学の分野で再び取り上げられた。

 

文学的オッカミズム/唯名論

オッカムとその作品は数人の文学作品や人物、特にジョフリー・チョーサー、他にジャン・モリネ、詩人のガーウェイン、フランソワ・ラブレー、ジョン・スケルトン、ノリッジのジュリアン、ヨーク市の劇、ルネサンスのロマンス文学などに対する影響を与えたのではないかとして議論されている。実際には、これらのうちごくわずかなものだけがオッカムと彼の著作との関係を説明できる。しかし、オッカム主義者・唯名論者の哲学・神学と中世からポストモダンにかけての文学作品との間の対応関係は、文学的唯名論という学的パラダイムのもとに議論されている。

2026/04/24

ノルマンディー公国(4)

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 当時の神聖ローマ皇帝はハインリヒ4世(位1056~1106)。

グレゴリウス7世とやりあうことになるんですが、ドイツ国内でハインリヒ4世の立場は非常に微妙だった。実は、ドイツは古いゲルマン部族集団が比較的崩れずに残っていて、その流れをひく大諸侯たちの勢力が大きかった。皇帝の地位は、はじめから大諸侯の中の第一人者という面が強かったのです。何かあったら皇帝の足をすくって、混乱に乗じて自分が皇帝になりたいとか領地をぶんどってやりたいとか、野心をもっている諸侯がかなりいた。かれらは、皇帝に反抗するきっかけを待っていた。

 

 そこに起こったのが叙任権闘争です。

 

 グレゴリウス7世は武力はありませんが、神に仕える身です。敵を追いつめる独特の手段があった。それが破門です。キリスト教にとって、教会や聖職者の役目はそもそも何かというと、信者が死んだあと天国にいけるように、神さまに「とりなす」ことです。ローマ教会の「とりなし」がなければ天国にいけない。破門にするということは「とりなしてやらない。お前のためには祈ってやらない。」ということだね。

 

 グレゴリウス7世は、この武器を使った。ハインリヒ4世を破門にしたのです。ハインリヒ4世が、どれだけ真剣に天国や地獄や教会の「とりなし」を信じていたかはわかりませんが、本当に信じていれば、この破門は滅茶苦茶恐ろしいはずです。なにしろ地獄行きが確定するのですから。

 

 信仰上の恐怖だけでなく、この破門はドイツ国内の有力諸侯たちに反抗の口実をあたえることになってしまった。諸侯たちは

「ローマ教皇から破門されたような人物を皇帝にはできない。一年以内に破門が解かれなければ、あんたには皇帝をやめてもらうで。」

と言いだした。

 ハインリヒ4世、これには困ってしまった。何とか破門を解いてもらわなければならなくなった。

 

 聖職者叙任権どころか、自分の来世と皇帝の地位が危なくなってしまったハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の所に詫びを入れにいきました。ドイツからアルプスを越えて、イタリア側のアルプス山麓のカノッサ城に出向いた。教皇はローマではなく、カノッサ城にこもっていたのです。1077年のことです。冬のアルプスを家族を連れて越えたというから、かなり難儀な旅だったでしょう。

 

 カノッサ城までやって来たハインリヒ4世ですが、教皇は面会もしてくれなければ城内に入れてもくれない。破門を解いて欲しければ誠意を見せろと言われてしまう。ハインリヒ4世、誠意なんて見せようがありませんからね。結局門の外で、裸足に粗末な衣装を身につけただけの姿で、三日三晩泣きながら詫びつづけたといいます。しかも雪の降る中で。

 

 この事件のことを「カノッサの屈辱」といいます。

 

 結局、その甲斐があって破門は解かれることになりました。

 

 危機を脱したハインリヒ4世は、こののち逆にグレゴリウス7世を追いつめて廃位して「カノッサの屈辱」の復讐をするのですが、皇帝ともあろうものが、教皇の前で立ちんぼうで泣きながら詫びたという事実は消えない。

 この事件をきっかけにして、西ヨーロッパでローマ教皇の権威が高まっていきました。

 

 叙任権闘争に関しては、この後も皇帝と教皇のあいだの争いはつづくのですが、1122年のヴォルムス協約で両者の妥協が成立しました。

 

 さて、教皇の権威が高まっていく過程で有名な教皇が二人。

 

 ひとりがウルバヌス2世(位1088~99)。この人は1095年、クレルモンの公会議で十字軍を提唱したので有名。長期に渡る大遠征の火付け役になった人です。

 

 もうひとりが、インノケンティウス3世(位1198~1216)。教皇の権威が絶頂になった時代の人です。政治的にも有能で、破門という武器を最大限利用しながらイギリスやフランスの政治に介入しました。かれの言葉として伝えらえているのが「教皇は太陽、皇帝は月」というせりふ。教皇権の絶頂ぶりがうかがえるね。

 

 最後に修道院の話に戻りますが、教会組織を改革していったクリュニュー修道会も、時代とともにその役割を終えていく。

 

 13世紀には、それまでになかった托鉢修道会というものが現れます。その代表が、フランチェスコ修道会とドミニコ修道会。この修道会は修道院をもたない。修道士は何の財産も持たずに托鉢しながら、野宿して暮らす。徹底的な禁欲生活を送るのです。

 

 フランチェスコ修道会の設立者、聖フランチェスコは、こんなことを言っている。自分たちが雨に濡れ飢えと寒さで震えながら、どこかの町の教会堂にたどり着き、一晩の宿と食事をもらおうとして扉をたたく。そうしたら教会堂の門番が出てきて、ゆすりたかりの悪党と間違えられて、骨が折れるほど棍棒で殴りつけられる。

「その時私達が受難のキリストの苦悩を思い、それを喜んで耐えることができたら、そこにこそ完全な喜びがあるのだ」

だって。

 

 聖フランチェスコは、もともとはなに不自由のない裕福な商人の家に育った。青年時代は、さんざん悪さもしたらしい。それが、信仰の道に目覚めて徹底的に禁欲的な生活に入るんです。諸国を托鉢遍歴しながら、民衆に罪を悔い改めよを説いた。私なんかは、何となく一遍上人と重なる人です。

 

 ともかく、以前のクリュニュー修道会のように托鉢修道会も民衆の信頼をあつめ、キリスト教組織を活性化する役割を果たしました。

2026/04/23

オッカムのウィリアム(1)

オッカムのウィリアム(英: William of Ockham1285 - 1347年)は、フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者、哲学者。通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。

 

経歴

1285年、イングランドのオッカム村に生まれる。オックスフォード大学で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では急進的な唯名論の立場に立つ。

 

1323年、ジョン・ラットレルから異端だとして、当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられる。ローマ教皇・ヨハネス22世と対立、1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。

 

オッカムは、フランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストによって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。

 

信仰と理性

オッカムのウィリアムは

「信仰によってのみ、人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなく、その世界での救済の方法を打ち立てるからである」

と信じていた。

 

オッカムの神論は、個人的啓示と信仰のみに基づいていた(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)。科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた。

 

哲学的思索

Quaestiones in quattuor libros sententiarum

スコラ派において、オッカムは方法と内容の両面において改革を唱道したが、その狙いは簡易化にあった。オッカムは数人の先行する神学者の著作、特にヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの著作の多くを統合した。オッカムはスコトゥスから、神の全能性や恩寵といった概念、認識論や倫理学的意見を受け継いだ。しかし、予定説、受難、普遍の理解、「ex parte rei」(つまり、「物の側の」)の特性、節約の原理といった分野では、オッカムはスコトゥスに反する意見を持った。

 

唯名論

個物を超越した普遍、本質、形相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって、心に外在する存在ではないという立場を強く主張したために、唯名論の開拓者であるオッカムを近代的認識論の父とみなす者もいる。彼は形而上学的な普遍が実在することを否定して、存在論の縮小化を唱道した。

 

オッカムは唯名論よりも、むしろ概念論の唱道者とみなされることもある。というのは普遍は名前に過ぎない、つまり存在する実在物ではなく、むしろ言葉に過ぎないと唯名論者が考えるのに対して、概念論者は普遍は心的な概念である、つまり名前は概念の名前であると考えるからである。ここで概念は心の中にのみであるが、存在するものとみなされている。それゆえに、普遍概念は人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することによって生まれ、心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての対象を持つ。つまり、それはさしあたって自身が表す物の場所を持つのである。

 

それは心を反映する行為を表す術語である。このゆえに普遍は単なる言葉でもなければ、コンピエーニュのロスケリヌスが言うような「セルモー(:sermo)」やアベラールが言う文の中で使われる言葉でもなく、実在物に対応する心的な代替物であり、反映の過程を表す術語である。このため、オッカムは唯名論者とも概念論者とも区別されて「記号論者」と呼ばれてきた。

2026/04/19

ノルマンディー公国(3)

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封建制

 9世紀から約200年間続いたノルマン人の略奪や移動、フランク王国の分裂で西ヨーロッパは大混乱になった。

 

 西や東のフランク国王は、侵入するノルマン人を撃退するだけの力がないので、侵入をうけた各地の人々は自力で地域を防衛するしかなかったのです。そのため、地域防衛の中心となった地方の領主が諸侯として自立していった。カロリング朝断絶後フランス王位についたカペー家も、そうして力をつけてきた諸侯でした。

 

 武力を持った領主は、お互い同士でも戦います。基本的にヨーロッパ中世というのは無政府状態。王も皇帝も名ばかりだから、領地が欲しければ力ずくで奪ったって構わない。誰も文句を言えない。ノルマン人が、各地を占領して建国するのと同じです。領地の奪い合いで、常に戦争状態だと考えてください。

 

 各地の領主が領地争いを繰り広げるうちに、弱い領主は自分の領地を守るために強い領主の家臣になるという形で、領主のあいだで主従関係の系列ができてきます。君主になった大領主は、家臣になった小領主の領地を守ってやるかわりに、臣下になった小領主は君主に忠誠を誓って、戦争になったときは軍役奉仕をする。

 

 領主間の主従関係のピラミッドができあがって、その頂点にあるのが国王です。その下の領主が諸侯。自分に臣従する領主をもたない最低ランクの領主が騎士とよばれる。

 

 日本の戦国時代の大名や、その家臣の関係と似ていなくもない。ただ、大きな違いはヨーロッパの諸侯は、複数の君主に仕えてもいいのです。たとえば、諸侯Zが諸侯Aに臣従を誓っているけれど、それだけでは不安なら諸侯Bの家臣になっても構わない。AもBもZを裏切り者とは考えない。その辺はドライな契約関係です。

 

 こういう場合にAとBが戦争したら、両方に仕えているZはどうするか。Zが年間10日間軍役奉仕するという契約を結んでいるなら、まずはAの指揮下でBと10日間戦って、決着がついてもつかなくても、今度はBのもとへいってAと10日間戦います。そのあとは、戦争が終わっていなくても契約の軍役はすんだので、さっさと自分の領地に帰ってあとは関係なしです。そういう契約なので、AもBもそれ以上は期待しないし要求できない。契約以上の義理人情の忠誠心はありません。

 

 君主が臣下に対する保護も、契約の範囲でしかないのは同じです。こういうのを双務的契約関係という。

 

 諸侯のもとには農民たちも集まってくる。略奪から守ってもらうためだね。諸侯は農民を庇護するかわりに農民は諸侯に隷属するようになる。これが農奴のはじまりです。諸侯は農奴から年貢をとるだけでなく、かれらに対する裁判権など、いろいろな特権を農奴に対してもっていました。

 

 たとえば結婚税。結婚する農奴の新郎から領主が受け取っていた。なぜ、こんな税金があるかというと、もともと領主は初夜権というのをもっていて、農奴同士が結婚するとき新婚初夜の新婦を自分の館に連れ込んで、それから新郎に渡したんだ。新郎としては、こんなのはたまりません。初夜権をお金で買い取った。これが結婚税のはじまりといいます。死んだときには葬式税をとられたり、領主の館に労働奉仕をしにいったり、農奴は領主に経済的にも人格的にも隷属していたのです。

 というわけで、農奴は不自由身分で移動の自由も職業選択の自由もありませんでした。

 

 諸侯が持つ領地が荘園です。農奴たちは、ここで働いた。

 

 諸侯間の主従関係、諸侯と農奴と荘園の関係、これらをひっくるめて西欧中世の封建制度といいます。

 

教皇権の隆盛

 封建制度ができあがるのと同じように、ローマ教会の教会組織が整備されます。聖職位階制といって、ピラッミッド型に聖職者の上下関係が作られた。トップは、もちろんローマ教皇です。そのもとに大司教、司教、司祭という僧侶がいる。司祭が一般の信者と接触する村や町の神父さんです。

 

 このピラミッド型の教会組織とは別に修道院というのがある。これは教皇に直属している。

 修道院というのは、俗世間を捨てて禁欲生活を送る修道士たちの共同生活の場です。シリアやエジプトではじまったものですが、ヨーロッパで最初に作られたのがベネディクトゥス(480~543?)が建てたモンテ=カッシーノ修道院。ここでは、ただ禁欲生活するだけではなくて労働も重視した。「祈り、働け」というのがここのモットーで、このあとヨーロッパにできる修道院の伝統になる。

 

 修道士は、当時はインテリです。かれらが集まって共同生活しながら、自給自足で農作業する。自然に修道院は新しい農法の実験場にもなって、新しい農法がここから開発されて、農民の暮らしを向上させていきました。

 また、修道院は教皇を頂点とする聖職位階制からはずれた存在なので、官僚的になりがちな教会組織に新しい活力をあたえることもありました。

 

 10世紀から11世紀ころまでに教会の世俗化がすすみます。

 たとえば妻帯したり、荘園を所有したりと、聖職者や教会が俗世間の領主とかわらなくなってくる。

 

 これに対して、教会の改革運動をはじめたのがクリュニュー修道会です。これは、「服従・清貧・貞潔」という戒律を厳しく守る、まじめな修道会でした。ここが、教会組織の堕落を批判するのです。そして、やがてはクリュニュー修道会出身の僧侶がローマ教皇になるようなった。

 

 ローマ教皇グレゴリウス7世(位1073~85)がそうです。かれは、教会改革を始めた。

 まずは、聖職売買の禁止。聖職を貴族たちが金で売ったり買ったりすることが当時はあった。荘園をたくさんもっている教会の聖職にありつければ、いい暮らしができますからね。貴族の次男坊以下にとってはおいしい生活手段なのです。これを禁止した。

 

 さらに、聖職者の妻帯を禁止。

 そして、神聖ローマ皇帝による聖職者の任命権を否定した。ドイツ国内にも教会はたくさんあります。そして、ドイツ国内の教会の聖職者はドイツ皇帝、つまり神聖ローマ皇帝ですが、が任命するという慣習があった。

 これに対してグレゴリウス7世は、ドイツ国内の教会であろうともローマ教会傘下の教会であるならば、その任命権はローマ教皇にあるのだと主張したわけです。両者ともに譲らず、ここに皇帝対教皇の争いが始まる。

 これを、聖職叙任権闘争といいます。

2026/04/18

ドゥンス・スコトゥス

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus1266? - 1308118日)は、スコットランドの神学者、哲学者。トマス・アクィナス後のスコラ学の正統継承者。アリストテレスに通じ、その思想の徹底的な緻密さから精妙博士(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。ドゥンスのジョン(John of Duns)やドゥンス・ザ・スコット(Duns the Scot)とも呼ばれる。

 

生涯

スコットランド・ベリックシャー(現在のスコティッシュ・ボーダーズ)のドゥンス(Duns)で生まれ、オックスフォードとパリで哲学・神学を学んだ。1302年からパリ大学で教鞭を執った。最後はケルンで教え、そこで亡くなった。主著として『命題集註』が知られている。

 

1993年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世により列福された。

現在、出身地のドゥンスには銅像が建てられている。

 

思想

トマス・アクィナスと異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレスから一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義のルーツとなっていく。

 

個人の自由意志を尊重する学説を提唱したが、この自由意志こそが個人を個人として成立させる「このもの性」であると説いた。

 

存在の一義性や、個物の此の性の概念は、現代の哲学者ジル・ドゥルーズに大きな影響を与えた。

 

備考

英語で「のろま、劣等生」を意味する dunce という普通名詞は、スコトゥス学派に対して反対派が蔑称として Dunses と呼びかけたことに由来すると言われている。

 

伝承によれば、彼はまだ生きている状態で埋葬され、後に棺を掘り起こした際に、その内側には外に出ようとしてもがき引きちぎられた彼の血まみれの腕があった、とされる。

2026/04/15

ノルマンディー公国(2)

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ノルマン人の移動・封建制

ノルマン人の移動

 ゲルマン人の一派にノルマン人がいます。別名ヴァイキング。海賊の代名詞になっています。現在のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの沿岸部に住んでいた。

 

かれらはゲルマン人の大移動の時には移動しなかった。北の辺境地帯に住んでいたから、フン族もローマ帝国も関係なかったんだね。ところが、ゲルマン人の大移動が一段落した9世紀以降、かれらは船に乗って移動をはじめた。人口の増加が直接の原因らしい。

 

 はじめはブリテン島やヨーロッパの沿岸地帯を襲って略奪をしていた。河川をさかのぼって、内陸部深くまでも略奪します。とくに、教会や修道院が財産を蓄えていたので襲われたようです。

 

 はじめは季節的だった略奪が、やがて一年中おこなわれるようになっていく。各地の支配者たちは、ノルマン人の襲撃を撃退できないんだね。ノルマン人は各地を占領して、国を建てていきます。

 

 具体的に見ていこう。

 

 北フランスの海岸地帯には、911年ノルマンディー公国を建てた。建国者はロロといいます。「ろろ」だよ。「くちぐち」じゃないからね。

 

 フランス王は、ここに侵入したノルマン人たちを追い払うだけの実力がなかったので、かれらの占領を公式に認めて、そのかわり臣下にした。ノルマンディー公国という国名に注意してください。王国ではなくて公国なのです。国にもランクがあって、一番権威が高いのが帝国、帝国の下が王国。王国の下が公国。

 

フランス王国のなかにノルマンディー公国があって、ノルマンディー公国の君主の称号はノルマンディー公。ノルマンディー公は、フランス王の家来です。ただし、実際にはフランス王よりノルマンディー公の方が強い。ロロは「名」より「実」を取ったのだ。領地を正式に認めさせるという「実」です。

 

 ブリテン島やアイルランド島にもノルマン人は侵入した。

 ブリテン島の南部イングランドには、ノルマン人の一派であるデーン人が侵入します。デーン人は今のデンマークに住んでいた人たち。イングランドにはアングロ・サンクソン族が国をつくっていたのですが、11世紀にはデンマーク王クヌートが一時ここを占領してイングランド王になりました。クヌートは、イングランド、デンマーク、ノルウェーの王を兼ねて北海地方に大きな勢力をふるいますが、その死後この王国は崩壊して、イングランドではアングロ・サクソン族の王家が復活します。

 

 しかし1066年、イングランドは再びノルマン人に征服されます。征服したのがノルマンディー公ウィリアム。ノルマンディー公国を建てたロロの子孫です。ここからはじまるイギリスの王朝がノルマン朝。この征服をノルマン=コンクェストという。

 

 面白いのは、イングランドを征服したノルマンディー公はフランス王の家臣だということです。だから、これ以後、イギリス王は王としてはフランス王と対等ですが、ノルマンディー公としてはフランス王の家臣である、というややこしい関係になる。また、フランス国内のノルマンディー公国は、フランスの領土ではあるけれど、その領主はイギリス王でもある。要するにフランス国内にイギリス王の領土があるというわけですね。

 

 何とも複雑ですが、実は中世ヨーロッパではこういう関係は結構あった。ノルマンディー公のようなのが封建領主の典型ですが、こういう封建領主同士が複雑に主従関係を結んでいたのです。

 

 イスラム教徒が支配していたイタリア半島の南端と、シシリー島を征服したノルマン人グループもありました。かれらが、ここに建てたのがシチリア王国。

 

 バルト海からロシアの川をさかのぼって黒海からイスラム圏に通じる交易ルートがあって、ノルマン人はフランスからさらってきた奴隷を、このルートでイスラム教国に売っていたようです。

 9世紀にロシアにノヴォゴロド王国、キエフ公国という国ができるのですが、ノルマンの一派であるルス族が、これらの国の成立に関連があったという説もある。ロシアという国名は、ルス族がなまったというのです。

 

 原住地にとどまったノルマン人はデンマーク、ノルウェー、スウェーデンを成立させました。

2026/04/14

トマス・アクィナス(3)

哲学

トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を、存在者説明のために受け入れる。アリストテレスによれば、存在者には静態的に見れば「質料因」と「形相因」があり、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成した様態が「現実態」である。

 

「形相-質料」は、主に質量を持つ自然界の存在者に該当対象が限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した、質量を持たないで形相のみの存在者にまで該当対象が及ぶ。すべての存在者は、可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因である「神」(不動の動者)は、質料をもたない純粋形相でもあった。

 

しかし、トマスにとっては神が万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼はアリストテレスの存在観念に修正を加え、「本質不可欠存在」(essentia不可欠のente)とした。本質論者のアヴィケンナによる影響があった。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であるが、「本質」はそれだけでは現実に存在できないため「可能態」である。一方、「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。そして神は自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。

 

人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって、知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。

 

法・政治論

トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と、神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。

 

その詳細は以下のとおり。

 

永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり、そのうち理性的被造物たる人間が分有しているものが自然法である。そして自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり、人間がより強く永久法に与れるように神から補助的に与えられたものが神定法である。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが神定法である。

 

ここで神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる。永久法は神のうちにある最高の理念であり、あらゆる法の源泉である。このような永久法の一部である自然法は、あらゆる人定法の源泉であり、その妥当性の基準となるとして、トマスは永久法・自然法・人定法の階層構造を認めたのである。

 

トマスは著作を自ら筆記せず、口述したものを弟子たちに書き取らせた。トマスは悪筆で有名で、初期の伝記作家によればトマスは複数の筆記者にそれぞれに異なった事柄を話し、あたかも「神からの真理の巨大な奔流が、彼のうちに流れこんでいるかのようだった」という。このような伝説的な逸話は別としても、近代の研究者も写本の研究から、トマスが覚書を手にして読み上げながら、自分が読み上げた文章を必要に応じて修正し、他の著作を引用するときはその書物を取り出して読んでいたのであろうと推測している。

 

その著作において、トマスはドゥンス・スコトゥスらと違い、読者にも自らの思想の軌跡を懇切丁寧に追体験させるような表現をせず、権威を持って教えるという形にしている。これは彼が啓示を受けて著作したというスタンスに立っているためであり、そのためトマスの著作は現代のわれわれの視点からは、やや物足りないという感を与えるものになっている。

2026/04/10

ノルマンディー公国(1)

ノルマンディー公国(フランス語: Duché de Normandie)は、ノルマン人が9世紀にフランスに侵入し、その後、次第に地歩を固めて成立したノルマンディー公の公国である。

 

ノルマン人(ノースマン、ないしはラテン語のNormanni)は、デンマーク人、ノルウェー人、ノルマン・ゲール人、オークニーヴァイキングおよびデーンロウから来たアングロ・デーン人といった様々な民族からなる。

 

レーエン関係の設定は、おそらくは伯領として、911年にサン=クレール=シュール=エプト条約によりなされたものである。これは西フランク国王シャルル3世単純王の譲歩によるもので、ノルマン人の首長であるロロに対して与えられた。

 

領土の変遷

元来はネウストリア区の北部から成り立っていて、セーヌ川のルーアンに中心を置いていたが、後には征服活動を行うことでエヴルーとアランソンを含む南部やブルターニュ半島西部に拡大し、最終的には今日のフランス共和国のノルマンディー地域圏、および現在もイギリス王室属領に属すチャンネル諸島とほぼ重なるようになった。かつてのノルマンディー公領の主要な地域は皆フランスの一部となり、現在では公国を成すのはイギリスの君主の王室属領たるジャージーとガーンジーのチャンネル諸島領のみである。現在では、イギリスの君主がノルマンディー公の称号を用いている。

 

言語

ノルマンディーへの移住者は当初は古ノルド語を話したが、公国全体に定住すると現地の住民が話していたガロ・ロマンス語を採用した。ノルマンディーでは、人々の相互作用によって新たに形成されたノルマン語は、古ノルド語からの語彙を継承している。イングランドでは、ノルマン語はアングロ=ノルマン語に発展している。公国およびアングロ=ノルマン王領時代のイングランドの文学は、アングロ=ノルマン文学として知られている。

 

歴史

公国はヴァイキングが植民地化したルーアン伯領、コーおよびタロウ(ディエップ伯領)から形成された。912年にルーアンで首都が樹立され、後に公国の拡大とともに西方のカーンに首都が樹立された。

 

928年にはエヴルー伯領、イエモワ伯領およびベッサンが加わった。

 

931年から934年にかけて、ロロの息子であるギョーム1世長剣公はコタンタン半島とアヴランサンを編入した。チャンネル諸島は933年に編入されている。

 

950年から956年にかけての時折、ノルマンディーおよびその辺境地帯は、辺境伯の地位を獲得した。

 

リシャール2世は、最初にノルマンディー公の称号を用いた(公の称号は987年から1006年の間に設置された)。

 

1066年、ノルマンディー公ギョーム2世はヘイスティングズの戦いでイングランド国王ハロルド2世を撃破して、イングランド王についた。このノルマン・コンクエストは、当然のことながらノルマン化の始まりとなった。

 

ノルマン・コンクエスト後に、ノルマンディーの支配者がフランス国王の封臣として忠誠を誓う形でノルマンディーの地を支配する一方で、同時にイングランド王として対等の地位にあったことは、アングロ=ノルマンとフランスの関係を複雑なものにした。1150年代のアンジュー帝国の創立は、ノルマンディーがフランスの半分とイングランド全土を支配することで、フランスの力を小さく見せた。

 

アングロ=ノルマン王国の一部としての公国支配は、1204年のフランス国王フィリップ2世による征服まで続き、それ以降はフランス王領となった。イングランド王は 1259年のパリ条約まで要求し続けたが、現実のところはかつての公国の内、チャンネル諸島を保持したのみであった。

 

ノルマン朝の忠誠を僅かに確信しつつ、フランス王は新たな領域に行政官を据えて、王権の象徴としての強力なルーアン城という要塞を築いた。王領の内、ノルマンディーは幾つかの独自性を保持していた。ノルマン法は、裁判の判決として使用され続けた。

 

1315年にノルマンディーにおける自由への止むことのないフランス王権の浸食に直面すると、伯爵や町民は国王にノルマン憲章を押し付けた。この文書は地方の自治権を有していないが、王の行動への抗議であることには議論の余地はない。ノルマンディーの宮廷の主要部である財源の評決は、最終的に宣言された。これはパリがルーアンの評決をひっくり返すことが出来ないことを意味していた。

 

その他の重要な譲歩は、国王はノルマンディーの承諾を得ずに税を上げることが出来ないことである。しかしながら、憲章は王の権威が怯んだ時に叶えられたのであり、王権が回復されるや反故されるようになった。

 

ノルマンディー公国は、主に公が断続的に任じられることで生き延びた。実際のところフランス王は時々、王国の一部を自分に忠誠を誓っていない近縁の王家の者に与えていた。フィリップ6世は、自身の長子で後継者であるジャン2世をノルマンディー公に任じており、そのジャン2世は自身の後継者で「ドーファン」の称号で知られるシャルル5世をノルマンディー公に任じている。

 

1465年にルイ11世は貴族達によって、18歳の弟ベリー公シャルルに扶持として公国を譲渡することを強要された。この譲歩はルイ11世にとってはシャルルが、敵対勢力の傀儡になったことを意味する懸案であった。ノルマンディーは、このように王権に敵対する勢力の基盤になり得た。それゆえにルイ11世は、シャルルとノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)公領を交換することに同意した。最終的には、1469年に公内の徒党が固められて粉砕されたことから、ノルマンディーは最終的には譲渡されることがないことを意味した。これは大陸側の公国の決定的な終焉であった。

 

それにも係わらず、16601231日にジェームズ2世は、ルイ14世によって名誉的な「ノルマンディー公」に叙せられている。これはジェームズ2世の兄であるチャールズ2世が、イングランドとアイルランドの王位に返り咲いてから数か月後のことであり(チャールズ2世は、1651年にスコットランドで戴冠式を済ませていた)、恐らくはルイ14世によるジェームズ2世への支援による政治的ジェスチャーだと思われる。チャールズ2世も、また「ノルマンディー公」を請求していたからである。

 

ルイ16世の2番目の息子で、兄が死んだ1789年以前のルイ=シャルル王太子が最終的なノルマンディー公として知られているが、この称号は純粋な儀礼称号であった。

 

現在

ノルマンディー公国は、行政上ジャージー(ジャージー諸島とマンキエおよびエクレウの無人島から成る)とガーンジー(ガーンジー島、サーク島、オルダニー島, ブレッシュ島、ハーム島、ジェソー島およびリホウ島から成る)の二つの代官管轄区から成るチャンネル諸島として生き残っている。現在は英国王チャールズ3世がノルマンディー公の継承者として、これらの地域の領主とされており、「ノルマンディー公」と呼ばれることもある。チャネル諸島は連合王国の一部ではないが、王室属領の一部ではある。

2026/04/09

トマス・アクィナス(2)

思想

トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。かつてはトマスは単なるアリストテレス主義者にすぎないという見方もあったが、最近の研究ではそのような見方は否定されている。

 

トマスはアヴィケンナやアヴェロエス、アビケブロン、マイモニデスなどの多くのアラブやユダヤの哲学者たちの著作を読んで研究し、その著作においても度々触れている。そこから、トマスは単なる折衷家にすぎないとの見方も根強いものがあったが、現在では、「存在」(エッセ)の形而上学がトマス的総合の核心であり、彼独自の思想である点に見解の一致があり、その存在をどのように解釈するかによって、様々な立場に分かれるとされている。

 

全体的にみれば、トマスはアウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念の、ほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。

 

トマスの思想は、その死後もトマス主義として脈々と受け継がれ、近代の自然法論や国際法理論や立憲君主制にも多大な影響を与えただけでなく、19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興を経て、現代にも受け継がれている。

 

神学

トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけにアラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また同様に、商業がめざましい勢いで発展し都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。

 

トマスは、このような時代背景の下、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。またトマスは、同様にアビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。トマスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。

 

アリストテレス自然哲学とキリスト教神学の調停

アリストテレス自然哲学による二元的宇宙像は、地上界の出来事には必然的に天上界が作用するという考え方の基本となった。この考え方には

「地上界のあらゆる出来事は、天上界の動きによって予め決まっている」

という運命決定論と、逆に天上界の運行がわかれば未来を予測できるという占星術が含まれていた。この「自然が自身の法則性にのっとって自律的に振る舞う」という古代ギリシャ自然哲学の世界観は、神による奇蹟を認めるキリスト教とは相容れなかった。

 

キリスト教会は、400年の第1トレド教会会議で占星術の排斥を決議し、さらに561年の第1プラガ教会会議でも占星術を公式に否定した。その後、ヨーロッパでは古代ギリシャ哲学の書物は、イスラム圏に流出したもの以外は教会の書庫の奥に眠ることとなり、その内容は次第に忘れ去られていった。

 

ところが12世紀ルネサンスの過程で、イスラム圏からの流入によって、ヨーロッパの知識人たちはアリストテレス自然哲学を知ることになる。そしてアリストテレスの自然哲学が大学で教育され西欧の知識階級に浸透してゆく過程で、二元的宇宙像とそれに基づく占星術は一般の人々を広く魅了して浸透していった。キリスト教は一方的な禁止や弾圧では、アリストテレス自然哲学を抑えきれなくなっていった。トマスは、その危機に直面したキリスト教神学を救った。

 

問題は

「アリストテレスの二元的宇宙像では、天上界が地上界のどこまで影響を及ぼすのか」

ということだった。

 

トマスは

「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」

と解釈して、キリスト教神学とアリストテレスの自然哲学を調停した。

 

彼の神学思想は、死後一時異端と判断されたが、1322年に復権してキリスト教世界で公式に認められ、14世紀中期に正統神学の地位を確立した。

 

一方で、トマスのおかげで、アリストテレスなどによる古代ギリシャ自然哲学は、公に研究できるようになった。これによるアリストテレス自然哲学などの研究は、17世紀のいわゆる「科学革命」へとつながっていった。

2026/04/04

ファーティマ朝(3)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

 809年にハールーン・アッラシードが亡くなると、地方の統制がきかなくなり、エジプトやイランのアミール(地方の行政官)が独立し始めた。そして10世紀になると、イスラム世界には3人のカリフが並立するようになった。

 

    スペイン(後ウマイヤ朝):アッバース朝に追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世はスペインに渡り、756年に後ウマイヤ朝を建国した。王はカリフを名乗った。

 

    チュニジア(アグラブ朝):アッバース朝の将軍イブラーヒーム・イブン・アグラブがアグラブ朝をおこした。アグラブ朝はシチリア島へ侵攻した。ファーティマ朝に倒される。

 

    エジプト(ファーティマ朝):ファーティマ朝は、チュニジアにおこったシーア派の王朝で、909年にアグラブ朝を倒し、エジプトに進出した。この王朝はカリフを名乗った。1169年サラディンによって滅ぼされる。

 

    イラン(サーマン朝):874年、ブハラ(ウズベキスタン)にスンニ派のサーマン朝ができる。955年にアフガニスタンのガズナで自立したガズナ朝に滅ぼされる。         

 

    イラン(ブワイフ朝):シーア派がブワイフ朝(9321055)を建国。946年にバグダードを占領し、カリフから大アミールの称号を受ける。セルジューク朝に滅ぼされる。

 

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エジプトも、やがてアッバース朝から自立します。エジプトにできたイスラム王朝は三つ覚えればよい。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝です。

 

1,ファーティマ朝(909~1171)首都カイロ

 ファーティマというのは、ムハンマドの娘の名前です。建国者がファーティマと第四代正統カリフ、アリーの血筋を引いていると自称しているので、こう呼ばれています。

 だからシーア派の王朝です。アッバース朝はスンナ派ですから、対抗上都合がいい。スンナ派のカリフなどは認めませんから、ファーティマ朝の君主はカリフという称号を名乗りました。

 

イスラムは一つという理念があったので、それまでもアッバース朝に対立する政権ができてもアミール(将軍)くらいの称号で満足していた。アッバース朝のカリフがいるのに、カリフを名乗るのはタブーだったんですが、それを平気で破ってしまった。

 日本でいえば、天皇家が二つできた南北朝のようなものです。

 

 しかし、一度タブーが破られてしまったらそのあとはあまり抵抗がないもので、ファーティマ朝の君主がカリフを称したすぐあとに、イベリア半島にあった後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世がカリフを自称しました。

 

 この時点で、イスラム世界に、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが出現したことになります。

2026/04/03

トマス・アクィナス(1)

トマス・アクィナス(羅: Thomas Aquinas1225年頃 - 127437日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。

 

カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino) とも表記される。

 

生涯

1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは、貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった。

 

こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を送り込みトマスを誘惑させたが、トマスはそれを追い払った。

 

ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。

 

トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。

 

1252年にドミニコ会から教授候補としての推薦を受けてパリに赴き、規定に則り講師として数年講義を行うことで学位(教授認可)を取得しようとしたが、当時パリ大学の教授会は托鉢修道会に対して敵対的であり、学位取得は長引いた。講師として教鞭を執りながら取得を待ったトマスは、1256年は学位を取得してパリ大学神学部教授となり、1257年には正式に教授会に迎え入れられた。1259年には、ヴァランシエンヌでおこなわれたドミニコ会総会に代表として出席した。

 

1259年にパリ大学を辞任したのちイタリアに戻り、1261年頃にはオルヴィエートのドミニコ会修道院で教鞭を執りつつ、教皇ウルバヌス4世の願いによって聖書註解や神学研究を行った。1265年にはドミニコ会の命により、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で神学大学を設立した。

 

1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めると、その論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。

 

1272年のフィレンツェの教会会議において、トマスは、ローマ管区内の任意の場所に神学大学を設立するように求められ、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想を集大成に努めるようになった。

 

1274年の初頭、教皇は第2リヨン公会議への出席を要請した。トマスは健康状態が優れなかったがこれを快諾し、ナポリからリヨンへ向かった。しかし道中で健康状態を害し、ドミニコ会修道院で最期を迎えたいと願ったが、かなわずソンニーノに近いフォッサノヴァ(現在はプリヴェルノ市の一部)のシトー会修道院で世を去った。127437日のことであった。

 

シトー会士たちは遺体をドミニコ会側に渡すまいと、棺を修道院内に隠す、頭を切り離す、骨だけにするために遺体を煮込むなどの暴挙をあえて行ったともいわれているが、教皇の命令により1369年になってようやく遺骨がドミニコ会に引き渡された。トマスの遺骨の納められた墓は、フランス・トゥールーズのジャコバン教会に存在する。

 

トマスは会う人すべてに強い印象を与えている。彼はパウロやアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、Doctor Angelicus(神の使いのような博士)と呼ばれた。1319年にトマスの列聖調査が始められ、1323718日、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世によって列聖が宣言され、聖人にあげられている。

 

1545年のトリエント公会議。議場に設けられた祭壇の上には二つの本だけが置かれていた。一つは聖書、そしてもう一つはトマス・アクィナスの『神学大全』であった。