『古事記傳』本居宣長訳(一部、編集)
○高天原(たかまのはら)は、すなわち「あめ」である。【それなのに、天皇の都を言うなどという説は、非常に古伝に背く私説である。世の物知り人は漢籍の考え方になずみ溺れ、神のあり方が奇しく霊妙であることを疑い、空の上に実際に高天の原が存在していることを信じないのは、たいへん愚かである】
それでは、単に「あめ」と言うのと「高天の原」と言うのとの違いはどこにあるかというと「あめ」は天の神のおられる国であるから、山川木草のたぐい、宮殿、その他万物、万事が天孫のお治めになるこの国土と似ているけれども、いっそう優れたところである【こうした点は、漢籍に言う「天」とは大きく異なっている。決してあの国の説に惑わされて、正しい神代の教えを曲論してはならない。一般に外国には正しい伝えがないので、天の実際の様子が分からず、ただ程度の低い推測で空理を組み立てているだけだ】
およその有様も、神々の暮らしぶりも地上のこの国に似通っているのだが【このことは、この記や書紀の神代巻で分かる。みな神代からの正しい伝えである】
高天の原とも言うのは、天に於いてその国が存在することを言う時の名称である。【万葉の歌などに「天の原ふりさけ見れば」などと詠んだのは、少し後の時代のことであろう。このようにただ目を向けただけの天を「天の原」などというのは、神代の教えにはないことだ】
そう名付ける理由は「高」とは、これも天を言う名称で単に高いというのとは少し違う。【だから、この高は形容詞でなく名詞である。】「日」の枕詞で「高光る」というのも天照と同じ意味、高御座も天の御座ということであり、これらの「高」もおなじである。
また「高行」や「隼別」などは【高津の宮(仁徳天皇)の段の歌にある。】空を高と呼んでいる。【「高行く」は高く行くという意味ではない。天と空は別なので詳しくは分けて言うこともあるが、いずれも上の方にあるので地上からは天を空と言い、空を天とも言ってほぼ同じ意味に用いるのが普通で「天つ空」などとも言う。だから「高」という言葉も天や空と意味が通う。共に上の方にあるからである】
「原」とは、広く平らなところを言う。 海原、野原、河原、葦原などのようなものである。万葉の歌に「国原」という言葉もある。
だから天も天の原と言う。【「~之原」というのも「海之原(わたのはら)」その他の例がある。】それに「高」という語を添えて「高天の原」というのは、地上から見て言うことだ。【一般に天を「たか」とも言うのは、高いという意味である。】
だから天照大御神が天の石屋に籠もるときの言葉【「天の原自ずと闇く、云々」】また書紀の須佐之男命が天に上るとき「誓(うけい)」の場面での天照大御神の言葉【「必當レ奪2我天原1(カナラズまさにワガあまのはらをウバワント)云々」、「令レ治2天原1也(あまのはらをシラシメン)云々」】などにはただ「天の原」とある。それは天にいて言った言葉だからだ。【けれども書紀の神代の下巻に、天照大御神が「吾が高天の原」と言ったところが一カ所あるのは、撰者がふと間違って書いたものか。何にせよ、この一カ所だけで全部を疑うべきではない。多い方を採るべきである】これらの他、地上から言うときにこそ「高天の原」とある。一般に古い書は、こうした点が非常に正しく書かれている.
●「高天原」を実在する地に当てはめる論争が数々ある。
代表的なものは宮崎県の高千穂、奈良・葛城・金剛山高天台 - 奈良県御所市高天、さらには岡山の蒜山高原など。
しかし「高天原」が地上界にあるはずがなく、神々のおわす天上界に存在しているのに決まっている。
「高天原」について、あれこれ屁理屈を並べて批判する輩もいるが、ロマンがなければ「神話」の価値がない!
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