2018/12/24

原始仏教の教理(釈迦の思想12)


9. 人間観と無我説
 仏教は無我説を立てることで有名であるが、その思想内容は歴史的にかなりな変遷がある。それにともない「諸法無我」の解釈にも変化がみられる。

 無我説の始まりは、最古層の経典の執着するな、わがものという観念をすてよという教えにある。初期の無我説は、「我は存在しない」ことを説くのではない。倫理主体としての真の我の確立は、むしろ積極的に求められていた。

「常に思念をたもち、自己に関する誤った見解を捨てて、世界を空なるものとして観よ。そうすれば、死を超越したものとなるであろう。このように世界を考察するものは、死神には見えない。」(Sn.1119.)

 無我説は、このように我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教えから始まる。当初の「諸法無我」は、無執着の立場から「すべての事物は我(自己)ではない」と説かれたものである。したがって、無我(我がない)説というよりは非我(我ではない)説であった。

  ところで、現象するすべてのものは、なんらかの原因・条件に依存することによって成立しているという縁起の観点からすれば、それ自身独立で不変な存在はありえない。人間も、この縁起説の立場から理解された。すなわち、人間あるいは生物とは、肉体(色)と感受(受)・表象(想)・意志(行)・認識(識)の四つの精神作用、あわせて五つのものの集り(五蘊あるいは五取蘊pañca upādhānakkhandā)において成り立っているものとされる。

  「たとえば部分が集まって、車という名称が生ずるように、(五つの)ものの集りがあれば、生物という世俗の名が生まれる。」(Sayutta Nikāya I.p.135G.)

 ここには、現象の背後に実体的な存在を認めない唯名論的な見方が顕著に現れている。
一方、ウパニシャッドの哲人たちは、宇宙原理ブラフマン(梵)と個体原理アートマン(我)という現象の雑多な相の背後に働く実体的な原理を立て、その同一性の知を追求した。原始仏教は、ウパニシャッドの立場と鋭く対立する。

 原始仏典のうち成立が遅いとされる散文では、人間を構成する五つのものの集り(五蘊)ひとつひとつについて「これはわがものではない」、「私ではない」、「私のアートマン(我)ではない」と知るべきことが説かれる。この表現形式は、ウパニシャッドのアートマン思想と密接にかかわることが指摘されている。ここでは、すべてのものについて「アートマン(我)ではない」と否定することが「アートマン(我)は存在しない」という主張を含んでいると考えられる。

ところで、アートマンは単なる自己ではなく、それによって現象界の個体が成立する永遠不変の本質、あるいは原理と見なされた。このような思想に対する批判として「諸法無我」は、「すべての事物は我(永遠不変の本質)をもたない」と解釈されるようになる。一般に無我説という場合、このような意味が含まれる。2)

10. 実践法
  実践の核となるのは、八正道であるが、その他に正しい心をもって生きるための多くの修道法が説かれる。それらは戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学に分類される。

 」とは修行の前提となる正しい生活態度を身につけることである。
  「」とは仏教の修行の基本とされる禅定、すなわち精神統一である。
 」とは悟りにみちびく智慧である。

  戒によって悪からはなれて善を行い、定によって雑念を払い、慧によって真理をみきわめることが目指される。

 また、在家信者に対しては、施・戒・生天の教えが示され、修行の代わりに施しをし、戒を守れば、天界に生まれると説かれた。

11. 戒(行為規範)と律(教団の規則)
 生活する上で悪に陥らないために、また教団を正しく運営していくために、具体的な行為規範が説かれ、規則が定められた。

 入信するには、ブッダ(仏)とその教え(法)と教団(僧、サンガ)の三宝(ratana-traya)を信じて、庇護を求めること(帰依)を表明する「三帰依」を三度唱えて戒を受けることとされた。

パーリ語の三帰依は、次のとおりである。

   buddah saraa gacchāmi.(ブッダに帰依します)
   dhammma saraa gacchāmi.(教えに帰依します)
   sagha saraa gacchāmi.(教団に帰依します)

 教団は男女の出家修行者と男女の在家信者の四つの集団から構成され、その運営は共和制をとっていたヴァッジ族の制度を模範として、合議制によって行われた。

 教団の調和を保ち、円滑な運営をするために、戒(sIla シーラ)と律(vinayaヴィナヤ)が定められた。中国で「戒律」ということばが作られたため、「戒律」が一つの概念のように理解されることがあるが、「戒」と「律」は、互いに矛盾対立する要素を含む異なる概念である。

 戒は、特定の行為を禁止する他律的な行為規範ではない。シーラという語は「性質」の意味をもつが、この場合は「自発的に悪を離れる精神力」を意味する。教団の成員ひとりひとりが自ら守ることを決意する主体的、自律的な行為規範でる。男性の出家修行者(比丘)の250戒、女性の出家修行者の348戒、在家信者の5戒がある。

 5戒は、生きものを傷つけず殺さないこと・嘘をつかないこと・盗みをしないこと・婚外性交渉をしないこと・飲酒しないことの五つの戒めを守ることで、『ダンマパダ』には次のように説かれる。

「生きものを殺し、嘘いつわりを語り、世間で与えられないものを取り、他人の妻を犯し、酒、火酒を飲みふける人は、まさしくこの世において、おのれの根を掘る。」(Dhammapada 246,247, cf. Sn.393-399.)

一方、「」は教団の定める規則で、他律的に出家修行者の行動と生活を規制し、教団の運営を円滑にするものである。それをまとめたものが「律蔵(vinaya)である。律蔵は、成員の守るべき規則と罰則(波羅提木叉、はらだいもくしゃ)、および教団の行事、運営に関する規則(?度 けんど)からなる。

12. 慈悲
原始仏典には、具体的なさまざまな実践徳目が説かれるが、その中で特に強調されるもののひとつが慈悲の心である。たとえば初期の経典『スッタニパータ』149151には、慈しみの心をすべての生き物に対して限りなく広げることが説かれる。

「あたかも母がわが子のためなら、命を捨ててもひとり子をまもるようにすべての生き物に対しても無量の(慈しみの)心を起こせ。
また世界中のものに対して無量の慈しみの心を起こせ。
上に向かっても、下に向かっても、四方に向かっても、
こだわりがなく、親しみにみちた、怨みのない(無量の慈しみの心を起こせ。)
立っていても、歩いていても、すわっていても、横になっていても、眠っているのでなければ、この心づかいをしっかりたもて。
この世においては、これが崇高な境地といわれる。」(Sn. 149-151.)

後には、この慈しみの心に、あわれみの心、喜びの心、平静な心が加えられ、慈・悲・喜・捨の四無量心とされた。

そして、「崇高な境地 (brahma vihāram, 梵住)」の形容詞として用いられる「崇高な」(brahma)がブラフマー (Brahmā) 、すなわち梵天に通ずることから、当時一般に行われていた梵天信仰とむすびつけられ、天界に生まれ変わることを望む在家信者に対して、これら四つの心を修めることが梵天の世界へいたる道であると説かれた。

大乗仏教では、この慈悲の精神がその思想の核をなす。

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