2026/02/02

日蓮(6)

朝廷への諫暁

弘安4年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇は、その申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。

 

この年、日蓮の庵室が老朽化して手狭になったため、10間四面の規模を持つ大坊が建設された。その建設は地頭・波木井実長の一族が中心となり、富木常忍ら他の門下の協力のもとに行われた

 

入滅

日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的には回復しても病状は次第に進行していった。弘安4年(1281年)5月には日蓮自身、自己の死が迫っていることを自覚するまでになった。同年12月には、門下への書簡の執筆も困難になっている。

 

日蓮の病状は弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになった。その温泉は「波木井殿御報」に「ひたちのゆ」とあるので常陸国の温泉と考えられる。それがどこの温泉か諸説あるが、今日では波木井実長の次男・実氏の領地にあった加倉井の湯(茨城県水戸市加倉井町)と推定されている。

 

日蓮は、98日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を出発した。富士山の北麓を回り、箱根を経て18日に武蔵国荏原郡にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。日蓮は到着の翌日、日興に口述筆記させて波木井実長宛ての書簡を記した。その中で日蓮は、実長に対して謝意を表するとともに、自身の墓を身延に設けるよう要請している。

 

日蓮が池上邸に滞在していることを知って、鎌倉の四条金吾、大学三郎、富士の南条時光、下総の富木常忍、大田乗明など主要な門下が参集してきた。925日、門下を前に日蓮は「立正安国論」の講義を行った。これが日蓮の最後の説法となった。108日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧)と定めた。

 

なお日興門流では、日蓮の入滅前に日興に対して付嘱がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。日興門流(富士門流)では、日蓮を釈迦仏よりも根源的な本仏と位置づけ、『富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事』『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事』(日興遺誡置文)、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は(中略)本門寺に懸け奉るべし』(日興跡条々事)等、広宣流布および本門寺建立を目的としている。

 

日蓮は、弘安5年(1282年)1013日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅した。入滅に先立って日蓮は、自身が所持してきた釈迦仏の立像と注妙法蓮華経を墓所の傍らに置くことと、本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことを遺言している。

 

日蓮の思想の背景

日蓮は、鎌倉時代の仏教の総合大学であった天台宗比叡山延暦寺で学び、日蓮自身は天台宗の僧としての自覚のもと、伝教大師最澄を崇敬し、法華経を信奉していた。『立正安国論』では「天台宗の僧侶日蓮が記した(天台沙門日蓮勘之)」と記している。

 

比叡山延暦寺で最澄が定めた天台宗の伝統的な修行を行い、21才から32才までの12年もの間、比叡山で修学し、「阿闍梨(あじゃり)号」が授けられている。

 

日蓮は、時代が既に末法に入っていることを確認し、天台教学から一切経の中で法華経が最勝の経典であるのに、諸宗が法華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、天台宗も「師子身中の虫」によって変質していることを批判、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。

 

日蓮は四箇格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)に表されるよう禅宗や真言宗、真言律宗、また真言宗の教えを取り入れて密教化していた当時の天台宗も批判するが、特に批判対象としたのは浄土宗である。

 

日蓮が生まれた承久4年(1222年)より10年前の建暦2年(1212年)に、同じ天台宗から出た日本浄土宗の宗祖である法然が亡くなっているが、法然は法華経至上主義である天台教学を学びながらも法華経より「浄土三部経」を上位に置き、『選択本願念仏集』を記し、末法においては、凡夫が悟りに至ることは不可能で、厳しい修行も無効であり阿弥陀仏に来世での救いを求める念仏だけが相応の教えであると説いた(聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべき、法華経をも捨て、南無阿弥陀仏=念仏を選択するしかないという思想)。

 

法然自身も批判される事を承知していたが、『選択本願念仏集』が開版されると、延暦寺、興福寺などからも多くの批判に晒され(承元の法難)、明恵の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』や定照の『弾選択』といった批判書も出た。

 

日蓮もこの法然の浄土教を邪教として激しい批判を行い、邪教が武家、庶民にまで広まってしまったために数々の災いが日本に生じており、いずれは内乱(自界叛逆難)と他国侵略(他国侵逼難)により日本が滅びると考えた。

 

日蓮は阿弥陀仏にすがり、来世で極楽浄土への往生を求めるのではなく、現世(娑婆)で娑婆国土全体を仏国土に開いていく事こそ正しい教えとし、阿弥陀仏ではなく阿弥陀仏の教主である本仏釈尊と諸天善神を信仰すべきで、題目(南無妙法蓮華経)を唱えるべきであるとの思想を展開した。

 

実際に立正安国論で示した内乱が起こり、元寇の危機が現実のものとして迫ると、日蓮は自身の考えに確信を得て

「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」

等の過激な発言を行うに至ったが、幕府側は元寇という国難に対応するため、全国の自社へ敵国降伏の祈祷を命じ、九州の防備強化を行うなど一致団結した対応が迫られる中で、武士や庶民に広がっていた臨済宗、浄土宗、真言宗、律宗を徹底的に批判し、国内での宗教対立を扇動する日蓮教団を危険視し、日蓮の進言を受け入れる事はなく、反対に良観らに日蓮が御成敗式目第12条の悪口の咎で訴えられると、最高刑となる佐渡流罪の刑に処した。 実際には、幕府は佐渡流罪の前に日蓮を龍の口で処刑しようとしたが、真夜中に現れた発光体による奇瑞により、刑の執行ができなかった。

 

3年間の佐渡流罪の刑を経て、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免された。鎌倉に戻った際、幕府より帰依の申し出を受けるが『他宗への帰依を止めることが自身の教えである』とこれを一蹴し、山梨県の身延山に活動拠点を移した。

 

弘安5年(1282年)1013日に入滅。日蓮入滅時は、弟子及び信徒の数は数百人程度[要出典]で、東国の数カ国に散在するに過ぎない小規模な地方教団に過ぎなかったが、六老僧、中老僧、九老僧に代表される弟子達が全国で布教活動を行った。

0 件のコメント:

コメントを投稿