2026/02/22

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック総集編その2

スノーボードの種目がより多様化され、高度な技など観ている分には面白いが、例によって「採点」が納得いかない点が多々あるのが難点と言える。

これはいうまでもなく、フィギュアスケートも同様だ。

 

またスキーのジャンプも、単純にたくさん飛べば良いというものではなく「飛型点」などというワケのわからない採点があることが、折角の楽しい競技をつまらなくしている。ワタクシが日本選手贔屓のせいか、どの競技を観ていてもどうも日本選手の得点が思ったように伸びず、海外選手の採点がやけに甘く感じられてしまい、毎度観ていてフラストレーションが溜まって仕方がないのだ。まあ実際にジャッジの殆どは欧米人なのだろうから、それなりの忖度が働くのは容易に想像がつこうというものである。

 

それに比べれば、純粋に速さを競うスピードスケートは安心して観ていられる競技で、屋外で実施するスキーのように天候に左右されることもなく甚だ公正だ。ちなみに、スピードスケートトップ選手の短距離瞬間時速は約60kmというから、自動車並みのスピードで滑っていることになる。

 

速さといえば、ボブスレーの最高速度は時速130kmから140kmに達し「氷上のF1」とも呼ばれる。平均速度は時速100kmから135km程度とか。リュージュもトップ選手の時速は140km以上、コースによっては時速150kmを超える速度に達するという。スケルトンは130キロと言われるものの、顔面が氷面から30センチほどしかないため、体感速度は300キロ以上にもなるとか。素人には、とても怖くて真似のできない特異な競技である。

 

スキーにもスピードのみを争う「スピードスキー」という競技があるらしい。ほぼ直滑降で、設定された100メートル区間の速度を競うというもの。空気抵抗を極限まで減らした特殊スーツに専用のスキーで、世界記録は「時速255キロ」というからビックリだ。1992年アルベールビル大会で公開種目として採用されたものの、練習中に死亡事故が発生したことからオリンピックでの採用は見送られたままとなっている。

 

「速さ」とともに「高さ」もスキーの魅力だろう。

スノーボード、ハーフパイプのトップ選手はリップから跳び出す高さが56mに達し、ボトムからの高さはなんと1112m超えと、ビルの4階に相当するとか。また雪山と青空をバックに空中でのアクロバティックな技を競うスキーエアリアルやスノーボードは、冬季五輪ならではの幻想的な競技と言える。

 

しかしながら、なによりスノーボードの若い選手たちが勝負への執着も国境も超えて、仲間たちの健闘を称えあう姿が美しいではないか!

2026/02/21

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック総集編その1

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックが終了した。

日本は金5、銀7、銅12の計24のメダルを獲得。これまで最多だった前回大会の18個を大きく上回った。

 

計24個のメダルはノルウェー(41)、アメリカ(33)、開催国イタリア(30)、ドイツ(26)に次ぐ5位。金はやや少なかったものの、雪国でも北国でもなく、限定的な地域で決まった季節にしか雪の降らない「温暖な島国」としては、まことに立派過ぎる戦績と言える。

 

競技別では、なんといってもスノーボードの躍進に尽きる。金4,銀2、銅3で計9個だから、全体の4割近い数だ。金メダルに至っては、5個のうちの4つを占める。日本のスノーボードは、なぜこんなにも強くなったのだろうか?

 

またフィギュアスケートも金1、銀2,銅3と計6個と健闘したものの、個人は男女とも銀と銅、団体も惜しくも銀。ロシア選手がいない分、チャンスではあったが案外に金メダルは遠かった。

 

上記2競技以外で金はゼロ。かつては多くのメダルを獲得してきたスピードスケートは、高木の2つと女子団体追い抜きの銅3つのみで、金、銀はなし。金は逃したものの、今回も団体戦含め八面六臂の活躍をした高木以外、個人のメダルはなしだった。前回も個人メダルは高木のみであったし、今度の団体戦も高木がいたからメダルを獲れたようなものだった。

 

【「やり残したことはないかな......」】

「昨日のレース(1500m)が終わってから、メダルに対する思いだったり、オリンピックに対する思いだったり、時間が経つたび、変化していて......。(3つの)メダルを誇りに思う気持ちもあれば、最後1500mを思いどおりの滑りで終えられず、オリンピック自体の思い出が"負けてしまった"で締めくくる感じになったのは、前回の北京と真逆の流れで、いろいろな感情が出てくるのを昨日から繰り返しています。SNS DMや友人のメッセージを読むたび、『メダルを取るだけではない感動をもらった』って言葉をたくさんいただいて、素直にうれしく思う自分がいて。ただ違う瞬間、結果として取りたかったという思いが出てくる。揺れる感情のなかでの時間を過ごしています」

 

「この4年間で取り組んできたことには、誇りに思うところがあって」

「その理由は、チームを立ち上げてすばらしい仲間に出会えて、同じ時間を過ごせたことがかけがえのないものになると感じているからです。スケーティングだけでなくて、スケート人生でチャレンジしたことで得られたものでもあると思っているので、その点で充実した4年間だったと思います。でも、挑戦だけで終わりたくない、頑張ることに満足せず、結果に残したいって気持ちもあったから......そう考えると、悔しい気持ちが込み上げることもあります」

 

通算10個のメダルを獲得してきた大黒柱がいなくなった日本のスピードスケートというのは想像したくない。このコメントを聞くと、もしかしたら目標の「金」を逃したことから、あるいは「次」でのリベンジも視野に入れているのでは? などと期待してしまうのだ。

 

もしも次のオリンピックに出るとなると35歳となるが、海外の有力選手は30台後半というのも決して珍しくはない(ただし、体格的には高木と比較にならぬバケモノがほとんどだが・・・)

2026/02/20

フィギュア坂本、有終の涙(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(12))

女子フィギュアスケートは、SPを終えて中井亜美がトップ、坂本花織が2位、千葉百音が4位と、誰もが表彰台を射程圏に捉える好スタートでFSを迎えた。

表彰台独占は欲張りにしても、複数メダルは十分に期待できる展開で、これまでの経験値から坂本の逆転金メダルを予想していたのは、恐らくはワタクシだけではなかったろう。

が、蓋を開けてみたら、SP3位チャイナ系アメリカ人のアリサ・リュウが逆転金メダルという予想外の結末が待ちうけていた。

 

金メダルを期待された坂本はコンビネーションジャンプのミスがあり、演技後は笑顔なく。キス・アンド・クライに向かう途中、ともに歩んできた中野コーチと抱き合い涙が溢れた。

表彰式では時折笑顔を見せるも、頂点まであと一歩。記念撮影では涙が止まらず。

 

坂本は

「力が最後まで100%出し切れなかったのがすごく悔しいんですけど、でも、これだけ悔しい思いをしても銀メダルを取れたことが、すごく何か今までの頑張りが実ったのかな」

と涙ながらに語った。

 

「正直、やっぱりここで完璧に決めたかったっていう気持ちが強かったので、その出来なかった分が、優勝逃してしまった点数分だったので、もうそれがもうすごく苦しくて、もう涙が出ました」

と率直な思いを打ち明けた。

 

最高の結果には届かなかったが、前回の銅を超える銀メダル。

 

改めて今大会を振り返り

「(前回は)本当に奇跡のような銅メダルから、これだけ銀メダルですごく悔しいって思えるくらい成長したのかなと思うので、この4年間、本当に頑張ってきてよかった」

 

SP1位で、プレッシャーのかかる最終滑走となった17歳の中井亜美は伸び伸びとした演技で銅メダル。あの浅田真央を抜いて、フィギュアスケート日本女子最年少メダリストとなった。

 

日本勢は2位、3位、4位と最も悔しい結果となってしまったが、3選手ともに転倒など大きなミスなく滑り切ったのは立派だった。

 

長らく日本の、というよりも世界のフィギュアスケートをけん引してきた坂本の引退は寂しいが、次のオリンピックは中井や、現在ジュニアで無敵を誇っている島田麻央ら若手に期待か。

個人的には、オリンピックで紀平が観たかったなあ。

2026/02/19

日本は「スノボ大国」? (ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(11))

スノーボード男子スロープスタイルで、20歳の長谷川帝勝が銀メダルに輝き、この種目で初のメダリストとなった。

 

女子スロープスタイル決勝では、19歳の深田茉莉が金メダル。

ビッグエアで金メダルを獲得した村瀬心椛は3位で、今大会2つ目のメダルを獲得した。

確かに深田は完璧な演技だったし、また村瀬も金メダリストの実力を見せつけた。どっちが上に来てもおかしくない素晴らしい2人だったが、それでも優劣を付けなければならないのが勝負の非情さである。

 

さらに言えば

「最後に2位に食い込んだ選手が、村瀬より上なのかなあ?」

など、ジャッジが日本選手のワンツーフィニッシュを阻止したかった(?)のかと疑わしくなるような、例によって採点競技につきものの、もやもやが残ってしまった。

 

ともあれ、今大会スノボで獲得した金は、スノボ6競技のうちなんと4個目。メダルは全部で9個と、全体の半分を搔っ攫った。スノボ以外で日本選手が獲得した金は、フィギュアスケートのりくりゅうペア1個だけだから、まさに「スノボサマサマ」だ。

 

かつて夏季オリンピックでは「柔道ニッポン」、「体操ニッポン」など「日本のお家芸」と言われたが、今や「スノボ・ニッポン」といっても過言ではない席捲ぶり、毎日のように新しいヒロイン、ヒーローが登場してくる層の厚さは目を瞠る。冬季五輪に参加している他の雪国とは違い、限られた地域にしか雪の降らない「温暖な島国」の日本から、なぜこうも凄い選手が次々と現れるのか不思議だ。

 

ところでスノボ選手のエピソードを聞いていると、子供のころから練習場所を求めての全国行脚のため、親が数時間もかけて車で送迎している等の話をよく聞く。また、こうした親はほとんどが欧州などで行われるW杯などの観戦にも付いて回っているというが、いったいどのようにして生計を立てているのだろうと、老婆心ながら気になってしまう。

 

ここまで日本のメダルは、スノボ勢が計9個の荒稼ぎで過去最多の18個を大きく上回り22個まで伸ばした。オリンピック大国アメリカの24個と、ほとんど差がないとはビックリだ。

2026/02/18

日本のメダルラッシュ続く (ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(10))

ノルディック複合・個人ラージヒル前半ジャンプでトップに立った山本涼太は、後半の距離で大きく失速して15位に終わる。

 

ノルディック複合は、ジャンプとクロスカントリーの二種目で争う競技だが、なにしろジャンプの得点が少なすぎる。

 

かつての荻原健司など、ジャンプの得意な日本勢が上位を独占したあたりからルールが変わり、ジャンプの得点がバカみたいに抑えられた。ジャンプでかなりの差をつけても、クロスカントリーのスタートで雀の涙のアドバンテージしかもらえないから、スタート直後にあっさりと抜かれてしまうのが日本選手で、これではほとんどクロスカントリー競技と変わらない。クロカンの得意なノルウェーの選手などは、上り坂ではまるで走っているような速さだから、とても勝負にならない。

 

カーリングの日本女子(フォルティウス)は、日本はここまで16敗の不振で早々に予選敗退が決定した。

これまで「カーリングと言えばロコ・ソラーレ」というのが常識だった。実際にオリンピックで銀(前回)、銅(前々回)という輝かしい実績を残してきただけに

「やっぱりオリンピックはロコじゃないとダメなんじゃね?」

という声が上がってきそうだ。

 

とはいえ、そのロコもメンバーがかなり高齢化してきているだけに、今回代表の座を逃したのがやはり勿体なかった。

 

スピードスケート女子団体パシュート。日本代表(佐藤綾乃、堀川桃香、野明花菜、高木美帆)は準決勝でオランダに僅差で敗退したが、続く3位決定戦ではアメリカに勝利し、なんとかメダルを死守した。

31歳のエース高木の体力が、よく続くものだ。個人種目を考えると、本来なら予選は温存しておきたいところだろうが、日本選手の層がそこまで厚いわけではないから、どうしても高木頼みになってしまうのは致し方ない。が、これだけ何本も滑って、金メダルの期待がかかる1500mまでに疲労が回復できるか気になる。

 

それにしても、この「チームパシュート」とか、スキーの「モーグル」とか、よく色々な競技を思いつくものだと感心してしまうが、ショートトラックのレースは観ているだけで目が廻ってしまう。

 

フィギュアスケート女子ショートプログラムで、17歳で今季からシニアデビューしたばかりの中井亜美が、自己ベストの高得点をたたき出して見事トップに立った。エース坂本花織は2位、千葉百音は4位と3人そろって好位置につけた。

FSでは、伸び盛りの若手の勢いと、ベテランエースの巻き返しに期待がかかる。

 

日本の獲得メダルは、過去最多だった前回大会の18を上回る19個目となった。

2026/02/17

「りくりゅう」奇跡の大逆転で「金」のドラマ(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(9))

今回から新たに加わったスキージャンプ男子スーパー団体は、各国2人の選手が3回飛んで、合計点で順位を決める。

二階堂蓮・小林陵侑が出場した日本は、1回目は2位と好スタートを切ったものの、2回目を終えて6位と苦戦。

最後の3回目で二階堂が会心のビッグジャンプを決め、一気に2位に浮上。この後、メダルを掛けた上位国の争いが佳境に入ったところで大雪となり、メダル争いの有力国の選手も飛距離が伸び悩む。日本のメダルへの期待が膨らんだところで、まさかの中断の判定。

この結果、「2本目を終わった時点での得点で順位が決定」というワケのわからないルールにより、日本は無念の6位に終わった。

 

「これがオリンピック」と苦笑いの二階堂に対し、3本目の準備をしていた小林は

「常に飛ぶ体勢でした。というか、あの気象の雲のレーダーを見れば(雪がやむと)絶対に分かっていた。5分後にやむと知っていてもしなかったんだな、と」

と打ち切りの判断に疑問を呈した。

 

作山憲斗ヘッドコーチも「奇妙」を連発。

「自然と戦う競技なのでしょうがない」としつつ

「本音をいえば30分ぐらい待ってほしかった。なんでこんな早く決めちゃったのかな」

 

実は同様のコメントはドイツなども

「なんで待たなかったのか、理解できない」

と試合を続けなかった判断に疑問符を呈したうえで

「もうヤケ酒を飲むしかないよ」

といったコメントもあったように、4年間をオリンピックに賭けてきながら最後の勝負を決める肝心なところではしごを外された選手たちにとっては、なんとも消化不良としかいいようがない結末だった。

 

フィギュアスケートのペア・フリーでは、前日のSPでまさかの5位と出遅れた木原龍一&三浦璃来の「りくりゅうペア」が、フリー世界最高得点の驚異的な演技を演じて、大逆転の金メダルに輝く。

 

前日のSPでは、得意のリフトで「練習でもしないようなミス」というまさかの失速。

男子シングルスで絶対的な本命とみられていたマリニンが

「オリンピック金メダリスト候補として扱われることは、特に私の年齢で本当に大きな負担でした」

と言っていたが、同様に「金メダル候補」と期待されていた「りくりゅうペア」にも、同じようなプレッシャーがあったかもしれない。

 

それにしても、FSで本来の力を発揮できればメダルの期待はあったとはいえ、5位から大逆転の金メダル、それも世界最高得点とはまるでマンガかドラマのようなストーリーだった。

 

SP終了後、泣いてばかりいたという木原。対照的に24歳の三浦の方は

「龍一くんが、ずっと泣いてるんですよ。いつも引っ張ってくれる龍一くんが。だから今回は私がお姉さんでした」

と、9歳も年上の木原を「龍一くん」とクン呼ばわりし、号泣を続ける木原を尻目に清々しいというかあっけらかんとした表情だ。外国人選手に比べ子供のように小っちゃい三浦だが、あのメンタルの強さは、まさに世界一に相応しい?w

2026/02/16

堀島選手がモーグルで2個目のメダル (ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(8))

フリースタイルスキー男子デュアルモーグルで、モーグルで2大会連続銅メダルの堀島行真が今大会2つ目のメダルとなる銀メダルを獲得。前回(2022北京)のモーグルでの銅と併せ、3つ目のメダル獲得だ。

 

スノーボード女子スロープスタイル予選は、村瀬心椛、岩渕麗楽深田茉莉と出場4人のうち3人が決勝進出を決めた。ビッグエア(BA)との「2冠」を目指す村瀬心椛は2位で「順当に」決勝進出。

 

スピードスケート女子500mでは、高木美帆が銅メダルを獲得。1000mに続き、今大会2つ目の銅。この種目では、前回(2022北京)の銀に続く連続メダルとなり、3大会通算で9個目(金2,銀4、銅3)のメダルを獲得。

今大会は1000mや1500mといった中長距離をターゲットに調整してきたという中で、ほとんど練習してこなかったという500mでメダルを獲るところはさすがだ。

 

高木が「数十年に一人」というような滅多に現れない逸材であることは疑いないところだが、それに続く若手が育ってきていない。高木のようなオールラウンダーはそう簡単には出てこないにしても、種目別で前評判の高かったり、ワールドカップなど他の大会では高木以上の結果を残しきた選手も、オリンピックとなるとどれも高木の足元にも及ばないのが実情だ。30を過ぎた高木に、いつまでもおんぶにだっこというわけにはいくまい。

 

 フィギュアスケートペアSPで金メダル候補に挙げられていた木原龍一&三浦璃来の「りくりゅうペア」は、リフトでミスが出て5位と厳しいスタートとなった。

2026/02/15

銀に「悔しい銀」あり(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(7))

スピードスケート女子パシュート準々決勝で、日本代表(佐藤綾乃、堀川桃香、高木美帆)は2位となり、準決勝進出を決めた。

いつもながらだが、高木美帆選手のインタビューは求道者のような怖い表情で必ず反省点を口にする。その抜きんでた実力から常に頂点を狙っているのだろうし、周囲の期待も大きいから楽しむという心境ではないのだろうが、いかにもやってくれそうな雰囲気に期待してしまうのである。

 

ジャンプ(スキー)男子個人LHでは、1回目トップに立った二階堂蓮は2回目の最後で逆転を許し、本人曰く「悔しい」という銀メダル。とはいえ、ここまで個人ノーマルヒルで銅、さらに混合団体の銅に続いて今大会3つ目のメダルだから立派なもの。勝負の2回目で納得いくジャンプができなかったのは残念だった。日本男子ラージヒルでの銀メダルは、前回の北京大会の小林陵侑に続き2大会連続となる。

 

スノーボードだけは、あたかも簡単に「金」が獲れるように見えてしまうが、他の競技を観ていると「金」を獲るのがいかに大変かがわかる。むしろスノボの快進撃の方が異常過ぎるのだ。

2026/02/14

スノボの快進撃止まず(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(6))

フィギュアスケート男子FSで、鍵山優真が前回(2022北京)に続く2大会連続の銀メダル、佐藤駿が3位のW表彰台。鍵山は団体戦を含め、通算で銀が4つという珍しい記録だ。

優勝候補と最右翼と目されたアメリカのマリニンはプレッシャーに潰されたか、2度の転倒を含むジャンプのミス連発でフリー15位と大失速し、まさかの8位に終わった。

 

競技後

「正直なところ、まだ何が起きたのか自分でも整理がついていない。感情が入り混じっています。今日一日ずっと調子は良かったですし、手応えもありました。いつも通り、自分が積み重ねてきたプロセスを信じて滑ればいいだけだと思っていました。

でもやはり、ここは他の大会と違います。オリンピックです。内側から沸き上がるプレッシャーや緊張感は、実際にその場に立ってみないと分からない。とにかく圧倒されてしまい、自分で自分をコントロールできていないような感覚でした」

と、失意の表情で振り返った。

 

「はっきりとした原因は分からない。緊張だけでなく、氷の状態も理想とは少し違っていた。ですが、それは言い訳にはなりません。どのような状況であっても、私たちは滑らないといけない。ただ、緊張に圧倒されてしまった。スタートのポーズにつく直前に、これまでの人生の辛かった記憶が頭の中を駆け巡り、ネガティブな思考でいっぱいになってしまった。それにうまく対処できなかった」

と、首を振った。

 

アメリカ選手といえば、大舞台になるほど実力以上の力を発揮してくるイメージだったが、こんな選手もいたのかと親近感が。

 

スノーボード男子ハーフパイプ決勝では、3大会連続五輪出場の戸塚優斗が悲願の金メダルを獲得、初出場の山田琉聖は銅メダルに輝き、こちらもW表彰台を達成。2大会連続出場の平野流佳は4位、直前に骨折の大ケガを抱えながらも強行出場した前回王者の平野歩夢は7位に終わり、4大会連続メダルはならず。

 

2回目の最後の一人を残す時点まで、日本勢が1位から4位までを独占し「これは表彰台独占もあるか?」と期待させる展開。ところが最後の3回目も、メダルを争う3選手ともほぼ完璧に近い出来に見えたが、思ったほど点が伸びない。2回目最後に登場したオーストラリア選手が2位に割って入り、結果銀メダルとなったわけだが、果たして上位の日本選手の間に割り込むほどの出来だったか?

 

「これが採点競技だ」と言ってしまえばそれまでで、ジャッジの間に日本選手(あるいは特定国)の上位独占は許さないという暗黙の了解があったのでは? と勘繰りたくなってしまうが、いかに言ったとて結果が変わるわけもないから止めておこう。

 

今大会、日本はスノーボードの男女ビッグエアで、木村葵来と村瀬心椛がアベックVの快挙を達成しており、この日の戸塚の金により日本勢は大会8日目で早くも前回の北京五輪と並ぶ3個目の金メダルに到達。

 

この日まで日本選手の獲得したメダルは合計14個となり、2018平昌の13個を上回った。過去最多の前回(2022北京)の18個を抜くのは、もはや時間の問題だろう。

金3つはすべてスノボで、合計14のうちスノボ勢が6個という荒稼ぎっぷりだ。

2026/02/13

スノボはアジアのお家芸か?(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(5))

フリースタイルスキー男子モーグルで、堀島行真が2大会連続の銅メダル。

 

スノーボード女子ハーフパイプでは、4人が出場した日本選手は全員が決勝に進出。決勝は12人だから1/3を占めたものの、決勝では転倒などミスが相次いだ。そんな中で、小野光希が銅メダルを獲得。清水さらは4位、工藤璃星は5位と惜しくもあと一歩でメダルに届かず。北京五輪銅の冨田せなは9位。

この競技は、金がコリア選手、銀がコリア系アメリカ選手、銅が日本選手と実質アジア系が表彰台を独占。決勝に進んだ12人も、日本選手4人を筆頭に半数以上をアジア系が占めた。

 

この日まで、日本選手の獲得したメダルは早くも10個(金2,銀2、銅6)となり、3大会連続の二桁に乗せた。

2026/02/12

日の丸飛行隊(古w)銅の飛翔 (ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(4))

大会7日目

フリースタイルスキー男子モーグル予選1Rで、堀島行真が1回目1位突破。

 

フリースタイルスキー女子モーグル予選1Rは、冨高日向子と中尾春香が決勝進出を決める。

 

ジャンプ(スキー)混合団体の日本チームは二階堂蓮、小林陵侑、丸山希、高梨沙羅のメンバーで「銅」。混合団体として初のメダル獲得となった。

 

ところで、混合団体のメンバーを見て

「なぜ、高梨なんだ?」

と、思わず目を疑ってしまった。

 

忘れもしない前回の北京五輪では「スーツの規定違反により失格」という前代未聞の醜態を演じた高梨。総合優勝4度のワールドカップなど確かに実力は認めるが、ことオリンピックに関する限り2018平昌五輪の個人ノーマルヒルで「銅」ひとつのみと、持てる実力を発揮してきたとは言い難い。さらに言えば、すでにピークを過ぎている。

 

「他にもっと有力な選手がいるのに、なぜわざわざピークを過ぎたインケツを起用したのか?」

と納得いかぬ思いだったが、他の選手の頑張りもあってなんとかメダルを確保できたから、まあ良しとするか。

フィギュアスケート男子SPで、日本期待の鍵山優真が2位。表彰台はもちろん、金メダルの期待がかかる。

2026/02/11

スノーボード2個目の「金」(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(3))

大会6日目

スピードスケート女子1000mで高木美帆が「銅」。

オリンピック3大会連続出場というだけでも凄いが、過去2大会で「金2、銀4、銅1」と7つものメダルを持ち帰っている。今回獲得したメダルで通算8個目となったが、一人でこんなにたくさんのメダルを獲った選手もなかなかいないのではないか?

だが、本人はあくまで金メダルを狙っていたのか「銅」には不満気なのだった。

 

それにしても、高木と一緒に滑って金メダルを獲得したオランダのレールダム選手との体格差を見ると、もはや「同じ人類」とは思えない。ウィキで調べてみると高木選手も決して小柄とも華奢でもない(164㎝、58㎏)のだが、なにしろ相手のデカさ(182㎝、体重不明?w)たるや・・・(略)。こんな怪物どもを相手にしての実績をと考えると、いっそうその凄みが伝わろうというものだ。

 

ジャンプ(スキー)男子個人NHで二階堂蓮が「銅」。前回(2022北京)「金」の小林陵侑は8位。

 

スノーボード女子ビッグエアでは村瀬心椛が「金」。前回(2022北京)「銅」に続き、21歳の若さで2大会連続の五輪メダリストだけでも立派だが、早くも頂点を極めることに。ゴーグルを外すと、まだまだあどけない顔の選手たちが次々に登場してくるような競技である。

 

日本選手が獲得したメダルは「金2、銀2、銅3」と依然好調だ。

2026/02/10

フィギュアスケート名物「疑惑採点」(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(2))

大会5日目

スノーボード男女パラレル大回転で「優勝候補」とも目された三木つばきにくわえ、2大会連続金の絶対女王・レデツカらが準々決勝で敗退の波乱。

 

スノーボード女子ビッグエアでは、日本勢4人全員が決勝進出。村瀬心椛は全体2位。

 

フィギュアスケート団体(男女&ペアFS)は、ペアフリーの木原龍一・三浦璃来組、女子フリーの坂本花織が1位。男子フリーの佐藤駿が2位で、日本は2大会連続の銀メダルを獲得。

 

「毎度恒例」のフィギュアスケート「採点疑惑」がまたまた飛び出した。

 

ネット上だけでなく、海外からも

「男子フリーの佐藤選手の2位はおかしい、アメリカ選手に勝っていた」

「金メダルを盗まれた」

といった声が澎湃と上がっていたらしい。

 

競技は観てなかったが、フィギュアスケート観戦歴ン十年のワタクシからすれば、この競技の「採点疑惑」はもはやお約束事だから、今更驚きはない。そもそも「フィギュアスケート団体」という種目自体がよくわからず、おおかたどこかの国に優勝させるために無理やり作られた種目だろうと睨んでいるのだが

2026/02/09

スノボ男子ビッグエア金&銀の快挙!(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(1))

スキージャンプ女子個人ノーマルヒル丸山希選手の「銅」を皮切りに、スノーボード男子ビッグエアでは、木村葵来選手が「金」、木俣椋真選手が「銀」の快挙。

 

「スノボ男子の金メダルは日本人初」と聞いて「あれ、前にも何人か獲ってなかったっけ?」と勘違いしていた原因は、どうもスノボとスケボーがごっちゃになっていたらしい。

 

ワタクシのようなド素人の目には、どっちも曲芸のようにしか見えないが、スノボの方は雪が背景になっている分、見た目に幻想的である。

 

ところでスケボーは「ボー」と伸ばすのに、なぜスノボは「スノボー」とは言わないのかと、どうでもよいくだらないことはさておき、スケボーに続いてスノボまでもがすっかり「お家芸」と言えそうなくらい日本選手の目覚ましい活躍ぶりである。

 

ともあれ、この日の日本勢は金・銀・銅各1という、なかなか珍しい日となった。

2026/02/08

五代十国時代(2)

後晋(936-946年)

しかし明宗は、在位わずか7年で病死する(933年)。

三男の李従厚がその後を継ぐが、すぐに明宗の義子(養子)である李従珂によって簒奪された。更に李従珂は権力の安定を狙って、明宗の女婿であり実力者である石敬瑭を排除しようとする。石敬瑭はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬瑭は、北の契丹に対して援助を求め、その見返りとして燕雲十六州の割譲を約束した。これに応えて契丹の太宗耶律徳光は、大軍を南下させて後唐を攻め、これを滅亡させた。

 

936年、皇帝に即位して後晋を建てた石敬瑭(高祖)は契丹に対して臣従し、後晋はほとんど契丹の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南の呉に寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。その鎮圧に追われて、高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、彼の即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。

 

946年、契丹(翌年に国号を遼とした)の太宗は再び親征の大軍を南下させ、後晋の首都の開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗した。また遼の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。

 

後漢(947-950年)

それを傍観していた石敬瑭の元側近の劉知遠は、自らの任地である晋陽で947年に皇帝に即位して後漢を建て、軍を南下させて同年に開封を占領した。しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近達は有力者の排除を図り、次々と軍人達を誅殺していった。

 

反乱の鎮圧に出ていて、これを免れた枢密使の郭威は、自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近達を一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこにあたる劉贇を擁立しようとしたが考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位し(太祖)後周を建てた。それから間もなく、劉贇の父の劉崇は晋陽の地で自立し、北漢を建国した。

 

後周(951-960年)

即位した太祖郭威は内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが、954年に即位した柴栄(世宗)である。世宗は五代の中で随一の名君とされる。

 

世宗(柴栄)がまず行ったことは、自立性の強い軍人達を抑えることである。その軍人達を抑える目的で作っていた侍衛親軍が強大化しすぎていたために、一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍司令官も皇帝に対抗できないようにした。その兵力を元に南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも南唐から奪った土地は塩の産地として極めて重要な地域であり、この地を抑えたことで南唐の生殺与奪権を掌握したと言ってもよい。

 

また軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国では「三武一宗の法難」といわれる廃仏運動が行われており、「一宗」が世宗のことである。当時は税金逃れのために非課税の僧侶になるものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた。また当時は貨幣を鋳るための銅が不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用し、「周元通宝」という銅銭を鋳造した。統一への道を突き進んでいた世宗(柴栄)だったが、959年に遠征から帰る途上で病死する。

 

十国

十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者の楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、906年には、唐朝から「呉王」に任命された。呉の軍は戦争が強く、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉の国内では楊行密の死後、配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって国を簒奪された(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」と改めた。この国は、後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。

 

同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者の銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。

 

呉越の南の福建では、威武軍節度使の王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は国内で内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。

 

西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者の馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉隠はアラブ系といわれており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし、後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。

 

四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者の王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の孟知祥が自立して、934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂は、この時代の文化を伝える上で大きく貢献した。

 

中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。

2026/02/07

日蓮(7)

思想

日蓮の主要教義は、三大秘法と五義(五綱)である。ここでは、その概要を述べる。

 

三大秘法

三大秘法とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三つをいい、仏教全般の基本である戒定慧の三学を日蓮の仏教に当てはめたものとされる。「法華取要抄」「報恩抄」「三大秘法抄」などにおいて説かれる。「本門の」との言葉が冠されるのは、日蓮が弘めた法が従来の仏教を超越していることを示す趣旨である。ただし三大秘法の解釈については、各宗派において大きな相違がある。

 

「三大秘法抄」は、古来より真偽未決の遺文である。「三大秘法」という言葉は「三大秘法抄」を除いて使用例はなく、唯一「曽谷入道殿許御書」で「一大秘法」という用例が見いだされる。

 

本門の本尊

本門の本尊とは、日蓮の仏教における信仰と礼拝の対象をいう。

 

本門の本尊について日蓮宗では、その実体は「久遠実成本師釈迦牟尼仏」、すなわち法華経寿量品文上に説かれる五百塵点劫成道の釈迦仏であるとし、具体的な本尊の形態としては文字曼荼羅、一尊四士(釈迦仏像の左右に上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩像を安置する形態)、二尊四士(釈迦如来・多宝如来像の左右に四菩薩像を安置する形態)のいずれでもよいとする。

 

それに対して、日蓮正宗など日興門流の多くは仏像を本尊とすることを認めず、本門の本尊とは文字曼荼羅のみであり、文字曼荼羅は日蓮と一体不二であるとする(曼荼羅を法本尊、日蓮を人本尊とする)。その背景には、日蓮宗が法華経に説かれた釈迦仏を本仏(教主)とするのに対し(釈迦本仏論)、日蓮正宗は釈迦仏を正法・像法時代の仏ととらえ、日蓮を末法の本仏とする(日蓮本仏論)など、本仏観の相違がある。

 

本門の題目

本門の題目は南無妙法蓮華経であり、また本門の本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱えることをいう。

 

南無妙法蓮華経の言葉は、日蓮以前にも存在した。その場合、南無妙法蓮華経は妙法蓮華経という経典に帰依する(南無する)ことを意味する言葉だが、日蓮は妙法蓮華経は法華経の名ではなく、妙法蓮華経の法体であり、心(意)とした。また日蓮は、妙法蓮華経二十八品を「広」、方便品・寿量品を「略」、南無妙法蓮華経を「要」と位置づけた。すなわち日蓮において、南無妙法蓮華経はたんに妙法蓮華経という経典に南無するという意味の言葉ではなく、末法の衆生を成仏させる根源の法(妙法)そのものを意味する。

 

本門の戒壇

戒壇とは、従来の仏教においては僧侶の授戒の儀式を行う場所を意味したが、日蓮の仏教の戒壇は本門の本尊を安置して南無妙法蓮華経の題目を行ずる場所をいう。日蓮は、真蹟が確認できる「法華行者値難事」「法華取要抄」「報恩抄」で「本門の戒壇」と名目だけ書き記し、それが指す内容については言及していない。また「三大秘法抄」では「本門の戒壇」ではなく「寿量品の戒壇」と記されている。

 

なお「三大秘法抄」には、妙法が広まった時には最勝の地に戒壇を建立すべきであるとの教示がある。この戒壇は、教団が目標とすべき理想を示したものとされる。

 

五義(五綱)

教・機・時・国・教法流布の先後の五義は五綱ともいい、日蓮独自の教判である。教判とは教相判釈の略で、諸経の勝劣を比較検討し、自らの宗旨建立の正当性を示すものをいう。「教機時国抄」「顕謗法抄」「南条兵衛七郎殿御書」などに説かれている。

 

五義は、「顕謗法抄」で「行者、仏法を弘むる用心」といわれるように、仏法弘通のために留意すべき判断基準でもある。一般の教判が主に教理についての判定であるのに対し、日蓮が立てた五義(五綱)は教理だけでなく、衆生が教えを受け入れる能力(機根)、時代の特質(時)、その国の国情(国)、それまでに広まっている教え(教法流布の先後)を総合的に判断する基準であるところに特徴がある。

 

一切の宗教の中で、どのような教えが人々を幸福へと導く適切な教えであるかを判定すること。日蓮は「五重の相対」(開目抄)、「五重三段」(観心本尊抄)などを通して、南無妙法蓮華経こそが末法に弘めるべき教であるとする。

 

教えを受け止める衆生の宗教的能力(機根)を判断すること。日蓮は末法の衆生は釈尊在世の結縁を持たず、南無妙法蓮華経のみによって成仏できる機根の衆生であるとした。

 

この時とは仏法上の時であり、今日は従来の仏教では衆生を救済できない第五の五百歳、すなわち末法であると知ることをいう。

 

その国の国情を知って、仏法を流布することをいう。日蓮は、日本国は法華経に有縁の国であるとした。

 

教法流布の先後

先に広まった教えを知って、後に弘める教えを判断すること。日蓮は、後に弘める教えは先に広まっている教えよりも深い教えでなければならないとした。

2026/02/03

五代十国時代(1)

五代十国時代(907 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。

 

北宋が完全に中国を統一した979年が、五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。

 

五代という言葉は北宋の欧陽脩による歴史書『五代史記』に由来し、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。

 

一方、この同じ時期に、中原の周辺や中国南部では大小様々な地方政権が興亡していた。それらのうち、特に前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢を指して十国という。ただし、十国全てが同時期に存在したわけではない。

 

960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した北宋は、その後残っていた十国の国々も平定し、979年に北漢を滅ぼして中国を統一した。これによって五代十国時代は完全に終わりを遂げた。

 

歴史

五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と、朱全忠や李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だということができる。そこで、この概略では黄巣の乱の時点から説明する。

 

唐の完全滅亡まで

唐の中央政府は、755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし節度使勢力を抑え込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。

 

このような状態の中で、黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて、手心を加えた者があったともいわれている。

 

黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。

 

しかし、これにより皇帝は、その名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、周の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。

 

この時期に中央を争っていたのが、開封を中心に山東・河南を支配していた朱全忠と、晋陽を中心に山西を支配した李克用である。このほかの有力者に、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。

 

その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。

 

李克用の軍は、真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。「後」の字は、後世の歴史家が区別するために付けた。以下、全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。

 

五代

後梁(907-923年)

朱全忠が皇帝となると、これに従うことを良しとしない各地の勢力は、自らも皇帝を名乗った。一方、後梁と対立することを望まない華南の諸国の中には、後梁に対して臣下としての礼を取る国もあった。

 

朱全忠の宿敵である李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は後梁に対して苛烈な攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪われる。更に朱全忠は後継者を選ぶに際して失敗し、内紛を招いた。それを横目で見ながら李存勗は913年、燕王を名乗っていた劉仁恭を滅ぼして、その故地を併合。自信を付けた李存勗は、923年には唐皇帝(荘宗)を名乗って唐(後唐)を建国し、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。

 

後唐(923-936年)

李克用らの李姓は、黄巣の乱での功績により唐朝廷から国姓を授けられたものである。これを所以として荘宗は自らを唐の後継者と称して、後唐を建てたのである。後梁を滅ぼした後、岐王を名乗っていた李茂貞や四川を支配していた前蜀を相次いで滅ぼし、領土を拡大した。しかし、荘宗は内向きには唐の遺光を惜しむかのように洛陽へ遷都し、朱全忠が廃止した軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させ、武将達の不満を買った。この不満が、926年の武将達による李嗣源(後の明宗)の擁立となって現れる。李嗣源の軍が洛陽に迫ると、禁軍(近衛兵)により荘宗は殺された。

 

即位した明宗は宦官の排除・節約などを図り、全国の土地の検地を行って不公平の是正に努め、新たな財務機関として「三司使」を創設した。また、自分のような有力軍人達による帝位の奪取を繰り返させないように、直属の軍である侍衛親軍(じえいしんぐん)を創設し、禁軍の強化を図った。この三司使は、後の宋にも受け継がれている。明宗は、五代の中では後周の世宗に次ぐ名君と称えられる。

2026/02/02

日蓮(6)

朝廷への諫暁

弘安4年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇は、その申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。

 

この年、日蓮の庵室が老朽化して手狭になったため、10間四面の規模を持つ大坊が建設された。その建設は地頭・波木井実長の一族が中心となり、富木常忍ら他の門下の協力のもとに行われた

 

入滅

日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的には回復しても病状は次第に進行していった。弘安4年(1281年)5月には日蓮自身、自己の死が迫っていることを自覚するまでになった。同年12月には、門下への書簡の執筆も困難になっている。

 

日蓮の病状は弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになった。その温泉は「波木井殿御報」に「ひたちのゆ」とあるので常陸国の温泉と考えられる。それがどこの温泉か諸説あるが、今日では波木井実長の次男・実氏の領地にあった加倉井の湯(茨城県水戸市加倉井町)と推定されている。

 

日蓮は、98日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を出発した。富士山の北麓を回り、箱根を経て18日に武蔵国荏原郡にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。日蓮は到着の翌日、日興に口述筆記させて波木井実長宛ての書簡を記した。その中で日蓮は、実長に対して謝意を表するとともに、自身の墓を身延に設けるよう要請している。

 

日蓮が池上邸に滞在していることを知って、鎌倉の四条金吾、大学三郎、富士の南条時光、下総の富木常忍、大田乗明など主要な門下が参集してきた。925日、門下を前に日蓮は「立正安国論」の講義を行った。これが日蓮の最後の説法となった。108日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧)と定めた。

 

なお日興門流では、日蓮の入滅前に日興に対して付嘱がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。日興門流(富士門流)では、日蓮を釈迦仏よりも根源的な本仏と位置づけ、『富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事』『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事』(日興遺誡置文)、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は(中略)本門寺に懸け奉るべし』(日興跡条々事)等、広宣流布および本門寺建立を目的としている。

 

日蓮は、弘安5年(1282年)1013日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅した。入滅に先立って日蓮は、自身が所持してきた釈迦仏の立像と注妙法蓮華経を墓所の傍らに置くことと、本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことを遺言している。

 

日蓮の思想の背景

日蓮は、鎌倉時代の仏教の総合大学であった天台宗比叡山延暦寺で学び、日蓮自身は天台宗の僧としての自覚のもと、伝教大師最澄を崇敬し、法華経を信奉していた。『立正安国論』では「天台宗の僧侶日蓮が記した(天台沙門日蓮勘之)」と記している。

 

比叡山延暦寺で最澄が定めた天台宗の伝統的な修行を行い、21才から32才までの12年もの間、比叡山で修学し、「阿闍梨(あじゃり)号」が授けられている。

 

日蓮は、時代が既に末法に入っていることを確認し、天台教学から一切経の中で法華経が最勝の経典であるのに、諸宗が法華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、天台宗も「師子身中の虫」によって変質していることを批判、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。

 

日蓮は四箇格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)に表されるよう禅宗や真言宗、真言律宗、また真言宗の教えを取り入れて密教化していた当時の天台宗も批判するが、特に批判対象としたのは浄土宗である。

 

日蓮が生まれた承久4年(1222年)より10年前の建暦2年(1212年)に、同じ天台宗から出た日本浄土宗の宗祖である法然が亡くなっているが、法然は法華経至上主義である天台教学を学びながらも法華経より「浄土三部経」を上位に置き、『選択本願念仏集』を記し、末法においては、凡夫が悟りに至ることは不可能で、厳しい修行も無効であり阿弥陀仏に来世での救いを求める念仏だけが相応の教えであると説いた(聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべき、法華経をも捨て、南無阿弥陀仏=念仏を選択するしかないという思想)。

 

法然自身も批判される事を承知していたが、『選択本願念仏集』が開版されると、延暦寺、興福寺などからも多くの批判に晒され(承元の法難)、明恵の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』や定照の『弾選択』といった批判書も出た。

 

日蓮もこの法然の浄土教を邪教として激しい批判を行い、邪教が武家、庶民にまで広まってしまったために数々の災いが日本に生じており、いずれは内乱(自界叛逆難)と他国侵略(他国侵逼難)により日本が滅びると考えた。

 

日蓮は阿弥陀仏にすがり、来世で極楽浄土への往生を求めるのではなく、現世(娑婆)で娑婆国土全体を仏国土に開いていく事こそ正しい教えとし、阿弥陀仏ではなく阿弥陀仏の教主である本仏釈尊と諸天善神を信仰すべきで、題目(南無妙法蓮華経)を唱えるべきであるとの思想を展開した。

 

実際に立正安国論で示した内乱が起こり、元寇の危機が現実のものとして迫ると、日蓮は自身の考えに確信を得て

「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」

等の過激な発言を行うに至ったが、幕府側は元寇という国難に対応するため、全国の自社へ敵国降伏の祈祷を命じ、九州の防備強化を行うなど一致団結した対応が迫られる中で、武士や庶民に広がっていた臨済宗、浄土宗、真言宗、律宗を徹底的に批判し、国内での宗教対立を扇動する日蓮教団を危険視し、日蓮の進言を受け入れる事はなく、反対に良観らに日蓮が御成敗式目第12条の悪口の咎で訴えられると、最高刑となる佐渡流罪の刑に処した。 実際には、幕府は佐渡流罪の前に日蓮を龍の口で処刑しようとしたが、真夜中に現れた発光体による奇瑞により、刑の執行ができなかった。

 

3年間の佐渡流罪の刑を経て、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免された。鎌倉に戻った際、幕府より帰依の申し出を受けるが『他宗への帰依を止めることが自身の教えである』とこれを一蹴し、山梨県の身延山に活動拠点を移した。

 

弘安5年(1282年)1013日に入滅。日蓮入滅時は、弟子及び信徒の数は数百人程度[要出典]で、東国の数カ国に散在するに過ぎない小規模な地方教団に過ぎなかったが、六老僧、中老僧、九老僧に代表される弟子達が全国で布教活動を行った。