仏教が大陸から流入してきた頃から、すでに精進料理は存在した。
神道の場合においては、仏教よりも肉食への規制は緩かったものの「信仰する神とゆかりのある動物の肉は禁忌とされ、そうした肉のみを除外した料理も一種の精進料理(春日大社の鹿肉、八幡神社の鳥肉など)」と言った。
精進料理が本格的に発達したのは、鎌倉時代以降とされる。鎌倉時代以降の禅宗の流入は、特に精進料理の発達に寄与した。平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。
味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。また豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)、ひじきといった食材も精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。
禅宗のうち曹洞宗では、開祖の道元禅師が宋に仏教を学びに渡った時、阿育王山の老典座との出会いから、料理を含めて日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であるという弁道修行の本質を知ったことから、料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。道元が帰国後書いたのが『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。
永平寺では、料理を支度することが重要な修行のひとつであり、庫院(調理場)の責任者である典座は重役の一員に数えられている。江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり、仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなっていた。京都大徳寺の精進料理は前者、飛騨高山の精進料理は後者の典型的なケースであり、いずれも分離していった懐石料理の手法を再び取り入れたりして、寺院のそれとはやや異なる風雅なものを生み出している。
精進料理はすでに記してきた通り、日本料理にも影響を与えて成長を促してきた。 永平寺式の精進料理は、室町時代から江戸時代前期にかけて普及した本膳料理に通じる。また懐石料理は、精進料理から派生したものである。現在でこそ、(同音異義の会席料理との混同もあり)豪華なものとなっているが、当初は質素で季節の味を盛り込んだものであり、精進料理の精神が活かされたものであった。
普茶料理は、中国料理の調理法が日本風にアレンジされながらも伝来し、けんちん汁、のっぺい汁、葛粉を利用した煮物や炒め物、揚げ煮といった料理や調理法が普及した。
寺院仏閣の中には、参拝者を宿坊に泊め精進料理を提供して、仏門の修行の一端を体験させることをしているところも少なくない。参詣参篭が信仰の重要な一部となる天台宗・真言宗系の寺院に多い。また宿坊においては、料理と宿泊だけの提供もある。
長野県の善光寺には、参拝客を宿泊させる宿坊が数多く存在し、夕食に精進料理を供することが多い。出される精進料理は、本膳式の本格的なものから懐石料理風の現代的なタイプのものまで、様々である。一方、京都の寺院では、特に賓客用の精進料理を料理屋に一任したことが多かったため、寺院よりも周辺の料理屋に高度な精進料理が存在することが多い。大徳寺や妙心寺の周辺には、精進料理専門の老舗の料理屋がある。
これは普茶料理でも同様であり、黄檗宗の総本山である萬福寺周辺には、普茶料理を食べさせる料理屋が多い。 普茶料理には、料理屋で作られる独自のスタイルを止め、懐石料理風に仕立てた限りなく日本料理に近いタイプのものから、長崎の禅寺で作られる原点に近く、時としては現代の素菜を取り入れた中国料理に限りなく近いもの(長崎の禅寺の檀家には華僑が多く、お盆などでは中国や台湾からの来訪者も多いためとも考えられる)まで幅広く存在する。
出典Wikipedia
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