神代一之巻【天地初發の段】本居宣長訳(一部、編集)
次に、まだ国が生まれたばかりで、水に浮く脂のように形がはっきりしないまま虚空を漂っていた時、葦の芽のように萌え上がるものによって生まれた神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もまた単独の神で、そのまま隠れた。ここまでの五柱の神は、続く神とは少し違って別天神である。
次は「成りませる」へ係る。「国稚くして云々」に係るのではない。】「次に成りませる神の名は国之常立神」などとあるのに同じ。その他も、前後みな「次~神」とあるが、ここはその神の生まれた原因を述べたために、係る言葉が隔たっているのである。
○國稚、稚は「わかく」と読む。【書紀では「わか」の意味に、みなこの字を用いている。 だがこの記では、一般的に「わか」の意に「若」の字を用いて「稚」を用いる例がないので、ここは「わかく」ではないかもしれないとも思われるが、他に読み方が思いつかない。
「わかし」とは物がまだ完成しないことを言い、書紀などでは「幼」の字もこう読み、中昔の物語でも人が幼稚(いとけな)いさまを言うことが多い。万葉では三日月を「若月」とも書き【月の形がまだ整わないのを「若い」と形容したわけである。】
推古紀には「肝稚く」とある。【また勢いが盛んで、美しいのを言うこともある。美称に「若某」とあるたぐいだ。これは、まだ完成しないのを言うのと少し違うが、元は同じである。】
ところで国土は伊邪那岐、伊邪那美両大神によって生まれたのだから、ここではまだ「国」というようなものは存在しないのだが、完成した後の名を借りて、その原初の姿を書いたのである。
○浮脂は「うきあぶら」と読む。浮雲、浮草というたぐいの名であり、脂が水に浮かんでいるのにたとえてこう言った。【「ウカベルあぶら」という読みは良くない。】
「脂」は「和名抄」に【形態の部、肌肉類】「脂膏は和名『あぶら』」、また【燈火具に】「油。四聲字苑に、油は麻をしぼって取る脂とあり、和名『あぶら』」とある。
他に「脂」にたとえた例として、朝倉の宮(雄略天皇)の段に、盃に槻の葉が散って浮かんだのを、三重の采女(女+妥)が歌に「ウキシあぶら」と詠んでいる。【盃の酒に木の葉が漂うのを考えて、ここの状態を理解せよ。】
そもそも、この段は天地の初発を言っているので、まず始めにこういったものが一群(ひとむら)生え出たということである。【「如2浮脂1」というのは、その漂う姿が似ているだけだ。それが脂のような物体だというわけではない。書紀の伝えでは、魚や雲にたとえているので分かる。
一書には「その形は言葉に表しがたい」とあり、正確な形は言い難い。】
○久羅下那洲(くらげなす)は「多陀用幣琉」の枕詞である。【ここは「ウキアブラのようなもの」が漂っている様子を述べたのではない。
それはもう「ウキアブラのようなもの」という言葉に言い尽くされている。 もし「如2浮脂1物(うくアブラのゴトキもの)」と書いてあったなら「浮脂」はそのものの形状を言い「くらげ」は、その漂う様子を喩えたと言えるが、この文はそういう書きぶりではない。】
「くらげ」は和名抄に「崔禹錫の『食經』に曰く、海月、一名水母。そのさまは海中に月があるのに似ているので、この名がある。 和名『くらげ』」とある。この生物は海の中を漂うもので、その形は昼の晴れた空に月が白く見えるのによく似ており、なるほど「海月」とはよくも名付けたものだ。
「なす」は「ようだ」ということで、私の友人稻掛の大平が「似す」の転訛だろうと言うが、そうらしい。【「な」と「に」は通音であり「なす」を「のす」という例があるとして、たとえば和名抄の備中の郷の名に「近似は『ちかのり』」と出ていて「似」を漢籍で「ノレリ」と読むなども考え合わせると「似す」を「なす」と言ったとしてもおかしくない。】
○多陀用幣琉(ただよえる)は、書紀に「漂蘯」とある字の通りである。【書紀には「くらげなす」が省略されている。
このことでも枕詞だと分かる。 弘仁私記には、この「漂蘯」を「クラゲナスただよえり」と読むということが書かれている。 上宮記、大倭本紀などの古い書物にも、この「くらげなす」という言葉があるそうだ。】
万葉にも、この言葉がある。なお「琉」の下にある「之」の字は読んではいけない。【読むのは間違いだ。】このものが漂っていたのは、どんなところかと言えば虚空中(おおぞら)である。
次に引くように書紀に虚中、空中とあるのを見れば分かる。 【それなのに「浮く脂のように」とか「くらげなす」と言うので、これは海の上を漂っていたと解するのは、大きな間違いである。
この時、まだ天地はなかったので海もなく、ただ虚空を漂っていたのだ。だから海もまた、この漂っていたものの中に備わっていたに違いない。】 書紀には「開闢之初、洲壞浮漂、譬3猶游魚之浮2水上1也(アメツチのハジメのトキ、クニつちタダヨイテ、ウオのミズにウケルがゴトシ)云々」、一書に曰く「天地初判、一=物2在於虚中1、状貌難レ言(アメツチのハジメのトキ、おおぞらにヒトツのモノなれり。そのカタチいいガタシ)云々」、一書に曰く「古國稚地稚之時、譬2猶浮膏1而漂蕩(いにしえクニつちワカカリシとき、ウキアブラのゴトクにしてタダヨエリ)云々」、また一書に曰く「天地未生之時、譬3猶海上浮雲無2所根係1(アメツチいまだナラザリシときに、ウナバラなるウキクモのカカルところナキがゴトクなりき)(口語訳:天地がまだ生まれていなかった頃、たとえば海上に浮かぶ雲がどこから来たともなく、中空にふわふわと漂っているようであった。)云々」などとあり、これらを引き合わせて考え、その時の様子を細かく知るべきである。
【「開闢之初」、「天地初判」などとあるのは、この記(古事記)の始めに「天地初発之時」とあるのと同じで、一応ただ大らかに、この世の始めを言ったのだ。 「天地未生之時」とは、少し詳しく述べたのである。「洲壞云々」は、この記の「国稚」に相当し「猶游魚云々」、「状貌難言」、また「猶海上浮雲云々」なども、記の「如2浮脂1」に相当する。 だから伝えが多少異なるように思えたとしても、よく見ればそのありさまはいずれも同じである。】 この漂っていたものは何かと言うと、これは後に天地に成るものであって、天に成るべきものと地に成るべきものがまだ別れず、一つに入り混ざった混沌の状態である。 書紀の一書に「天地混成之時(アメツチむらかれナルトキ)」とあるのがこれだ。【「混」とはまだ分かれず、入り混じって一沌(ひとむら)であることで、浮き脂のようなものが初めて生まれ出た状態を混成(マロカレなる)と言う。
ある人の質問で「天に成るべきもの、というのは分からない。天には形がなく、始めから物は存在しないと思うが?」 と言う。私は答えて「天は高天の原であるから、実体があることは言うまでもない。 仰ぎ見ても見えないのは、ただ遠すぎて目に見えないだけだ。 それを天はただ気であるとか、理屈であれこれ言うのは外国のこじつけの説であって、甚だしく古伝の趣旨に違背する」
また問う。「では、まだ分かれていなかったとき、天になるべき物は何物だったのか?」 答え。「天になるべき物が何物であるとも伝えられていないので、分からない」
また問う。「地に成るべき物は何物だったのか?」 答え。「海水に泥が混じって濁っているような物であった。というのは、以下に女男の大神が『指2下沼矛1以畫者、鹽許袁呂許袁呂邇(ヌボコをサシおろしてカキたまえば、シオこおろこおろに)云々』とあり、書紀にも『以2天之瓊矛1、指下而探之、是獲滄溟(アメのヌボコをモチテ、さしオロシテかきさぐる。ココニあおウナバラをエき。)』などとあるので分かる。」 詳しいことは、その段で述べる】
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