正月、諸臣が中宮、東宮への拝謁を終えた後、朝廷から饗応に預かる物。殆ど記録が無く、具体的な献立内容や形式は不明。
大臣大饗
親王などの皇族が、大臣の屋敷を訪れた際の接待料理の形式。平安末期の『兵範記』に書かれた藤原基実の保元元年(1156年)「大臣大饗」は、永久4年(1116年)の藤原忠通のそれを参考とし、事前の準備は宴会予定日の9日前から始められ、赤漆塗の膳を特別に誂え、その膳の上には白絹を現在のテーブルクロスの如く敷き、これまた特別に誂えた折敷や漆塗の食器に料理を盛りつけたとある。
この時の具体的な内容は『類聚雑用集』に記録されているが、それによると献立の内容は参列者の身分によって異なっており、皇族の正客(「尊者」と記述される)は28種類、三位以上の陪席公卿は20種、少納言クラスでは12種、接待する主人が最も少なく8種となっていた。
献立内容は「飯」、調味料、生もの、干物、唐菓子(今のドーナツに近い)、木菓子(=果物類)、生ものには獣肉類は無く、魚介類、鳥類(雉など)で占められ、干物もアワビやタコ、蛙などで獣肉類は無い。調味料が別皿になっているところから見て、料理自体には味はなく食べる時に好みで調味料を付けながら食べた物と考えられる。
この調味料も身分によって差があり、尊者や公卿はひしおなど4種あったが、主人には塩と酢のみであった。また、食器として箸の他に鎌倉時代以降は衰退する匙(スプーン)が存在し、各料理を盛りつけた容器の大きさがほぼ同じで料理の序列が判然としていない点も、後の時代の料理とは異なる特徴といえる。
有職料理の誕生
鎌倉時代になり政治の実権が貴族から武士に移ると、大饗料理を維持することは困難となった。室町時代になると経済的・文化的にも武士の優位は動かしがたい物となり、武士も公家の文化を採りいれ武士独自の饗応料理として「本膳料理」の形式を確立する。公家も本膳料理の形式を取り入れつつ、独自の式典料理として「有職料理」の形式が次第にまとまっていった物と考えられる。この過程で、大饗料理には存在していた台盤や唐菓子などのチャイナ文化風味が欠落していったと思われる。
有職料理の変遷
江戸時代初期、徳川家光が行った二条城での後水尾天皇御成行事の際、天皇家側の料理人2名(高橋家、大隅家)、徳川幕府側の料理人2名(堀田家、鈴木家)の他、京都の町方の料理人から生間(いかま)家が抜擢されて調理に携わったことから、生間家は八条宮家の料理人をその後、代々拝命することになる。明治時代になり、桂宮家(八条宮家の後裔)が子孫断絶により絶家したため生間家も下野し、その料理法は京都の民間の限られた料亭に伝えられた。
現在、宮中でも皇族の結婚式などの中継で、会席料理などとは大きく異なる盛りつけの日本料理が見られることから、生間家が伝えた物とは別の有職料理が伝えられている物と思われるが、外国要人などの接待にはもっぱらフランス料理が使われており、極限られた儀式でしか食べられない物のようである。
形式
生間流29代家元でもある小西重義氏(生間 正保)が店主の料亭「萬亀楼」での有職料理の形式は、以下の通りである。
初箸
会席料理の「先付」にあたる
添え
会席料理の「小付」にあたる
椀物
お造り
嶋台
など。
特に生間流の場合は、造りの捌き方に「式包丁」という作法がある。一切魚に手を触れず、包丁と菜箸のみを使うのが特徴。
出典 Wikipedia
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