2019/04/18

維摩経

維摩経(ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra 藏:དྲི་མ་མེད་པར་གྲགས་པས་བསྟན་པ་ཞེས་བྱ་བ་མདོ ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要
維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。

般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく、現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがって、これを不二の法門に入るという。

これは維摩が同席していた菩薩たちに、どうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊は、これを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。
出典 Wikipedia

文殊さんが言います。

「私が思いますに、一切のあらゆる現象は言葉で説明できません。言うこともなく、説くこともなく、示すことも、識ることも無い。諸々の問答を離れたところにあります。これを不二法門に入るといいます。」

そこで文殊さんは、維摩さんに問いました。

「我々は、既に各々自説を述べました。次は、あなたの番です。何をいうのでしょう、菩薩が不二法門に入るとは?」

そう問われても維摩さんは黙ったまま、言葉がありません。

文殊師利が感嘆して言いました。

「素晴らしい、これは素晴らしいことです。まさに言葉も文字も用が無いということですね。これが、真の不二法門に入っているということです。」

この不二法門品を説いた時、この場に於いて五千の菩薩が皆、不二法門に入り、無生法忍(不退)を得ました。

≪維摩詰所説経 巻きの中終り≫
「不二法門」とは、互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いています。分け隔てることのできない智慧のことであり、すべてのものと自分とが一体であるという智慧でもあります。

この維摩経で、文殊さんを含めて32名の菩薩様が、それぞれに不二法門を説明しました。

最初に登場した、法自在(ほうじざい)菩薩は、「生滅不二」を言われました。

人間の身体は因縁生です。因縁によって生じ、因縁によって保たれているからです。

≪私はよく霊線といいますが、父母が存在しなければ自分の存在もありません。その父母も、それぞれの父母がいなければ存在しないのです。先祖からの霊線の最後に、現在の自分が存在しています。人は一人では、存在しえないのです。≫

因縁による存在であるが故に、自存、つまり、自分だけで存在することはありえません。自存でないが故に、自我とは、空である。

≪自分という独立した存在が無いのですから、自分の内部に存在する自我も無い。≫

この世の中にある一切の因縁を観察し、すべてを終えて自我意識を断ち、清浄の仏智を悟るに至るということが、不二法門に入るということです。

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