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一般の人々が問題にするのは「快楽や財産・地位・権力」のようですが、そうしたものとは無縁に「ただ人間の優れ」のみを見て生き抜いたソクラテスの弟子として「欲望や財産・地位・権力」などを蔑み、それだけを追求しているような社会に戦いを挑み、犬のように吠えかかって「人間としての優れ」に意識を向けさせようとしたアンティステネスという弟子がいました。
さて、ソクラテスは哲学という営みを「愛知(フィロソピア)」という言葉で始めて提唱し、その内容として「良く生きることについての知の愛し求め」として「人間としてのあり方を具体的・実践的に体現」させていきました。
そのソクラテスを承けて、弟子達がその哲学を継承していきますが、一般にはプラトンがその代表とされ、さらにその弟子アリストテレスと解説されていきます。しかし一方で、古代にはそれとは異なった系譜の哲学があり、それはアリストテレス以降、むしろ時代の本流となっていくのでした。いわゆる「ストア学派、エピクロス学派、懐疑学派」といったヘレニズム・ローマ期の哲学の流れで、そのヘレニズム・ローマ期の哲学の源流ないし先駆となっているのが、実は「プラトン以外のソクラテスの弟子達」だったのです。
そのプラトン以外の弟子の筆頭になるのが「ストア学派の源流となるキュニコス学派の祖アンティステネス」でした。彼は表題にも示しておいたように「犬(キュニコス)のアンティステネス」と呼ばれています。その理由についてはいろいろ言われますけれど、「彼の生き方」からの命名であったと考えられています。何故、彼は「哲学者として犬のような生」を選び取っていたのでしょうか。
アンティステネスの時代
彼の生年も没年もはっきりしていませんが、とりあえず紀元前455年~360年頃ではないかという年代が推量されています。ということはソクラテスと14歳くらいしか違わない年下で、プラトンとは28歳くらい上ということになるわけです。ただこの激動の時代に、この年齢差は三人に同じ経験をさせてはおらず、またソクラテスが刑死したときアンティステネスは56歳頃というわけで、もうすでにその哲学観は確定しており、プラトンほどにはソクラテスの刑死がその哲学に影響は与えなかったでしょう。
さて、私たちは何にせよ「生きる」ということを問題にする人々というのは、先ずもってはじめは、その「社会の中での具体的人生」のあり方において問題を感じる人々だと考えておきます。ですから、その人が生きている社会のあり方というものが、とりわけ問題になると理解します。ですからアンティステネスの場合も、「彼の生きていた社会のあり方」というものが問題になっていたと理解します。
それは、いうまでもなく「紀元前300年代に入る直前から直後のアテナイ社会」ということになります。ということは、もうアテナイ社会の衰退期ということで、彼はギリシャを二分しての内乱であったペロポネソス戦争の後半の泥沼、そして敗戦、それにともなう社会の混乱、とりわけ戦後成立していた少数者支配である「30人政治」での恐怖政治と大殺戮、大量の市民の亡命と反政府運動、30人政治の崩壊、混乱の中でのソクラテスの死刑、といったような事件のただ中にいたことになります。社会の倫理観は動揺し恣意的となり、金や権力にすがる風潮、「力こそ正義」とする考え方、こうした中でアンティステネスは「人間として良く生きること」を問題にしていたのでした。
こうした問題は、もちろんアンティステネスが始めて問題としたわけではなく、むしろ師である「ソクラテスの問題」でした。アンティステネスは、そのソクラテスに惹かれて弟子となっていたのですから、そのソクラテスの問題を自分の問題としていたのも何ら不思議ではありません。そして、それはむしろ「時代の問題」でもあったのです。ですからソクラテス、アンティステネスに続いて「具体的な生、実践的生」を問題とする人々が続々と続いて、結局「ストア学派」「エピクロス学派」「懐疑学派」といった「実践的生」を問題にするヘレニズム・ローマの哲学が生まれることになったのでした。この時代の哲学者は、こんな時代だったからこそ「人間としての誠実な人生」というものを意識して「身をもって体現」していこうとしたのでした。
その先駆をソクラテスとして、それについでいたのがアンティステネスであったのです。アンティステネスは、こうした時代にあってソクラテスの課題であった「真実あるべき社会」の追求を越えて、明確に「反社会的」となっていきます。
アンティステネスの出生
それには、彼の出生も関係しているかもしれません。彼は両親ともアテナイ人という「生粋のアテナイ人」ではなく、母親がトラキアの人だったようでした。トラキア人は北方の辺境の民で野蛮人と見られていたようで、そのため彼は人から馬鹿にされることがあったようです。それに対して、ソクラテスがその馬鹿にした人を「たしなめた」逸話が伝えられ、またソクラテスはアンティステネスが武勇を示した時、もし彼の両親が二人ともアテナイ人であったら、彼はかくも卓越した者とはならなかったろう、とアテナイの人々に皮肉っぽく言ったとか伝えられています。「民族の生粋・純粋性」のみを誇り、「人間としてのあり方」をみようとしないアテナイの民に対する強烈な皮肉と言えます。
伝えられているところでは、アンティステネスは前426年の「タナグラの戦い」で奮闘しめざましい活躍を示したようでした。そしてまたアンティステネスの方も、両親がアテナイ人で生粋であることを自慢する人を軽蔑したと伝えられます。逸話としては、彼も当時の市民の誰もがスポーツの鍛錬をしていたのにならいレスリングの競技者であったと伝えられていますが、彼は自分の出生を馬鹿にする者に対して、自分の両親は別にレスラーではないけれど自分はレスラーとして十分な者になっている、と応じていたと言われています。つまり両親の生まれが問題になるわけではない、ということを言いたかったわけでしょう。いずれにせよ、「アテナイ社会にすんなり受け入れてもらっていない」アンティステネスが見られます。
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