2013/12/19

怪物の実力(怪物伝説part9)

県予選では、2度の完全試合を含む9度のノーヒットノーランを達成しているが、とにかく味方打線の援護がないので、勝つためにはひたすら完封し続けるしかない。2年の夏は、予選準決勝で小山に延長11回スクイズの1失点で敗退している。小山と対戦する前の試合は3試合連続ノーヒットノーランで、その内1試合が完全試合だった。小山戦も102死まで無安打、打たれた中前テキサス安打は、実に37イニング目に許した「初安打」だった。


一人の走者も出さないことが勝つために最善な方法であり、もし走者を出した場合は本塁に帰さないこと、つまり完封することが最善の方法である。00が延々と続くと怪物の敵はもはや相手打線ではなく、相手の好投手だったり打てない味方打線ということになる。

 

ちなみに、最後の夏(昭和48)の予選で記録した作新学院のチーム打率は「204」  およそ県予選の優勝校らしからぬ「低打率」である。10で勝つというその環境こそが、江川のピッチングに磨きをかけたともいえる。

 

結局、甲子園で4勝しかあげていない江川が怪物といわれたのは、その圧倒的な投球内容である。在学中の公式戦登板44試合、完投した30試合中の3割に当たる9試合を無安打、それ以外の試合も唯一3安打を許した1試合を除き、1安打か2安打しか許していない。甲子園で連戦連勝した桑田(PL学園)や松坂(横浜)は強いチーム力に支えられていたが、投手個人の力では断然江川が上といわざるを得ない。予選、甲子園大会を通じて殆ど打たれていない、こんな投手は二度と出てこないだろう。

 

甲子園での通算成績は、6試合(42)、投球回数591/3、奪三振92(1試合平均15.3)、自責点3、防御率0.46。そんな「怪物・江川」をして甲子園の頂点に立つことはなかった。それが野球、それが甲子園なのだ。

 

江川と旧知の仲である、国際武道大学監督の岩井はいう。

2006年に全日本の監督になって、キューバのハバナで開催された第三回世界野球選手権で、デービット・プライス(現デビルデイズ)が101マイル(約162キロ)投げたんですけど、ベンチで見る限り江川の方が速かったですね。ベンチからの見た角度のスピードでは、高校1年と2年の江川は速かったです。高校3年は遅かったですね。 江川に聞いてみればわかりますが、一番速かったのは高校1年から2年にかけてだと思います」

 

この江川と当時バッテリーを組んでいた、政治家の亀岡(旧姓・小倉)偉民の証言。

「いくら桑田や松坂が速いといっても、彼らは『ズドーン』という速さ。当時の江川は『ピッ』という感じだった。球質が全く違う。球の回転が速く球質が軽いから、直球は伸びるしカーブはよく落ちる。殆どの打者が、かすりもしない状態だった。江川はアイドル的な人気ではなく、玄人ウケするスーパースターでしたね」

 

その亀岡が、今でも思い出すのは『銚子商戦の最後の1球』だ。優勝候補同士の2回戦の対戦。作新・江川と銚子商・土屋の投手戦は「0ー0」のまま延長戦へともつれ込む。試合終盤から悪天候になり、捕手から投手へまともに返球出来ないほどの土砂降りとなっていた。

 

12回裏・1死満塁の大ピンチを迎えた江川。この絶体絶命の場面で江川はタイムを取り、ファースト・鈴木、セカンド・菊池をはじめ、内野の全選手をマウンドに集めた。

 

江川は

「次の球、俺の好きな球を投げていいか?」

と、彼らに聞いたという(前回の達川に話したという、江川自身の話とは異なるが)

 

江川は、次の球はストライクかボールかというよりも

「高校三年間で、一番速い球を投げてやろう」

と、心に決めていたそうである。この場面で、江川は半ば負けを覚悟していた。そして、最後は悔いのない球を投げてやろうと思っていたのであった。

 

江川にそう聞かれ、特に江川と反目していたファーストの鈴木が

「お前の好きな球を投げろよ。俺達がここまで来れたのも、お前のお陰だから。何も文句はねえよ」

と答えたという。捕手の小倉によると、小倉はこの場面で初めて作新の選手達の心が一つになったと感じていたらしい。

 

「みんなも頷いて、チームが初めてまとまった瞬間でした。ただ負けるなんて考えもしなかったし、江川だから抑えるだろうって皆が思ってた。ところが・・・渾身の直球は無情にも高めに浮き、押し出し四球のサヨナラ負け。結果的にチームがひとつになったのは、最後の一瞬たった1球しかなかったけど、悔しさはありませんでした。不思議な感覚ですが、野球をやったという充実感がありました。

 

それまで『江川のワンマンチーム』、『勝って当然』と言われ続けていた。負けないためにどうしたらいいか、ナインにも江川にも気を遣ってやってましたから。試合後は誰も泣かなかったし、初めてみんなが仲良くなりました」

 

当時のコトを江川は言葉少なに話す。

「決して仲が良いチームじゃなかった。野球以外の学校生活では、殆ど付き合いがなかった。最後に、みんなを集めた時

『おまえひとりのために野球をやってんじゃねぇ!』

『どうぞご勝手に!』

とか言われると思ってた。でもみんなの言葉で、不安は全く消え去りました。最後のあの1球・・・高校時代で一番いいボールが投げられたと、今でも思っています」

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