昔から大阪を「ナニワ」 と言う。
なぜ「ナニワ」と言うようになったのか?
原始時代、大阪平野の内陸部は海水の河内湾だったのが、後に河内湖になり河内潟になって来た。
日本で一番古い記録である『古事記』と『日本書紀』には、既に「ナニワ」という言葉が使われている。『古事記』は、それまで伝承されてきた話を奈良時代の初頭712年1月に編纂した史書、一方『日本書紀』は日本最初の官撰の国史で、720年5月に完成したものである。
この他に『続日本紀』、『萬葉集』、『播磨風土記』等にも「難波」、「浪速」、「難破」、「浪花」、「名庭」、「市庭」、「奈爾波」、「那爾波」等、色々な字が書かれている。
これら多くの字体に「浪」や「波」の字を使っているのは、ナニワの地を「波が打寄せる地帯」と見ていたことから来ているらしい。また「庭」という字も使われているが、この「名庭」や「市庭」は瀬戸内海や大阪湾に面し、舟運による食料や物資が海上輸送によって輸送され、ナニワの地で商内(あきない)をしたこと。また
「名」は「菜」とも取れ、「菜」は野菜の「菜」や「魚 (な)」の意味であり、副食物のお菜(かず)の野菜や魚を指している。
波が早いということで「浪速」と言ったのは、『日本書紀』の神武即位前紀に
「皇師(みいくさ)遂に東にゆき(中略)、方(まさ)に難波碕に到る。奔(はや)き潮有り手太(はなは)だ急なるに会う。名づけて浪速国と為(な)す。亦(ま)た浪花と曰(い)ふ。今難波と謂ふは訛(なま)れるなり」
とある。潮流が早いので浪速といい、後に難波と訛ったということだ。
このように「ナニワ」という呼び方をめぐって、議論されてきた。『古事記』の神武天皇の東遷の条には
「九州・日向の高千穂宮を出て、豊の国(大分県)の宇佐、筑紫(福岡県)、安芸(広島県)、吉備(岡山県)を通って、浪速渡(なにわのわたり)に着き、 白肩津(しろかたつ)に船を停めた」
と書かれている。
『日本書紀』には先にも述べたように、神武天皇が東に来て難波碕に到着した。
潮が速く、急流であったので「浪速国」と名付けた。もう一つの説である「市庭」や「名庭」のことは、明治期以後に研究者が発表している。
瀬戸内海を大阪湾まで舟で運んできて、難波の津に荷揚げをする。「津」とは、昔は「港」のことを言った。難波の津といっても船着場が何カ所もあり、この津は魚や野菜などの食料を運んだり、国内向けの港だけでなく古代日本が外国の使節を送迎する重要な港だった。
このように外国使節を迎えたり、中国、四国、九州方面から運ばれてきた食料や物資を受入れる屯倉(みやけ=朝廷専用の倉庫)も上町台地に並んでおり、これらは発掘の結果明らかになった。
大手前の大阪市歴史博物館の場所に、遺跡が保存されている。古代日本は、この難波、飛鳥、奈良、京、熊野と人の往来が多く、人々の食料や物資が求められていた。
「ナニワ」の語源には、古い文献を見て研究する方法と、近年では自然地理学、考古学の発掘で新しい発見や解釈が出てきている。前回、難波の波が高いとか潮の流れが急とか書いたが、今の大阪港の潮位の干満の差が、春秋季には2.58mにもなり、大阪平野から大阪湾につながる水路の簿潮が逆流して湖や潟の水位が高くなり、干潮時にその水路から湖や潟の水が急激に流下するから『日本書紀』の「奔き潮ありて太だ急なるに会う」現象があったことも事実であったろう。
この語源の新しい観点から、復活の研究も進んでいる。
出典https://www.osakahonjou.com/naniwa/index.htm
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
『日本書紀』神武即位前紀戊午年2月の条には、神武天皇の軍が
「難波碕(なにはのみさき)に到る時に、奔き潮有りて太だ急(はや)きに會ひぬ。因りて、名づけて浪速(なみはや)国とす。亦浪花と曰ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛れるなり」
とある。また、『古事記』には
「浪速(なみはや)の渡りを経て、青雲の白肩(しらかた)津に泊てたまひき」とあります。
この「なにわ」は、この記紀伝承のほか「ナ(魚)・ニワ(庭)」で「魚の多いところ」と解する説があります。
この「なみはや」は、マオリ語の「ナ・ミハ・イア」、NA-MIHA-IA(na=belonging to;miha=admire,wonder;ia=indeed)、「実に驚くべき(潮流の速い場所)」の転訛と解します。
また「なにわ」は、マオリ(ハワイ)語の「ナニ・ワ」、NANI-WA(nani=noisy;wa=place)、「(港や市に人が大勢集まって)騒がしい音がする場所」
または「ナニ・ワ」、NANI-WA(nani(Hawaii)=beautiful;wa(Hawaii)=place)、「美しい場所」
または「ナネア・ワ」、NANEA-WA(nanea=plentiful,satiafying;wa=place)、「(魚などが)豊富な場所」の転訛と解することができます。
大阪は、古くは「浪速」と言った。難波は、その訛りだともいわれる。「大阪」という言葉が初めて出てくるのは、蓮如の御文章のなかの「大坂」だという。
最初は「大坂」と表記していたらしい。大坂という表記は、明治時代まで使用されていたという。蓮如は、1496年に石山御坊を今の大阪城の地に建てた。御坊を建てる時、この地から大きな石が出てきたので、この辺りは「石山」と呼ばれたこともあった。また大阪城の北西側の淀川辺り、天満橋と天神橋の間は古代、渡辺の津と呼ばれた。渡辺の津は大江の岸とも言われたが、ここから上町台地にかけての坂を大江の坂といい、これが「大坂」の語源だという人もいる。
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