2015/02/15

開闢之初『古事記傳』



神代一之巻【天地初發の段】 本居宣長訳(一部、編集)
「如2葦牙1(あしかびのごと)」葦は和名抄で「蘆は『兼名苑』に葭一名葦、『爾雅』注に一名蘆とあり、和名『あし』」と書かれている。「葦牙」は「あしかび」と読む。【書紀でもそう読んでいる。「び」を清音に読み「い」のように読むのは良くない。また「か」を「が」と濁るのも良くない。生まれた神の名であり、清濁の区別ははっきりしている。】葦がやっと芽生えたばかりの状態である。 「牙」の字は「芽」に通じる。和名抄では「玉編に『亂(正字は草冠に亂)タン(草冠に炎)である。タンは蘆が初めて生いること』とある。和名『あしづの』。」と言い【葦の初生を「角具牟(つのぐむ)」と言うので「あしづの」とも言うのである。】これが葦牙(あしかび)である。「如」と言うのは、その形が葦の芽に似ていたのであって、萌え上がるさまが似ていたというだけではない。【書紀にも「形如2葦牙1(かたちアシカビのゴトシ)」、「有レ物若2葦牙1(アシカビのゴトきモノあり)」などとある。単に「浮き脂」という語で漂っていた状態を喩えていたのとは、少し違っている。】これによって生まれた神の名にも「アシカビ」が入っていることで、それがよく似ていたことを知るべきである。

萌騰之物は「もえあがるもの」と読む。【「之」の字を読んではいけない。】万葉巻十【八丁】(1847)に「春楊波目生来鴨(ハルのヤナギはモエニけるカモ)」、また(1848)「此河楊波毛延爾家留可聞(このカワヤナギはモエニけるカモ)」などがある。【木草の芽や葉がわずかに出始めたのを「め」と言うのは「もえ」が縮まった形だろう。「芽ぐむ」と言うのも「もえぐむ」から来ているだろう。】「騰(あがる)」という語は、書紀の神武の巻に「足一柱騰宮、此云2阿斯毘苔徒鞅餓離能宮1(足一柱騰宮、コレをアシひとつアガリのミヤという)」などがある。「物」は後に天になる物を言う。
この物はどこから出たかというと、虚空を漂う浮き脂のようなものの中から出たのだ。 書紀の一書に「一=物2在於虚中1、状貌難レ言、其中自有2化生之神1(おおぞらにヒトツのモノなれり。そのカタチいいガタシ。そのナカにオノズカラなれるカミあり)云々」、【「その中に」とあるのを考えよ。】また一書に「于時國中生レ物、状如2葦牙之抽出1也、因レ此有2化生之神1、號2可美葦牙彦舅尊1(トキにクニのナカにモノなれり。そのカタチあしかびのモエイズルがゴトシ、これにヨリテなりませるカミ、うましアシカビひこじのミコトともうす。)」【「国の中」とは、前述の「浮き脂のように漂っていたもの」の中ということである。】また一書に、「譬=猶2海上浮雲無1レ所2根係1、其中生2一物1、如3葦牙之初2生ヒジ(泥の下に土)中1也(ウナバラなるウキグモのカカルところナキガごとくなり。ソノナカにヒトツノものナレリ。アシカビのヒジのナカよりモエそめたるがゴトシ)」などとあるのを以て知るべきである。

ところで、これは天の始めであり、このように萌え上がって後に天になったのである。【これについて思うに、天を「あめ」と言うのは「葦萌え」が縮まって「し」を省いたものかも知れない。 葦はただ喩えに言った言葉だが、上記のように神の名にも含まれているからである。かの「浮き脂のようなもの」は天と地がまだ分かれず、一つに入り混ざった混沌の状態であったが、その中の天になる要素は、ここで萌え上がって天になり、地になる要素は残り留まって後に地になったのであって【地の形成は女男大神の段にある。】これが、まさしく天地が分かれたということである。
書紀の一書に「有物若2葦牙1生2於空中1、因レ此化神、號天常立尊、次可美葦牙彦舅尊、又有物若2浮膏1生2於空中1、因レ此化神、號國常立尊(アシカビのゴトクなるモノおおぞらにナレリ。コレにヨリてナリマセルかみのミナは、アメのトコタチのミコト、つぎにウマシあしかびヒコジのミコト。またウキアブラのゴトクなるモノおおぞらにナレリ。コレにヨリてナリマセルかみのミナは、クニのトコタチのミコト)」とある。ここで葦芽のようなものによって生まれた神は天常立、浮膏のようなものによって生まれた神は国常立と言い、天地が分かれたことを知るべきである。【ただしここで、浮き脂のようなものと、葦の芽のようなものが始めから別に生まれたように書いてあるのは、やや異なる伝えである。しかし天地の分かれたことは、この伝えで非常にはっきりする。

ある人は「この一書では、始めから天地が分かれていてよく分かるのに『浮き脂のようなもの』一つだけを天地の始めとするのは、いささか疑わしい。それが天地を兼ね備えたものだったら、始めに『天地稚く』とありそうなものなのに、天については言わず『國稚く』とあるからには、この『浮き脂』は実は後に地になった物質であって、天になる『葦芽』は、この一書のように初めから別に発生したのではないか」と言う。
答え。「その疑いももっともだが、以上に引いたように書紀の各伝も、多くは『浮き脂』から『葦芽』が生えたとしており、この記も、それほどはっきりとは言っていないが、同じく『浮き脂』から『葦芽』が萌え上がったように読めるので、やはり天になる要素と地になる要素は、いずれも『浮き脂』に包含されていたと考える。天については言わず『國稚く』と言ったのは、この伝承全体がこの国で語り伝えたことだから、国を主体にした言い方をしているのだ。書紀の本文で最初の五柱の神を省き、国常立尊を最初の神のように書いているのも、こうした心からであって国土を主体としたのだ。また天となる要素は上り去り、地となる部分は留まって地となった。後から見ると上り去った天は客分で、残り留まっている地は主人のようにも見えるので、初めからの記述をもっぱら地を主体として、それを『国』と言ったのもありそうなことだ。だから、この一書で初めから二つに分かれたような書き方をするにも『浮き脂』の方を地としたのではないだろうか。」】それなのに「これが天の始め」、「これが地の始め」などと画然とさかしらに言わず、ただその時々の神の誕生の由縁にこと寄せて、このようになだらかに語り伝えたのは、実にのどやかな上代の伝えであり、たいへん貴いことである。 ところで、こういう浮き脂のような物の発生も、それが分かれて天地となったことも、またその後に続く神々が生まれたのも、すべて二柱の産巣日の神の産霊の働きによるのである。

○「成神(ナリマセルかみ)」 このとき「葦芽のごときもの」から生まれた神は、この次に書かれている二柱の神であろう。前にも引いた書紀の一書第六に「有物若2葦牙1生2於空中1、因レ此化神、號天常立尊、次可美葦牙彦舅尊、又有物云々」と二柱を挙げてあり、国常立神が生まれたとするのは、別だからである。この記でも、この二柱を天つ神として段落を閉じており【もし天之常立神もこの「葦芽」から生まれたとすると、この物は天の素材なのだから国之常立神も天つ神となるが、そうでなく天つ神は天之常立神までである。】天之常立、国之常立という神名も、天と地に分かれているからだ。【「葦芽のごとくなるもの」は天の素材になったものであって、地の始めではないので国之常立神は、このものから生まれたはずはない。】しかし一概にそうとも言い切れず、伊邪那美神までが、この「葦芽のごとくなるもの」から生まれたと思われるふしもある。そのことは、国之常立神のところで述べる。

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